エッセー

技術屋のエッセーもどきです。よろしくお願いいたします。

やっぱりおかしい九条論議

2017-11-18 10:40:01 | 読書

 平成17年の総選挙で自民党が圧勝し、憲法改正がいよいよ現実味をおびてきた。最大の問題は憲法九条だが、右翼・保守派は改正・改憲をいい、左翼・リベラルはこれを改悪といい護憲を主張する。                                     平和を望まない人はいないのに実現方法の意見は大きく分かれてしまう。国論が分断し、お互いの不信感が増幅していくのをみるのは悲しい。                     何故こうなってしまったのか、どうすれば打開できるのか、戦後七十年以上にわたる長い間の論争の内容と経過は複雑でわかりにくい。
  戦争を体験し、二つの憲法下で生きてきた庶民の一人として、自分なりに整理してみたのがこの小文である。
                            
九条論議混乱の始まりと原因

*憲法前文と九条の成り立ち
  今の憲法は敗戦後間もない昭和22年(1947年)、GHQ作成の英文原案に基づいて制定された。無条件降伏した日本にとってGHQの指示は絶対的な命令であった。「アメリカの押しつけ憲法」という言い方もあるが少なくとも「九条」は日本人による自主制定条文ではない。

*アメリカ原案の平和憲法の本音
 そもそも論になるがアメリカ原案による「非武装不戦」の九条の目的は、二度とアメリカに刃向かうことができないように日本を武装解除し無力化することであった。現行憲法にはピューリタニズムを反映した崇高な自由民主主義の条文もあるが、基本的にはアメリカの世界戦略に基づく戦後レジームなのだ。東京裁判と同様、当然といえば当然な欧米の価値観に基づく勝者の論理なのだと思う。

*東西冷戦でアメリカは急遽方針変更
 ところが大戦後すぐに東西冷戦が始まり1950年に朝鮮戦争が起こった。アメリカは共産主義対応のため急遽日本に「警察予備隊」を創設した。この組織がのちに「自衛隊」に発展し、れっきとした軍隊になっていることは周知のとおりだ。  アメリカを共産主義から守るための防波堤ないし「不沈空母」としての役割を日本に期待することになったのだ。ずいぶん勝手な話ではある。                     

苦し紛れの解釈憲法     
                                        憲法前文の抜粋                                 「・・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」

*九条の抜粋                                                                                           1.「・・・戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」
 2.「・・・陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」  

 この憲法前文と九条を素直に読めば、「絶対平和主義」の非武装不戦憲法であり、我が国には集団的自衛権はもちろん個別自衛権もないことは明らかだ。つまり論理的に言えば自衛隊は明らかに違憲であり、日米軍事同盟も違憲である。
               
 ところが前述のように朝鮮戦争のあと自衛隊ができたため、憲法の内容と現実の矛盾が生じた。このため日本の政府与党は、非武装不戦憲法のもとでも正当防衛の自衛権はある、という苦し紛れの「解釈憲法論」をあみだした。非武装不戦憲法に反する軍隊を持ち、年間5兆円の予算を使っている。常識的に考えれば、なんとも曖昧で奇妙な話だ。
 「解釈憲法論」を巡っては、これを全否定し自衛隊を認めない政党もあれば、一部容認して自衛権は認めるが集団的自衛権は否定するという政党もある。知識人とマスメディアも左右に分かれて我田引水、自説に都合のよい論理で言い争っている。
               
▼憲法学者の発言もバラバラ         
                                        こんな中で法律のプロ中のプロである憲法学者の意見もいろいろ違いがあるのでますますややこしい。一例としてこんな評論が新聞に載っていた。

  *「安保関連法がもたらすもの」立憲主義の破壊 信頼に傷                           長谷部恭男  元東大教授、早稲田大教授  憲法学                                   道新2016年(H28年)2月20日                                                                    
「憲法9条の文言を文字通りに理解すれば、武力の行使はいかなる場合にも認められないはずだと言われることもあるが、この議論はどのような場合に法の条文を『権威』として受け止めるべきなのかというそもそも論を理解していないように思われる。」           
 「・・・しかし憲法9条を文言通りに受け取って、日本が直接攻撃された場合にさえ全く武力を行使しないことが、人々が本来とるべき行動をとることだとは、常識的
に言って、到底考えられない。だとすれば、九条は文言通りに受け取って権威として理解条文ではなく、むしろ解釈の対象とすべき条文だと言うことになる。・・・ 」
                                        なんとも分かりにくい文章である。                   
 憲法九条には「諸国民の公正と信義に信頼して、武力放棄し、戦力は保持しない、交戦権も認めない」と明記してあるのに、九条は文言通りに受け取ってはだめで解釈条文だと言う。                           
 全文この調子なのだが、主旨は非武装不戦の九条憲法の下でも「解釈」によって個別自衛権は認められる、ただし集団自衛権は認められないということだ。論旨も文章も分かりにくくて、新聞に掲載する庶民向きの啓蒙文章としてもおかしい。 
 この長谷部教授は安保関連法審議の国会に出席し「安保法案(集団的自衛権)は違憲である」と、自民党側の参考人としては異例の発言をして話題となった人でもある。

                                       一方同じ憲法学者でも井上教授は「解釈次第でどうにでもなる九条は、権力を縛る立憲主義の精神を根本からむしばむ憲法の『病巣』といえる。一刻も早く切除すべきです」と言う。                       
    憲法の「病巣」は切除を   井上達夫 東大大学院教授  法哲学者
      道新2016年(H28年)4月12日           
井上教授は更に「自衛隊を違憲と指弾する「原理主義」の護憲派も、専守防衛なら合憲とみる「修正主義者」も、九条と現実のギャップを本気で埋めようとはしない。」と言っている。
  インタビューしたと思われる道新記者は「字義通りなら非武装中立としか読めない九条を曲解し、自衛隊や日米安保を容認し、自衛隊を海外に派遣し、集団的自衛権の行使も容認した保守への憤りも隠さない。」と付言している。

* このほかにも知識人が書いた啓蒙図書やマスメディアの多様な発言が氾濫しているが、いずれも我田引水、自説に都合の悪い話(不都合な真実)は言わないので視聴者・読者は混乱する。

       
情緒的な不毛の論議                                                                                                                学者のさまざまな主張やメディアの偏向報道のほか、九条論議をややこしくしている原因のひとつに本質論からほど遠い感情的、情緒的な批判非難の応酬があると思う。  

例えばよく言われる「平和憲法のおかげで70年以上も人を殺さず、殺されもしないで済んでいる」という言葉だ。
  この主張に対して、それは「平和憲法」のおかげではない。日米安保条約と自衛隊のおかげなのだ。という反論がある。日米安保条約はアメリカ側だけが戦わなければならない不平等条約だ。この条約のいきさつを知らないアメリカの庶民や若い人から見れば、なんでアメリカ人だけが血を流さなければならないのか、「日本人はアメリカにおんぶにだっこで甘えている」と考えるのではないだろうか。1991年湾岸戦争の時「日本は金だけ出して血は流さない」と国際世論から批判されたことを覚えている人も多いはずだ。
 また「日本の憲法は世界に誇れる優れた平和憲法である」という主張に対しても
「アメリカの核の傘に隠れて一国平和主義をいう自己欺瞞である」という反論がある。   

もう一つの例。新聞に集団的自衛権問題で「アメリカとのおつきあいで、地球の裏側まで行って戦うなんて」という趣旨の投書があった。この人は日本のエネルギーの9割が地球の裏側から運ばれてくること、そのシーレーン防衛を誰がどのように行っているのか知らないのだろうか、ずいぶん一方的な非難だと思われる。
 
  前述の井上教授は「九条は病巣」の評論の中で「『今の平和は憲法九条のおかげという』物言いこそ日本人の自己欺瞞の証だ・・・ こうした安保の現実から目を背け、平和国家という幻想に浸るための道具として九条は使われてきた」と言っている。
    
*詭弁的論理の話
 円錐体は三角だ。というのは一面の真理だ。なぜなら円錐体は上から見れば円だが横から見れば三角だからだ。護憲と改憲の論争はこの例に近い、ものの見方の違いだと言ったら叱られるだろうか。
 例えば沖縄の嘉手納基地反対の論理も同じようにおかしい。基地が先に出来ていて、危険なことが分かっているのに、何故そこへ住宅や学校まで造ったのか。見方によっては本末転倒の「あたりや」的言いがかりのようにも聞こえる。      

 九条論議では、論理的に言えば護憲論は演繹的であり、「前提」としている憲法前文「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」を「真」としている。だが北朝鮮、中国、ロシヤを公正と信義の国と信頼して良いのだろうか。とてもそうは思えない。非現実的な前提に基づく演繹的な護憲論は説得力が弱い。

 現実には既に形骸化している憲法の前文と九条を巡って、詭弁に近い論理と不毛なレトリックの応酬が横行している。 挑発や煽動に乗らないよう要注意だ。

護憲派の左翼とリベラルが衰退
                                        *  敗戦後、戦前とは打って変わって左翼全盛といってもよい時期が続いた。左翼は親ソ親中はもちろん北朝鮮を天国といった政治家もいる。安保闘争、ベ平連活動などを思い出す人も多いだろう。私もメーデーには札幌大通りで赤旗を持って「聞け万国の労働者」を歌っていたことを思い出す。                                      自虐史観が盛んだった。私は家永三郎の「太平洋戦争」を読んだとき、客観的な検証というよりねちっこい自虐的なものを感じた。戦争を煽った新聞の責任については書かれていないなど、何か引っかかるものがあり、違和感があった。
                             
  しかし日本が高度成長期に入って、いくらか国民的自信を取り戻してきた1960年代頃から、主に右翼の評論家や英文学者等による比較文化論的日本人論が盛んに書かれるようになった。ルース・ベネディクトの「菊と刀(1967年)」に続く中根知恵の「タテ社会の人間関係」、土井健郎の「甘えの構造」、会田雄次の「日本人の意識構造」、和辻哲郎の「風土」の再刊など日本人の国民性を分析し、自らを知るための書籍が大量に出版された。             
                 
  時系列的に言えばこの頃から社会主義国家の内部矛盾が顕在化し、1990年のソ連崩壊で東西冷戦の幕が下りた。                  
 日本国内ではまず左翼過激派の衰退が始まった。政党では民主党政権ができた時の失政で急速に国民の信頼を失った。マスメディアの世界では左翼の偏向報道が視聴者と読者の信頼を失っていった。インターネットなどの情報革命だけが原因ではない。もう古くなった共産主義、社会主義の幻影にしがみついているといった内部告発的な書籍も多くなった。「我こそ正義の思い上がり」の排他性も指摘されている。その点では5.15事件や2.26事件を起こした戦前の革新将校の言動と共通している。
                   
もうひとつ気になる点がある。今アメリカではエスタブリッシュメントと一般大衆の意識的乖離が顕在化し、ポピリュズムが問題となっている。日本にも近い問題があるのではないかと思われることだ。                                      左翼系知識人とメディアがいくら護憲をアピールし、デモを煽動しても、今ひとつ盛り上がらなくなった。いくらメディアが左翼的偏向情報を流しても選挙では保守が勝つ。以前は左翼系知識人と新聞がオピニオンリーダーだったが、いまはもう「笛吹けど踊らず」で大方の庶民は冷めた眼で見ているようだ。        

 「戦後民主主義者」と称する左派リベラルの知識人は反戦平和運動の中核と言ってもよいと思うが中国の故事「竹林の七賢人」に似ているところがある。彼らは身分と生活が安定している下級貴族だったという。戦時中の兵士だった「アンパンマン」の作者やなせたかし氏が「犠牲を伴わない正義はうさんくさい」と言ったが同感だ。

中国の膨張政策と覇権主義、北朝鮮の核武装に対する左翼・リベラルの反応はうさんくさい。
 太平洋における中国の海洋進出政策と覇権主義的活動や北朝鮮の核武装報道のたびに非武装不戦の憲法前文と九条が虚しく見える。目前に迫っている国家の危機に対して護憲派は具体的対案を持っていない。朝日、毎日と全国の地方紙、いわゆる左翼系メディアも相変わらず外交努力を唱えるばかりだ。安保法案反対デモで有名になったSEALDSのリーダーも最終対策は「話し合い」だと言う。彼らの問題意識に疑問を持たざるを得ない。   は               

  国際情勢が悪化する中で、トランプ大統領が日米安保条約の片務性と在日アメリカ駐留軍撤退の可能性を言い出した。アメリカのわがままな発言に驚き、反発した向きも多かったのではないか。                                      しかしアメリカのポチと言われながらもアメリカの核の傘、パックスアメリカーナといわれる安全集団の中で安穏に暮らしているのが日本である。いま放り出されて自力で国を守る羽目になったらどうするのか。 竹島、尖閣、シーレーンなど眼前の危機に対する方略を持たず、話し合いの理想論を唱えるばかりの左翼、リベラルの護憲運動は民衆の支持を失いつつある。 

 左翼メディアのオピニオン記事を見ていると、国と国民をを守るという国民国家最大の問題の認識回路がどうなっているのだろうと疑いたくなる。この人たちは昔の無政府主義者(アナーキスト)か、懐疑論者に似ているように思えることがある。 戦前戦中に犯した知識人とメディアの過ちの反動で、ナショナリズムアレルギーにでもなったのかと言うのは行き過ぎだろうか。

▼  危険な右翼                                          今回の総選挙で自民党は圧勝し、当面の日本の政治的大勢は決まった。護憲派は衰退し、改憲はいまや時の流れになっているといってもよいのではないだろうか。
 左翼が衰退すれば右翼が伸びる。右翼と言えば 極右のヘイトスピーチ、戦前回帰の軍国主義、極端な精神主義のイメージがつきものだ。の                                       自虐史観や右翼攻撃の情報と著作は山のようにある。改めて素人の庶民があげつらうこともない。しかし最近の右翼の動きには不気味なものを感じる。   

 例の森友学園事件の背景にも出てくる日本会議のことだ。自民党圧勝の一因といわれている日本会議の動きがほとんど報道されないのはどうしたことだろう。  報道のタブーになっているのか、だとすればそれは何故なのか。どうもおかしい。
 日本会議はもともと「生長の家」に発するが今は関係がないという。しかし公明党が創価学会とは一線を画し政教分離の形をとっているのに近いのではないかという疑問も湧く。
 政教分離しているキリスト教圏の欧米諸国と政教一致のイスラム、この違いがこれからの世界情勢に大きく影響するといわれている。日本には一見関係ないように見えるが戦前戦中の軍部暴走と「統帥権独立」の関係の本質は政教一致問題に近い面がある。天皇制の権威と軍の権力融合の結果といってもよいのではないか。警戒するに越したことはない。

 戦前戦中に生まれた人なら2.26事件5.56事件始め戦後の浅沼社会党委員長暗殺事件、長崎市長銃撃事件など多くの右翼テロを同時代感覚で知っている。惨烈な記憶だが反面教師として、戦前回帰抑止の教訓として、もう一度思い出す必要があるのではないか。
 先日NHKスペシャル「白骨街道 戦慄の記録インパール」(再放送)を見た。二度目だったが戦慄すべきは戦死の実体もさることながら軍団司令官牟田口中将の証言だ。彼の狂気の精神主義は知られているが、あの悲惨な結末についても全く反省しておらず責任も感じていないのに改めて驚いた。彼は東京裁判でも裁かれず日本人からも訴えられていない。        
  私も何度かブログに戦争の疑問点を書いてきたが、天皇、および軍上層部、マスメディアの戦争責任は未だに曖昧なままなのに悲哀感さえ覚える。
                                        改憲と右翼の動きの行き過ぎ(オーバーシュート)に対する歯止めは、きわめて重要な問題だ。だが今の政治家、知識人、メディアや活動家の市民に歯止めの役割効果を期待できるだろうか。悲観的になる。                                                        
▼ポピュリズムと「軽薄」な国民性の不安   

   左翼知識人とメディアがオピニオンリーダーとして世論を形成していた時代は終わったように見える。戦後、高等教育の普及、インターネットの出現、都市化、サラリーマン時代、知識人とマスメディア組織の硬直化、など要因はいろいろ考えられるが、いずれにしろ一般庶民との間に断絶の壁が出来つつあるようにも見える。
「護憲派の左翼リベラルが衰退」は前にも述べたが、世界的なポピュリズム時代といわれるなかで日本もその流れの中にいるのかもしれない。
                                        心配なのは情緒的、同調性、付和雷同といったキーワードで示される日本人の「軽薄」な行動パターンだ。
  戦前戦中の知識人とメディアは積極的に戦争熱を煽り、付和雷同の庶民気質との相乗効果で狂気の時代が出現した。砂を噛むような苦い思い出だ。
  戦後は一転左翼全盛期となり進歩的文化人や新左翼の知識人に煽られ、猫も杓子も社会主義者になったようだった。    

  その後、東西冷戦からソ連崩壊を経て左翼は世界的規模で衰退した。日本では自民党の長期政権が続き、日本の保守傾向は確定したように思える。今回の平成29年選挙の時に左翼系のテレビで某コメンテーターが「日本人の8割は保守」と言っていたのが印象的だった。  

 アジアの近現代史、日本史を読むと日本人は右顧左眄、あっちに走りこっちに傾き落ち着きがない。熱しやすく冷めやすい。和辻哲郎の「風土」では台風的性格と言われた国民性だ。たまたま見たテレビのドキュメンタリーで作家の山田風太郎氏が「日本人を簡明な一言でいえば『軽薄』」と言っていた。納得のいく一言だった。
  
 もう一つ、日本人の弱みは情緒的傾向が強いことだという。日本人の優れた感性は世界的に認められているが反面、理屈っぽい話をいやがり議論も下手で同調的だ。昭和25年に出版された笠晋太郎の名著「ものの見方について」の序文に「日本人には自分の考えというものが欠けている」とあるが67年後の今もあまり変わっていないのではないだろうか。    
 憲法改正議論に必要なのは情緒より論理だ。このへんのことは藤原正彦の「国家の品格」と鈴木光司の「情緒から論理へ」を対比して読んで教えられた。
              
 こういう風に考えてくると、われわれ日本人には戦前回帰の精神主義復活の恐れなしとはいえない国民性の弱さがあるようだ。憲法改正機運の中で、まず国民性の光と影を冷静に認識することが実りある論議の前提といえるのではないだろうか。      

▼ 老人の知恵

 九条論議は戦争と平和という大問題だ。昔は何か問題があれば、長老がいて意見がまとまったものだが。今やオピニオンリーダー不在の時代だ。
  少し古い話になるが、何気なくテレビを見ていると、あの高名な元米国務長官キッシンジャーが日本の大学生にこう言っていた。「今の若い諸君は老人より知識が豊富だ。しかし老人には物事を判断する知恵(wise)がある」。                           「老人の知恵」とは何だろうと考えた。例えば絶対平和主義的憲法九条の理想論に対して制約条件による加除修正を加えて現実的な実現論に導くことかと思う。 戦争体験者はただ戦争は悲惨だ、二度と戦争をしてはいけないと言うだけでなく、具体的な老人の知恵を出すべきだと思う。                              
                                        例えば憲法論議は壮大な試行錯誤問題であると考えてみる。
 最近は自動化、ロボット、AIなど高度技術のキーワードが普通に使われるよ
うになった。自動制御系の「フィードバック」やシーケンス制御の「論理ブロック図」もそのうちの言葉だ。 自動制御系の「反応特性」、「行き過ぎ(オーバーシュート)」などの知識は社会的な動きの分析にも役立つ。     
  いろいろな議論から文系的レトリックや修飾語を取り除き、「論理ブロック図」入りの小論文調にして みると、驚くほど文章が簡明になり文意がわかりやすくなる。感情的レトリックの応酬は無駄が多すぎるのだ。

 社会系の卑近な例では日本の自動車メーカーがもっとも得意とする品質管理にこのような科学的思考が取り入ではれられている。品質管理のプラン・ドウ・チェック・アクションである。このなかのチェックが試行錯誤系でいうフィードバックだ。
                                         理屈っぽくなるが科学の試行錯誤系ではフィードバックがマイナスであれば系は収斂しプラスであれば増幅し拡散する。(プラスのフィードバックの例が拡声機だ)
  
   問題を試行錯誤系に模擬すると反応の特性、行き過ぎ(オーバーシュート)などの科学的な分析に役立つ。     
 系(システム)を収斂させるのが老人の経験的フィードバック効果だとすれば、増幅拡散させるのがメディアのアジテーション(煽動)効果だと言うことも出来そうだ。明治以来のわが国の動きを「論理ブロック図」とフィードバック制御の模式図にすることも出来る。                           
     
  当たり前のことをもっともらしい屁理屈にすり替えているのではないかと言われそうだが、感情的・情緒的あるいは難解な法学的九条論議が横行している中で、冷静な科学的思考方法を加えることができないだろうかと思うのである。
                 
 ▼ 老人右傾                   

 元英国首相チャーチルの有名な言葉がある。     
「 二十歳までに自由主義者(liberal)でなければ、情熱が足りない。四十までに保守主義者(conservative)でなければ、知能が足りない。(抜粋)」
          
 日本では自由主義者を左翼、保守主義者を右翼と言い換え、護憲派は理想主義者、改憲派は現実主義者という言い方もあってややこしい。チャーチル首相の言葉と合
成すれば「若いときには理想主義者で自由主義者、年をとれば現実主義者で保守主
義者」になる。案外この辺が実態に合うのではないだろうか。         
 読売新聞社主筆の渡辺恒雄氏、評論家の西部邁氏など有名人の多くが左翼から右翼へ転向しているのも日本的特徴ではないだろうか。
        
 もともと「ノンポリ」というより政治オンチの私などが年をとる毎に右に傾くのはある意味、自然なのかもしれないと思う。右傾化した私には竹島問題や尖閣問題、北朝鮮核問題における左翼系知識人とマスメディアの「対話」オンリー主張にはついて行けないものを感じる。
        
▼ むすび        
                                        ここまでの記述をキーフレーズでまとめてみる。                                      現憲法はマッカーサー(GHQ)の原案によって作成された絶対平和主義の憲法であり、日本を無力化するのが主目的だった。                                      東西冷戦によるアメリカの世界戦略の変化によって自衛隊が創設されたため、憲法と現実の矛盾が生じ、苦し紛れの解釈憲法を巡って論議が混乱している。                                      厳しい世界情勢の中で現実的な安保対案を提示できない左翼・リベラルの護憲派は衰退し、右翼・保守の改憲派が優勢になっている。 
 *左翼は国を守る観念が薄く、右翼は戦前の精神主義に回帰する危険がある。                                      今の知識人・マスメディアは政治的オピニオンリーダーとしては信頼できない。                                      一方、庶民大衆は同調型で付和雷同しやすい。「軽薄」な国民性についての不安がある。                   
 *老人、戦争体験者は情緒的な反戦平和論だけでなく、経験や知識に裏付けされた「知恵」を提示すべきである。

 つまるところ安全保障の根幹にある憲法前文と九条の論議はやっぱりおかしい。「解釈憲法」を巡る不毛の論議が続いている。                                      今もっとも必要なことは原点回帰と本質論と国民性の自覚だ。早い話、情緒より論理、お互いに頭を冷やして考えるべき時だということになる。 
             
▼《追記》なぜ書くか          
  蛇足になるがこの小文を書いた動機のひとつは平和主義を唱える護憲派の知識人とマスメディアの事大主義な体質にに対する不信感である。同じように、戦争を体験した有名人の方略なき感情的反戦論にもうさんくさいものを感じるからである。
  それと、私には戦争体験者として及ばずながら何か言わなければ、という強迫観念のようなものがある。兄が戦死しことと、戦後間もないときに米軍千歳空軍基地で約1年半、公務員として米軍の調達要求(プロキュレメント・デマンド)に対応した経験があり、敗戦の重みについて特別な思いがあるためでもある。   

 2年前にも「なんだかヘンな安保論議」と「左翼も右翼もウソばかり」を、先月は「北の核ミサイル報道と既視感(デジャブ)」をブログに投稿したが、北朝鮮の核戦略が極限段階になったのを見て、改めて平和憲法とは何だろうと考えた結果でもある。戦前のように「なし崩し」、「成り行き」で国が危険な方向へ傾くのが心配なのである。
                                                     
 さらに言えば人間は社会的動物であり群れたがるという。疎外を恐れ、社会とつながりを持っていたいという老人心理が底辺にあって、多少の体験をもつ戦争と平和について語りたくなるのかもしれない。
 いずれにしろ私ごとき一庶民が憲法論議で発言するのはおこがましいとは思うが、「自由」と「ネット」に甘えてそれができる。北朝鮮はもちろん中国、ロシヤではこうはいかない。                                                       (2017/11/18)