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葉室麟 作品集 「無双の花(むそうのはな)」 6

2015-09-10 07:52:45 | 葉室麟 作品集

葉室麟 作品集  「無双の花(むそうのはな)」 6 

 

立花宗茂の一生を綴った作品である。

「立花の義は裏切らぬこと」との信念のもと厳しい道を切り開き天寿を全うした(寛永19年(1642)享年76歳没)武将の物語である。

主家の婿養子となり、立花となり、主家の娘「千代(ぎんちよ)」と結ばれる。

この千代(ぎんちよ)を、宗茂は「無双の花」と呼び、また、夫婦愛の素晴らしが描かれている。

 

無双とは、「故事成語「国士無双」に由来し、並ぶ者が居ないほど優れた者」を意味する。

 

秀吉の九州征伐で、その武功を認められ、九州柳川で13万2千石余りの領地を与えられた。

関ケ原の戦いでは、太閤の恩に報いるため西軍に加わる。

利あらず、大阪城での籠城を献策したが、ままならず、九州柳川に帰る。

鍋島は西軍に所属したが、いち早く徳川家康に謝罪し、立花宗茂討とうと、柳川に押し寄せてきた。また、東軍の加藤清正と黒田如水が押し寄せてきた。

どうにか和議が成立。西軍薩摩の征討の先陣となり、向かうが、薩摩が家康に謝罪で終結する。しかしながら、柳川は没収され、加藤家の厄介となる。

その後、京・江戸で、大名復帰を家臣とともに待ち望み、慶長11年(1606)、2代将軍秀忠に拝謁、旗本5千石で召し抱えられる。その後、奥州南郷1万石で大名に復帰、慶長15年(1610)3万石となる。

秀忠の側近の「御咄衆(おはなししゅう)」として、大阪冬・夏の陣にも参加。

元和6年(1620)11月、秀忠から「筑後柳川11万石に再封する」と沙汰される。

慶長6年(1601)に上洛して以来、実に19年が経っていた(18年前、千代(ぎんちよ)を亡くす。)。

宗茂は、この20年の間に、「わが立花の義は天下泰平のためにこそある」と知った。

朝鮮で戦い、関ケ原の戦いで敗れたわしに与えられた役目は、泰平の世を守ることであった。

 

・真田の義(真田信繁=真田幸村を登場させ)生き抜くことでござる。

・徳川の義(家康の義) 泰平の世を作るためには手を汚すことを恐れぬ。

・長宗我部盛親 西軍に属し、領地没収をされる。盛親に太閤への義とは問われ、宗茂は、「西軍に加わり、負け、柳川を没収されたので」帳消しと、この作品では描かれている。

 

 

 ・年表等

   慶長5年(1600)関ケ原の戦い 

   慶長8年(1603)家康 征夷大将軍 

   慶長10年(1605)秀忠 征夷大将軍 

   元和9年(1623)家光 征夷大将軍   

    故事成語「国士無双」に由来し、並ぶ者が居ないほど優れた者のこと



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