江戸観光案内

古地図を片手に江戸の痕跡を見つけてみませんか?

榧寺

2012-03-31 | まち歩き

隅田川に架かる厩橋(うまやばし)のところには、江戸時代には橋は無く、代わりに「御厩河岸の渡し」と呼ばれる渡し舟が在りました。古地図[1]には「御厩カシ渡シ場」と記されています。古地図をなぞると、この渡しを西に渡り、現在の江戸通り(国道6号線)を越えて少しのところに正覚寺というお寺が見つかります。このお寺が今回御紹介する榧寺(かやでら)です。


開山は慶長四年(1599年)で、境内に榧の大木が繁っていたことから榧寺と呼ばれていました。正式名は正覚寺でしたが、古地図には正覚寺の文字に添えて「榧寺ト云」と記されており、葛飾北斎の浮世絵「榧寺の高灯篭」や古典落語の「蔵前駕籠」にも榧寺の名で登場していますから、通り名としてはこちらの方が広く知られていたようです。現在は通り名の由来となった榧の大木はもはや在りませんが、お寺の名称そのものが正覚寺から榧寺に変わり、榧寺が正式名称になっています。


榧寺は藤沢周平著「海鳴り(下)」の中で、主人公の小野屋新兵衛が「御厩の渡し」で船を降り、料理屋の「有明」に立ち寄った後、有明の女中を榧寺近くで見送るという場面で登場しています。


[1] 東都浅草絵図、安政四年(1857年)


榧寺 東京都台東区蔵前3-22-9

都営大江戸線 蔵前駅からすぐ 徒歩約1分

都営浅草線 蔵前駅から約240m 徒歩約3分


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大川橋

2012-03-24 | まち歩き

東京の新名所、東京スカイツリーのグランドオープンまで2ヶ月を切りました。その日が来るのを楽しみにしている人もきっと多いと思います。

この世界一高い電波塔については、もはや説明する必要は無いでしょうが、地理的な位置については地方に住んでいる人にはピンと来ないかもしれませんので少々説明を加えますと、浅草寺で有名な浅草から隅田川を挟んで直ぐのところに在ります。距離的には地下鉄なら一駅で、歩いても15分そこそこですから今年の春からは東京スカイツリーに上った後に足を伸ばして浅草寺をお参りする人がきっと沢山現れることだろうと思われます。


東京スカイツリーと浅草寺の間を歩いて移動する際に渡ることになるのが吾妻橋で、江戸時代には隅田川が大川と呼ばれていたことから大川橋と呼ばれていました。架橋は安永三年(1774年)で、江戸時代に隅田川に架かっていた五つの橋の内、最後に架けられた橋です。東橋[1]と表記されることもあり、これが転じて後に吾妻橋になったようです。吾妻橋が正式名称になったのは侍の時代以降の明治九年(1876年)で、案外最近のことです。


時代小説の中で大川橋(吾妻橋)は、浅草と対岸の北本所を結ぶ手段として、あるいは両国橋を使わずに対岸に渡る術として度々登場します。例えば池波正太郎著「剣客商売シリーズ」(新潮社)の中では、秋山小兵衛は隅田川東岸の鐘ヶ淵に住まいを構え、息子大二郎は西岸の真崎稲荷近くに道場を構えるため、船や両国橋を使わずに隅田川を渡る場合の手段として大川橋は度々登場しています。


[1] 御江戸大絵図、天保十四年(1843年) ※人文社から復刻地図が出版されています。


吾妻橋西詰 東京都台東区花川戸1-1-1
東京メトロ銀座線 浅草駅よりすぐ 徒歩約1分
東武伊勢崎線 浅草駅より約230m 徒歩約3分


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柳橋

2012-03-17 | まち歩き

柳橋は神田川の最も下流、隅田川と神田川が合流するところに架かる橋です。架橋は元禄十一年(1698年)で、その当時は川口出口之橋(かわぐちでぐちのはし)と呼ばれていました。それが柳橋と呼ばれるようになった由来は明確になっていませんが、有力な説としては、①矢の倉橋が矢之城(やのき)橋となり、更に柳橋になる、②柳原堤(柳原土手)の末にあったことに由来する、③橋のたもとに柳の木があったことに由来する、の三つがあるそうです。


ここでちょっと古地図[1]を開いて、柳橋よりやや南側に在る薬研堀に目を転じて見ると、「元柳橋(元ヤナギハシ)」という橋があることに気付きます。薬研掘に架かるこの橋は、元が付く以前には柳橋と呼ばれていました。この地には元禄の頃に矢之倉というお堀に囲われた幕府の倉が在りましたが、薬研掘は矢之倉が無くなった後に、そのお堀の一部が残ったものです。


これらのことより想像を働かせると、柳橋の由来は上記①~③のいずれか一つが正解というよりも、二つの柳橋と関連していずれもが正解なのでは無いかと考えられます。即ち、(a)矢之倉の掘に在った橋が矢之倉橋と呼ばれるようになり、それが後年、柳橋になった、(b)神田川の橋は、柳原土手の柳などから、通称として人々から柳橋と呼ばれるようになった、(c)矢之倉の堀が薬研堀となり、柳橋の名前は神田川の橋に譲られて、こちらが正式な「柳橋」となり、元々の柳橋は「元柳橋」と呼ばれるようになった、とは考えられないでしょうか。飽くまでも古地図を眺めての大胆な仮説に過ぎませんがいかがでしょうか。


現在の柳橋は、関東大震災(1923年)でそれ以前の橋が落ちたため、復興事業として昭和4年(1929年)に架橋されたものです。橋のたもとには少々風化が進んでいますが震災復興の記念碑が在ります。都内にはこの柳橋のほか、隅田川に架かる清洲橋や永代橋等、未だ震災復興事業で架けられた橋が多く残っています。

東日本大震災から1年が経っても未だ復興の息吹を感じられません。しかしこの橋が架かったのは関東大震災から6年後であることを考えれば、直ぐに復興の結果を出すことはやはり難しかろうかと思われます。たとえ今の一歩一歩は小さくても確実に復興の日へと近づいているはずです。柳橋たもとの復興記念碑と同じような復興記念碑を東北の地に建てられる日が一日も早く訪れることを祈念しています。


時代小説の中では、柳橋は橋そのものよりも、むしろ橋の北側にある花街の地名として度々登場します。柳橋そのものが登場する回数はそれに比べればかなり少ないのですが、宮部みゆき著「ぼんくら(下)」(長い影の章、新潮社)では、主人公の定町廻り同心、井筒平四郎が柳橋のたもとから船に乗る場面があります。また、藤沢周平著「海鳴り(下)」(野の光景の章、文藝春秋)では、主人公の小野屋新兵衛が駕籠に乗って柳橋を渡る場面があります。


柳橋が登場するその他の作品

  • 池波正太郎著「雪の果て」(鬼平犯科帳(十九)に収録、文藝春秋)

[1] 御江戸大絵図、天保十四年(1843年) ※人文社から復刻地図が出版されています。


柳橋北詰 東京都台東区柳橋1-2-15
JR・都営浅草線 浅草橋駅から約400m 徒歩約5分


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柳橋のたもとにある関東大震災の復興記念碑


3・11に寄せて

2012-03-10 | 日記・エッセイ・コラム

当ブログで最もアクセスの多いページは昨年4月23日に御紹介した「仙台堀」です。伊達正宗や仙台藩との関わりで東京には仙台の名の付いた地名があると紹介したもので、震災や被災地を意識して書いたものではありませんでしたが、他のページと比較するとなぜだかアクセス数が多いのです。そんなこともあり、また、このページに添えるための写真を撮っている最中に余震で怖い思いをしたこともあり、アクセスして頂いている方の中には仙台の人はいるだろうか、東北の人はいるだろうかという想いがいつも頭をよぎります。もしもそうであるならば、当ブログにアクセスして頂いている僅かな時間だけでも震災を意識せずにいられれば良いのだがと思っています。


震災から1年が過ぎましたが、震災で大切な人を亡くした人にとっては、時間は心の傷を癒す薬にはならないだろうと思っています。生きている限り、あの日を忘れることは出来ず、苦しみから逃れる術も無いことでしょう。被災していない者には、悲しみや苦しみを頭では理解出来ていても、同じ気持ちを共有することは出来ません。でも、せめて今日から明日、明日から明後日へと、少しでも心の痛みが和らぐことを切に願っています。


震災で東北は未曾有の被害を受けましたが、歴史的には東京も明暦の大火、安政の大地震、関東大震災、第二次世界大戦と壊滅的な被害を受けています。元々が低い土地に造られた都市なので水害でもかなり苦しめられたはずです。しかし、その都度、何年もの月日を費やしたにせよ、立派に復興を遂げ、今に至っています。だから同じことが東北で出来ないはずはないと信じています。


瓦礫の受け入れ先もままならず、差別や偏見は無くならず、政治家は失政を続けているばかりか、いつの間にか被告席から降りてしまったように振舞っていて、復興を信じていると言ったところで表面的な綺麗ごとにしか聞こえないかもしれません。現実には個々人で出来ることはとても小さくて、被災者の方々に直接的に手を差し伸べられることは多くないのは事実です。けれど、あの日を忘れずに、皆が前を向いて、出来る何かを続けていけば、必ずやそれが復興の一歩一歩になるのだと信じています。


一日も早く復興が成し遂げられますように。そして、被災者の方々に少しでも笑顔が増えますように。


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深川の仙台堀川。仙台藩の蔵屋敷が近くに在ったことが名前の由来です。


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南こうせつさんの名曲「神田川」で全国的にも有名な神田川は江戸時代に人工的に造られた川で、現在の飯田橋駅付近から秋葉原付近までの工事を仙台藩主・伊達政宗が行ったことから仙台堀と呼ばれるようになりました。


大仏

2012-03-03 | まち歩き

“大仏”と聞いたら大抵の人は奈良か鎌倉の大仏様を想像することと思いますが、実は江戸にもかつて高さ約7mの大仏が存在しました。信じられないかもしれませんが本当の話です。場所は徳川家の菩提寺である上野の寛永寺の境内で、現在の上野恩賜公園のところです。試しに古地図[1]を開いてみると、確かに寛永寺の中に「大仏」の文字が見て取れます。文字の近くに描かれている建物はおそらく大仏殿でしょう。


最初に大仏が建立されたのは寛永八年(1631年)で、越後村上藩主、堀直寄が、寛永寺が建つ以前に自身の屋敷が在った地に建立した漆喰製の大仏でした。しかし大仏は後年の地震により倒壊。代わって今度は青銅製の大仏が再興され、およそ40年後には大仏殿も建てられますが、今度は火災により大仏、大仏殿共に損傷。その後、堀尚寄の子孫に当たる越後村松藩主、堀直央の寄進により大仏が新鋳再建され、大仏殿も再建されますが、安政二年(1855年)の安政大地震により頭部が落ち、再び堀直央の寄進により修復されます。しかし、大正十二年(1923年)の関東大震災で頭部が落下した後は、寛永寺が破損した大仏を保管するものの、第二次世界大戦でお顔を除く部分が軍需金属資源として供出される不幸も重なり、とうとう元のお姿での再建は果たせぬまま、現在はお顔だけのお姿となっています。


この大仏は、池波正太郎著「越後屋騒ぎ」(剣客商売(七)に収録、新潮社)の中でさりげなく登場しています。気にせずに読み進めてしまうくらい僅かな登場ですが、古地図好きにとっては、他の作家先生が気にも留めてくれないこの大仏を、池波先生のような大先生が取り上げてくれていることを嬉しく思います。


何度も落ちた大仏の首も、もう二度と落ちることが無いことから、現在は「落ちない=合格大仏」として受験生には人気だそうです。一方、大仏様のお心を計り知る由はありませんが、大仏様自身が江戸から平成へと時代が移ろう中で、何度も震災を経験なされて来ただけに、慈悲の眼差しは受験生だけでなく、東日本大震災の被災地の方々にも必ずや向けられていることと思います。


[1] 御江戸大絵図、天保十四年(1843年) ※人文社から復刻地図が出版されています。


上野大仏(上野恩賜公園内) 東京都台東区上野公園四丁目

JR・東京メトロ銀座線・日比谷線 上野駅から約650m 徒歩約9分


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