あいよっこの旅ログ:::Part2:::

「女性のひとり旅は冒険の始まり!」

天才と博士と数式と ⑬

2020-02-22 22:12:36 | 天才と博士と数式と

写真は2019/5/29~6/1

「レブンアツモリソウ咲く礼文島とゆったり楽しむ利尻島4日間」

写真上:宗谷岬からはるか樺太を見る 探検家・間宮林蔵

 

 

  前回「かつて数学の天才と言われたのに、失意とかコミュニケーション不全などでこれほど学力が低下するものでしょうか?」と書いたら、「勉強しなかったら成績なんて簡単に落ちるよ」と友人が言いました。

 

  確かに!それに資格試験がどんな力を見たのかにもよりますね~。ただ得意な数学・物理を「あえてはずした」と言うのは不自然なうえに全体に文科系の得点が高く、どこかちぐはぐな印象があります。

 

  なにより「アメリカ宇宙局(NASA)から招待され、コロラド州立大学で大学・大学院に通学し、修士・博士の学位を終了した」「NASAの専任研究員を務めた」のであれば、秘密にする必要はないし、むしろ韓国の星として絶対に報道したはずでしょうに…。訪韓時に「誰も消息についてふれず、まるで箝口令が敷かれたような反応だった」ことが不思議なのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  2011年3月に、著者は偶然見つけたネット記事に目が釘付けになりました。それは2006/9/8付けの中央日報で「ウンヨンが“世界の知性”に選ばれた」というものです。彼は「国土環境研究所の研究員を務めながら、延世大学や忠北大学で講義を行うなど多忙な中、国内外の学術誌に水利分野などの論文およそ90編を掲載し、その結果世界的に権威ある人名辞典に名前を載せた」と伝えています。

 

  急いで新聞記事を取り寄せました。メガネをかけたウンヨンの写真は、子供のころの笑顔を見せないポーカーフェイスとは違って、人間的な温かみがあり、幸せな家庭を持ち、子どももいるような父親の姿を感じさせました。

 

  ウンヨン氏は、2006/7より忠清北道開発公社補償チーム長として勤務し、土木・環境工学分野の「今年の国際教育者」であり、さらに英国の「国際人名センター・副理事長」にも選ばれているようです。長年にわたり探し続けていた著者は「ついに、ウンヨンみっけ!」と言えるかもと、再び韓国を訪れる決心をします。

 

  2011/4/12 なんのアポも持たず2回目の訪韓です。ソウルから約130km、車で3時間半走って忠清北道開発公社に到着すると、最初の訪韓時ウンヨンの母親に撮影してもらった写真が役立ったこともあり、幸運にも会うことができました!

 

  彼は企画広報部長を担当しているらしく、1.70m のやせ型、ほんのり浅黒く髪はボサボサ、頭はやや逆三角形で、眉は薄めで眉間にしわがあります。1998年(35才)に延世大学で5才年下の女性と結婚し、13才と10才の男子が産まれたようです。

 

  2人がサッカー話で意気投合すると、PCで2人の息子の写真を見せるなど、その表情は「かつての神経質な天才の片りんはなく」子煩悩な単なるマイホームパパになっていた、のです。

・・・・・・・・・・・・・

  著者はウンヨンに会う前に、ソウル教育庁・英才チームのキム・スーパーアドバイザーに「韓国の英才教育システム」について聞いています。「1998年から始まり、現在は約8万人が学んでいる。ウンヨンさんが今の時代に小学生とか中学生だったら、その天才(天分)はもっと開花したでしょう。当時は韓国内に英才教育の施設がなく、その意味では国にとっても大きな損失だったでしょうね」とキムさんは言います。

 

  それにしても、と著者は思います。ウンヨンは現在「21世紀の偉大なる知性」と評され成功をおさめているのに、「なぜキムさんは失敗した天才のイメージで話すのか?なぜ国にとって大きな損失だったのか?」と。

    ***  続く  ***

 

写真上下:宗谷丘陵 不思議な地形が厳しい気候や隆起などを想像させます。

 

 

写真:北防波堤ドーム 美しく珍しいアーチです

写真下:小樽市内 廃線跡

 

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天才と博士と数式と ⑫

2020-01-29 17:30:26 | 天才と博士と数式と

写真は2019/5/296/1

「レブンアツモリソウ咲く礼文島とゆったり楽しむ利尻島4日間」

写真上:礼文島澄海岬(すかいみさき) V字形の波が珍しくて美しい

 

 

  このブログでは「韓国天才少年の数奇な半生」(大橋義輝、共栄書房、2011)を参考にミステリーを書いていますが、年齢が微妙に違ったり、話が前後するところがあるため、キム・ウンヨン年表を作ってできるだけ時系列に沿う形にし、年齢はウンヨンが産まれたとされる1963年→0才、1964年→1才…と表記することを御了承ください。

 

 

  前回は著者が初めて訪韓したときに、あれほど有名となったウンヨン君の消息を、父親は取材拒否、周囲の人たちは黙ったりはぐらかしたり、メディアさえ追跡を諦めた、という状況でした。

 

 

  ところが第2章の4「ウンヨンが再び世間を騒がした理由」では、まず古ぼけた新聞記事が掲載されています。コピーのためなのか、文字も写真も不鮮明ですが、これは1979/9/12付け東亜日報です。内容は「神童と騒がれたウンヨン(16)が韓国大学検定資格に下位で合格した。…ウンヨンは凡才になった」と伝えているようです。

 

 

  試験の体力テストでは、100m走:15.8秒、ボール投げ:45m、懸垂:2回…で31(100点満点)。また筆記テストでは、国語:60、英語:60、社会60、地学:62.5、音楽:64、美術:92、商学:48、体育:80…で平均点65点となっています。

 

 

  後で父親は「息子はあえて『白紙の状態で自分の力を試したい』と、得意な数学や物理をはずし、商学・地学を選択した」と話したそうです。だけど同時に「…(そのうち)ソウル大学に合格させ、西ドイツに留学させる。…核物理学の研究テーマを学ばせる」とも言っているのです。

 

 

  どうも納得しかねる話です。そもそも1970(3回目TV出演の1年前ですが?)にアメリカ宇宙局(NASA)から招待され、コロラド州立大学で大学・大学院に通学し、修士・博士の学位を終了しているのに(後述)、なぜ韓国で高校入試資格検定や大学入学資格検定を受験する必要があるのでしょう? また誰だって得意な科目を受け、高得点で良い大学に入りたいと思うのに、なぜ数学・物理をはずしたのでしょう? 父親の説明も矛盾だらけです。なによりかつて数学の天才と言われたのに、失意とかコミュニケーション不全などでこれほど学力が低下するものでしょうか?

 

 

  さらにさかのぼった消息や事実が出てくるのですが、出典は明記がなく、不明のようです。以下は本文の話をもとに作った年表です。

 

 

1970~:アメリカNASAの招待で、コロラド州立大学・大学院で学び修士・博士の学位を修了

1971/8/23(8):フジテレビ最後の出演

1975 :NASAの専任研究員を務める

1977:韓国高校入学資格 検定合格

1978:突然韓国に帰国 「友達も同僚も親しい人がいない」という理由

1979:大学入学資格検定を受験 体力テスト(※これが新聞記事になった。だけど訪韓時に訪ねたソウル新聞社週刊局次長の朴記者の話が1979年になっているよ?)

1980:大学入学資格検定を受験 筆記テスト

1981:ギネス削除

1983(20):大橋氏が初回訪韓

 

  年代のつじつまが合わなくて、かなり悩みました。人の話では思い違いや聞き間違うは当然ありますけれどね~。これによると最後のテレビ出演時にはすでにアメリカから招待されていたし、NASAに勤務している時に韓国高校入学資格を受験し、ソウル新聞社の朴記者は東亜日報の記事を全く知らなかった、ということになるのですが…。

 

  *** 続く ***

 

  

 

 

 

 

これは ハマナス

 

 

 

 花たちの名前は後で調べるね~

 写真下:北のカナリヤパーク  吉永小百合さん主演の映画が撮影された

 

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天才と博士と数式と ⑪

2019-12-26 15:39:44 | 天才と博士と数式と

写真は2019/5/29~6/1

「レブンアツモリソウ咲く礼文島とゆったり楽しむ利尻島4日間」

写真上:「姫沼」から利尻山を。お天気が良いと「逆さ富士」の絶景が!

     姫沼は人造沼でヒメマスの養殖をした。

 

                     

 

  キム・ウンヨン(金雄鎔)の絵本「星に聞いてごらん」の「育児秘話」によると、1963/3/7にソウル市の病院で生まれ、体重は2.7kgで、全身黒い毛におおわれた熊のような赤ちゃんだった、と記しているそうです。

 

  著者の大橋氏が、ウンヨンの名前がギネスブックから消えたことなどに疑問を持ち、最初に訪韓したのは1983/9/20で、最後のTV出演から12年後であり、当時20才前後です。

 

  この時父親は建国大学教授でしたが不在で、これはのちに取材拒否だったと感じます。対応した同校・教育学部長は「ウンヨンが今どこで何をしているか、わかりません」と答え、「父親に彼の消息を聞いたことがありますか?」と聞くと「そんなことできません。かわいそうで・・・。ビッグミステリーです」と言い、その後口をつぐんでしまいました。大橋氏は「かわいそうでビッグなミステリーとはなんだろう?」と思います。

 

  また初めてウンヨンの記事を書き、報道した東亜日報のイ記者は、すでに退社していて「近況は知らない」と秘書を通じて回答したのみ。さらにウンヨンの絵本を出版した出版社の社長は1年前に54才の若さで病死、同社・テェ主幹は数年前に退社していました。

 

  このように韓国メディアのほとんどが取材を断念しているなか、ソウル新聞社・週刊局次長の朴安植(パクアンツキ)記者だけは追跡を続けていて、会うことができました。

 

  朴記者の話によると「父親に『ウンヨン君は今どうしていますか?』と聞くと、お父さんの顔色がサッと青ざめてうろたえるではありませんか。そしてポツリと『子どもの話は今、したくない』と狼狽したようすでした。さらにウンヨンの消息を追求すると『今アメリカで勉強している。いやイギリスだ』とはぐらかした」そうです。

 

  大橋氏は「あれほど騒がれたのに、どこも、誰も知らないのはおかしなことであった」と書いています。

 

  確かに読んでいるだけでインタビュー相手からの「緊張感を伴った取材拒否や沈黙などの反応」が伝わってくる感じです。ちょっと昔のこととはいえ、たかだか12年ほど前のことだし、一世を風靡したようなニュースだったのに、みんながみんな口を揃えて「知らぬ存ぜぬ」とはいったいなぜでしょう?

 

  ただ母親には実家で面会できました。だけどやはりウンヨンについては口を閉ざし、彼と会うことは語気強く拒絶しました。母親は自分の撮影は拒否しましたが、この時母親に部屋で撮影してもらった自分自身(大橋氏)の写真が2回目の訪韓時に役立つことになります。

  ところが後になってこの当時のウンヨンの消息が明らかになるのです。不思議です。

   *** 続く ***

 

利尻島の北端部にある「ポンモシリ島」は海鳥たちの繁殖地(コロニー)

ウミウ、オオセグロカモメ、そしてクロユリが咲くことも有名

このクロユリは園芸店で撮影

 

ペシ岬:フェリーターミナルから突き出るようにそびえる岬

ここも鳥たちの繁殖地 岩石の間におびただしい鳥と白いフン!!

「仙法志御崎(せんぽうしみさき)公園」には海鳥、そして野生のアザラシがいるよ!

写真上:オオセグロカモメ

写真下:可愛いアザラシに餌やりもできる

 

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天才と博士と数式と ⑩

2019-12-03 20:15:11 | 天才と博士と数式と

写真は2019/5/29~6/1

「レブンアツモリソウ咲く礼文島とゆったり楽しむ利尻島4日間」

写真上:オロロン街道沿いにある「おびらニシン番屋」

・・・・・・・・・・

 

  前回「講師の彼はもしかして工作員だった?」と書きました。「韓国天才児の授業をしただけなのに、なんてとっぴな妄想なの」と思った人は多いでしょう。

 

  北朝鮮が起こした「拉致事件」は1970~1980年代を中心に、工作員、土台人(どだいじん・トデイン)が対日工作活動を行ったとされています。土台人は在日朝鮮人が中心だったものの、中には在日韓国人が動いた事件もあったらしいです。

 

  南北両国はもちろん今なお「戦争中」なので互いに激しく非難しあっていますが、一方基底部分というのか、どこかつながっていて「暗黙の了解」とか「公然の秘密」といった側面を持ち合わせているように感じることも。素人ながらですが…。最近の韓国文大統領の考え方や行動からもなぜか見え隠れしますね~。

 

  ところで日本人を北朝鮮に連れ去った「拉致事件」は、ある意味明らかに認識できますが、日本国内での「隠れた拉致」はわかりにくく、問題にもなりにくいです。つまり「日本女性をターゲットにして結婚などさせ、日本人のDNAを含む子どもを産ませ、組織・団体構成員を増やす」といった目的があれば、時代的にも一致するし、なぜ「女子短大」だったのか、も合点・納得できます。

 

  当時県立短大は比較的真面目で優秀な女子学生が多かったです。あいよっこはというと、はやりのフォークソングのグループ活動にはまり、遅刻・代返(※すでに死語?出席確認で名前を呼ばれた時、代わりに返事してもらう)、授業中は五目並べや手紙回しで過ごす毎日で、当然ながら「狙われる」ことはなかったよ~。

 

  そして気になるのはキム・ウンヨン君に関する「…おばあさんに育てられ、貧しく、野菜やじゃこなどの川魚が中心の食事だった。かえって肉や牛乳といった西欧食でないほうが脳は発達し、天才児が育つ…」という記憶とフジTVに出演したときの家族構成などがビミョーに違っていることです。記憶違いの可能性はありますが、当時の栄養学の基本と講師の話が食い違うので「どっちが正しいの?」と思ったのは確かな印象ですが・・・。

 

  「韓国天才少年の数奇な半生」によると、父キム・スーソンはソウル大学を首席で卒業した、漢陽大学物理学副教授で、母ユウ・ミンコウも同大学で保健学を教えていました。ウンヨンが育った時代、韓国全体が貧しかったかもしれないですが、両親が大学教師であれば、貧しくて肉や牛乳が飲食できなかった、とは考えにくいです。

 

  後に著者はTVに出演時のウンヨンについて「ポーカーフェイスで感情を表さない子どもだった」と書いています。私には理想的に恵まれた家庭であり、弟や妹もいる家族なのになぜ?とも感じます。

 

  こうした疑問を持ち合わせた視線で本を読み返すと、これはちょっと不思議だなあ、と感じる部分も出てきました。以前も書きましたが、決して著者に反論するつもりはなく、個人的に「これはヘンだね、どうしてだろう?」という気持ちなのです。

 

 *** 続く ***

 

オロロン街道にある「サロベツ原生花園」 の花たち

ハクサンチドリ 

ミツガシワ

カラマツソウ

稚内港から利尻島鴛泊(おしどまり)港へ ハートランドフェリー

利尻島のマスコット「りっぷくん」と「りっぷちゃん」はじめ

多くのお出迎え!

※ツアーの詳細は後述します。

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天才と博士と数式と ⑨

2019-11-18 16:44:17 | 天才と博士と数式と

写真は「2019/11/3 お久しぶりの法隆寺」11月前後に、「夢殿・秘宝・救世観音菩薩立像」特別開扉、「上御堂(かみのみどう)・釈迦三尊像」は11/1~11/3のみ開扉される、他に「秘宝展」なども開催されるので11月はお勧めです。

 

  一気に秋が深まってきましたね。素肌に心地よい秋風、見上げれば青くて高い空、「ああブタ、違った、馬肥ゆる季節」と爽快な気分になれる時期は短いものです。そうすると「山々の紅葉が呼んでいる、私を待っている」と勝手に思って急かされます。

 

  やはり今年も豪雨、台風などで葉が落ち、(暑すぎる)気候変動で自然は迷ってしまうのでしょうか、かつて感動したような光景は少なくなりました。残念!

 

  そうこうしているとブログの内容を忘れ、書こうとすると資料をひっくり返すことになり、つまりおっくうになってしまいます。「一気に書かないと記憶力の問題が出てきたなあ」と実感しますが・・・。

 …………………………………………………………………..

  

  さて今回は、ネット記事で「韓国天才少年の数奇な半生」(大橋義輝)を見かけた時「なぜ興味を持ったか」についてです。韓国の天才?昔聞いたことがあるなあ。あの時の天才児のこと?

 

  あの時というのは昔々(おとぎ話ではないよ~)あいよっこ10代の終わり、当時岡山県立短期大学(現県立大学)の食物科(栄養士養成)に通っていた頃、授業で聞いたことがあったのです。

 

  若くて細身の男性講師は文庫本(あるいは新書本)を教材にして「韓国の数学が得意な天才少年」の話をしました。最初は、食物科であったためか、育った環境とか食事についてでした。記憶によると「おばあさんに育てられ、貧しく、野菜やじゃこなどの川魚が中心の食事だった。かえって肉や牛乳といった西欧食でないほうが脳は発達し、天才児が育つ・・・」というカンジでした。

 

  実はそれほど韓国天才児に関心がなかったあいよっこは、その後授業をしっかり聞かなかったのでしょう、それ以外の記憶がないのです。

            

 「・・・はたち過ぎればただの人、の類でしょ」ということばが頭をよぎったのも事実。なおこのことわざは正確には「十(とお)で神童、十五(じゅうご)で才子、ニ十才(はたち)過ぎれば只の人」で「幼少時代は並外れているように見えても、多くは成長するにつれて平凡な人になる」という意味だそう。

 

  そこで「あの時の本があるかも」と実家で物置探しをしました。教科書類は長く保管していたのに、数年前父親が亡くなった時処分したのが今となっては悔やまれます。 またこの夏、当時の友達とランチをしたとき「その授業のこと」を聞きました。ふたりとも「覚えていない、それは選択だったのでは?」と話すので、そういえば「国際関係」系の授業だったような気もします。

 

  年齢などを照合すると、おそらくウンヨン君がTV出演後、日本でも大ブームとなった頃だろうと想像できますが、それにしても当時、世間的には今よりもっと韓国への差別感情は強くあったし、公立女子短大で「なぜ韓国の話?大学上層部は許可したのかな?」とも思えます。

 

  今思えばですが、あいよっこの妄想は「講師の彼はもしかして工作員だったのかも?」というものです。これはキム・ウンヨン君のその後にもつながる妄想ですが、もし正しいとするならば、朝鮮半島は日本が反省と平和ボケ状況のなか、早い時期からすでに虎視眈々と狙っていた、という可能性もあるのです。

 

※今回の⑨を補足します:「今よりもっと韓国への差別感情は強くあった・・・」のは「一般に、世間的に・・」の意味でです。個人的には差別感情というより、当時もそして今も「自然なフラット意識」なのはありがたいです。

※前回⑧の訂正:キム・ウンヨン君最後のTV出演3回目は「誤1981年」→「正1971年」

 

   *** 続く ***

 

「西院伽藍」は現存する世界最古の木造建築物群

「夢殿」では「秘宝 救世観音菩薩立像」が特別開扉でしたが、暗くてお顔がはっきりと拝見できないよ~

「上御堂(かみのみどう)・釈迦三尊像」は11/1~11/3のみ開扉され、混雑気味

上御堂の前で冬も咲く桜

法隆寺といえばなんといっても飛鳥・白鳳期を代表する「百済観音像」※写真がないので検索してね。

クスノキの一木造りとは思えない、すらっと伸びた長い手足、美しくてやわらかなからだのひねり、これは日本のビーナス像だなあ!

最初に見た時「玉虫の厨子」とともに倉庫のような部屋にあり、そのあまりにも近い距離、210.9cmの大きさに圧倒され、心臓がどきどきしたのが感動の始まりでした

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