エッセー

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コロナ報道あれこれ

2020-06-19 11:28:37 | 読書

 テレビも新聞も毎日コロナウィルス感染の報道に溢れている。
 最初は人ごとのように感じていたが、イタリアで「トリアージ(識別治療)が始まったらしいというニュースに驚いた。九十過ぎの私は当然後回し、死ぬ選択を強いられる。われながら現金なものでそれから真剣にコロナニュースを見るようになった。

                                                                                                                               ▼ 報道の混乱                                                                                                    

注意してみるとテレビの各キー局は似たような情報を羅列し、地方局がまた繰り返す。新聞も似たような状況だ。大量の情報が流れているが体系的に整理されていないことがすぐ分かる。

 例えば身近な「マスク」の報道内容は、例によって「発表報道」で、批判というより揚げ足取りが目立つ。自主的な「調査報道」は貧弱だ。私が見ている地方新聞では二度「コロナウィルス感染特集」を掲載したが二度目の内容には「マスク」の項目自体がなかった。                          
  感染防止効果の有り無しから始まった「マスク」騒動では、当局も有識者も混乱した。しかし、情報を整理選択し体系的に報道すべきマスメディアもその機能を発揮できなかった。             
      
  コロナ報道の混乱ぶりを見ていると、アラビアンナイトの「アリババと四十人の盗賊」を思い出す。盗賊がアリババの家のドアに目印のバッテンを書き、アリババはそれを消さずに周りのたくさんの家のドアにバッテンを書いて目くらましをした、あの話だ。 似たような情報が多過ぎると、伝えたいことが、かえって伝わりにくくなる。極端に言えば無いのと同じだ。                
                                                                                                                              釈迦に説法だが、情報はただ多ければ良いというものではない。 あらためて情報の多様化、報道分野のオピニオンリーダー(昔は新聞)消滅を痛感した。

  結局、科学的で客観的基本的な情報はネット検索で手に入れた。

                                                                                                                              

 使い捨て文化                             

 マスク報道でもう一つ驚いたのは不織布の使い捨てマスクのことだ。
  最初の頃、専門医も「マスクはすぐ捨てて下さい。再利用はダメです」と言っていた。その後マスク不足の中で、再利用の方法も報道されたが、「使い捨て文化」が浸透していることについて改めて考えさせられた。

   戦前生まれの私は、安全カミソリが普及しだした頃に聞いた話を思い出す。
昔、カミソリは「末代も」のだった。それではあまり売れないので、ほどほどに傷んで取り替えが必要になる「安全カミソリ」が発明された。 わざと長持ちしないように作られた大量生産・大量消費製品の走りだというのだ。   
           
「もったいない」とか「清貧の思想」とかさらには「吾唯足るを知る」という禅語が一時話題になったこともあるがすっかり忘れられているようだ。                   使い捨て文化は浪費の文化だ。プラスチックごみが地球規模の問題になっている時代だ。使い捨てマスクの問題をきっかけに、ボトムアップ的に「浪費習慣」を見直す「空気」にならないものだろうか。                   

                                                     ▼ サプライチェーン                           

  「マスク」に関連してさらに考えさせられたのは、サプライチェーンとグローバル化の問題だ。
  「マスク」の9割は中国産だがコロナ渦のため輸入がストップした。弱いサプライチェーンは東日本大震災の時にも問題視されたが、医療用製品にもこんな落とし穴のような問題があったのかと驚いた。

 サプライチェーンはグローバル化の中の問題であり、グローバル化は今ナショナリズムとの軋轢で大きな問題を抱えている。「マスク」不足が世界的な変革の時代の動きに関連していることを思い知った。                  

 「マスク」不足で大騒ぎになっことから、改めて日本の食糧自給率も心配になった。日本は先進国の中では最低の30%台で、フランスは100%だという。戦中戦後の飢餓状態を忘れられない私のような年寄りには、食糧のサプライチェーンが一番心配なのである。       


 ▼ 自分の社会的立ち位置                         

 コロナ報道では次々とカタカナ語が出てくるが「エッセンシャル・ワーカー」という言葉を初めて聞いた。「キー・ワーカー」「クリチカル・ワーカー」ともいい、
「社会を支えるために必要不可欠な仕事に従事している人たちのこと」だという。                                      コロナ渦報道の中で特に医療従事者、宅配業者、スーパーの従業員、介護や保育の仕事にかかわる人、公共交通機関で働く人、ゴミ収集業者などが多くの報道でクローズアップされた。 
   ほとんど報道されなかったが電気水道ガス、などのライフラインとインフラ関係者なども、「エッセンシャル・ワーカー」だと思う。
 
 コロナ対策の中でエッセンシャル・ワーカーではない、「不要不急」と分類されたスポーツとエンタメ関係者の一部の人にはショックだったのではないだろうか。

  このたびの社会活動自粛とトリアージ報道で、それぞれ自分の立ち位置、社会的存在価値について、嫌でも考えさせられたと思う。 

 ある落語の師匠が弟子に「米一粒、魚一匹 取れないわれわれだ。いざという 時は、のたれ死にするしかない商売なのだよ」の言っていたという。卑下のし過ぎ、と思うが、一方、室内で帽子をかぶり黒い色眼鏡を掛けて「反体制」「体制全否定」を唱え、アウトロウを標榜する人達が税金による休業補償を求めるのには違和感がある。      
 コロナ渦が収まったあと検証すべき重要な問題の一つではないだろうか。
                           

 ▼ ベーシックインカム(BI)

  国民一人あたり10万円無差別支給が決まり、これはもう「ベーシックインカム」だという報道があった。ずいぶん思い切った政策だと驚いた。
  BIは人工知能(AI)による大量失業の対策として発想されたはずだ。時期も2045年から2050年頃の予想だった。自動化の仕事の端っこをかじったことのある私は新書レベルの知ったかぶりでAIとBIのことをブログに投稿したことがある。2年前のことだ。 BIは近未来の話と思い込んでいた。                        ところがネットで検索してみると欧米と発展途上国の数カ国ですでにBIを試験的に導入しているという。変化の早いのにまた驚いた。

  BIには賛否様々の意見があるが、本格的な議論に発展し、定着する可能性があるのだろうか。もしそうなれば社会システムの一大変革となる。

 ハイテク化が始まった1970年代から人間は集約労働から解放され、創造的なことに専念できるといわれた。現実にはエンタメ化が進んだだけのように見える。
  ベーシックインカム普及で働く意欲を失い、パチンコとライブに明け暮れる群衆のイメージが思い浮かぶ。悲観的過ぎるだろうか。

 

 国民性

 コロナ渦対策で日本は法律による強制ではなく自粛要請でロックダウン(都市閉鎖)などを行った。それでも感染者数も死者も少ない日本は「奇妙な国」として羨望を込めて不思議がられている。
 東日本大震災のときも日本人の規律ある行動は賞賛された。今回も外人風に「われわれの国民性を誇りに思う」と言ってもいいと思う。            
  
  しか し一方で医療関係者に対する 謂われなきなき差別、嫌がらせという信じられないような愚行があった。「受診たらい回し」と、事情も調べず一方的に批判した報道もあり、テレビ番組でゲストの医師が怒っていた。
     
 「同調性」、「集団主義」「世間」など日本人の特徴的パラダイムは未だに外国人には理解がむずかしいらしい。                        
 気配り、気遣い、根回し、忖度などいわば「陰の規範」は若い日本人にも分かりにくくなっているようだ。多くの日本人(文化)論が出版されているがこのたびのコロナ渦は改めて自国の民性を考えるチャンスではないだろうか。


 ▼メディアリテラシー 

  コロナ報道では相変わらずマスメディアによる反政府反安倍の情報が垂れ流しの
状態だ。第四権力といわれるマスメディアには三権分立と違って相互規制の勢力も組織もない。メディアが恐れるのは視聴率だけだが、理屈っぽい議論を嫌い、同調的な日本人はあまりメディアへの批判攻撃をしない。

  憎まれ役を買って出ると言うほど大げさな話ではないが、あえてメディア報道のネガチブな面ををひとくくりにしてみた。(前回4/10日投稿内容とダブりますがご容赦下さい)
 戦前戦中の権力による「検閲」は悪夢であり、絶対にあってはならない。しかし、戦後メディアの勝手すぎる「行き過ぎ」をチェックすることは必要だ。視聴者によるウォッチグループぐらいはあってもいいと思うがどうだろう。
 
新聞       
  遅い。  テレビとネットが出現して以来新聞ではなくて旧聞だ。                    古い。  象徴的なのは「誰も読まない」といわれる社説。旧態依然の論理パター     ンで庶民感覚から浮いている。
  
テレビ
  民報がひどい。エンタメに占領されているようで、ジャンクの垂れ流しだ。
エンタメ出身のキャスターにシリアスなニュースのコーディネーションは無理のようだ。 
ソーシャルメディア
 せっかくの優れたツールをうまく使えず。ジャンクとフェィクとデマのカオス状態になっている。

  メディアの多様化で、今やオ勝手の大新聞のようなオピニオンリーダーはいない。既成メディアの奮起を望んでも無理だと思うので、やはりソーシャルメディアに期待したい。今だからこそ敗戦から立ち上がって昭和を生きた世代の知恵とリーダーシップが必要なのだと思う。この世代から啓発的な意見をもっと発信して貰いたいと思う。

  
 ▼ 感慨

  話は飛躍するが「ベッドから落ちた病人は、ベッドに上がることしか考えない。形而上的なことを考えるのはベッドに戻ってからだ。」という、ある作家の言葉を強く記憶している。                                                                  コロナ後の世界は大きく変わるといわれている。世界観、死生観も変わるだろう。

 コロナ渦報道の氾濫は続くだろう。わたしは報道メディアに振り回されることなく自分でもよく考えなければ、とごく平凡なことを思っている。                                                                                  (2020/06/19)