江戸観光案内

古地図を片手に江戸の痕跡を見つけてみませんか?

玉姫稲荷

2012-06-30 | まち歩き

ボクシング漫画・あしたのジョー(高森朝雄原作、ちばてつや画、講談社)の主人公・矢吹丈が、流浪の末に、後に所属するボクシングジムの会長・丹下段平と初めて出会ったのは、東京都台東区清川に在る玉姫公園でした。玉姫稲荷は、その玉姫公園の南隣に在るお稲荷様です。


京都伏見稲荷神社の御分霊を勧請して天平宝字四年(760年)に創建され、正慶二年(1333年)に、新田義貞が鎌倉の北条高時を追討した際に、ここで参拝し、戦勝を祈願した時に稲荷大神の像を瑠璃の宝塔に納めたことから、玉秘(玉ひめ)の名が起こりました。


玉姫稲荷は、池波正太郎著「鬼熊酒屋」(剣客商売(二)に収録、新潮社)の中で、秋山小兵衛行きつけの居酒屋「鬼熊」の頑固主人・熊五郎が、玉姫稲荷の境内で、病気を悟られまいと人目を忍んで粉薬を飲む場面で登場しています。また、池波正太郎著「密偵」(鬼平犯科帳(二)に収録、文藝春秋)の中では、玉姫稲荷裏手にある小さな百姓屋が盗人宿という設定で登場しています。


玉姫稲荷が登場するその他の作品

  • 池波正太郎著「五年目の客」(鬼平犯科帳(四)に収録、文藝春秋)

玉姫稲荷神社 東京都台東区清川2-13-20

地下鉄日比谷線 南千住駅より約800m 徒歩10分


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首ふり坂

2012-06-23 | まち歩き

上野・不忍池の西側を通る不忍通(地下鉄路線では東京メトロ千代田線の湯島駅から千駄木駅付近)は、東側を上野の台地に、西側を本郷の台地に挟まれた谷筋を走っています。二つの台地に挟まれた谷間なので、地名としては、この辺りを「谷中」と呼ぶようになったと言われています。もっとも現在の行政区でいうところの谷中は、上野台地の北側部分を指すので、「谷中」といっても、ほとんどが丘の上の高台です。要するに、地形的には不忍通が谷底で、そこから東に進めば上野・谷中の台地へ上る坂となり、西に進めば本郷台地に上る坂になるというわけです。


三崎坂(さんさきざか)は、そんな不忍通を谷底とする坂の一つで、東京メトロ千代田線千駄木駅近くから谷中の丘へと上っています。別名を首ふり坂といい、これは、その昔、近所に首を振る僧侶がいたことにちなみます。この坂を下りて千駄木駅を越した先に続く坂が以前に御紹介した団子坂で、首ふり坂とは不忍通を挟んで東と西に向かい会う位置関係になっています。


首ふり坂は、池波正太郎著「老盗の夢」(鬼平犯科帳(一)に収録、文藝春秋)の中で、首ふり坂に在るお寺に、年老いた盗賊・蓑火の喜之助が仮寓しているという設定で登場しています。また、池波先生は、「谷中・首ふり坂」(谷中・首ふり坂に収録、文藝春秋)という短編もお書きになっておられます。


首ふり坂(三崎坂上バス停) 東京都台東区谷中4-2-33

東京メトロ千代田線千駄木駅から約400m 徒歩約5分


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善光寺坂

2012-06-16 | まち歩き

善光寺坂は東京メトロ千代田線の根津駅近くから谷中の丘へ上る坂で、信濃坂ともいいます。坂の名前は坂の北側に在った善光寺にちなむものですが、善光寺は元禄十六年(1703年)の大火で類焼して、現在の表参道駅近くに移転したため、名前だけが地名として残りました。従って、江戸後期の古地図の中には善光寺の名前は在りませんが、江戸初期の古地図[1]には善光寺坂の途中に「センカウシ」と記されており、おそらくこれが善光寺のことだと思われます。現在の善光寺坂は言問通の一部で、大変車通りの激しい通りになっています。


善光寺坂は、池波正太郎著「谷中・いろは茶屋」(鬼平犯科帳(二)に収録、文藝春秋)の中に登場しており、坂を上りきったところには、同作品に登場する一乗寺と木村忠吾が怪しい数珠店・油屋を見張るために身を隠した上聖寺が実在します。


また、名前の由来となった善光寺は、池波正太郎著「剣客商売(十)」(新潮社)の「善光寺・境内」の章に、「宝永二年(一七〇五年)に、将軍・徳川綱吉の命によって青山に遷されたという。」との記述と共に登場しています。


善光寺坂が登場するその他の作品

  • 池波正太郎著「辻斬り」(剣客商売(二)に収録、新潮社) *一乗寺も登場しています。

[1] 元禄江戸図、元禄六年(1693年)/古地図史料出版(株)復刻地図


善光寺坂(上聖寺) 東京都台東区谷中1-5-3

東京メトロ千代田線 根津駅から約450m 徒歩約6分


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本性寺

2012-06-09 | まち歩き

本性寺は浅草の北、今戸に在る法華宗のお寺です。

剣客商売(池波正太郎著、新潮社)の主人公・秋山小兵衛の前妻であり、息子大治郎の母でもあるお貞の墓が在るお寺です。また、小兵衛の弟弟子で、大治郎の恩師でもある嶋岡礼蔵が仮埋葬されたお寺です(「剣の誓約」、剣客商売(一)に収録)。


本性寺の門をくぐると、左手に「秋山自雲」という方のお墓が在ることに気が付きます。剣客ファンならば、誰しも「秋山親子のモデルになった、剣の達人だろうか?」と先ずは思うところですが、実はこの方は侍では無く、各地の寺社に祀られる有名な痔の神様です。実在した人物で、痔病に苦しんだ後に亡くなったのですが、自分が死んだら痔病に苦しむ人を救いたいとの生前の誓願により、痔の神様として祀られるようになりました。名前の読みは「あきやまじうん」では無く、正しくは「しゅうざんじうん」と読みます。


池波先生が秋山自雲を意識して剣客商売の秋山親子を創作されたかどうかは定かではありません。しかし、池波先生の作品を拝読すると、読者が気付かないような細部まで調べ上げたうえで書かれていることが分かることからも、池波先生が主人公の妻の墓が在ると設定する重要なお寺に関わることとして、秋山自雲のことを知らなかったということは無いと思われます。古地図[1]には、本性寺の文字の脇には「秋山自雲神儀」と記されており、先生がこれを見落とすことは無かったはずです。また、先生自身が待乳山の生まれで、この辺りの地理には明るかったはずということからも、秋山自雲のことは当然知っていたと考えるのが妥当だと思われます。


[1] 今戸箕輪浅草図 嘉永六年(1853年)


本性寺 東京都台東区清川1-1-2

JR常磐線・地下鉄日比谷線・つくばエクスプレス 南千住駅より約1.5km 徒歩約19分

東京メトロ銀座線・都営浅草線・東武伊勢崎線 浅草駅より約1.5km 徒歩約19分


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真崎稲荷

2012-06-02 | まち歩き

剣客商売(池波正太郎著、新潮社)の主人公・秋山大治郎の剣術道場は、設定では、浅草の外れの、真崎稲荷明神社に近い木立の中に在ることになっています。試しに古地図[1]を開いてその場所を確認してみると、浅草寺の北の隅田川沿いに「真崎イナリ」を見付けることが出来ます。真崎イナリの北隣には「神明」が在り、近くの隅田川には「船渡場 向島エ渡ル」と記されています。この船渡場は、現在の白鬚橋辺りですから、大治郎の道場は、白鬚橋を西に渡り、少し行った辺りと言えます。


一方、真崎稲荷はというと、現代の地図上には、その表記は見当たりません。白鬚橋の西側には、石浜神社と橋場不動院の文字は在りますが、どちらも違います。「真崎稲荷は、江戸から現代へと至る、どこかの時代に失われてしまったのだろう。」 そう思い、真崎稲荷を探すのを諦めた剣客ファンもいるに違いありません。しかし、その予想は良い意味で裏切られます。実は真崎稲荷は前述の石浜神社内に遷座し、今も存在しているのです(現在の名称は真先稲荷)。現在地に遷座したのは、関東大震災後の都市計画によるもので、大正十五年(1926年)のことです。ですから古地図と現代の地図を比較して探しても見付からないわけです。古地図上に「神明」と記されていたのが石浜神社で、地元では今も「神明さん」と呼ばれ、親しまれています。


徳川家康が江戸に幕府を開く以前、この地には石浜城という城が在り、天文年間(1532年~1555年)に石浜城主となった千葉之介守胤が、ここに一族一党の隆昌を祈って築いた社殿が真崎稲荷です。江戸名所図会にも収められ、歌川広重の浮世絵にも数多く描かれる名勝でした。


[1] 今戸箕輪浅草図 嘉永六年(1853年)

[2] 参考:石浜神社ホームページ及びパンフレット


真先稲荷 東京都荒川区南千住 3-28-58

JR常磐線・地下鉄日比谷線・つくばエクスプレス 南千住駅より約1.5km 徒歩約19分


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石浜神社内に在る真先稲荷


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石浜神社