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全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

熊野古道 南部と田辺で学べ 4

2015年04月19日 21時40分13秒 | ウォーキング

「芳養(はや)」の地名は
よく難読地名に登場しますが
その由来はよくわかりません。

唯一資料に載っていたのが、
この地を流れる芳養川が流れの
「速い」川だったことから・・・云々
という記述を見つけましたが、
なぜそれが「芳養」という漢字に
なったのかまではわかりませんでした。

焼肉の「はや」も語源はこれなんでしょうか。
うまいもんはうまいけど、
わからんもんはわからん。

さて古道は井原川を越えた所で
分岐を右折、左折とカクカクと歩いて、



春たけなわの景色をキョロキョロ眺めながら
やがて松井橋に出ます。



地名は芳養ですが歩行はのんびりです。

これが「芳養川」です。



さほど速い流れのように見えませんでしたが・・・。

その先で道は42号に合流します。
そこが「芳養」の交差点です。



お、南東の隅に何か石が置かれています。



行ってみると・・・「南海道地震津波潮位標識」
と書かれてありました。



長い海岸線を持つ和歌山には
津波災害のモニュメントが多くあります。

湯浅には「稲村の火」という伝説も残っていましたし、
深專寺の前には津波のことを書いた石板も立っていました。

海南の手前には人々を呼んで
津波から助けたという「呼び上げ地蔵」もありました。

このシリーズの最初に出てきた鹿島の話も
津波に関係しています。

近々南海東南海地震の発生もいわれている中、
こういういわれや
4年前の東北大震災を教訓に
防災意識を持ち続けたいものです。

その交差点から海の方に向かったところにあるのが

「芳養王子」です。





彫刻と彩色の多彩に施した社殿を持つ



「大神社」という名の神社の中にこれがありました。



芳養王子社址と熊野古道紀伊路スタンプです。

例の熊野ブルーの案内板はありませんでした。
どういう基準で設置しているんでしょうねえ。

さあ、今回の歩行もあとわずかです。
神社のところから古道は左に折れ
南下していきます。

芳養の街道筋に入ってすぐのところに
善徳寺がありました。



境内にそびえる樹齢400年といわれる
ビャクシンが見所の神社です。

これ。



樹齢400年ということは
先ほどの津波潮位標識のところに書かれてあった
1600年代の大津波にも耐えて
生き残っているわけですね。

でもこれはこれまでに見たビャクシンと違って、
背が低く横に広がって育っています。

津波時のお助けにはなりにくいかもしれません。

その横には「弘法大師腰掛石」があります。



弘法大師といえば700年代から800年代の人ですから、
この石はビャクシンよりさらに
800年も前の石ということになります。

どーれ、doironも腰掛けてみましょう・・・
なあんてばちあたりなことはしませんよ。

そしていよいよ最後に
「芳養一里塚」を訪ねましょう。

この季節に早くも渡ってきたツバメが
たくさん飛び交う街道筋を
さらに南下していきましょう。




軒下にツバメの巣がいくつもある家です

これがその一里塚。



地元の人からは「塚の地蔵さん」
と呼ばれているそうです。

地蔵堂の前には、異様な形をした
でっかいエノキが立っています。



これも津波に耐えたのでしょうね。

さて、これで今回の区間は終わりです。
芳養の駅に行ってみますと、



南部への電車が出るまで45分ほどありますので、
遅い昼食にすることにしましたが、
食堂が見当たりません。

駅前でみかんを売ってたおじいさんに訊くと、
浜の方に行けばお弁当屋さんがある
とのことなので行くことにしました。

そして買ったのが、

このサンマ寿司。



これぞまさしく磯の味って感じで最高でした。
食べてから駅を少し探索。



するとホームの待合室の壁に
こんな絵が描かれてありました。



「芳養」だけに速さ比べをしている絵ですね。

そうこうしているうちにやってきた電車に乗ってみなべに戻り、

車で帰宅の途についたdoironなのでした。

みなべと田辺でいろいろ学んだ
このシリーズ終わり。


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