江戸観光案内

古地図を片手に江戸の痕跡を見つけてみませんか?

三井越後屋呉服店

2015-08-29 | まち歩き

時代劇の中で、悪代官と悪徳商人が密会し、
「越後屋、お主も悪よのう。ハハハ。」
「そう言うお代官様こそ。フフフ。」
と言葉を交わす。いかにも在りそうな悪役設定です。実際に、こんな会話が交わされた時代劇が在ったのかどうかは定かではありませんが、少なくともお笑いの時代劇ネタでは定番のギャグであり、越後屋と言えば、誰もが思い浮かべる悪役です。しかし、それは時代劇やお笑いの中だけの話であり、江戸日本橋に在った越後屋は、現在の日本橋三越だと聞けば、誰もがイメージとのギャップに驚かれるのではないかと思います。

三井家の家祖・三井高利が三井越後屋呉服店を開いたのは延宝元年(1673年)のことで、当時のお店は現在の日本銀行付近に在りました。現在の日本橋三越本館の在る場所に呉服店が移ったのは天和三年(1683年)のことで、その隣には両替店が新設されました。この両替店は、道を挟んで三越と隣り合う、現在の三井住友銀行日本橋支店です。その様子は葛飾北斎の富嶽三十六景「江都駿河町三井見世略図」や歌川広重の名所江戸百景「駿河町」などに描かれており、呉服店と両替店の位置関係は、現在の三越と三井住友銀行の位置関係そのままです。三越の名は、三井の三と越後屋の越からとったもので、明治37年(1904年)に三井呉服店を三越呉服店に改組し、日本初の百貨店になってからのものです。

三井越後屋呉服店は、時代小説の中では、葉室麟著「乾山晩秋」(乾山晩秋に収録、角川書店)に登場しています(作品中では「三井呉服店」)。絵師・尾形光琳の弟、尾形深省は、思い掛けず兄と縁のあった女・ちえとその子・与市を世話することになります。勤勉な商人に成長した与市が反物を納めにいった先が三井呉服店で、三井の主人に気に入られた与市は三井の店に入ることになります。

また、葉室麟著「潮鳴り」(詳伝社)に登場する俳諧師の咲庵は、もとは江戸の呉服問屋、三井越後屋の大番頭を務めた人という設定です。咲庵は、俳諧師になるために身勝手に店を辞め、家族を不幸にした過去を深く後悔しています。一方、主人公の伊吹櫂蔵もまた、自らの失態の末に家督を譲った弟が切腹して果てるまで弟を顧みようともしなかったことを深く悔やんでいます。櫂蔵は弟の無念を晴らすために再び出仕することを決め、商人の世界を知る咲庵に助けを求めます。咲庵はその申し入れを一度は断るものの、昔の力を振るうことが家族への罪滅ぼしになると櫂蔵に説得され、申し入れを受け入れます。

 

※今回の記事は、2014年7月5日の記事に加筆したものです。 

 

[1] 参考:三井公報委員会ホームページ
[2] 三井ゆかりの神社:三囲神社

 

日本橋三越 東京都中央区日本橋室町1-4-1
東京メトロ銀座線・半蔵門線 三越前駅直結 

 

 


長徳寺

2015-08-22 | まち歩き

越後新発田藩の長徳寺については、2013年8月31日に当ブログで取り上げました。
今回の記事は、その時の記事に加筆したものです。

長徳寺は、越後新発田三ノ町(現新潟県新発田市大栄町)に在るお寺で、以前に御紹介した周円寺とは程近い位置関係にあります。創建は天正十三年(1585年)。新発田出身の赤穂浪士・堀部安兵衛の生家・中山家の菩提寺で、地元では、安兵衛が植えたとされる松が在るお寺として広く知られています。

現在の安兵衛手植えの松は二代目の松です。初代の松は、樹齢約300歳の大木で、幹には大きな洞(うろ)が在りました。小さな子供には、立派な枝振りよりも、何か出てきそうな、その洞の方が気になったものです。平成九年(1997年)に、老齢により惜しくも伐採されてしまいましたが、その実生から、現在の二代目の松が育てられました。

毎年8月13日には、ここ長徳寺でもお盆のお墓参りの日を迎えます。城下町新発田のお墓参りは他とはちょっと変わっていて、早朝に墓掃除を済ませ、日が落ちて暗くなってからお墓参りをします。地元では、それが当たり前なので、進学や就職、結婚等で新発田を離れて、初めて他とは違うということに気付く新発田っ子も多いようです。夜のお墓参りには、ぼんぼりを持参して、それをお墓の前に立てて、蝋燭を灯します。小さな子供の中には浴衣を着て、子供用の提灯を片手にお墓参りをする子もいます。お墓参りの静寂な雰囲気と線香の香りの中で灯る沢山のぼんぼりや提灯は美しいもので、故郷自慢になる風習の一つだと思われるのですが、地元の人にとっては、毎年の恒例行事なので、あらためて「幻想的だなぁ」と浸ることはありません。

最近は、少子高齢化のせいか、朝の墓掃除も夜の墓参りも昔ほどの賑わいはないように感じられます。昔は墓掃除に使う水を汲むのにも苦労するほど人が多かったですし、父親や祖父らに連れられて墓掃除に来る子供も多く見られました。夜の墓参りも、今よりも沢山のぼんぼりが灯っていましたし、お寺の鐘をつくには、長い列に並ばなければなりませんでした。今は水も楽に汲めますし、鐘もつき放題。待つ必要は無くなりましたが、反面、寂しさも感じます。

墓参りの後には、下町の新明宮隣のスギサキでかき氷を食べるのが定番だったりもします。スギサキは新発田では有名なかき氷屋さんで、お墓参りの日は、特別に夜間営業をしています。御先祖様も食べた新発田の味。御先祖様を家に連れ帰る前に寄り道をしたとしても、御先祖様に叱られることはないでしょう。

長徳寺は、池波正太郎著、堀部安兵衛(上)(新潮社)の中に登場し、主人公の安兵衛は、長徳寺の和尚から読書と習字の教えを受けるのが日課となっています。

 

長徳寺 新潟県新発田市大栄町2‐7‐22
JR羽越線・白新線新発田駅から約1.3km 徒歩約17分

 

右側の囲いの中に立つ松が二代目安兵衛手植えの松

 

8月13日の晩にお墓に灯されるぼんぼり

 

8月13日の晩の長徳寺。右側のシルエットが二代目安兵衛手植えの松。


本法寺

2015-08-01 | まち歩き

本法寺は、東京都墨田区に在るお寺です。文禄四年(1595年)に日慶により神田の地に創建され、慶安二年(1649年)に谷中に移転し、元禄二年(1689年)に本所の現在地に移り今に至ります[1]。古地図[2]には、霊山寺を挟んで、鬼平犯科帳シリーズ(池波正太郎著、文藝春秋)に度々登場する法恩寺の2軒北隣に描かれています。現在は、都心の寺社の多くがそうであるように、本法寺も江戸の頃と比べれば境内は狭まり、周りを住宅に囲まれるようになっています。しかし、法恩寺、霊山寺、本法寺の位置関係は江戸の頃とさほど変わらず、ほぼ同じままです。本法寺の墓所には、室町時代の絵師で、狩野派の二代目である狩野元信の墓が在ります。

本法寺は、時代小説の中では、「北町奉行所朽木組 隠れ蓑」(野口卓著、新潮社)収録の「木兎引き(ずくひき)」の中に登場しています。北町奉行所の定町廻り同心・朽木勘三郎は、知人に誘われて出掛けた先で、見慣れぬ鳥を捕まえます。将軍家に仕え、鷹狩の餌にするための小鳥を捕らえる者でさえ見たことのない鳥。勘三郎は、本法寺とは横川を挟んで西側に屋敷を構える旗本が、半年ほど前に鳥屋からその鳥を買ったことを突き止めます。

 

[1] 墨田区教育委員会設置看板、平成16年3月
[2] 本所絵図、文久三年(1863年)

 

本法寺 東京都墨田区横川1-12-12
東武伊勢崎線とうきょうスカイツリー駅から約900m 徒歩約12分