江戸観光案内

古地図を片手に江戸の痕跡を見つけてみませんか?

牛天神

2012-07-28 | まち歩き

牛天神は小石川後楽園北側の丘の上に在る神社で、現在の名称は北野神社といいます。名前からも分るように学問の神様である菅原道真を祀っています。参拝するためには、西側にある女坂と呼ばれる階段を上りますが、江戸時代には南側にも階段があり、かつてはこちらが正門でした。その様子は江戸名所図会に見てとれます。神社の裏側には牛坂という、坂道好きが好みそうな坂道もあります。


神社の縁起によれば、寿永三年(1183年)の春に源頼朝が東国追討の折、ここの入江の松に船をつなぎ、和波を待っていたところ、その間に見た夢に菅原道真が牛に乗って現れ、頼朝に二つの幸があることを告げ、武運満足の後には必ず社を営み報いるように託したそうです。その年、嫡男頼家が誕生し、更に翌年には平家を退けて国を鎮定することが出来たため、そのお礼として、源頼朝が元暦元年(1184年)にこの地に創立したのが、現在の牛天神だと云われています。


ところで、「ここの入江」とは、どこのことでしょうか。かつて、ここは海だったのでしょうか。実は牛天神は、周りを水で満たせば、小石川台地が半島状に突き出た岬の先端付近に位置します。そして、太古の昔は、実際にこの辺りまで海が広がっていたと言われています。しかし源頼朝が活躍した八百数十年前はというと、確かに江戸の街は開発されておらず、日比谷付近まで海が入り込んでいましたが、さすがに小石川の辺りまでは海は入り込んではいなかったと考えられます。従って、船に乗って遡上したとすれば、それは神田川か、今では暗渠となってしまった小石川(谷端川(やばたがわ))では無いかと地理学的には想像されます。しかし、「ここの入江の・・・」の部分は、記録というよりも、むしろ伝説と捉える方が自然ではなかろうかと思われます。


牛天神は、池波正太郎著「女賊」(鬼平犯科帳(五)に収録、文藝春秋)の中で、牛天神下の井筒屋の女房は実は女盗賊であったという内容で登場しています。牛天神は源頼朝が勧進したという説以外に北条氏康が勧進したという説もあり、「女賊」の中では、こちらの説が紹介されています。


牛天神(北野神社) 東京都文京区春日1-5-2

東京メトロ丸ノ内線・南北線 後楽園駅より約800m 徒歩10分

都営三田線・大江戸線 春日駅より約800m 徒歩10分

JR中央線・東京メトロ東西線・有楽町線 飯田橋駅より約900m 徒歩約12分


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左内坂

2012-07-21 | まち歩き

左内坂は新宿区市谷にある坂で、JR総武線市ヶ谷駅からは外濠を渡ってすぐのところにあります。江戸時代初期に坂上周辺の町屋と共に開発された坂で、名主島田佐内が草創したため、町名を左内坂町と呼び、坂道も左内坂と呼ばれるようになりました。現在の坂上の町名は「市谷左内町」で、かつての名前を今に引き継いでいます。


左内坂はかなりの急坂で、その先には防衛省が在ります。江戸時代、ここには尾張藩の広大な上屋敷がありましたが、明治七年(1874年)に陸軍士官学校が設置されました。左内坂を上ったところに陸軍士官学校が在ったことから、司馬遼太郎著「坂の上の雲」(文藝春秋)の坂は左内坂という説があります。


時代小説の中では、池波正太郎著「女掏摸お富」(鬼平犯科帳(二)に収録、文藝春秋)、「泥鰌の和助始末」(鬼平犯科帳(七)に収録、文藝春秋)の中で登場しています。


左内坂 東京都新宿区市谷左内町

JR総武線市ヶ谷駅より約200m 徒歩約3分


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天王寺

2012-07-14 | まち歩き

天王寺は谷中に在る天台宗の寺院です。古地図[1]には、徳川家の菩提寺である上野・寛永寺の西隣に、寛永寺ほどでは無いものの、相当に大きなお寺として描かれています。現在の天王寺の目前に広がる都立谷中霊園の多くの部分は、かつて天王寺が所有した土地でした。


天王寺の創建は、一般には室町時代と言われており、現存する寺院の中で、江戸時代以前に創始の寺院が多くはない都内においては有数の古刹の一つです。創建の頃は感應寺という日蓮宗のお寺でしたが、元禄十二年(1699年)に江戸幕府の命令により強制的に天台宗に改宗させられました。天王寺と名称を改めたのは天保四年(1833年)のことで、それ以前に発行された別の古地図[2]には、確かにこの地には感應寺と記されています。
江戸時代には、江戸幕府公認の富くじ(現在の宝くじ)が興行され、目黒不動、湯島天神と共に「江戸の三富」として大いに賑わったそうです。


現在の天王寺の門を潜ると、本堂に向かって左側に座高8尺(約2.4m)の大仏様が鎮座されておられます。あまりに綺麗にお姿なので、近代に造られたもののように思えますが、制作されたのは元禄三年(1690年)と300年以上昔のことです。寛永寺にかつて存在した上野大仏は、現在ではお顔だけのお姿になっていますが、ここ天王寺の大仏様は今も昔と変わらぬお姿のままで在られます。


天王寺は、池波正太郎著「谷中・いろは茶屋」(鬼平犯科帳(二)に収録、文藝春秋)の中で、“ここは「いろは茶屋」とよばれる岡場所であって、貞享の時代から谷中・天王寺門前にひらかれた遊所だ。”との記述で登場しています。しかし、長谷川平蔵が活躍した時代には、先に記した通り、天王寺では無く、感應寺と呼ばれていました。池波先生がその事実を知らなかったはずは無いので、あえて天王寺とお書きになられたのは、その方が読者が想像を働かせやすいとの配慮からではなかったかと想像されます。


[1] 御江戸大絵図、天保十四年(1843年) ※人文社から復刻地図が出版されています。
[2] 明和江戸図、明和八年(1771年)/古地図史料出版(株)復刻地図


天王寺 東京都台東区谷中7-14-8

JR山手線日暮里駅より約240m 徒歩約3分


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天王寺の大仏様