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オオカミは羊のように「メエー」と鳴かない

2022年08月07日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、オルザンヌ(G.Orsanne)神父様の説教をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております



オルザンヌ(G.Orsanne)神父様の説教
オオカミは羊のように「メエー」と鳴かない 
2022年7月24日 
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
 
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン 
親愛なる兄弟の皆さま、「私があなたたちを送るのは、羊をオオカミの中に入れるようなものだ」(マテオ、10,16)と我らの主、イエズス・キリストは使徒たちを布教活動に送る時、仰せになりました。「羊をオオカミの中に入れるようなものだ」と言われたら、あまり安心できないでしょうが、それでも弟子たちは布教しにいきました。

本日の福音では、主は我らに警告します。御自分の群には偽りの羊もいるだろうという警告です。いわゆる、見せかけの外見は羊なのに、そのうわべの下に、変装したオオカミもいるでしょうと。そして、これらのオオカミは羊を貪り食うような野生になります。「欲深いオオカミである」と書いてあります。「Lupes rapaces」。

これらの「オオカミ」は偽りの預言者を指していて、これらの預言者は頭がよくて、見せかけるには、騙すには、自分の正体を隠すに、たけています。このように、軽卒に信じてしまう霊魂を騙そうとしています。



また、別のところで、我らの主は良い羊飼いもいれば、傭人でしかないものもいるということを仰せになります。言いかえると、群の番をするはずの雇われた人は必ずしもその番をしっかりとしないわけです。なぜなら、雇われ人なので、仔羊に対する愛情がないわけです。おカネの関係だけでその仕事をやっているからです。良き牧者は逆に、羊を愛するがゆえに自分の身を投げすててまで羊を守ります。うらがえすと、警戒すべき偽りの牧者もいるということです。

聖パウロはエルサレムでの拘束の少し前に、ミレーにいた時ですが、信徒たちに向けて次のように激励していました。
「私は出発したのち(これは聖パウロの死を指すが)、容赦なく羊の群を荒らす恐ろしいオオカミが、あなたたちの中に入り込むであろうことを私は知っています。あなたたちの中からも、弟子たちを引き付けようとして、有害なことを教える人が立つでしょう。警戒しなさい。」(使徒行録、20,29‐31)

このように、聖なる教会は羊たちがやすらかな芝生で平和のうちに何の不安もなく草を食べられるような場所ではありません。その逆です。
カトリック教会の別名は「戦闘的教会」と呼ばれる通りです。常に戦います。聖職者たちは、牧場の者たちに真理を示し、教える義務がありますので、誤謬や間違いをはっきりと正面から否定する義務も当然あります。信徒たちも常に判断力を活かして、本物の預言者と良き牧者に従うために、偽りの預言者から逃げるために、分別する必要があります。

つまり、盲目的に「預言者だ」と自称している人々に従うわけにはいけません。現代を含めて、教会の歴史を見ると、多くの危機や難局がありました。誤謬、異端など、つまり多くの欲深いオオカミに会いました。これらのオオカミの正体を暴いて追い出さなければなりませんでした。そうしなければ殺されたことでしょう。

さて、具体的にオオカミであるかどうかを分別するためにどうすればよいでしょうか。真理か誤謬か分別するためにどうすればよいでしょうか。
聖パウロの教えを聞きましょう。はっきりとした真理の基準をしめしてくれました。

聖パウロは愛するティモテオへ次のように書いていました。第一の手紙の最初の部分です。「異なる教えを述べさせぬようにせよ」(1,3)
「むなしい議論を引き起こすばかりの果てのない系図と作り話に耳を傾けさせぬようにせよ」(1、4)
「むなし事を語り、自ら律法の教師と称しているが、自分で言っていることも主張していることも知ってはいない」(1,7)

これは本日の福音に通じています。偽預言者は偽の教義を教えます。聖パウロはティモテオに二つの手紙を書きましたが、両方とも素晴らしくて読みやすいのでぜひともよむことをお勧めします。
そして、ティモテオへ第二の手紙には具体的に名前を挙げます。「ヒメナヨとフィレットがいる。彼らの言葉は脱疽のように広まる。彼らは復活はもう行われたといって真理に迷い、ある人々の信仰を覆している。」(2,18)

要するに、聖パウロ自身は判断力を活かし分別していました。そして偽りの本当の預言者を区別するためにどうすればよいかティモテオへ教えていました。その場合も、オオカミは「異なる教え」を説いていました。



このように「異なる教え」を説いたことによってその正体は暴かれます。なぜなら、オオカミは羊の皮を覆い、芝生の垣を越えて入り込むことができるかもしれないからです。その時、羊の前に櫃のように見せかけることができるでしょう。オオカミは黙っているかぎり、羊であると思われるわけです。しかしながらオオカミは羊のように「メエー」とは鳴かないで、オオカミは吠えます。ですから、外見で人々を騙せるが、教える中身でバレます。

教父たちによると、オオカミが見せかけている「羊の皮」とはキリスト教の外見を偽っていることを象徴するということです。つまり、キリスト教の表面的な生活ですね。いくつかの信心、外から見たら、道徳的な生活を営んでいて、時には一般人のキリスト教徒よりも、高度な道徳生活を営むこともあります。時には道徳上の幾つかの点について厳格であることもあって模範を示します。

例えば、アリウスという異端者はそうでした。外見だけをみたら、良き神父であるように見えていました。しかしながら、これだけでは本物の羊であるかどうかは判断できません。それだけでは必要不可欠な様子はまだまだありません。
対神徳である信徳と信仰の告白です。ここで言う信仰は全体としての信仰を言い、信仰のすべてであるということです。一部の削った信仰などは存在しません。縮減された信仰もあり得ません。

オオカミは羊のように「メエー」とは鳴かないので、オオカミの話を注意ぶかく素直に聞けば、オオカミであることはすぐわかってきます。その正体はバレます。

また、聖パウロは同じく、ティモテオへ第二の手紙において、我々に次の警戒をします。
非常に立派な文章です。現代を語っているかのようです。

「また、最後の日に困難な時のあることを知らねばならない。人々は自分だけを愛し、金を好み、名誉を求め、高ぶり、冒涜し、親に従わず、感謝を知らず、天主を恐れず、情けを知らず、和合せず、そしり、不節制に走り、残酷になり、善を愛さず、裏切り、横柄になり、おごり、天主よりも快楽を愛し、敬虔のうわべを借りてその力を捨てた者となるだろう。これらの人々も避けよ。」(3,1-3)

なかなか素晴らしい文章ですね。指されている中身は酷いですが。つづいて、
「これらの人々も避けよ。(…)あなたは学んで確信したところにとどまれ。あなたはだれからそれを学んだか知っている。あなたは子どものころから聖書を知っていた。聖書はキリスト・イエズスによる信仰によって、あなたに救いの知恵を授ける者である」(3,14-16)

このように啓示された真理は不動であって、変わらないわけです。ですから、それに基づいて、真理であるかどうか判別できて、真理の基準になり得ます。逆に、誤謬であることを示すのは、新しい事柄、斬新さ、新奇性といったことです。信仰において前代未聞のようなことはありません。

要するに、教会では、新しい教えがある時、つまり聖伝にない新しい教え、説がある時、誤謬となります。そしてこの誤謬を語る者はオオカミです。

もちろん、教会は人のように歴史の中で成長してきました。成熟してきました。教義をより細かく説いて説明していきました。時には必要に応じて、典礼も成長しました。しかしながら、このような成長、発展は同じ方向性、同じ目的地に向けて行われてきました。基盤はイエズス・キリストであり、目的はイエズス・キリストであり、イエズス・キリストの啓示こそ教義となり、すべてはそれに帰します。聖ヴィンセントVincent de Lérinsは次の有名な格言、名言を残しました。
「In eodem sensu et in eodem sententiar」(同じ意義、同じ方向性において)

ですから、現にある戦場、本物の羊と偽りの羊が混在している、また良き牧者と雇われた人が混在している我々が生きている戦場となる芝生を恐れてはいけません。なぜなら、正体を暴くためには我々には基準があります。聖伝という基準です。

聖伝とは何でしょうか。
イエズス・キリストから、教会内でいつもかわらず教え続けられた教えです。言いかえると教会の通常の教えです。同意しあう時、歴代教皇が示した教えです。また公教要理の中身です。また教父たちです。これを聖伝というのです。また真理はそこにあります。それらは真理の基準となります。

お察しだと思いますが、聖伝は私たちに固まった、正確な、決まった言葉、言い回しを教えてくれます。これは大事です。我らの永遠の救いと人生がかかっているからです。永遠の救いを不明な、曖昧な、変わりやすい言葉と表現にかけるわけにはいけません。

ですから、いつも教会ははっきりとした正確なきっぱりとした定義と教義を示し続けました。ここではラテン語は標準語です。このように、決定的に言葉と表現を決めて信仰が表現されています。

信仰を表現する不動の文言のおかげで、信仰も不動であることを改めて確信できます。このように、それに照らして羊を見せかけるオオカミをより簡単にあぶりだすことができます。

例を挙げましょう。ルフェーブル大司教はある時、教皇パウロ六世について裁いているというような非難をうけました。1976年の有名なリールでの説教において、このような非難に答えました。

「私たちは「あなたは教皇を裁いている」と言われます。しかし、真理の基準はどこにあるのでしょうか。モンシニョール・ベネリは、私に向かって「真理を作るのはあなたではない」という言葉を投げつけました。もちろん、真理を作るのは私ではありません。教皇でもありません。真理、それは私たちの主イエズス・キリストです。

したがって、真理がどこにあるかを知るためには、私たちの主イエズス・キリストが教えてくださったこと、教会の教父たちや全教会が教えたことを参照にしなければなりません。教皇を裁くのは私ではありません。聖伝です。

公教要理をならった五歳の子供は、司教にきちんと答えることができます。もしこの司教がこの子に「私たちの主イエズス・キリストは聖体の中に存在しないんだよ。私は真理の証人だよ。主が聖体の中に存在していないことを私ははっきり言う」と言ったとしたら、この子は、五歳であるにもかかわらず公教要理を知っていますので、「でも、私の公教要理には反対のことが書いてある」と答えるでしょう。どっちが正しいのでしょうか?司教でしょうか?公教要理でしょうか?もちろん公教要理です。公教要理は明らかに永遠の信仰を表明しています。単純なはなしです。」(https://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/4d248cc02721dde60e805dc1275b9d20


皆様、残念ながら、毎日痛感しながら経験されていると思いますが、人々は教会の伝統のすべてをますます否定して覆そうとしています。教会自体の定義、教皇の役割、道徳、婚姻における道徳、キリスト教の道徳、秘蹟、真理など、すべて問題にされています。

ですから、真理がどこにあるかを知るための基準は何でしょうか。答えは単純です。聖伝にあります。ずっと変わらない教えは聖伝です。
従って、われわれは聖伝の公教要理を勉強し続けましょう。歴代教皇の回勅を勉強しましょう。聖伝ミサを守り抜きましょう。

信仰の保護者である聖母が今の難局に置かれている我々を守られますように。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン


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