江戸観光案内

古地図を片手に江戸の痕跡を見つけてみませんか?

第六天神

2011-03-26 | まち歩き

第六天神、現在の第六天榊神社は東京都台東区蔵前に在る神社です。かつては鳥越の地に在り、鳥越神社、熱田神社(現台東区今戸)と共に鳥越三所明神と呼ばれていました。天保二年(1645年)に鳥越の地が公用のため召し上げとなり、第六天神は森田町(現台東区蔵前)に移転。元禄時代の地図[1]にはモリタ丁のわきに「大六天」と記されています。この移転は、鳥越にかつて在った丘を取り崩して浜町の矢ノ蔵を造成するためで、矢ノ蔵を囲んでいたお堀の一部が後の薬研堀です。第六天神はその後、享保四年(1719年)に火災の後、茅町(現台東区柳橋)に移転。昭和三年に現在の地に遷座するまでは、篠塚稲荷の西隣に在りました。江戸後期の地図[2]には、「第六天」と記されています。

第六天神は、藤沢周平著「牢破り」(春秋の檻 獄医立花登手控え(一)に収録、講談社)の冒頭、“立花登は、芳次郎を第六天神わきのそば屋に連れ込んだ。”との一節で登場するほか、「待ち伏せ」(人間の檻 獄医立花登手控え(四)に収録)でも登場しています。


[1] 元禄江戸図、元禄六年(1693年)/古地図史料出版(株)復刻地図

[2] 東都浅草絵図、安政四年(1857年)


第六天榊神社 東京都台東区蔵前1-4-3

都営浅草線・大江戸線 蔵前駅から約500m 徒歩約7分

JR・都営浅草線 浅草橋駅から約500m 徒歩約7分


Dsc_5982


篠塚稲荷

2011-03-19 | まち歩き

柳橋に在るお稲荷様で、江戸切絵図[1]には「篠塚イナリ」と描かれています。江戸の名所ガイドブックともいえる江戸名所図会にも載っており、そこに描かれている絵や切絵図から想像すると江戸時代の境内は今よりもかなり広かったようです。

かつて柳橋は花街として賑わっていましたが、1999年に最後の料亭が廃業し、その歴史に幕が下ろされました。今では花街として華やかしき時代の面影はほとんどありませんが、篠塚稲荷の社を囲う玉垣には、今でもかつて存在した料亭の名前を見出すことが出来ます。

池波正太郎著「夕紅大川橋」(剣客商売(十三)に収録、新潮社)の中で、浅草・平右衛門町の篠塚稲荷として登場しています。


[1]東都浅草絵図、安政四年(1857年)


篠塚稲荷 東京都台東区柳橋1-5-1

JR・都営浅草線 浅草橋駅から約270m 徒歩約4分


Dsc_5995


寿松院

2011-03-05 | まち歩き

東京都台東区鳥越にある浄土宗のお寺で、用心棒日月抄(藤沢周平著、新潮社)の中で、主人公・青江又八郎が住む長屋がこのお寺の裏に在るという内容で登場します。現在の本堂は南を向いて建っており、すると北側が裏ということになりますが、試しに青江又八郎が生きた元禄時代の地図[1]を開いてみると、寿松院(シセウイン)の北側は「クミヤシキ」となっており長屋が在ったようには思われません。南側も「本タヒコ」となっており、武家屋敷のようです。すると、“裏”は東か西になるわけですが、東側は現在の新堀通りに面しており、江戸時代後期の地図[2]ではこちら側に「門前丁」の表記もあることから、東側が表で西側が裏と考えるのが自然では無いかと思われます。従って、青江又八郎の住まいが在ったのは寿松院の西側だったのでは無いかと想像されます。もっともこれは大胆な仮説によるもので、藤沢先生がどのようなイメージで作品をお書きになられたのかは今となっては残念ながら分りません。

用心棒日月抄「夜鷹斬り」に登場するおさきが無縁仏として葬られたのも、このお寺です。

また、藤沢周平著「片割れ」(愛憎の檻 獄医立花登手控え(三)に収録、講談社)では寿松院門前町にある戸塚屋という米屋に押し込みが入ったという内容で登場します。

余談としては、池波正太郎著「老盗の夢」(鬼平犯科帳(一)に収録、文藝春秋)の中に「鳥越にある“松寿院”という寺」が登場するのですが、池波先生があえて名前を逆さまにしたのか、それとも単なる誤記だったのか、こちらも謎は闇の中です。


寿松院が登場するその他の作品

  • 佐伯泰英著、陽炎の辻(第三章 騒乱南鐐銀)、双葉社

[1]元禄江戸図、元禄六年(1693年)/古地図史料出版(株)復刻地図

[2]東都浅草絵図、安政四年(1857年)


寿松院 東京都台東区鳥越2-13-2

都営浅草線・大江戸線 蔵前駅から約400m 徒歩約5分


Dsc_5988