エッセー

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「考える力」の話

2018-04-07 11:48:22 | 読書

  2022年度から高校教育が知識重視から思考力重視へと大きく変わるという。この中でいまアクティブラーニング(能動的学習)が話題になっている。                                 「知識詰め込み型の受身の授業から主体的な学びへ」「討論や発表を通じて解決を探る『主体的・対話的で深い学び』と説明されている。
                                                           
 そんな報道を見ると、自分が受けた戦前戦中の教育のことを改めて思い出す。「教育勅語」と精神主義・軍国主義のもとで知識偏重・詰め込み型の教育を受けた影響は未だに抜けない。                                                                        敗戦となり、大人になった頃、戦争中に軍部とマスメディア(新聞・ラジオ・映画)に付和雷同したことを後悔し、二度とだまされまいと決心した。                             しかし戦後、左翼に豹変したマスメディアの煽動にまたも同調し、付和雷同してしまっている自分に気付き、情けなくなった。以来未だに「自力でものを考え、判断する力」が弱いという劣等感から抜けられないでいる。       

 身近なことでも家庭の主婦のアイデア商品を見て、その発想力に驚くことがしばしばだ。いつだったかトイレットペーパーの交換がワンタッチで出来る構造になっていることに驚いた。 どうしてこんなラチェット機構を応用した簡単な、しかし素晴らしい発想が自分にはできないのだろうと、また情けなくなった。 
 自分が書いている「エッセーもどき」も読み返すと発想の貧困さを痛感する。引用が多すぎる新聞のコラムやコピー・ペースト的評論を笑えなくなる。
      
考える力を付けたくて読んだ本                                                             なんとか自主的に考える力をつけたいと思って読んだ本がいつの間にか三十冊を超えている。教えられることは多いが、強く記憶に残っているのは、まず笠信太郎「ものの見方について」の次の言葉だ。                      
                                                                                                          「我々日本人には、一般的にいってまだ自分の考えというものが欠けているということである」、「考えを作り上げるための『考え方』を持っていない」。  
     
  著者は最近なにかと批判されることの多い朝日新聞の記者である。しかし敗戦後間もない時期に書かれたこの著書は日本人論の名著としてずいぶん評判になった。今読んでも教えられ考えさせられる点が多い。                                                         残念ながらわれわれ日本人の意識構造とレベルは、笠晋太郎が68年前に指摘したように、未だに自主的思考力を欠いたままなのではないだろうか。
                   
                                                                                                            自主的に考えるということで、もう一つ忘れられないのは外山滋比古「思考の整理学」にある「グライダー優等生」の話だ。
             
 「学校の生徒は先生と教科書に引っ張られて勉強する。いわばグライダーのようなものだ。優等生はグライダーとしては優秀だが飛行機のような自力思考に弱い。」
   しかし「人間には受動的に知識を得るグライダー能力と自分で物事を発明発見する飛行機能力が同居している。」これからは「記憶型の人間」を育てる教育から「知ることよりも考える教育」へ根本から見直しが必要としている。                                      
                                                                                                          この本を読んだとき 自力思考の弱い人間を推進力を持たないグライダーにたとえていることに感心したが、ずばり自分のことをいわれたような感じだった。
                                                                    それにしても、この本が書かれたのは35年前だ。高校教育の学習指導要領の改定案では2022年度から知識重視から思考力重視へ変わるという。遅すぎるのではないだろうか。
 
 ▼自主性と論理的思考力が不足な国民性           
 日本人が感性的な高い文化文明を持っていることは世界に認められている。一方で「熱しやすく、冷めやすい」「成り行き任せ、空気読む」など「情緒的・感情的であること。物まね人種、独創性が無い、論理的思考力が低いなどのネガティブな面も指摘される。
 このような特異といわれる国民性はどうして形成されたのか。                     1970年代から始まった日本人(文化)論ブームが思い出される。私も尻馬に乗って百冊近く読んだが特に印象深かったのは和辻哲郎の 「風土」論と内田樹の「日本辺境論」だった。 
                       
*和辻哲郎の 「風土(人間学的考察)昭和10年」によれば日本人の国民的性格は受容的忍従的であって、モンスーン地帯人間の歴史的風土的特殊構造による「台風的性格」としている。                           

*内田樹の「日本辺境論」2009年(新潮新書)では「地政学的辺境性が日本人の思考と行動を規制している」「中国の華夷秩序の対概念である辺境のメンタリティとして日本人の思考原型は付和雷同(主体性がない)である」としている。   

 これらの指摘は、私にとっては「目からウロコ」のような新鮮な驚きと納得できる内容だった。日本人論を読むのが更に楽しくなった記憶がある。
             
▼「日本人論」に欠けていること                 
 一連の「日本人論」を読んでいてふと疑問に思ったことがある。                             例えば西欧と日本文化の「並行進化説」を唱えた梅沢忠夫「文明の生態史観」は有名だが、科学技術の記述が見当たらない。西欧近代化の中心は科学技術の発展であり産業革命だ。しかし日本人がネジというものを知ったのは16世紀であり、ペリーの艦隊が来るまで蒸気機関も知らなかった。少なくとも論理的思考力が基本の科学技術に関しては、「並行進化説」は成り立たないと思うがどうなのだろう。
                 
 日本人は自然と共生し自然を敬う。西洋人は自然をコントロールし征服しようとする。素人の乱暴な推論だが、明治維新以前の日本人はニーチェのように神も哲学も否定することはおろか、そもそも哲学・科学の前提である「なぜ、どうして」と「疑う」論理的な思考習慣がなかったのではないだろうか。                                                                        
                                                        ▼天才のひらめき、凡才の頭         
 先日たまたまNHKスペシャル「人体 神秘の巨大ネットワーク『ひらめき』」を見た。出演していたノーベル賞の山中教授がips細胞研究に関して入浴中にひらめいた話を披露していた。アルキメデスと風呂の話によく似ているが天才のひらめきとはこうしたものなのだろう。                            散歩中にアイデアが湧くという話はよく聞く。アリストテレスの逍遙学派の故事もある。
中国にはリラックスしたときによい考えが浮かぶという「三上(馬上・枕上・厠上)」の言葉もある。   
 理詰めに考えこみ悩み続ければ、論理的結論を得ることはできるが、ひらめきは生まれない。考えこみ、悩み続ける中で、いっとき無心状態になったときにひらめきが起きるということのようだ。                       
          
 私は子供の頃からいわゆる「活字中毒」で、寝るときもトイレへ行くときも本を持っている。何かしら書いたものを持っていないと落ち着かないのだ。したがって本さえあれば退屈しない。                                                              しかし「読書とは他人の頭で考えることである」とショーペンハウエルは言った。たぶん私の頭の中は乱読の雑学知識とジャンク情報ばかりが詰まっていて「コピー・ペースト脳」とでもいうべき状態なのではないかと思う。                                        深く考え、悩み続けるという前提がないので、いくら風呂に入っても散歩しても、ひらめきは生まれないわけだ。自分にひらめき才能が無いわけはこれで納得できた。

次世代に期待                                                    私のような昭和一桁生まれの世代では博覧強記、記憶力の高いものが優等生だった。
 今やネットの検索機能で百科事典も不要な時代だ、博覧強記の必要性は急減した。長老の「知恵」とされていた知識プラス経験則もほとんど役に立たなくなった。この辺の分野は遠からず「AI人工知能」に占領されるのではないか。
   
 自分の「考える力」の不足原因を改めて分析してみると資質、素質、性格(DNA)のほかに記憶詰め込み型教育と感性型で非論理的な国民性が背景にある、と要約できそうだ。「三つ子の魂百までも」という。結局、西欧型の論理的思考習慣を身につけるのは諦めるしかないようだ。
     
  もっともそんなに年寄りでなくても、われわれ日本人の間では「なぜ、どうして」の理屈っぽい話は嫌われる。しかし「論理的思考能力」が弱くてはグローバル時代に適応できない。いま国論を二分している改憲・護憲問題の議論も深まらない。   
                                                                     偉そうに言った勢いでもう一言いわせてもらえば、もともと感性的な優れた伝統文化を持つ日本だが、中国文明と西欧近代の理性的文明を取り入れ、消化してきた実績もある。若い世代がアククティブ・ラーニングで自主的な論理思考能力を伸ばし、感性と理性の共生・融合に成功することも夢ではないと思う。       (2018/04/07)