江戸観光案内

古地図を片手に江戸の痕跡を見つけてみませんか?

淡路坂

2012-11-24 | まち歩き

JR御茶ノ水駅の聖橋口を出て、神田川沿いに東に下る坂が淡路坂です。坂名の由来は、坂の近くに屋敷を構えていた鈴木淡路守に因むものと言われています。


淡路坂は別名を一口坂(いもあらいざか)といい、これは坂上に在った太田姫稲荷の古社名である一口稲荷(いもあらいいなり)に因むものです。又、相生坂とも呼ばれ、これは神田川を挟んで対岸の坂の名前が相生坂であるため、二つの坂を相生坂と呼ぶものです。


池波正太郎著「辻斬り」(剣客商売(二)に収録、新潮社)の中で淡路坂は、「神田・昌平橋の西方、淡路坂の上にある太田姫稲荷の社の玉垣に沿った道を、・・・」という具合に記されています。


ここにも登場する太田姫稲荷は、今は坂上には在りませんが、さほど遠くない駿河台下に移転し、現在でも存在しています。移転したのは昭和六年(1931年)のことで、理由は総武線の建設に伴うものです。以前のお社は御茶ノ水駅の臨時改札口辺りに在りましたが、現在は、この地には、椋(むく)の木が立ち、そこには元宮を示す木札と神札が貼られています。


淡路坂 東京都千代田区神田淡路町2-29付近

JRお茶の水駅・東京メトロ 新お茶ノ水駅からすぐ 徒歩約1分


太田姫稲荷神社 東京都千代田区神田駿河台1-2

東京メトロ千代田線 新お茶ノ水駅から約240m 徒歩約3分


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太田姫稲荷神社


湊稲荷

2012-11-17 | まち歩き

湊稲荷は、亀島川(日本橋川の支流)が隅田川と合流する地に建つ鐵砲洲稲荷神社の別名です。現在は埋め立てられて消失していますが、お社の直ぐ北を八丁掘と呼ばれた桜川が流れていました。時代劇や時代小説でお馴染みの、“八丁掘の旦那”は、八丁掘の近くに江戸町奉行所の組屋敷が在ったため、この地に住む与力や同心を俗に“八丁掘”と呼んだものです。


八丁堀は、京橋川(こちらも今は埋め立てられて消失している)とつながっていたため、八丁掘を京橋川と呼ぶこともあり、池波正太郎著「霜夜」(鬼平犯科帳(十六)に収録、文藝春秋)の中で、湊稲荷は、「京橋川が江戸湾へ流れ入ろうとする手前に、稲荷橋が架かっている。橋をわたった右手に、湊稲荷の社がある。」という具合に書かれています。


隅田川を挟んで対岸には佃煮発祥の地である佃や、もんじゃ焼で知られる月島、更に南に勝どきの地が広がっています。しかし、江戸時代には、月島も勝どきも造成されておらず、佃島が島として在るだけだったので、正に池波先生が書かれたように、目前には江戸湾の海が広がっていました。この風景は、江戸名所図会にも描かれています。


湊の字は、意味としては港と同じです。現在は芝浦や青海の辺りが東京港と呼ばれる部分ですが、江戸時代には湊稲荷の周辺こそが江戸湊の玄関口であり、江戸で消費する物資が集まる水運の中心地でした。それ故、湊稲荷は船員達の海上守護の神として全国的に崇拝されていました。


湊稲荷(鐵砲洲稲荷神社) 東京都中央区湊1-6-7

JR・東京メトロ日比谷線 八丁掘駅から約600m 徒歩約8分


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慶養寺

2012-11-10 | まち歩き

慶養寺は、今戸に在る曹洞宗のお寺です。山谷掘に架かっていた今戸橋の北詰に位置し、山門の両脇に立つ仁王像が道行く人の目を引きます。


池波正太郎著「敵」(剣客商売(十三)に収録、新潮社)の冒頭で、秋山親子と交誼のある侍、笠原源四郎が襲われたのが、この慶養寺の近くです。


慶養寺略史によると、慶養寺は元和元年(1615年)に浅草鳥越の地に創建され、その後、浅草蔵前、本所押上への移転を経て、貞享二年(1685年)に現在地の今戸に移ったと伝えられています。かつて境内には、大榎、大欅、大銀杏等が群立し、慶養寺はうっそうたる森の中に堂々たる寺姿を誇っていましたが、大正十二年(1923年)九月一日の関東大震災で諸堂を消失。昭和十八年(1943年)にようやく総欅造の本堂の再建を果たすものの、間もない昭和二十年三月に戦災により再び諸堂を一堂も余さず消失し、大銀杏ただ一本を残して、ほとんどが灰になってしまいました。現本堂が竣工するのは、それから二十年後の昭和四十年(1965年)九月のことです。


震災にも、戦災にも負けずに生き残った大銀杏は、炎に焼かれたせいで幹の一部が炭と化し、その傷跡をさらしていますが、今も元気に枝を広げています。秋にはたわわに銀杏を実らせています。


慶養寺 東京都台東区今戸1-6-22

東京メトロ銀座線・都営浅草線 浅草駅から約900m 徒歩約12分


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関東大震災と戦災から生き延びた大銀杏。幹の一部は炎に焼かれて炭と化しているが、今も元気に枝を広げている。 


三十間堀

2012-11-03 | まち歩き

銀座三越から晴海通沿いに歌舞伎座の方へ歩いてくると、その途中に一棟だけ独立して建つ低層のビルがあり、そのビルを不自然に側道が囲んでいます。中央通と昭和通に平行する路地は、なぜかそこだけ等間隔で並んでおらず、良く見れば晴海通も、そこだけが盛り上がっています。周りと比べて何となく変。実はこの場所には、昭和二十三年(1948年)に埋立てが始まるまで、中央通と昭和通に平行して、三十間掘と呼ばれた堀がありました。現代に残る過去の地形の痕跡。これが違和感の正体です。


違和感の正体はそれだけではありません。ここには「三原橋地下街」という、晴海通を横断する“地下道”と呼んだ方が相応しいくらいの短い地下街が存在します。一歩足を踏み入れれば、昭和を感じさせる映画館や居酒屋、食堂、床屋等が並ぶ異次元空間。地下街なのに灰皿が置いてあって煙草臭いのも昭和を感じさせます。実はこの地下街は、三十間掘跡の空間を利用して造られた地下街で、三十間掘の埋立てで唯一撤去されなかった三原橋という橋が天井の役目を果たしています。外観からは、ほとんど分りませんが、注意深く見れば、今もここに存在する三原橋に気付くことが出来ます。


三十間堀の名前の由来は、慶長十七年(1612年)の完成時に堀幅が三十間(約55m)あったことに因みます。文政十一年(1828年)に、幅を十九間(約35m)に狭めたといわれていますが、それにしても、割合最近まで、こんな幅の広い堀が銀座のど真ん中に在ったことは、古き良き銀座を知らない世代にとっては驚きです。そして、そこに在った橋とお堀の空間を利用して無理やり地下街を造ってしまったことも驚きであり、その地下街が現在に残っていることも驚きです。そんな三原橋地下街ですが、残念ながら耐震性の問題から取り壊しが決まっています。自由に歩くことが出来る時間も、あとわずかになってしまいました。


三十間堀は、藤沢周平著「凶刃 用心棒日月抄」(新潮社)の中で登場。主人公・青江又八郎と嗅足組の頭・佐知は、三十間掘近くの小料理屋「絹川」で落ち合います。又、池波正太郎著「引き込み女」(鬼平犯科帳(十九)に収録、文藝春秋)の中では、三十間堀と共に、三原橋が登場しています。


三十間堀(三原橋地下街) 中央区銀座4-8-7 三原橋下

都営浅草線 東銀座駅から約50m 徒歩約1分

東京メトロ銀座線・日比谷線 銀座駅から約150m 徒歩約2分


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