Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

こぼれ写真と雑文(ローマ編)

2023年10月14日 17時44分54秒 | 雑文
 という次第で、炎天と最後にはコロナに罹ったことで印象がすっかり悪くなった今回の2週間に及ぶイタリア、パリの旅行(9月6日~20日)であったが、それでも後から思い起こせばあんなこともあったなと懐かしめるような感慨も少しは残った。写真に雑文を付しながら、その感慨とやらを紹介しよう。まずは、ローマ編(9月7日~11日)。


 中継地のパリ(空港のホテルに一泊)から朝方ローマに飛んできて、泊まることになったホテルからさっそくポポロ広場(Piazza del Popolo、古く巡礼者のローマへの入り口であった)→スペイン広場(Piazza di Spagna、単に間近にスペイン大使館があるからこう命名された)へと歩いて向かった。途中、テヴェレ川にかかる橋から撮ったこの写真が、一番ローマらしさを感じさせるベストショットであった。こういうもの侘(わ)びたローマをもっと満喫したかった。それには、目的的な旅でなく、ぶらり散策風に歩かなければならないが、初めてローマのような大きな街、然(しか)も名だたる観光スポットが集中する街を数日間訪れて、それが可能かという、はてな印の疑問が残る。


 ポポロ広場。右側に見える路地を入ったところに、1786‐7年、ヴァイマル公国の宰相(さいしょう)という身分を捨ててイタリアへ出奔したドイツの文豪ゲーテが、暫(しばら)く住んでいたらしい。


 ローマ近郊におけるゲーテ。ここまでポーズを決めてファッショナブルな装(よそお)いに気取って見せられる文人も少ないであろう。漱石は、ゲーテとトルストイを毛嫌いするようなところがあったらしいが、多分それもこうした貴族風な気取りを二人の文豪の作品に読み取っていたからであろう。対極的に、漱石はシェイクスピアとドストエフスキーを喰うために必死に書いた職業作家として評価している。漱石自身、大学の教職を捨ててなったものの職業作家の辛(つら)さが骨身に沁(し)みていたようだ。


 ドイツの文豪探訪よりは目先のイタリア観光とゲーテへの道を選ばずに、スペイン広場へ最短と思われる右側の道を暫(しばら)く歩いていくと、レストランがあった。ここでとりあえず食べようとなって、魚料理を注文したら、刺青(いれずみ)の二の腕が調理した魚をさばくかような趣向となった。昔、北京で北京ダックをこういう風にさばいてもらったことを思い出す。


 さばいた結果は、皿上のこんな料理である。何をどう調理したのか、魚はからっきし味がしない。結局、イタリアで食べたイタリア料理らしいのは、スパゲッティ以外だとこの淡泊な魚料理だけであった。


 考えてみると、このレストランはレストランが本業なのか、本来は写真のような古物の骨董屋なのか、判然としない店であった。


 これは妻が撮ったスペイン広場の写真だが、私のより出来がいい。


 翌日は、ヴァチカンに行った。まず、ヴァチカン美術館に入る。写真は出口の方。


 ヴァチカンの権威を象徴する立派な絵がたくさん並んでいるが、こうたくさんだと二束三文(にそくさんもん)と適当に見過ごすしかない。おそらく日本の美術館にこのうちの2、3点運んで来たら、観客を数十万、百万人と動員できそうな絵画群であることに違いはないのだが。


 こんな風に回廊の天井に画を隙間(すきま)なく並べられても、ぞろぞろ歩きながらそれらを少しは丁寧(ていねい)に見ようと打ち仰いではみても首が草臥(くたび)れてそんなに鑑賞できるものではない。


 ラファエロ「アテナイの学堂(Scuola di Atene)」(1509‐10)。ラファエロ(Raffaello Santi、1483‐1520)の最高傑作として有名な絵らしいが、感じるものがない。これは油絵のように塗り込めない漆喰(しっくい)に顔料で薄く描くフレスコ壁画(水彩画のような平板な印象を受ける)で、画として奥行き・陰影が描けないという点はあろう。然し抑々(しかしそもそも)、若いラファエロにアテネの哲人を描くことは、無理があったのでは。ラファエロは「新プラトン主義(Neoplatonism)」を芸術作品に昇華したと評価されるそうだが、ソクラテス、プラトン、アリストテレスを舞台に配置した役者のように派手(はで)な衣装を着せて描くのが、彼の本意であったか疑問だ。尚(なお)、この絵の中のプラトン役は先輩のレオナルド・ダ・ヴィンチがモデルになっているらしい。


 ラファエロの自画像(1506、ウフィツィ美術館)、3年後、「アテナイの学堂」を描く。尚(なお)、フィレンツェでウフィツィ美術館を訪ねたが、この若々しく麗(うるわ)しいラファエロの自画像が目に止まった覚えがない。どこにあったのであろう。残念だ。ただ、一般に画家による自画像は、変な顔が多い。売るつもりもなく、他者に譲るつもりもなく描くから、特段に男っぷりよく美男に仕上げる工夫は要(い)らない。そうすると、鏡に映ったままに芸術家らしく物憂(ものう)い得てして醜い顔がキャンパスに描出されることが多い(例えば、⇒ゴヤの自画像)。ラファエロは本当に若くて美男だったかもしれないが、やはり鏡の中の男をそのまま疑いもなく屈託もなく美男に描いたとしたら、画家としてどんな苦悶を抱えていたか怪しまれる。もっとも鏡の中の自分を見つめるのが女性だとしたら、女流画家だとしたら、その辺は納得できるのだが……。そういえば、このラファエロには、どこか女性的なところがある。
 ゴヤ(Goya、1746‐1828)の自画像⇒(写真をクリック)


 従って、変な顔でラファエロの最高傑作を「分からないな」と疑心暗鬼(ぎしんあんき)に眺めるしかなかった。隣の日本人らしい人は音声ガイドの解説を聴きながら鑑賞しているが、そうでもしないと分かったことにはならないのかもしれない。


 慥(たし)かに、四方、壁という壁にイタリア・ツネサンスの最高傑作があって、何をどう見ていいのやらただ鑑賞するにも大事(おおごと)だ。


 ミケランジェロ「最後の審判(Giudizio Universale)」(1536-41)。流石(さすが)に、壮大は壮大である。ミケランジェロ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni、1475‐1564)は年下のラファエロを見下して「彼(ラファエロ)の芸術に関する知見は、すべて私(ミケランジェロ)から得たものだ」と豪語していたそうだが、ミケランジェロの製作中の「システィーナ礼拝堂天井画(Volta della Cappella Sistina)」(1508‐12)をラファエロがこっそり盗み見て、「アテナイの学堂」を描いたことは事実のようである。


 1889年と少し時代が新しい為(ため)か、この恋人或いは夫(?)の首を抱く女性の絵(誰の作か?)のおどろおどろしい劇性は気持ち悪いながらに理解できる。


 そろそろ館内見物も終わりに近づいて、通りがかった小部屋にふと立ち寄ってジョルジュ・ルオー(Georges Rouault、1871‐1958)の素朴な絵(「秋またはナザレット」、1948)と出合った時は、少なからずほっとした。


 左は、藤田嗣治(ふじた・つぐはる)の「聖母子」(1918)か?


 先程の出口から美術館を出てきて、道を渡った前のレストランで妻が頼んだこのぶっきら棒な果物盛り合わせを殆(ほとん)ど私一人で食べた。


 実際に通りがかったのは翌日だったが、ヴァチカンから道一筋のサンタンジェロ橋(Ponte Sant'Angelo)上の妻。この日も朝から暑かった。


 サンタンジェロ橋の欄干(らんかん)から撮ったテヴェレ川の風景は、聊(いささ)かの涼を運んでくれる。


 サンタンジェロ城(Castel Sant'Angelo)の方角からナヴォーナ広場(Piazza Navona)へ向かう。


 到着したナヴォーナ広場も酷(ひど)く暑苦しい。広大な広場とされるが、案外にこじんまりしていると思えた。


 広場のすぐそばに内部にラファエロの墓があるというパンテオン(Pantheon)がある。薄汚れている。日本ならば弥生時代、竪穴式や高床式の粗末な住居に住み暮らしていた、紀元前25年の建設(焼失後、118‐128年に再建)というから、汚れているのは当然か。内覧はスル―。


 妻が撮ったパンテオンのお尻(裏側)。ローマ感が出ている。フェデリコ・フェリーニ風に奇妙に想像を逞(たくま)しくすれば、この大きなお尻が屁(へ)をこいたら路地裏はどういうことになるか。蜘蛛(くも)の子を散らすように、人っ子一人居(い)なくなる?


 妻は、コロッセオでこんな写真も撮ってくれた。「やけのやんぱち日焼けのなすび 色は黒くて食いつきたいが わたしゃ入れ歯で歯が立たない」は寅さんの台詞(せりふ)だが、私もやけのやんぱちで柄(がら)にもなく変なポーズをとる。


 コロッセオ見物を終えて、何故(なぜ)かご苦労さまにも日陰(ひかげ)から日向(ひなた)へ一周して最寄りの駅へ行く途中の写真。


 コロッセオ見物後、くたくたになった末に、B線からA線に地下鉄を乗り換えて帰ってくると、ホテル近くのカフェで一休み、こんな軽食を食べて一服(いっぷく)した。


 いつもながらに不機嫌で詰まらそうな顔である。このお菓子のような前菜的食べ物(生のむき海老と鮭がのっかったパイのような食べ物はよくカフェのガラスケースに見かけた)が旨(うま)かったか、どうも私は忘れてしまったが、妻は大層評価している。私は、ただ、ただ、神妙に白ワインを有難く頂いた。尚(なお)、別の日であったかと思うが、慥(たし)かローマ最後の夕刻に、その日は日曜日で休みが多い中、ホテル周辺に営業しているレストランを探し歩いて、やっと見つけたレストランでボンゴレのスパゲッティを食べた。これは紛(まご)うことなき一品であった。シンプルにアサリの味が出ていて何より麺が素晴らしい具合に茹(ゆ)で上がっている。シンプルに麵だけでも旨いに違いない。生涯忘れられないスパゲッティとなった。やはり、地元の人が好んで来るようなレストランは、味がいい。もう来ることはないと思うが、もしローマに来たら、このレストランでこのスパゲッティを食べたい。生憎(あいにく)、写真は撮らなかった。見た目はただのボンゴレですからね。

 ローマの観光地巡りとしてはこんなところであったが、旅行では肝心となる宿泊したホテルの所在地は、ヴァチカンにも徒歩圏内のタウンハウスであった。はじめは便利なローマ・テルミニ駅(Stazione di Roma Termini)近くに予約してあったが、治安の良し悪しを考えて、滞在先を変えた。ホテルは道を挟んで正面に裁判所があるような場所で、閑静な住宅地と言える立地であった。4泊で12万円は、円ユーロの不利な為替を前提とすればローマとしては高くも安くもない宿泊代であろう。タウンハウスというだけあって、普通のホテルのような看板もない。最初の晩、スペイン広場から戻ってきて、同じような大きなドアが並んでいて、あるドアを預かっていた鍵を使って開けようとするが出来ず、帰ってきた住民の後にくっついて入ると、そこは同じような中庭があって似ているが何か違うと、一体何処(どこ)が自分のホテルなのか探しあぐねて途方(とほう)に暮れたことがあった。


 タウンハウスの前の交差点を渡る。ここは数駅でヴァチカンへ行けるトラムの停車場でもある。左が裁判所、右がタウンハウス、いや、もしかしてアベコベかも、失礼。


 こういう建物は、目印がないので、住所を控えておかないと闇の中では全く分からなくなる。
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パリ・ルーブルでコロナに罹ったか⁉ これも自他に於けるオーバーツーリズムの結末なり。

2023年09月25日 10時59分05秒 | 雑文
 「オーバーツーリズム」という言葉をよく耳にするようになった。近現代に於(お)ける観光の産業化の帰結であろうが(因〔ちな〕みに、日本でも江戸時代になると貨幣経済の拡張、封建制度の緩みもあったのか、大山詣〔もうで〕とか江の島詣という浮世絵師が好んで描くような艶〔あで〕やかな旅行ブームがあった)、コロナ禍を経て、世界中で異常な感じになっている。昨年までインバウンド需要がどうのこうのと経済的メリットで叫ばれていたが、足元、オーバーツーリズムのデメリットが耳目(じもく)を集めるようになっている。


 歌川広重作「相州江之嶋弁財天開帳参詣群衆之図」(藤澤浮世絵館)

 ところで、3月に京都へ行った際は、コロナ前は中国人観光客でごった返していた京都の金閣寺も、外国人はほぼ欧米の観光客中心になって、写真を撮るのも押し合いへし合いは避け得たし、金閣を撮る隙間(すきま)を見つけやすかった。京都のオーバーツーリズム問題は、また中国の団体観光客が戻ってきてからであろう。但し、最近行った関西や金沢では、団体や個人旅行の韓国人があふれかえっていた。爆買いで勇名を馳(は)せた中国人と違って、韓国人の場合、観光地に於(お)いて日本人と見かけや行動様式が殆(ほとん)ど変わらないから、目立たないから、オーバーツーリズムも余り話題にはならないのかもしれない。


 写真映(ば)えの観点からは、金色に輝く金閣は金髪の欧米人ツーリスト向けですな。着物を着ようが黒髪は余り似合わない。


 虹の金沢・茶屋街。傘をさして歩いている観光客の多くは韓国語を話していた。そうした韓国人観光客に混ざって私のような年老いた日本人が一人、有名な観光地できょろきょろとうろついているのは、却(かえ)って奇妙に浮いた感じがした。

 最近の報道では、イタリアのベネチアはオーバーツーリズムへの対応不十分と深刻な高潮や干ばつなど気候変動への対応不足でユネスコから「危機遺産リスト」への登録も検討されているという。ベネチア市議会は滞在者以外の観光客(ベネチアはホテル代が高いので近隣に泊まって日帰りでやってくる観光客も多いようだ)に5ユーロ(1,000円弱)を賦課するとか。実際、今回、ローマ、フィレンツェに続いてそのベネチアへも行ってみた。
 尚、このブログには自分の写真は余り掲載しないようにしてきたが、今回は妻が私の写真をたくさん撮ってくれたので、そこに現われた私という、旅行ガイドブックの「王道プラン」やら「大満喫モデルプラン」を頼りに、滞在中はそれらが提示する有名観光地を網羅(もうら)したプランを次々に消化することに心を奪われ、挙句(あげく)、すっかりオーバーツーリズムに洗脳された人間の馬鹿らしい顛末(てんまつ)も紹介したい。その結果、なんだか有名人を気取ったインスタグラムのようになってしまった。考えてみれば、インスタの流行などもオーバーツーリズムの産物として最たるものであろう。


 水没でこのサンマルコ広場(Piazza San Marco)をプールにした高潮は知らないが……。


 干ばつで水路に水がないとなったらこの粋なゴンドラ(gondol)も営業停止となって不思議はない。


 しかし、この美しい景色に観光用のゴンドラは欠かせないな。


 誠に暑くへとへとであったが、写真では、オーバーツーリズムの片棒(かたぼう)を担(かつ)いで元気そうにも見える。

 イタリアは、9月7日に経由地のパリ(空港のホテル一泊)から飛んで来て、ローマに4泊、フィレンチェに2泊、ベネチアは1泊であったが、兎(と)に角(かく)、どこも暑かった。今夏は日本も暑かったから、同じようなものだが、為替に気をもみながら大金を支払ってはるばる来たヨーロッパ、冷房の効いたホテルの薄暗い部屋で費用対効果もなく漫然と涼んでいるわけにもいかない。それ名だたる名所旧跡への観光と炎天下をあっちこっち歩き回る。結果、老夫婦にとって、大変な行脚(あんぎゃ)の旅となった。
 ローマでは、こんな次第。写真で見れば、それほどと感じないが、現地の混雑ぶりはこんなものではない。財布もパスポートもすられたくないと鞄を前に抱えて、『ローマの休日』を思い浮かべる余裕もなく観光客の一員となって有名観光地を群衆に紛(まぎ)れてうろうろと歩くしかなかった。


 スペイン広場(Piazza di Spagna)


 映画「ローマの休日」から


 グレゴリー・ペックの「ローマの休日」風とはいかず、神妙に堅苦しく鞄を抱え込む私


 ヴァチカンの行列


 腕組みして眺めるばかりで、行列に並んで中へ入る気にはなれなかった。


 ヴァチカン美術館(Musei Vaticani)内の妻、ここもかなり混んでいた。Wikipediaに「毎年、1800万人以上の来場者が7キロにおよぶ諸室と廊下に展示された美術作品を鑑賞する。」とあるのも頷(うなず)ける。


 映画「ローマの休日」から


 奥が「真実の口(Bocca della Verità)」。来る者は皆、例の穴に手を突っ込む写真を撮るから列ができる。


 列の先には、写真を撮影してくれる常駐のボランティアおじさんが居て、妻との写真を撮ってもらう。ちょっとばかりお布施(ふせ)をする。


 フォロ・ロマーノ(Foro Romano)、暑すぎてこのローマの古跡を仔細に見る気にもなれなかった。


 フォロ・ロマーノからコロッセオ(Colosseo)へ


 コロッセオの前で、強烈な陽射しに手をかざさないでは居られないほど眩しい。


 コロッセオの中へ


 コロッセオの中


 混雑するトレヴィの泉(Fontana di Trevi)


 それでもここに集まってくる理由は? 多分、涼をとるため、それとも単に有名だから?

 「花の都」として嘸(さぞ)かし清々として綺麗かと思ったフィレンツェも同じこと。観光客が余り写らないように殊更(ことさら)に撮った写真はーー。


 昼のドゥオモ(Duomo)


 夜のドゥオモ、多少は観光客が減ったが……


 ヴェッキオ橋(Ponte Vecchio)の夜景。


 橋の上(中)は両脇に宝石屋が煌煌(こうこう)と店を連(つら)ねる。流石(さすが)に、「ベニスの商人」の街である。


 昼のヴェッキオ橋上から


 ミケランジェロ広場(Piazzale Michelangelo)からヴェッキオ橋方面を撮る


 ボブ・ディランのコンサート用に買って使えなかったオペラグラスでフィレンツェの街を仔細(しさい)に眺める


 アカデミア美術館(La Galleria dell'Accademia a Firenze)のダヴィデ像(David)。人々は、スマホをかかげて熱心にダヴィデお兄さんの小さなチンポ目がけて写真を撮っている。

 どこも建築物の記憶よりは人込みの記憶が鮮(あざ)やかで、正直、「同じ押し合いへし合いならば、浅草の三社祭を見ていた方が気楽だ」と感じた。では、9月15日から20日まで滞在した「花の都」パリはどうであったか。中心部を観光客にすっかり占拠されたようなフィレンツェと違い、パリは少しは大きな街だから、観光客一色という訳(わけ)ではなかったが、間違えて観光地へ行くと、そこは安っぽい喧騒(けんそう)の世界である。パリは、40年ぶりであったが、40年前のパリはもう少し落ち着いていた気がする。ただ、パリの空は相変わらず綺麗だ。この空だけをしかと見届けて、さっさと日本へ帰った方がよかった。今回、最初にシャルルドゴール空港(Aéroport de Paris-Charles-de-Gaull、CDG)に着いた時、空を見上げて、やはりパリの空は良い。40年前、オルリー空港(Villeneuve-Orly Airport)からパリ市内に向かうバスの窓からほれぼれと見惚(みと)れて、「これが印象派の画家たちが描いた空だ」と心の中で呟いた、あの絵になる色合いに染まった美しい空である。


 「オー・シャンゼリゼ!(aux Champs-Élysées!)」と晴れやかに歌う気にはなれなかった。最近は堕落著しいが、特に威(い)を張らない銀座並木通りのこじんまりした雰囲気が少々懐かしい。


 凱旋門(Arc de triomphe de l'Étoile)。近くによれば、立派は立派だ。


 ルーブル美術館(Musée du Louvre)へ。あのくだらないピラミッド(Pyramide du Louvre、1989)が見えてきた。これは、中国系アメリカ人建築家Ieoh Ming Pei(貝聿銘)の設計になるそうだ。貝氏は「幾何学の魔術師」の異名を持つ。『方法序説』(1637)に於(お)いてデカルト座標系(Cartesian coordinate system)を考案したルネ・デカルト(1596‐1650)に就(つ)いて考えれば分かるように、フランス人は伝統的に幾何学が大変好きである。


 先日、京都の銀閣寺(慈照寺)を訪れたが、円錐形の頂点をちょん切ったような砂の宇宙的意匠(向月台)と質朴に侘(わ)びた銀閣寺の取り合わせは、流石(さすが)意表を突く唐突感(とうとつかん)は否(いな)めないにしても、幾何学的な意匠として少なくともルーブルのピラミッドよりは工夫されて優れている気がする。


 ルーブル前で、一応、にやにやと愛想笑いする。ピラミッドもない40年前、大学時代の友人とこの建物の前で落ち合った。あの頃は、こうして愛想笑いするような人間ではなかった。


 先般は、日本の女性議員(松川るい参院議員以下、自民党女性局総勢38人のフランス研修ご一行様)もSNSのポーズ入り写真で大変お世話になったエッフェル塔(La tour Eiffel)。


 こうしてブログに自分の写真を載せるような私に松川氏の迂闊(うかつ)が全くないとは言えないが、少なくとも私は羞恥心(しゅうちしん)がまさるのでああしたポーズは決めない。それにしても、彼(か)の『脂肪の塊(Boule de Suif )』(1880)や『女の一生(Une vie、生涯)』(1883)を書いたモーパッサンが、パリ万博(1889)に合わせて建ったこのエッフェル塔を嫌い、眺めずに済むからと、敢(あ)えて塔1階のレストランで食事したという逸話が、面白い。自民党の女性議員さんは、研修と称してパリ見物などする前に、こうした社会と人生に関する皮肉を含んだ作品を読んでおいた方が良かった。私自身は、少なくとも中二のとき『女の一生』を読んで、それを教室で国語の先生が「最近、何を読んだか?」と尋ねるからすくっと立ち上がって「女の一生」と答えたら、クラスメイトの失笑を買ったことが今も深く心に刻(きざ)み込まれている。(受け狙いがあったことは言った瞬間にも自覚していたが)それでもなんでそんなに笑うのだと憤慨(ふんがい)している自分があった。あの頃から、モーパッサン程(ほど)ではないにしても、なんだかすっかり甲斐(かい)なしの皮肉屋になってしまった気がする。尚(なお)、『脂肪の塊』は、未読である。アマゾンで注文した。近日中に読むつもりである。


 二度見ても仕方がない豪華で悪趣味なヴェルサイユ宮殿(Palais de Versailles)。金色ならば、何度見てもはっとする金閣の方が数段上等だ。


 40年前見たヴェルサイユの庭(完璧なシンメトリック趣味で辟易〔へきえき〕した)とはちょっと違った印象を受けた。その後、変えたのかな?


 然(しか)し、このパズルのような幾何的文様(均斉的秩序?)に対する執着は異様でもある。ペルシャ絨毯(じゅうたん)の柄(がら)でも模(も)したのであろうか? 第一回十字軍の先立ってイスラム教徒から聖地エルサレムの奪還をお題目に民衆十字軍4万人が、フランス・アミアンの隠者ピエール(Pierre l'Ermite)に率(ひき)いられて出発したのが1096年のこと。途上の各地でユダヤ人を虐殺していったという。1000年間、ヨーロッパではこの歴史の傷が解消されていない。民衆に見せびらかす為(ため)に造営されたヴェルサイユの庭は、そうした民族と人権に関する矛盾を糊塗(こと)できないでいる。


 この里山風な景色は、何処(どこ)ぞの名もない日本の田舎の風景ではない。後水尾天皇(ごみずのおてんのう、1596‐1680)の指示で江戸時代の初期に造営された京都近郊の修学院離宮の庭である。同じ頃、パリ近郊にルイ14世(1638‐1715)が建設したヴェルサイユ宮殿の庭に少なからぬ違和感を覚えるのは、所詮(しょせん)は、こうした赤とんぼでも似合(にあ)いそうな里山風な田園風景を黙然(もくねん)と眺めていることに嗜好(しこう)の原像を持つ所為(せい)かもしれない。

 「人よりも空(そら)、語よりも黙(もく)。……肩に来て人懐かしや赤蜻蛉」漱石


 つくづく東京の隅田川の良さが分かったパリ・セーヌ川(la Seine )下り


 知らずとは言え、目下、感染・発症中の為(ため)悪寒(おかん)にふるえながら、あの世を彷徨(さまよ)うが如(ごと)く、この世のものともなくふらふらになりかけていた。

 確証はないが、コロナはルーブル美術館(Musée du Louvre)で罹患した、らしい。二日後、帰国前日に、エッフェル塔を見てから電車で郊外のベルサイユ宮殿へ行ったとき、段々に調子が落ちてきて、パリ市内に戻ってセーヌ川をクルーズ船で観光したときには最悪になった。この日は、暑かったパリも急に寒くなって、てっきり風邪を引いたのだと思ったが、それにしてもまったく寝れないほど躰(からだ)の節々(ふしぶし)が異常に痛む。朝になって心配した妻が体温計を薬局で購入してきたが、使い方が間違っているのか、熱は平温以下である。まあ、風邪でもこういうことはあるからと自分を納得させながらそのまま空港へ向かい、空港内で半日を潰した後、地球を半周する不愉快極まる長旅の末に帰国した。翌日になって念のために私の方は手持ちの抗体キットで検査してみると二本線がくっきりと出て陽性であった。電話をかけてから症状のない妻と一緒に近くのクリニックへ行くと、妻も抗体検査で陽性だと判明した。そのときになって後(あと)の祭り、「ああ、あのルーブルで、モナリザ観(み)たさの雑踏の中で、コロナになったか!」と痛感した次第である。40年前は、入館してすぐにモナリザを眺めて、「ああ、こんなものか。結構(けっこう)小さいな」と冷(さ)めて思ったものだが、当時は、モナリザを展示する一角(いっかく)に絵を取り囲んでせいぜい十数人から数十人が居た程度であったと記憶する。個室に数百人が押し掛けている今日の殺気ある光景に比べてれば、至極呑気(しごくのんき)なものだった。コロナ後、人々はモナリザの微笑みに何か癒しを求めて詰めかけていると言えば、綺麗ごとになる。寧(むし)ろ、ウクライナやイスラエルの戦争が象徴するように、人々は知らず狂暴になって(或いは狂暴を避けて)幸せそうなモナリザの微笑みを喰(く)いに押し掛けているのかもしれない。


 ようこそ、ルーブルへ


 ルーブル美術館内の豪華絢爛な回廊を引率されていく


 ミロのヴィーナス(Vénus de chauve)


 二つ上に同じ。一路、「モナリザ(Mona Lisa、別名、La Gioconda〔幸せな人〕)」(1503‐6)の部屋へ


 詰めかける群衆の最後部で(20メートルぐらい離れて)スマホに撮ったためもあろう、そう、この薄(うす)ぼんやりしたモナリザを撮るがためにコロナウイルスに曝(さら)されたのだ。

 コロナから開放されて、ヨーロッパの人々は待ちかねたように観光地に殺到している。マスクをしている者はいない。20個ぐらいマスクを持って行ったが、イタリアでもフランスでもとうとうかけるチャンスは一度もなかった。流石(さすが)にルーブルなど美術館の混雑を目の当たりにしてこれはあぶないと思ったが、抱えた鞄からマスクを取り出すことはしなかった。そうした不精(ぶしょう)が祟(たた)ったな。それ以上に、有名な観光地を闇雲(やみくも)に目指した自分の中のオーバーツーリズムに祟られた。それと先年、コロナに死んだ母親のことを思い出しながら、また、自分の軽薄さ故(ゆえ)に親不孝をしてしまったと考えたものだ。今回のヨーロッパ旅行は、当初、オーストリアのウィーンとハンガリーやチェコの中東欧へ行くつもりであった。ウクライナでの戦争が始まって、然(しか)も計画当時、ロシアによる原発攻撃や核兵器の使用が懸念されるようになっており、ウクライナに近い中東欧諸国を観光するというのは、どうも不安になった。そこで、ヨーロッパの中でも安全そうなイタリアとフランス・パリに行き先を変更した。そのイタリアへ行ってみると、スロバキア、スロバニア、ハンガリー、(ポーランド?)といったウクライナに接する中東欧の国々〔最近は「ウクライナ支援疲れ」が言われる国々でもある〕からの観光客が自家用車(然も、結構な高級車)で押し寄せていて、彼らも「安全国」へ逃避してきた高等避難民であった。遠く車とはいかなくても、パリも多分、同じことが言えるのではないか(但し、パリでは地下鉄などで旅行用のトランクさえ持たない貧しそうな観光客或いは移民を多く見かけた。もしかしたらウクライナから来た人たちかもしれない)。従って、今回の旅は、戦禍の観光旅行となった訳(わけ)で、我が身にふりかかったルーブルのコロナ禍をいつまでも憂(うれ)えていても仕方がない。


 歌川國芳作(藤澤浮世絵館)

 老人には、地球を半周して高コストな海外旅行よりは安全安心な国内旅行が賢明な気がする。上掲、この平和だった時代の浮世絵のように、江の島への楽しい日帰り旅行でもいい。車で一時間余も走れば、そこにはパリの空にも決して見劣(みおと)りしないジャパンブルーな、ベロ藍(あい)な湘南の海がある。
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魯迅と范仲淹

2023年02月24日 19時50分51秒 | 雑文
 なんでも魯迅(ろじん、1881‐1936)先生は、生涯に小説集3冊、雑文集17冊、散文詩集1冊、回想記1冊を刊行したそうである。魯迅は『狂人日記』や『阿Q正伝』といった現実の中国社会を批判して画期的なフィクションの書き手、小説家として有名であるが、作家人生の後半は、北京から「政治亡命」した彼は上海に暮らして専(もっぱ)ら雑文ばかり書いていた。然(しか)し、ここで言う魯迅の雑文とは何か?主張性の強い随筆評論と言えるかもしれない。或いは、小説にできなかった時事的政治的文章と言えるかもしれない。小生もできたら小説(正確には日本の伝統にある物語文学のような文芸作品)を書きたいとずっと思ってきたが、その気持ちになって書いているうちに、暫(しばら)くすると、当初の方針が揺らいで、まるで随筆文か評論文のような、或いは魯迅の雑文のような文章になってしまう。理由は幾つかあるが、一つは、調べたことの引用文が多くなって、その分、本文が痩せ細ってもはや小説とは言えなくなってしまう。おまけに筆者は他人(ひと)が書いた文章を咀嚼(そしゃく)して自分のものとしてお利口そうに書くことがどうしてもできないタイプで、他人の文章(考え)は原則、かぎ括弧の「」などに入れて明記したうえで、何らか自分のコメントを拙劣でも愚かでも加えるといった書き方しかできない。それからもう一つは、文章に自分の主観が真っ先に出て、他人の共感を得るようなじっくりした客観的な書き方ができない。然(しか)も、小説としての微細な叙述(ディテールを書き込むこと)が面倒(めんどう)であり苦手でもある。そんなこんなで、理由は違うのだろうが、小説を書かなくなった後半生の魯迅先生のように、このブログでは雑文をもっと書いてみようかと思う。
 考えてみれば、このブログも、その雑文の折々の集積物でしかなかったのだが、今後は雑文たることを余り苦にせずに大いに書こうと考えるに至った次第。それでも問題は残っている。小生がまだ生き永らえている問題である。齢(よわい)六十七の身に一寸先は分からないが、直(す)ぐには死にそうもない。そうなると経年的にたまった塵芥(ちりあくた)は雑文で処理できても、鬱憤は発散できても、一方で、老いの果ての見晴らしが多少よくなったところで消えずに見えてきた一縷(いちる)の創造性の蔓(つる)は、やはり若い頃に考えた創作的な物語(『斑鳩(イカルガ)の旅芸人たち』)まであきらめずにつなげていきたいという望みはある。
 因(ちな)みに、魯迅は「『墓』の後に記す」(1926、竹内好編訳『魯迅評論集』)という雑文に、執念深くこんなことを記している。

 ――私の作品を偏愛する読者は、よく私の文学が真実を書いていると批評する。しかしそれは、褒(ほ)めすぎである。偏愛による褒めすぎである。私はむろん、そう人をだまそうと思っているわけではない。だが、心に思うことをそのとおり言いつくした覚えは一度もない。たいていは、もうこれくらいでいいと思うところで筆をおく。たしかに他人を解剖することも、ないことはなかったが、より多くは、より苛酷に自分を解剖することであった。少し発表しただけで、ひどく温暖ずきな連中は、もう冷酷だといった。もしも私の血肉を全部露出したら、末路はいったい、どうなるだろう。また、こんなことも考える。こうして他人を駆除していって、そのときになっても、なお私は見棄てぬものは、梟蛇鬼怪(きょうだきかい)といえども私の友である。それだけが真の私の友である。万一、それさえないならば、自分はひとりでもかまわぬ。だが今は、そうでない。私はまだそれほど勇敢でないから。その原因は、私がまだ生きたい、この社会に生きていたいからである。もうひとつ、小さな理由がある。前にもしばしば言明したように、いわゆる正人君子のやからに、少しでも多く不愉快な日を過ごさせたいために、ことさらに自分が若干の鉄甲を身にまとい、立ちつくし、かれらの世界にそれだけ多くの欠陥を加えてやりたいからである。私自身がそれにあき、脱ぎ棄てたくなる日の来るまでは。

 考え深い仁宋皇帝と毅然とした皇后(互いへの愛情があってもボタンのかけ違いで気持ちがすれ違う夫婦であったが……)
 
 コロナもあって家に引きこもっていた中で、中国のテレビ時代劇を大部観(み)た。日に3作、3年間でざっと15から20作ぐらい観たか。優れたドラマもかなりあったが、いま観ている『孤城閉』(2020)という北宋の仁宋皇帝(1010‐63)とその皇后を描いた作品は、日本の大河ドラマなどと比べても映画のような映像美、描写の重厚さ完成度において頭二つぐらい抜きん出ている。ドラマのあらすじや役者の演技などについてはインターネット上に紹介もいろいろあるので割愛するが、北京出身の妻によれば、俳優たちの北京語は素晴らしいもので普通ではないレベルらしい。慥(たし)かに、テレビドラマと言うよりは名優たちによるしんみりとした舞台芝居を観ているような錯覚にとらえられる。さて、ここではドラマでも決して妥協しない自己の主張に反駁(はんばく)されることを恐れない正義の官僚としてユニークな存在感を出している范仲淹(はんちゅうえん)(989‐1052)という文人政治家に関連して、少し記しておきたい。何故(なぜ)なら、多分、文人に容赦しない苛烈な魯迅が北宋の時代に生きていたならば或いは范仲淹のようになっていたであろうし、政敵に容赦しない苛烈な范仲淹が19‐20世紀の中国に生きていれば或いは魯迅になっていたかもしれないと思うからである。

 范仲淹 (写真をクリックすると拡大)
 上海の魯迅、バーナード・ショー、蔡元培

 なお、随分(ずいぶん)前の本ブログ(2006.4.29.)に、以下のような記事がある。
 ――講演会の取材が終って、まだ日が残っていたので、小石川後楽園の寄った。大人一般300円の入園料。
 ここは、寛永6年(1629年)、水戸徳川家の祖、頼房(よりふさ)が、その中屋敷(のち上屋敷)として造ったものを、二代藩主の光圀(みつくに、黄門さま)が庭園として完成させた。
 庭園の様式は、回遊式築山泉水庭。明の遺臣、朱舜水の意見を用い、円月橋や西湖堤など中国の風物を採り入れた。「後楽園」の園名も、舜水が中国の『岳陽楼記』の一節にある「(士はまさに)天下の憂(うれい)に先だって憂い、天下の楽(たのしみ)に後れて楽しむ」から命名した。

 後先なく春の憂い後楽園  頓休

 この記事には触れていなかったが、「後楽園」の名の由来である『岳陽楼記』という詩賦を詠んだのは、誰あろう范仲淹であった。范は、湖南省に左遷された知人に依頼されて、見たこともない洞庭湖の東北端に建つ岳陽楼(がくようろう)の詩賦(しふ)として『岳陽樓記』(1046)を詠んだのであるが、その知人から贈られた洞庭湖の画(え)を参考に詠(よ)んだものらしい。当時、范も河南に左遷されており、真に優れた人物は見る物や私情に左右されず天下を憂うことが第一だとの気概を詩に盛った。「後楽園」とは、詩の「先天下之憂而憂、後天下之樂而樂歟」に因(ちな)む。范は、仁宗皇帝(1010‐63)の治下、余剰な官僚・余剰な兵士「冗官(じょうかん)・冗兵(じょうへい)」の整理など行政改革に辣腕(らつわん)を振るったが、実力者の宰相・呂夷簡(りょいかん)(979‐1044)に抗論して左遷されるなど苦節があっても、その言説は一貫して天下を論じて曲げず、支配階級になった士大夫(したいふ)(科挙官僚)の気節を奮(ふる)い立たせるものであった。

 岳陽楼

 嗟夫。予嘗求古仁人之心、 
  (嗟(ああ)、予(よ)、嘗(かつ)て古(いにしえ)の仁人(じんじん)の心(しん)を求むるに、)
 或異二者之為、何哉。
  (或(あるい)は二者(にしゃ)の為(しわざ)に異なるは何(なん)ぞや。)
 不以物喜、不以己悲。
  (物(もの)を以(もっ)て喜ばず、己(おのれ)を以(もっ)て悲しまず。)
 居廟堂之高、則憂其民、
  (廟堂(びょうどう)の高きに居りては、則(すなわ)ちその民(たみ)を憂(うれ)ひ、)
 處江湖之遠、則憂其君。
  (江湖(こうこ)の遠(とお)きに処(お)りては則(すなわ)ちその君(きみ)を憂(うれ)う。)
 是進亦憂、退亦憂。 
  (これ進むも亦(また)憂ひ、退(しりぞ)くも亦た憂うるなり。)
 然則何時而樂耶。  
  (然(しか)らば則(すなわ)ち何(いず)れの時に楽しまんや。)
 其必曰「先天下之憂而憂、後天下之樂而樂歟」。 
  (それ必ず「天下の憂ひに先んじて憂ひ天下の楽しみに後れて楽しむ」と曰(い)はんか。)
 噫、微斯人、吾誰與歸。  
  (噫(ああ)、この人(ひと)微(な)かりせば、吾(われ)誰(だれ)にか帰(き)せんや)
                                                 ――『岳陽樓記』より






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