ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

加齢なるデビュー

2013年04月30日 21時30分35秒 | スポーツ全般

あれは初めてロングトライアスロンの宮古島に出場した時だ。
生きて帰れるだろうか、
フラフラになってゴールするんじゃなかろうか、
それぞれのトランジッションを
どんな状態で迎えるのだろうか、
それ以前に泳ぎきれるだろうか、
漕ぎきれるだろうか、
走りきれるだろうか。
と心配は尽きなかった。

当時ハーフのトライアスロンは
すでに経験済みだというのに、
ロングのそれは全く未知の世界であった。

なのでレースが近づくにつれ、
心配で、心配で。
レース前の1週間下痢が続いたほどだ。
そして、毎夜夢にうなされた。
それはたいてい150kmのバイクを終えてから
フルマラソンに移ろうとしても、
体が全く動かなかったり、
走るコースがわからないといった悪夢だった。

今も鮮明に覚えている懐かしい思い出だ。

そんな風に、目の前にめちゃ気になることが迫ってくると、
悪夢にうなされることの多いdoironなのだが、
最近、ここ一週間で3回くらい
同じテーマの悪夢にうなされたのだ。

それがゴルフ

実は、本日雨の中を
こもDクン、狭Mクン、首Dさんとともに
人生初コースに挑んできたのだが、
ここ数日、今日のその日が近づくに連れ、
黒雲のような不安にさいなまれていたわけだ。

ティーグランドに立ってみると、
目の前に池が広がっており
その真ん中にグリーンサイズの島があって、
そこに乗せないといけないとか、
海風に乗せて向こう岸の崖の上の
グリーンを目指すといった、
到底プレイ不可能なコースが
次々と夢の中に現れ、
途方に暮れるという夢だった。

プロゴルファー猿じゃあるまいしねえ。

しかし、その夢も多分しばらくは見ないで済みそうだ。
そう、今日、無事に
加齢なるデビューを終えて帰ってきたからだ。



しかしまあなんですな。
打ちっぱなしとコースじゃ全然違いますな。
ドライバーなんて1発も満足にあたらなかったもんね。
まあ、OBは1打しかなく、
右に左にぶれまくって、
山の中をあたふた探し回ることはなかった
といえば聞こえはいいけど、
それは距離が飛んでいないからだけのことなのである。

挙句に変に力が入っていたり、
ゴルフの球を打たずに
地球を打とうとしたりしたものだから、
終わって腕を見たら
まるでマイクタイソンの腕のように
見事に腫れ上がっていた。

まるで、投球後のダルビッシュのように
(かっこええように言い過ぎ?)、
今はひじをクーリングしまくっている。
凍傷になりそうなくらい。

ただひとつ、自分でも不思議だったのが、
初っ端のバンカーショットだ。

生まれて初めてにしては見事にクリア、
しかもグリーンオン。
あれだけはよかったな。
バンカーに入ったのはその1回だけでした。

しかし、後半の最後の方で、
一か所谷越えのコースが現れたときは、
最近見ていた悪夢がよみがえったぜ。



ただ、ゴルフは初心者にも優しい。
到底谷越えなんかできなくても、
谷ポチャのOBをすれば
4打罰でずっと前の方で打ち直せる
というのもありだもんね。
その方がよかったりしてね。

また途中、1ホールで16も叩いて、
ゴルフ用語で何と言っていいのか
わからないようなスコアもたたき出した。

さすがに、ダブルボギーや
トリプルボギーといった
プロの試合でもたまに聞くような
スコアが出た時はうれしかったけどね。

で、結局
午前中ハーフは雨の中を85叩き、
午後は雨上がりで80を叩いて
トータルスコアは165。

あのさあ、エイジスコアってあるよね。
年齢の数のスコアで上がること。

かなり難しいとのことなのだが、
doironの場合はタッパスコアでさえ
オーバーしちゃいましたよ。

こうなったら体重80キロで
スコア80という、
ウエイトスコアを目指しましょうかね。

それにしても、ほんとにゴルフは
至れり尽くせりのスポーツだ。

約1万円でロッカールームあり、
昼食あり、
プレイ後の風呂ありやもんね。

同じ一万円でも
マラソン大会の一万円と
サービスが雲泥に違う。

マラソンでは大会済んでも、
よくてシャワーだし、
荷物はトラックで積み上げられて運ばれる。

ゴルフは気持ちのいい風呂に入って、
荷物も帰りの玄関まで運んでくれているもんね。

それにね、雨が降ってなかったら、
新緑の中で鳥の声を聴きながら、
パシッと遊ぶのはさぞかし気持ちいいだろうと思う。

ただし、パシッと打てたらやけどね。

次回は夏にしようと狭Mクンが言ってたな。

ひじの腫れがひいたら、
ちょっと真面目に打ちっぱなしに行きましょうかね。

それにしても
こんな私に付き合って、
気長にいろいろと教えていただいたみなさん、
どうもありがとうございました。

今回の加齢なるデビューは
一生忘れないでしょうね。

またよろしくお願いします。


街道歩きと焼肉

2013年04月29日 21時34分20秒 | 最近の出来事

またまた紀州街道シリーズ中断です。

今日は堺シティマラソンが
堺市の大仙公園で開催されました。
この大会は今から25年前に
doironが初めて10キロの
レースに挑んだ大会でした。

以来、毎年4月29日に開催され
最近は、kaisanをはじめ
いろんな人たちのお世話で
ここでの大会後のBBQが
恒例行事となっています。

今年もこのBBQに参加&お手伝いすべく
参加してまいりました。

仲間たちとの大好きなBBQ大会。
楽しくないわけがありません。
しかし、ただ参加するだけでは
最近のdoironらしくありません。
で、考えたんですが
丁度都合のいいことに
この公園の近くを
熊野街道が通っています。
しかも、まだ歩いていない篠田王子から
北の部分で数時間かけて
歩いて行けばたどり着くという
またとない好条件。
街道歩きとBBQをまとめて楽しめるという
今日のこの日を逃す手はありません。

早朝に家を出てBBQ会場まで
熊野街道を歩いて行けばまさに

一石二鳥

と目論んだところまではよかったのですが
実は先週、歩き過ぎなのか
足底筋を傷めましてねえ。
慣れない運動を一気にしてはいけませんね。
歳も歳だし。

そこで、明日にはゴルフとそしてもう一日
GW中にビジネス街が休みなので
道路もすいているだろうと想定される
大阪市内の街道を歩くのを
計画していることもあり、
大事をとって、今日はバイクを漕いで行くことにしました。

でもまあ、予習の意味も兼ねて
街道をバイクで行ったんですがね。

そんなわけで
GWの29日、今日は楽しいBBQと
バイクライドの一日となった次第です。

内容ですか?

今日はBBQで酔ってるのでこれくらいにしときまふ


デビュー間近

2013年04月28日 21時17分43秒 | スポーツ全般

今日も街道話はちょっとお休みです。
なにせ世間はGW。
普段は一人で遊んでいることの多いdoironも
この時ばかりは友達も休みなので
いろいろとお誘いやらイベントやらが
ありますので勘弁してくださいね~

今日は、昨年くらいから、
ぜひやろうと誘われているスポーツである

ゴルフの話。

これまで自慢じゃないが
打ちっぱなしも6~7回しか行ったことがなく、
ましてやコースに出るなんぞは
10年早いくらいに思っていたのに、
強引に日にちを決められて
ついについにデビューをすることになった。

それは4月30日、

つまりあさってなのだ。

おそれ多くも本コースに連れて行かれるという。

「みんなに迷惑をかけないだろうか」、
「ロストボールを探しに行って迷子にならないだろうか」、
「人のボールを蹴ったりしないだろうか」、
「玉よりもクラブが遠くに飛んでいったりすることはないだろうか」
「ホールインワンしたらどうしよう」
などと心配の種は尽きない。

そんな恐怖に恐れおののくdoironの気配を察してか、
よもや敵前逃亡はないだろうなと心配になったのか、
最近周りには強烈な包囲網がはられている。

まず、こもDクンが
「本当に来るんじゃろねえ」
と木曜のエイに念を押しに現れた。



「行くよ、行くよ、行きゃあいいんやろ」
というdoironの意思を確認し、
「しめしめ、これで今までマラソンで
大きい顔をしていたdoironに、
今度はこちらが大きな顔ができる」
と内心大喜びしているのだそうだ。
うれしそうな彼の顔がそう物語っている。

何せ彼は今や年間40日はコースに出ている
というツワモノなのである。
きっと目にもの見せられるに違いない。

そして、いつものエイメンバーの首Dさんの包囲網も強烈だ。

まず、おさがりのクラブをワンセットいただいた。



この武器で戦いなさい、ということだろう。

そしてさらにいただいたのが、これ。



これに必要な装備を詰めて戦地へ赴きなさい、
とまあそんなところだ。
ありがたいことではある。

まあ、もうこうなったら腹をくくるしかあるまいて。

さっそく、新聞のチラシを見ながら
近所のゴルフショップに足りないものを買いに行った。
まず、靴である。

「ホールインワンのできる靴をくれ」というと、
「そ、それは無体な」と拒否された。
「では、石川遼クンと同じのをくれ」
と言おうと思ったが、
高そうなのでやめることにし、
広告の品と書かれて
積み上げられてあるのを選んだ。

みるとスパイクレスと書いてある。

むむむ?これでいいのか、
スパイクなしで滑らないのか
(滑ってもあまりかわらんかも)
と思ったので、さっそく遼クン、
じゃなかった首Dさんにメールで確認すると

「それを買いなさい」とのこと。

ということでめでたくお買い上げとなったのがこれだ。



なんと1970円のお値打ち価格。

あと、グローブはトライアスロン用のバイクグローブが、
けっこうしっくりくるので
それを使うことにした。

では、ロストボールでも買っておくか、
と思ったらこれが意外にもかなり値が張る。

店員を
「もしもし、君、君、少し教えたまえ」
と呼び止めて聞いてみた。

なにせゴルフは紳士のスポーツなのだから
言葉づかいも大切なのである。
ジーパンに雪駄姿でしたが・・・。

で、店員に言わせると、
なまじロストボールよりも、
安物の新品の方が安いよという。

ぶ、無礼者!
そのため口の話し方は何だ。

doironを何と心得る。

などとは言うはずもなく
教えてくれてありがとうと言う感謝の気持ちをこめて
迷わずそちらにすることにした。



15個入りボーナスパック1000円だ。

よしよしこれで概ね道具は整った。
あとはもう腕次第である。
やるべきことは全部やった。
打ちっぱなしも3回行ったもんね。
あとしていないことといえば、

バンカーショットと
ラフショットと
パターと
アプローチと
スプーン以外のドライバーと
7番と9番以外のアイアンショット
ぐらいなもんである。えへん。

え、それじゃほとんど全部やってないやんて?

そ、そうかもしれんね。

でももうここまで来たら、
じたばたしても仕方がない。

首Dさんに読んでおくようにと言われて
渡されたこれを読んで、



30日早朝に心静かに1番ホールを迎えるのみなのである。


連れもて歩こら、紀州街道2

2013年04月27日 21時33分59秒 | ウォーキング

春木地区のだんじりで有名な弥栄神社を出ると、



街道は岸和田の中心地へと進んでいきます。
春木のあたりも古い家並みがところどころで見られます。



街道沿いの家には、
先日浜街道でみた虫籠窓(むしこまど)も見られます。
(鍾馗さんは見かけなかったけど)



ああ、こんなごみ箱も懐かしい~。
ただ、他の街道と違うのは
だんじり小屋や
公民館周りのだんじり関連掲示などの
景色が多いことでしょうか。

それはまたあとでまとめて紹介するとして、
この街道は、他の街道とも随所で交差します。

この春木元町の交差点からは、
牛滝街道が始まってます。



矢印方向が牛滝街道

そんなこんなを眺めながら、
永守橋を渡ると



またまた古い街並みが続きます。





そして新しい家も
街道沿いにあることを
かなり意識して建てられているんやね。
街道沿いに住む人も大変だ。

臨海に至る府道との交差点を過ぎると、



次に現れてくるのがかんたい橋です。



今度、我が町の法被を注文する店のすぐ隣です。
水は流れていないのですが、
名前の入った橋柱が

「岸和田煉瓦(略して「岸煉」)」

の社章である×印が刻まれた煉瓦塀と
あわせて残されています。



岸和田の中心部はこんな風に、
歴史的な遺構などの保存には
結構力がそそがれているようですね。

またまた、臨海に続く道との交差点に出て、
そこを渡って街道部分に入る入り口が小さな橋になっていました。



そこも水が流れているわけではありません。
菊右ヱ門橋と書かれてありました。
昔、岸和田城からの地下の抜け道が
この近くまで通っていたといわれている橋です。

川は暗渠になって、橋の欄干だけが残されているようでした。



こうして残している心意気が、
ただ単に歩く楽しみ以外にも
好奇心を刺激してくれてありがたいもんですね。

この後も登録有形文化財などの
古い建物が次々と現れます。

まずはこれ。


正面入り口の2階分の半円アーチがおしゃれな
「旧和泉銀行本店」です。

垂れ幕はメッシ?
ちょっと若いような気がしますが?

そして次はこれ。



昭和10年に建てられた旧岸和田貯蓄銀行跡の

「岸和田中央会館」です。

それにしても銀行は
半円アーチが好きなようですね。
丸いコインを意識してる?
それとも扱っているのが「円」だから?
何となくお金を連想させるからでしょうかね。

この建物、今は「かじやまち」という商業協同組合の
事務所兼店舗として利用されています。

そのかじやまちのレトロでおっしゃれな
商店街が紀州街道に接しています。

それがこちら。



そして、こういう古い建物群の中で
一番目を引く場所に建てられているのがこれ。



欄干橋の南にある「旧四十三銀行岸和田支店」。
今も金融機関として使われています。
ここでは半円アーチはありませんでしたが、
壁にギザ10のような
丸いコイン状の装飾があります。

ところで、この建物が見えるのが

「欄干橋」であると紹介しましたが、

それがこれ。



岸和田の橋といえばこの橋ですねえ。
だんじりコース上にあるので
よく知られています。
この近くには、紀州街道の案内の石柱もありました。



この先、街道はカクカクッと何度か直角に曲がります。
それはお城が近くなってきたからで、
昔の戦法上、
城下をまっすぐ攻め込めないような作りに
してあるそうです。

だいたいお城の周りの城下町では
そんな道になっていることが多いようです。

右手に平成7年にできた
立派な建物である

「きしわだ自然資料館」

が見えてきます。



入ったことはありませんが、展示は立派だそうです。
でも、doironがこの資料館で知っているのは

「ちりモン」の観察会

をしていることです。

ちりモンとはちりめんじゃこの中に入っている、
タコの子どもやカニの幼生などのことで、
それをちりめんじゃこの中から
虫眼鏡を使って選び出し、
同定するというものなんです。
面白そうでしょ。
一度やってみたいなあと思っています。

さらにくねくねと進みますと、
こんなところに出てきます。



ここを左に曲がればこなから坂を上がって岸和田城です。
岸和田のだんじりの宮入コースです。

岸和田城は、この街道沿いで
唯一天守閣の残っている城ですね。

そしてそのこなから坂の始まりには、
岸和田市の道路元標もあります。



そうそう、元標といえば、
先ほどの欄干橋も
昔は元標だったそうです。

「ここは欄干橋から何里」みたいな
基準点になるほど、
その橋は広く知れ渡っていたんですね。

街道はまだ南下していきますが、
ここでちょっと寄り道して、
次回は岸和田城周辺を歩いたお話となります。


春の小川はさらさら流る

2013年04月26日 21時33分19秒 | 自然

始まったばかりの街道新シリーズですが
しばらくはイベント目白押しなので
とぎれとぎれになることをお許しください。

今日も、急きょ和歌山へ出かけましたので
一旦街道話を離れて
ちょっとそのことを書きます。

定期的に和歌山は御坊にある
実家跡の点検に出かけている。

今日も、向こうにある細々したものの整理と
庭の雑草状況の確認に出かけた。

阪和自動車道は最近のトレイルで
すっかりおなじみの高速道路だ。
途中、先日、殿尾山トレイルで出かけた
新滝ノ池の駐車場も見えていたし、
徘徊した稜線の鉄塔などを横目に
新緑の中を御坊に向かった。

そしてなおかつ、この高速道路の近くを
ジグザグと熊野街道も通っている。
通いなれた高速道も、
そうして最近の生活と照らし合わせれば、
また新鮮な感じで見えてくるもんだ。

桐の花や藤の花、
そしてモチツツジなどの紫に
彩られた新緑の中を、
今日ばかりはテクテクではなく
ビューンと車で駆け抜けたのであった。

御坊に行くのは先ほども書いたような理由なのだが、
実はもう一つ大きな目的がある。
それは、

メダカ捕り

メダカの学校は川の中~

と童謡でおなじみのクロメダカだが、
最近は水質悪化や河川環境の変化により
急激にその数を減らして、
2003年には絶滅危惧種に指定されている。

そのことは、昔から童謡などで親しんできた日本人にとって、
少なからず衝撃であったため、
以後各地で保全活動が行われてきた。

しかし、残念ながら
ただ単に放流すれば増えるというものでもないし、
観賞用のヒメダカを放流したらいいというわけでもない。

愚かな活動ではメダカではなく、
近縁種のカダヤシを放流したなんてこともあったそうだ。

また、真剣に保護をするのなら
遺伝子レベルでの交雑にも配慮すべきだろう。

関東、北陸、関西のメダカでは遺伝子が異なっているのは周知の事実だ。

ただ単にクロメダカを持ってきて放流というのでは、
あまりにも安易な保護活動と言わざるを得ない。

メダカが生き残れる自然環境が
少なくなっていること、
外来種がのさばっていること、
人の手による交雑が著しくなっていることなどから、
メダカを取り巻く環境はますます厳しいといわざるを得ない。

そんな中、メダカを捕獲することは
保護に反するではないかというと
あながちそうとも言えない。

きちんと生育環境を整え、
種を絶やさないように
飼育を続けるということもまた、
一つの保護の形であろうと思っている。

実際、doironの周りには趣旨に賛同して
メダカを飼ってくれている人も多く、
たまに個体を交換して
血の分散を行いながら、
増やし続けている。
そしてさらに、今回のように出かけて行って捕獲しては、
同じ地域の新しい個体も補充している。

もし和歌山で保全活動に必要とあらば
そしてそれが有効な保全活動だと
判断出来たら、いつだって差し出してあげようと思う。

実家近くの、捕獲している小川の環境は実にすばらしく、
適度に養分もある上に、
時期が来たら田んぼの水面と
川の水面がつながるという、
絶好の環境。
この環境がないとメダカは繁殖しないのです。
このままの環境を維持できるのであれば、
当分そこのメダカは絶えることなく
生息し続けるだろうと思う。
その数もハンパなくいるしね。

ただ、心配なのは農薬です。
まさにうじゃうじゃと言っていいほどの数のメダカも
農薬が流れたらそく絶滅でしょう。
そんなことのないように願うばかりです。

捕獲は、網を藻などで狭くなっている水路に設置し
数メートル先から追っていきます。
そうしたら、まさしく

一網打尽

一回の捕獲でこれだけの個体が
網に入ります。



一尾だけ、フナの子供が混じってました(矢印)

もう一人のメダカ仲間のために
これを二回繰り返し
車で慎重に連れて帰ったよ。

文部省唱歌 「春の小川」

2番はこんな歌詞です。

「春の小川はさらさら流る。
蝦やめだかや小鮒の群に、
今日も一日ひなたに出でて
遊べ遊べと、ささやく如く。」

いっぱいささやかれたdoironでした。


連れもて歩こら、紀州街道1

2013年04月25日 21時06分50秒 | ウォーキング

2日続けて街道についてのお勉強をしたところで、
では実際にまた街道を歩いてみましょう。

次に歩いたのは、
以前大津川の楯並橋まで歩いたところで止まっていた
紀州街道の南下です。

4月だというのにめちゃ寒い日があったりしたでしょ。
だから、天気がよく、
暖かい日を見計らって
街道歩きを再開することにしました。

歩き始めるまで少し日にちもあったので、
もちろん地図作成とともに、
ネット、文献等の資料による予習も行いました。

スタートは午前8時50分。
通勤や子供の通学も一段落し、
世間が普通に動き始めるころですね。

で、歩き始めからいきなり予習をした地点です。
大津川の楯並橋を渡ります。
これ。





大津川にかかる最下流の生活橋とも言えるでしょう。

橋の北詰、すなわちスタート地点には
珍しい千手観音の地蔵さんがあります。





いわれ等は見当たりませんでした。

そして橋の上から見ると上流側には府道に架かる大津川橋、



下流側には臨海道路に架かる大津川大橋と、


交通の幹線ともいえる橋が架かっています。

楯並橋はそんな二つの橋の間にあって、
紀州街道の橋だということを
ちゃんと意識した装飾もなされていました。



そう、参勤交代の道中の様子です。
欄干に刻まれていました。

そしてこの「楯並橋」の名前にも、
いわれがあり、
それは「忠岡町」の地名の由来とも重なっているわけです。

そのいわれはこうです。

源平合戦の時、
平忠行がこの橋のところで、
家の戸板を楯のように並べて、
源氏と戦いました。

それゆえこの橋が「楯並橋」と呼ばれているのだそうです。

戦いは残念ながら源氏に破れ、
忠行は討死しました。
その時その死を悲しんだ地元の人々が
忠行を埋葬し
そこに丘を築いて

「忠行の丘」

と呼んだのが、
後に「忠岡」と呼ばれるようになったといわれています。

残念ながら、その丘の場所については
記述を見つけることができませんでした。




楯並橋を後にし、
街道らしく微妙に曲がった道を行くと、
送電線の鉄塔が道の真ん中に立っている


臨海に通じる道路との交差点に出ます。



その行く先の方向に、何やら灯籠も見えているようです。
それがこれ。



やたらと犬の小さな置物が置かれてありましたが、
灯籠の素性については見当たりませんでした。

次にこの街道で注目すべきなのは、
忠岡小学校から
少し東に入ったところにある

「永福寺」

です。
なぜ注目かといいますと、
このお寺は、楠木正成の菩提を弔うために、
安明兼孝が建立し
(今も境内では「安明医院」という医院が営まれています)
蓮如上人が改宗したもので、
庭に5本の大きな「びゃくしん」の樹が植わっています。

樹齢1400年ともいわれるこの木は、
その長い年月を耐えに耐えてきたように
ねじ曲がりつつも、
強烈な生気を放っており、
大阪緑の百選にも指定されているそうです。
その姿がこれ。



幹の曲がりはこんな風になってます。



樹の叫びが聞こえてきそうですねえ。

この寺を後にし街道に戻れば、
早くも忠岡町の区域を出ます。
さすがに日本一小さいまちを
売りにしているだけのことはありますねえ。

次は岸和田市域に入ります。

大きな府道を横切り、



上大芝橋を渡ると、



前方左手にこんもりした林が見えてきます。



それが八幡山公園です。



このあたりは
今でこそ海の方向はかなり沖まで埋立てられていますが、
ずっと昔はすぐ西に海岸線が迫っていました。
その時に砂丘を形成し、
背後にある弥栄神社の防波堤にもなっていたのが
この八幡山だといわれています。

歩いた時は大勢の高齢者がこぞって掃除をされていました。
地元の人に大切にされている公園なんでしょう。

そして、先ほども名前が出ていた弥栄神社の参道が
このお山の北側から続いています。



紀州街道の今回歩いた部分を語るときに、
だんじりを抜きに語ることはできません。
紀州街道沿いでは、
ほとんどの地域にだんじりがあります。
実は先ほどの忠岡町にもだんじりがあります。

そしてdoironも泉O津市の
だんじりファイターです。

昨年は、連合の年番長も務めましたし、
今年は自町の総括責任者も拝命しております。

紀州街道とだんじりは切っても切れないもので、
そんなだんじりのことは、
このシリーズの後半部分で
まとめて書こうと思っています。
関係者の目から見た
ちょっとコアなだんじり話も用意していますので、
ご期待ください。

弥栄神社を出たのは歩き始めてまだ40分くらいの頃でした。

続く


旅装束など

2013年04月24日 21時41分29秒 | ウォーキング

前回、街道を歩く向きのことについて書きました。
そこで、今回は現代と昔の
街道歩きの違いについて書いてみましょう。

現代の街道歩きでは、
区間を定めて
その始点までと終点からを
電車やバスで行き来する
という方法をとれますから、
言ってみればどの方向に歩くことだって
ほぼ可能です(バスの時間の制限などはありますが・・・)。

でも、それは本来の昔の街道歩きではありません。

当時の街道歩きはいわゆる旅だったわけですから、
家を起点に歩き始め、
目的地で折り返して帰ってくるというのが基本です。

途中で一旦帰って、
後で続きを歩くなんてことは当然なかったわけです。

現代と昔の街道歩きの違いはそういうところです。
で、その違いがどういうところに表れるかというと、
まず装備に顕著に表れます。

doironの場合は、
今の季節ですと
ウインドブレーカーとストレッチパンツ、
ウォーキングシューズ、帽子にサングラス
といういでたちです。



リュックには水とちょっとした食料、
雨具、地図、筆記具、タオルなどが入っています。

そして、ポケットには財布と携帯と活動量計といったところです。

しかし昔の人はといいますと
ウインドブレーカーなどは当然ありませんし、
足下も草鞋(わらじ)です。

長旅でしかも気候も変動することに配慮した服装を
よく考える必要があったでしょう。

持ち物も、途中での調達も難しければ、
あらかじめ持っていく必要がありますが、
軽さを基本にしなければならなかったはずです。

で、当時のそんな旅の姿、
旅装束はどんなだったのか、
気になったので調べてみました。

東海道53次や富嶽36景などの名所絵を見てみますと、
当時の旅人は
だいたい菅笠に合羽、手甲脚絆に股引、
わらじに振分荷物といったいでたちが
標準的な旅姿だったことがわかります。

で、さらにもう少し調べてみますと、
江戸時代には

「旅行用心集」



「道中案内記」

などが
書かれていたことがわかりました。

まず、「旅行用心集」では、
旅に出るときは持ち物をできるだけ少なくすることを前提に、
「道中所持すべき品の事」として、
裁縫用具や火打ち道具、
びんつけ油など細かく記されています。

また「道中案内記」では
着替えの衣類(着物1着・下着2~3着)、
脇差(道中差、女は懐剣)、
頭巾(または笠、女は市目笠)、
三尺手拭、扇子、矢立(筆記用具)、
鼻紙、草履(草鞋)、財布、
道中記・・・などを小物篭に入れて包み、
肩から振り分けにして持参すると良い
と書かれてあるそうです。

これらのことから
当時の旅装束がだいたい類推されます。

熊野街道の中辺路にある
牛馬童子像は花山上皇の旅姿だと
言われておりますが
やんごとなき人と一般の旅人とは
かなり違っていたようです。

そしてさらに、旅の途中のことも
いろいろとわかるみたいです。

例えば、下着は着替えを2~3枚持ち、
洗濯しながら旅をしたそうです。

途中の小川や池で洗い、
固く絞って油紙に包んで持ち歩いたとか。
どんな洗濯洗剤を用いたんでしょうね。

あるいは、昼飯はたいていヌキで、
茶店の団子などで済ませたとかも
わかっているそうです。

歩く距離は一日30~40キロなので、
それでお腹がよく持ったものです。

それにわらじで歩いていたので
足は大変だったでしょうねえ。

とまあそれはまだ恵まれた旅の様子で、
伊勢参りなどの貧しい庶民もこぞって歩いた旅なんかでは
無銭旅行も多かったようです。

無銭旅行のしるしは、
クルクルとまいたござに柄杓を指して歩く姿だったそうです。

ござは雨除けだったり、
それにくるまって寺や神社や橋の下で寝泊まりしたとのこと。
街道ぞいに多くあるお寺や神社は
そんな役割も果たしていたんですね。
そして柄杓はそれで川や池の水を
すくって飲むための物だったそうです。

また、無銭旅行ですから、
食べ物なんかは、
今も沿道の人々がお遍路さんに親切にするように、
ござと柄杓を旗印にしてお詣りする旅人にも
親切な施しがあったんだと書かれてありました。

いずれにしても、
今の街道歩きとは全く違ったスタイルの
旅であったことに変わりはありません。

恵まれた現代の旅をありがたく思いつつ、
いにしえの人々の姿にも思いをはせながら、
街道を歩けば
また違ったものが見えてくるかもしれません。


往路?復路?

2013年04月23日 21時37分24秒 | ウォーキング

トレイルから頭を切り替えるために
街道歩きについていくつか考えてみましょう。

まず、街道をどちら向きに歩くか。
これはどっちでもいいように見えて、
実は結構重要な選択であったりします。

例えば熊野街道であれば、
熊野に向かう方向を往路、
熊野から帰る方向を復路としますと、
それらは同じ道に見えて、
実は異なる道なのかもしれません。

街道案内などはたいていは往路を紹介しています。
往路さえ押さえておけば、
復路は旅人も経験済みなので
案内不要ということなんでしょう。

しかし、目的地に向かう人々の見る景色や味わう旅情と、
帰る人々のそれは違うはずです。

例えば、道標の位置や向き、
刻まれた言葉が往路と復路とでは異なっていたりします。

往路では見えていた道標も
復路では物陰になっていて、
近くに行かないと存在すらわからなかったり、
刻まれてある言葉が
往路の目的地までのことしかなかったりもします。

また、往路は見晴らしの良い高台からの下り道も、
復路にはつらい登り道であったりします。

もっとも旅人の心の奥深くまで推察すると、
お詣りに向かう気持ちは切羽詰まっていたり、
高揚していたり、
お詣りを終えて帰る気持ちは、
祭りの後の寂しさを感じていたり、
あるいは充実感で満たされていたかもしれません。

そう考えると、1本の街道も
往路と復路とでは
旅人にとってはかなり違ったものであったはずです。

景色も気持ちもです。

とまあ、これは目的地を定めて
どこかへお詣りにいくための街道の場合です。

街道には他にも、
往路にも復路にも目的がある場合もあります。

参勤交代で江戸に向かう道と
その逆方向で熊野に詣でる道が
往路復路になっている紀州街道なんかがそうでしょう。

また、主に人々の往来に使われた道
というのもあります。

街道をより楽しく、
そしてより深くいにしえに思いをはせながら歩くためにも、
その辺のことはいつも頭の片隅に
置いておかねばならないなと、
次の旅を画策しながら考えているdoironなのでした。

次回は街道旅の装束について
考えてみます。


殿尾山は、どのお山?後編

2013年04月22日 21時31分06秒 | ウォーキング

アスファルトの道が行きつくところ、
そこが二つの池を越えた
登山口ともいうべきところです。

そこでは道も2本
(厳密にはダム湖沿いの道を入れて3本)
に分岐しています。
左に伸びる1本は明るく、歩きやすそうな道。



そしてもう1本は右の暗い山の中に入っていく道。



しかもそこにはこんな看板が・・・。



ついつい左の道を選んでしまいそうですが、
正解は右の道です。
道の両側が私有地なので、
道をそれずに入山しなさいということでしょう。
小さな橋を渡ってすぐ、
右の樹にこんな案内があります。



そこから上を見上げますと、
樹に赤いテープが
点々とつけられているのが見えます。
それが最初の急登の始まりです。

えっちらおっちら登っていき、
稜線に出たところにはこんな看板があります。



有終の美って・・・

その看板に沿って、
こんな稜線の道を歩いていきますと、



やがてすこしガレているこんな場所に出ます。


さすがにかなり標高を稼いだここからの
眺めはなかなか素晴らしかった。
ここへ来るまで越えてきたダム湖の向こうに、
遠く関空もかすんで見えていました。

そしてさらに進んでいく道には、
こんな獣のフンがたくさん落ちています。




食事中の方はごめんなさい
ていうか、パソコン見ながらの食事はやめましょう

しかし、こんな山の中で
ここまで誰にも会わずに登ってきたので、
獣の痕跡というのは少々気になりますね。

熊取に近いし・・・
熊はいなくてもイノシシ出そうだし・・・
イタチにかじられそうだし・・・
ツチノコ踏みそうだし・・・

と思ったところで、
道の脇で、ガサガサっと大きな音がしたのでびっくりしました。

同時にバサバサという羽音もしていたので、
キジかツツドリといった大型の鳥だったのでしょう。

ウヒョーと、肝を冷やしました。

次回は生き物除けにカウベルをつけてきたほうが
いいかもね。

歩き始めてちょうど1時間で、
最初の目標にしていた鉄塔に到着しました。

そこにはこんな標識もありました。



水を一口飲んだだけで
ほとんど休憩をせず、
引き続き殿尾山を目指します。

主稜線を歩くと、
顔に蜘蛛の巣がまとわりついてくるところをみても、
ほとんど人が通らないことがわかります。

杖になるくらいの枝を拾って、
顔の前を掃いながら歩きました。
でも、不思議やね。木の枝を振り回してたら
歌を歌いたくなるのは何故でしょう。

森のくまさんを歌いながら
(あかんあかん)
鉄塔から5分で少し広いところに出ます。
そこにはこんな標識がありました。



現地点てどういうこと?
鞍部だし、何も見晴らせないし
本当の殿尾山は、どのお山?
と、お~っとここで
タイトル文が登場です。

見ると右に少し登っていく道があったので、
三角点でもあるかと行ってみたところが、
そこにありました。
これが殿尾山の山頂です。



尾根道からは少し離れていたようです。
標高は370m。
ただし、ここも見晴らしはよくありません。
木に囲まれています。
写真撮影をしてすぐに離脱しました。

そこからもと来た道に戻り、
右折してさらに進んで行きます。

そしてやがて大山分岐にたどりきます。



そこを左折して、
大山経由で降りようとしましたが、
道が荒れているのに加えて、
赤テープのしるしもはっきりせず、
迷いそうなので、
しかたなくもと来た道を引き返すことにしました。

ガイドブックには整備されていると
書いてあったのになあ。
やはりこういう山のガイドは最新のを
見ないといけませんな。

単独行の場合、道がわからなくなるという
こんな局面では非常に不安になります。
でもここであわててはいけません。
迷いながらも慎重にコース取りをし、
なんとか元来たコースに戻ることができた時は、
正直ほっとしました。

下りていくのと上がるのとでは、
違う道をとってしまう可能性が大きいからです。

元の主稜線を
こんな看板を見ながら



先ほどの鉄塔下まで戻りました。
ま、ま、ま、マッタケが生えるのね。

そこでマッタケのにおいをおかずに
(ないない)おにぎりの昼食をとり、
あとはもと来たガレ場、
急こう配の下り、
二つの池を順番に越えて
駐車場に戻ったdoironなのでした。

全行程約9.5km、
13200歩の徘徊でした。
要した時間は2時間半。
久々に1メガカロリーを消費しました。



早春のトレイルはほんとに気持ちがいいですね。
これでもっと走れたら
さらに世界が広がるのだが、
ま、そのへんはぼちぼち行くしかあるまいて。

山はこの辺にして
またこのあと徘徊親父は
街道歩きに戻る予定です。


殿尾山は、どのお山?前編

2013年04月21日 21時12分42秒 | ウォーキング

浜ちゃんにそのコースの存在を教えられ、
地図を引っ張り出して調べてみました。
泉南のお菊山周辺の山々は、
手軽でしかもかなりおもしろそうな山です。

泉南といえば、見晴らしのいい砂のガレ場が多く、
コースの取りようによっては面白い山行が
期待できるところです。

大都市近郊にあって
かなりおもしろいと思うのですが、
それほど騒がれることもなく、
今日に至っているのは
ひとえにPRが足りないということでしょう。
地元の自治体さん、
高齢化社会を迎えるにあたって、
医療費削減のためにも
こういった里山コースをどんどん宣伝して
山に行ってもらい、高齢者には
健康でいていただきましょうよ。
さすれば、doironが山に行く時も
まったく人に会わないなんてこともなくなり、
安心して歩けるのですがね。

今回のコースも解説では
ガレ場があるとのこと。
しかもガイドブックには
「馬の背」なる言葉もあり、
両側が急に落ち込んだ
細い尾根道があるようなことも
前回熊取の時に紹介した本に
書かれてありました。

そこで、滑って転倒、悪くすれば滑落、
なんてことのないように、
滑り止め機能の付いた靴を購入・・・するわけにはいきません。

なにせ質素倹約ですから。

そこで、既存の靴を改良することにしました。
従来からある、靴底修理の道具を使っての改良です。
用いたのは、これ。



どうしても片減りする靴底の減った部分に、
このチューブの中の練物を塗り、
それが乾くと靴底が簡易に再生されます。
それをハサミなどで整形したら、
片減り解消という代物です。
月刊400~500キロを走っていた頃は、
アッパーはきれいのに底だけすごく減る状態でした。
底だけ減っただけで
頻繁に靴を買うのももったいなく
この靴底補修材には大変お世話になりました。
それを、今回は靴底の補修ではなく
スパイクのような状態になるよう
ピンポイントで靴底に盛っていくのです。
場所は、滑り止めのために有効と思われる、
かかと部分に重点的に塗りこみました。

こんな感じ。




これの効果を見ることも、
今回の山行の目的の一つでした。

結果は・・・ないよりましって感じですかね。

何はともあれ、天気のいい日を選んで、
その泉南の山に出かけてみました。

地図ももちろん必要部分を
あらかじめ拡大コピーしたものを持っていきました。
これだと、書き込みも自由ですしね。

スタート地点には、20台くらいはとめられる駐車場があります。
多分、その近くのダム湖の周りを散歩したり、
休日に遊びで訪れる人たちのためのものでしょう。

平日だと間違いなくとめられるでしょう。

doironもとめさせていただきました。



そこで靴を改良シューズにはきかえ、
スタート時刻や活動量計のデータを
初期値として地図に書き込み、
車止めのゲートを越えて、
いざ出発です。

歩き始めてすぐにいきなり出会ったのが、
大阪府知事の池の竣工碑?



なんと、その当時の知事は横山ノックだったんですね。
今頃どうしてるのかなあ。

そしてしばらく行くと、
今度は、地元泉佐野市長の
間違いなく竣工碑でした。



こちらも、今の若い市長ではなく、
昔の市長名が刻まれていました。

首長の仕事は、政権交代しても
こんな形で残るんですねえ。

昔、竣工の銘板に
社長の名前を入れるか否かが問題となり、
結局入れなかったという
仕事上での経験があるのですが、
退職後あちこち見ていたら、
社長の名前の入った竣工の銘板も
かなりあるようですねえ。

おっと、話を戻しましょう。

そこからはしばらくダム湖の最上流まで、
ダム沿いに作られたアスファルトの道を
くねくねと歩きます。
最初の目標は、ダム湖を二つ越え、
そこから、山登りをし、
ダムの奥の山並みの上に
かすかに見える送電線鉄塔を目指します。



一つ目の新滝ノ池は5分くらいで通過してしまいます。
ゆっくり歩けば、ウォーミングアップになるかもね。

で、そこからはアスファルトとはいえ、
ほとんど人の入ってこない山道を
しばらく行きます。
植生を確認しつつ歩いていると、
この辺りはなかなか山菜の類も豊富です。

なんといっても、これ。



山菜の王者タラノメがもったいないことに、
採取されず残っており、
もう固くなっていました。

それから、ほかにもミツバ、


クレソン、

アケビ、


フユイチゴ

などが多数生息しており、
時期を逃しさえしなければ、
けっこう楽しめそうなところです。

そして今の時期の野鳥といえば、

ウグイス。

姿を見ることはありませんでしたが
結構頻繁に鳴いておりました。
キツツキ類の木をたたく音も聞こえていましたぜ。

そして、まるでdoironを道案内するかのごとく、
行く先々で背を向けて鳴いていたのが、これ。



多分、ホオジロだと思われます。
とまあ、植物も鳥類も
そんなに豊かな里山を抜けて歩くこと25分。

二つ目の滝ノ池の最上流の分岐から、
暗い林に足を踏み入れ、
いよいよ山に入っていきます。

続く・・・