喜寿の年から文化センターの文章教室へ4年通った。ぼけ防止と安くて気楽な趣味としてのエッセー(随筆)を書くためだった。あわよくば技術伝承を思い出話の形で書こうという下心もあった。
エッセーを書き始めてから7年目に「元技術屋のエッセー修行」を書いた。
元技術屋のハンディキャップとアドバンテージ(有利性)を考えた上で、繊細高度な感性が必要な「随筆」は書けないと自覚した。技術伝承については旧世代技術が急速に陳腐化したためその必要がなくなってしまった。結局身の回りの技術的な話や戦争体験を中心に、「エッセーもどき」くらいならなんとか書けそうだと結論した。
それから更に7年、超遅筆でもいつの間にか作品?は百編近くになった。5年前からはエッセーを投稿する形のブログも始めた。
それがどうしたと言われそうだが、卒寿の節目に、思い出すことを書き留めてみた。
▼ なぜ書くか
エッセー教室で驚いたのは、いきなり各自の作品の添削から始まったことだ。最初は「なぜ書くのか」、「書くということの意味」など抽象的な話か、何か講義のようなことがあるものと思っていたので戸惑った。
少し経って、受講生私以外の文系の人達なので、なぜ書くのかという疑問は持たずにどうしたら良い文章が書けるかというのが学習のスタートポイントなのだと了解した。
仕方なく、参考書からキーワードを拾い集めて、「書くということは文字(記号)を使って、伝える、表現する、考える、記録するすることであり、人間の『承認欲求』、『存在の主張』なのだとコピペ的に決めて文章の勉強を始めた。どうでもいいことのような気もするが、元技術屋のくせで理屈っぽい前提がないと前へ進めないのだ。この小文を書くためにも「何を書くか、なぜ書くか、結局なにを言いたいのか」という自分なりのチェックシートへの書き込みから始めている。
▼元技術屋に随筆やエッセーが書けるかという不安
*ハンディキャップ
はじめの頃、年寄りの元技術屋に随筆やエッセーが書けるだろうかと不安だった。
生まれが昭和初期、生粋の軍国少年でおまけに気の荒い浜育ちの私は、「青白い柔弱な文学青年」を馬鹿にしていた。「源氏物語」はもちろん、戦後の有名な小説「太陽の季節」も貴族や金持ちのプレイボーイ物語りとしか受け取れなかった。 就職後も、技術屋は文字や文章は下手でもいい、中身(技術)が大事だ、といわれてその気になっていた。
このような無知偏見もさることながら要するに国文の素養が無い。文学的感性も無い。技術検討書、レポートなどの実用文書しか書いたことがないので、文学的なレトリック(修辞)、特に比喩表現の知識がほとんどない。オノマトペ(擬音・擬態表現)も使えない。会話の中でもどーん、ばさっと、などの擬音はほとんど使っていないことに気づいた。「会話体」などは抵抗感が大きくてとても書けない。そんな馬鹿なといわれそうだが、本当なので仕方がない。これでは随筆は書けないと、気持ちが落ち込んだ。
* アドバンテージ
だが待てよと思った。元技術屋の人生経験が有利(アドバンテージ)となることもあるのではないか。英会話教室にも通ったことがあるが「私は1.5カ国語を話せる。日本の標準語と北海道方言だ」と言って外人講師を笑わせたことがある。負け惜しみは万国共通だ。感性的随筆は書けなくても理屈っぽいことが好きなので理性的なエッセーもどきくらいならなんとかなるのではないか。
随筆につながる日本人の「私小説」は3メートル範囲の文学だといわれることがある。身の回りのことを技術的視点でエッセー風に表現してみたらどうなるか。 旋盤工が書いた小説が話題になったことはあるが技術屋の書いたエッセーはほとんど見たことがない。 私は戦時中に軍需工場へ勤労動員されたことがある。戦後米軍の空軍基地で働いたこともある。長く勤めた電力会社では五つの火力発電所建設に携わりボイラ・タービン・自動制御の技術担当だった。戦後、発電技術の資料は英語だったという経験もある。こんな経験を元にしたエッセーは案外面白い読み物になる可能性があるのではないか。もちろんうまく書ければの話だが、エッセーの隙間ジャンル(カテゴリー)ではないだろうか、などと夢と妄想が広がる。
科学者のエッセーとしては寺田寅彦と中谷宇吉郎の書いたものが有名だが、技術者、技術屋には科学者のような「ひらめき」の世界は無い。 しかし例えばネジを回すスパナ-の長さはどのようにして決まったか? 腕力の強い白人や黒人の使うスパナと、ひ弱な日本人が使うスパナの長さは異なるべきだ。という考えが浮かぶとちょっとしたエッセーもどきが書けそうだと思う。身の回りの技術に関わるエッセーネタはいくらでもありそうだ。「なぜどうして」と疑う論理的な物の見方、考え方、問題意識、知的好奇心など技術屋の思考習慣もエッセー(essay)向きではないか。こんなことを考えると次第に自己陶酔気味になる。
▼ 随筆とエッセーの違い
以下は余談に近くなるが、エッセー教室へ通い始めた頃「随筆」イコール「エッセー」として扱われていることに違和感を感じた。辞書や参考書でも「随筆」と「エッセー」を厳密に区分しているものはないようだ。どうでもいいようなものだが、文学アレルギー的ハンディのある私には切実な問題である。
日本の随筆はさかのぼれば清少納言の『枕草子』や吉田兼好の『徒然草』,鴨長明の『方丈記』となる。西欧ではさかのぼればモンテーニュのエセー(essay試み)だという。アメリカでは小学校から小論文の書き方を教えるがこれをエッセーという。ジョン・ダワーの有名な「敗北を抱きしめて」という大著もエッセーである。少なくとも日本の随筆と欧米のエセーのニュアンスは似て非なるものに思える。
日本の随筆が情緒的で私小説風な描写が主流であるのに比べて、欧米のエッセーは論理的で対話風、格言風のスタイルが多いとされている。一口で言えば随筆は日本的感性の文章であり、エッセーは西欧的理性の文章である、としてもよいのではないだろうか。
随筆の中には散文詩に近い感じのものもあれば、エッセーには引用文献の証明さえ付記すればそのまま論文として成立するようなものもある。科学者の寺田寅彦や中谷宇吉郎の作品のように感性と理性が融合した優れた文章もある。
回りくどいようだが、私のような技術系の初心者は随筆風とエッセー風の違いを認識して書いた方がすっきりして、伝えやすいし、読みやすいといえるのではないだろうか。
▼ 参考図書のこと 先にも書いたように国文の素養が無いので文章作成のイロハから始める必要があった。高校生用の参考書やなるべくわかりやすい手引き本を買い集めているうちに数十冊になった。
更にさかのぼって、そもそも文字とはなにか、言葉とはなにかと素朴な疑問にとりつかれ、その関係の参考書も集めた。結局参考図書は合わせて百数十冊になった。不完全だが参考文献から抜粋して自家製の「文章の書き方ノート」も作った。このほかネット検索のコピーが加わるので相当な量の資料になる。もっともその中身がどれだけ頭に入ったか、どれだけ作品に反映されたかは別な問題である。
*最も記憶に残る参考図書図
文章の参考図書は高尚な「文章読本」から実技のハウツーものまで、どれを読んでも教えられることが多かった。強いて絞りこむと「井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室」と井上ひさし「自家製文章読本」がもっとも印象に残っている。
一度だけ、井上ひさし氏が講師になっているボランティア活動の臨時作文教室に参加したことがある。このとき思いがけず作品を激賞された。そのせいもあってか、この本の中身は素直に吸収できた。
・「自分にしか書けないことを、だれにでもわかる文章で書くこと」
・「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく書 くこと」 井上ひさしのこの言葉は、作文の秘訣として 有名だが、アマチュアに対する思いやりも感じられて懐かしい。
*百円の参考書
文章の参考書を集めていたときに驚いたことがある。百円ショップでれっきとした文章作成参考書を売っていたのだ。「通じる文章の技術」発行年は記載されていなかったが著者は「篠田義昭」とあった。どこかで見たような名前だと思ったら、「コミュニケーション技術 実用文章の書き方」(1986年中公新書)の著者だった。「通じる文章の技術」は「コミュニケーション技術」のダイジェスト版に近く、説明が極めて具体的で、初心者にもわかりやすい。例えば、次のように記されている。
文の長さの目安 ・ワンセンテンス~40字以下多くても50字
~8語以下 ⇒非常に読みやすい。
~14語くらい ⇒まあまあ読みやすい。
~21語以上 ⇒読みにくい。
・一行の文字数 ~15~20字
・パラグラフ ~200字以内が一番読みやすい。
・小論文 ~800字から1000字
この数値の出典は書かれていないが、扇谷正造「ビジネス文章論」の「アメリカ軍命令語の研究」に似たような数値が出ている。
*パラグラフと段落のこと 文章の勉強では目からウロコの感じを味わうことが多かったが、パラグラフのこともそうだった。日本文の「段落」と「パラグラフ」は同じもののように扱われ
ているが、似て非なるところがある。パラグラフについて明快な記述を見たのは木下是雄の「理科系の作文技術」だった。 先に書いた篠田義昭「コミュニケーション技術」では詳細は省くが、紙数の約半分をパラグラフの記述に当てている。この本で初めて欧米ではパラグラフがレトリックの重要な要素になっていることを知ったように記憶している。
* レトリックと修辞のこと
古代西欧の「説得の技術」から始まったレトリックは時には詭弁といわれることもあったという。日本語では「修辞」となるが、明治時代の美辞麗句調の政談演説を連想させる。いずれも文章表現のレベルとしては低く見られるニュアンスがある。
たしかに、今でも議会での議論や新聞社説・コラムには「誇張・変形・省略」から「問題の矮小化」「論理のすり替え」「印象操作」「ご飯論法」など感じのよくないレトリックが氾濫している。
しかし、夏目漱石の「吾輩は猫である」は表題からして人を食ったレトリックであるが、とにかく面白い、そして考えさせられる。漱石は佐藤信夫の「レトリック感覚」によれば日本人では数少ないレトリックの名手とされている。
情報化時代となって、コミニュケーション技術としてのレトリック(修辞)は見直されているという。もっとも身近なレトリックである「比喩」の活性化を始め、新しい視点でレトリックを考えることが必要とされている。
「修辞」について漠然としたことしか知らなかった私にとって、澤田昭夫「論文の書き方」で「レトリック」の系統だった記述を読んだ時は、目からウロコの感じだった。あとで佐藤信夫の「レトリック感覚」と牧野賢治「理系のレトリック入門」を読んで論理展開の面白さを楽しむこともできた。
手前勝手になるがエッセー(essay)は「自動制御」の重要な構成部分となっているシーケンシャル論理制御、通称「シーケンス制御」のアルゴリズム(論理ブロック図)に似ていることも知って興味深かった。古代ギリシャローマ時代とゲルマン人のレトリック、それに議会弁論・軍隊の命令レトリックなど、歴史的ないきさつは読み物としても面白い。
* 文章構成のパターン
一般的なパターンとしては 起承転結、序論本論結論だが、樋口雄一の著書「頭のいい人は『短く』伝える」では「論理的4部構成」を提唱している。基本形は①問題提起 ②意見提示③展開④結論のパターンである。 結論先行型・根拠優先型・エピソード型のバリエーションもある。
なお文章の簡潔なまとめ方のコツとして、篠田義昭の「通じる文章の技術」では「一文一意」の展開だと思うが次のような記述もある。
・ワンワード(単語)・ワンミーニング
・ワンセンテンス (単文)・ワンアイデア
・ワンパラグラフ(段落)・ワントピック
・ワンドキュメント(文書)・ワンテーマ
文章技術のことだけでも参考書籍の抜粋・引用をしていては切りが無い。文章作成とエッセーの書き方参考書のダイジェスト版がほしいと思う。
▼ あとの楽しみ
エッセーもどきを趣味として14年、下手の横好き、読む人の迷惑も顧みず、迷文を書き散らしている。おまけに懲りもせずこれからデッサンを習い、いずれ挿絵入りのエッセーとあわよくば軽妙洒脱な随筆を書くことを楽しみにしている。これはもはや努力目標ではなくて妄想のカテゴリーになるのだろうか。
(2018/11/23)