だいぶ前の話だがNHKラジオの子供向け夏休み番組で、「宇宙の向こうには何があるんですか」と聞いた子がいた。講師が難しい言葉で説明していたが内容の記憶はない。 そのあと何年か経って、「宇宙には果てがある。なぜなら果てが無かったら満天が星明かりで暗い部分はないはずだ」ということを読んだか聞いたかした。 宇宙は広大無限と漠然と思っていた私は、この話から改めてあの質問をした子供の賢さに目からウロコの思いがした。以来この二つのことがなんとなく頭から離れない。 ▼変わってしまった宇宙観(世界観) 宇宙の果て、宇宙の向こう、といえば老人はすぐ「あの世」を連想する。 昔、西欧の人は星空の彼方に天国と楽園を想像し、日本人は日の沈む彼方に極楽浄土の「あの世」を夢見ていた。 しかしこれは地球が丸いことを知らず、太陽が地球を廻っていると思っていた昔の人が想像した「あの世」観であり宇宙観(世界観)である。 *「日本人はなぜ無宗教なのか 阿満利麿」によれば日本人は「自然宗教」でいう「この世」と「あの世」の区別を仏教にも当てはめて、「浄土」を「あの世」だ
と思いこんでいるのだという。 *「仏教とは何か 山折哲雄」によれば前方後円墳の「方」は地、「円」は天を表しているという。前方後円墳が造られた時代の人の「天」概念とはどんなものだったのだろう。 いずれにしろ科学の進歩によって昔の人が想像したあの世観も宇宙観もイメージはすっかり色あせてしまった。 宇宙の大きさは観測できる一番遠いところで150億光年、半径約450億光年という説もある。先頃(2018年)90億光年先の星を発見したというニュースも流れた。 地球から月まで2秒もかからない光速で何十億年もかかる距離というのは、人間の意識感覚を超絶している。そんな世界の話なのだが、月や火星に宇宙基地を造る計画があり、商業ベースの宇宙旅行も始まった。 前途には暗い影も見える。SF映画かアニメの世界のこと思われていた「宇宙戦争」が現実味を帯びてきており、中国は既に宇宙衛星の撃墜実験を行っている。昔の人がイメージしていたあの世で、戦争が勃発するかも知れないのだ。 15世紀の大航海時代から地球文明は躍進し産業革命を経て激変した。 21世紀の今、情報革命、バイオ革命を経て、宇宙の大航海時代時代を迎え、世界文明は大変革の時代に入ったようだ。 ▼超 あの世 宇宙への大航海時代が始まり、宗教、哲学、科学はどんな「かたち」で対立、融合し、世界観、死生観はどのような変わっていくのだろう。どう考えても時空を超えた曖昧模糊とした世界なのだろうか。 不信心な九十二歳の凡人が先人のあの世観を云々し、聞きかじりの宇宙の話をするのは、ビッグマウス(大口たたき)、世迷い言、と笑われそうだ。それでも科学の進歩で「あの世も遠くなりにけり」といった思いがしてならないのである。 私はお盆が大好きだし、正月、クリスマスの行事を思い出すだけでも心がなごむ。平凡で素朴な民俗、習俗の世界に生きている庶民だ。従って願わくば昔の人が想像し創作した「あの世」より遙かに遠い宇宙の向こうでもいいから新しい「超 楽しいあの世」 があって欲しいと思う。 (2021/10/21)
世の中の科学や技術がどんどんと進化していく中で、私自身もそれに違わずもっと知識や技能を修得したい、もっと色んなことを経験したい、等いつも思っています。そして、そのような欲と能力が非常に高い人たちの中には、人間とコンピューターの融合や、仮想世界で不死の人生を設計する事などを計画する人達がいるようです。
しかし、トランスヒューマニズム計画の話を聴いてしまいますと、先程の自分の思いも追随するかと思えば、人間の今の形を保ち朗らかな人生を送るのでは行けないのだろうか。と後退りをしてしまいます。こうして日々インターネットを使ってブログを拝見したり、世界中の情報が見られたり、様々な技術を享受しているにも関わらず、なぜこれ以上はブレーキをかけたくなるのでしょうか。
これは倫理観の崩壊への危惧なのか、しかし慣れの問題でもあるのかも知れません。ほんの一例ですが、インド洋に浮かぶセンチネル島に住むセンチネル族は未だ外界と接触を絶対に取らない。私達が当たり前と思っている便利な文明を使わずとも、彼らの方が自然と共存して情報に塗れた我々より豊かな生活を送っているのではないだろうか。と思う時があります。
そして私もかくかくしかじか思い倦ねるこの世の後に、「超 楽しいあの世」が待ってたら嬉しいなぁと想像して笑顔になりました。