江戸観光案内

古地図を片手に江戸の痕跡を見つけてみませんか?

三囲稲荷社

2013-02-23 | まち歩き

三囲稲荷社(現三囲神社)は、墨田区向島に在るお稲荷様で、言問橋のやや上流の隅田川沿いに建ちます。勧請は弘法大師といわれていますので、平安初期に始まる歴史有る神社といえます。「三囲」と書いて、「みつい」とも読めますが、「みめぐり」と読みます。この名前は、文和年間(1352~1356年)にお社を改築した際、土中から白狐に跨る老翁の像が見つかり、その像の周りをどこからともなく現れた白狐が三度回って消えたという縁起に由来するものです。


神社前の広場を抜け、鳥居をくぐると、左手に狛犬ならぬ青銅製のライオン像が見えてきます。予備知識が無ければ、大抵の人は、このライオン像を不思議に思うことでしょう。実は、このライオンは、2009年に閉店した池袋三越のライオンです。


三井財閥の三井家は、江戸進出時に、三囲神社を三井家の守護社としました。三井の本拠である江戸本町(現在の日本橋三越付近)から見て鬼門の方角に位置していたことや、三囲神社の“囲”の字は、“井”を囲んでいることから、「三囲はすなわち三井に通じ、三井を守る」と考えられたためです。以来、三囲神社は三井家の守護社としてのみならず、三井グループ各社の守護社としても信仰されています。


前述のライオンは、三越(江戸の頃は、越後屋・三井呉服店)との縁により、池袋三越が閉店した後に、三囲神社の境内に移設されたものです。三越各店には、三囲神社の御分霊が祀られており、例えば日本橋三越には本館屋上に、銀座三越には9階のテラスにそれぞれ三囲神社のお社が在ります。


三囲稲荷社は、池波正太郎著「高萩の捨五郎」の中で登場。秋葉大権現近くの茶屋で酒を飲み終えた盗人の捨五郎の歩く先に、三囲稲荷社の杜が遠くのぞまれますが、そこで事件が起こります。


三囲稲荷社が登場するその他の作品

  • 池波正太郎著「大川の隠居」(鬼平犯科帳(六)に収録、文藝春秋)/「三めぐりの土手」として登場しています。
  • 池波正太郎著「雲霧仁左衛門(前編)」(新潮社)
  • 葉室麟著「一蝶幻景」(乾山晩秋に収録、角川書店)

[1] 参考:三囲神社前案内板

[2] 参考:三井広報委員会ホームページ


三囲神社 東京都墨田区向島2-5-17

東武スカイツリーライン とうきょうスカイツリー駅から約650m 徒歩約9分


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三囲神社のライオン像


秋葉大権現

2013-02-16 | まち歩き

秋葉大権現(現秋葉神社)は、墨田区向島に在る神社で、古地図[1]の中では、「秋葉山」と記されています。歴史は古く、正応二年(1289年)に、五百崎の千代世(いおさきのちよせ)の森と呼ばれていたこの地に、千代世稲荷大明神をお祀りしたのが創祀と伝えられています。その後、江戸時代の初めに、善財という霊僧がこの森に庵を結び、数年の修行の後に、秋葉大神の神影を社殿に納めます。そして、元禄十五年(1702年)に、秋葉大権現を千代世稲荷の相殿としました。現在のこの辺りは、近くを国道6号線が走る都会の一角ですが、古地図が刷られた頃は、田園の中に寺社が点在する江戸の郊外でした。


池波正太郎著「高萩の捨五郎」(鬼平犯科帳(二十)に収録、文藝春秋)の中では、長谷川平蔵のお供に疲れた密偵・相模の彦十が秋葉大権現の境内でその不満を口にします。しかし、平蔵は全てお見通しとばかりに、近くの茶店に「この家の鯉はうまいぞ」と彦十を招き入れます。この情景は、江戸名所図会に記された、「門前酒屋・食店(りょうりや)多く、おのおの生洲(いけす)を構えて鯉魚(こい)を畜(か)う」との記述そのままで、大変興味深いものです。更に面白いことは、古地図の「秋葉山」の近くに描かれた料理屋・武蔵屋もまた、「高萩の捨五郎」に登場していることです。さらりと読めば、ほんの数行のことですが、なかなか奥が深いです。


[1] 墨田川向嶋絵図、安政三年(1856年) ※人文社から復刻地図が出版されています。


東京都墨田区向島4-9-13
東武鉄道曳船駅から約500m 徒歩約7分


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境稲荷

2013-02-09 | まち歩き

境稲荷は、上野の不忍池の西方、東京大学池の端門の側に在るお稲荷様です。歴史は古く、文明年間(1469年~1486年)に、室町幕府第九代将軍の足利義尚により創祀されたという説[1]と、それ以前に創建され、足利義尚により再建されたという説[2]があります。社名は、忍ヶ岡と向ヶ岡の境に鎮座するところから、境稲荷と称されるようになりました。忍ヶ岡(忍岡とも云う)は、上野公園一帯の古称で、広義には上野の山である上野台地を指します。一方の向ヶ岡は、不忍池を挟んで西側の本郷台地を指し、現在も東京大学の北側には「向丘」の地名が在ります。境稲荷を挟んで、東が忍ヶ岡、西が向ヶ岡と理解すれば、だいたい合っていると思われます。現在も境稲荷は、その名に違わず、台東区と文京区の区界上に在ります。この例は偶然かもしれませんが、昔の境界が現在の行政区の境界になっている例はこの例以外にも存在し、かつての人の営みが案外に現代に残っていることに驚かされることがあります。


境稲荷は、池波正太郎著「鬼平犯科帳(十七)鬼火」(文藝春秋)の中で登場。長谷川平蔵の殺害を頼まれた高橋浪人が住む飯屋・三州屋が近くに在り、平蔵等は、境稲荷の社の鳥居の陰へ立ち、高橋浪人を見張ります。


[1] 境稲荷神社案内板

[2] 境稲荷神社と弁慶鏡ヶ井戸案内版、平成六年三月、台東区教育委員会


境稲荷 東京都台東区池之端1-6-13

東京メトロ千代田線 湯島駅から約600m 徒歩約8分

東京メトロ千代田線 根津駅から約650m 徒歩約9分


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正慶寺

2013-02-02 | まち歩き

正慶寺は、上野の不忍池の西方に在るお寺で、墓所には、江戸前期の俳人・歌人である北村季吟のお墓(東京都史跡)が在ります。北村季吟は、江戸幕府に歌学方として仕えた人で、門人の一人には奥の細道で知られる俳聖・松尾芭蕉がいます。


正慶寺は、池波正太郎著「おかね新五郎」(鬼平犯科帳(十九)に収録、文藝春秋)の中で登場。長谷川平蔵とは同門の先輩剣士、原口新五郎が、この寺の物置き小屋を改造した二間に暮らしています。老いた原口新五郎は、元々が病身であったゆえ、この時すでに剣を捨て、近辺の子供たちに読み書きを教えながら暮らしていますが、敵討ちのために、再び剣を握ります。久しく剣から遠ざかっていたにも関わらず、鮮やかに剣を振るくだりは、読んでいて爽快です。


正慶寺の向かいには、忍岡小学校が在ります。忍岡(しのぶがおか)というのは、上野公園一帯の古称で、広義には上野の山一帯を指し、一説では不忍池の名前の由来とも言われています。


正慶寺 東京都台東区池之端2-4-22

東京メトロ千代田線根津駅から約300m 徒歩約4分


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