820note

820製作所/波田野淳紘のノート。

引力について。

2014-03-28 | メモ。
ロミオとジュリエットの瞳をしてお互いを見つめあう若い二人と、エスカレーターですれ違った。あんな目が現実にあるんだからな。演劇、もっと突き詰めなくちゃいけない。

過去と未来、余韻と予兆のすべてを覗きこむ目。霧の向こうの黄金を見つめる目。大切な手紙の一字一句をたどる目。星の数を数える目。
自分がこの生で探すべきすべてがそこにある、という確信。

あんな目を人間はできるんだな。
美しいものを見たな。町は歩いてみるものだな。

疾走、悪夢、星々など。

2014-03-25 | 生活の周辺。
安西水丸さんがお亡くなりになっていたことを知らず、ショックを受けた。



川村さんの新刊『神なき国の騎士 あるいは、何がドン・キホーテにそうさせたのか?』を読み、思わず、落涙。川村さんの戯曲に幾度も深く胸を打たれてきたけれど、こんなにプリミティブに泣かされたのははじめてだった。ああ。



このところ、毎晩のように、悪夢を見ている。古典的な悪夢を。ゾンビの群れに襲われ暗がりで息を殺す夢とか、おばけあるいは悪魔的な何かに追いかけられている夢。本を読んでいる夢を見た。小島信夫のような文体の小説で、そこに登場する男は家路をたどるとき、毎晩のように背後に忍び寄る足音に悩まされている。男は思う、あの足音がおれに追いついたとき、おれはおれを奪われ、連中の場所に囚われて、もう帰れない、等々。

なんだかもっと、悪夢にしても、鮮やかでめくるめくイメージのそれを見たいよ。夢さえ手垢まみれの日々であるよ。



ないんさんに教えていただき、小沢健二の出演したテレフォンショッキングの映像を観た。感涙。小沢健二は、小沢健二だった。変わらないものと、いっそう研ぎ澄まされていくものと。年齢を重ねることを、恐れることはない、と思わされる。それにしてもぼくは泣いてばかりいるじゃないか。



稽古。のっちに「ここのせりふは、星々に向けて」と演出の言葉を伝えたとき、何の迷いもなくそれを飲みこみ演じていて、救われた思いがした。

初めての通し。予想した時間より、15分ほど短くなった。短くなろうが長くなろうが、こんなに予想とかけ離れてしまったことは、あまりうれしいことじゃない。
台本の文字数でいえば、その上演時間だったらいつも30,000字に少し足りない程度のはずだった。でも今回は40,000字。10,000字ほど、いつもより疾走している。

だんだん、稽古場での演説の量が増えてきている、これこれはこうで、ああでと、イメージをだらだらとしゃべくり散らかす。届いている顔と、必死に理解に努めている顔と、何言ってんだこいつ、という顔がある。本当に勉強になる。



堀さんと、たたかいましょう、とこぶしを握りあう。そうです。わたしという存在の扉をすべて開けっぴろげにして、世界と渡り合います。大きな何かに接続を試みます。たたかおう。

≪おまえと世界のたたかいにおいては、世界のほうに味方せよ。≫
≪精神のたたかいにおいて、自と他を分けることの無意味。≫
(フランツ・カフカ)

静けさ。

2014-03-21 | 生活の周辺。
昨夜、松本さんからメールをいただき、そこに書かれていた言葉を受け取って、泣きました。



『聞こえる、カフカ?』稽古になかなか手こずっている。
決して「大作」とは言えない内容だ。それこそ『吸血鬼との共存、あるいはピクニック・クロニクル』のほうがよっぽど構えが広く、大変だった。にもかかわらず、今回の芝居はぼくにとっては「大作」だ。この二年ほど、大人数の芝居を手掛けていなかった、鈍っている、それだけのことかもしれない。演劇の現場から遠ざかっていた。
現実のマテリアルの一つずつを異化しようと試み、果たせず、そのことをいま、もがいている。手元に寄せられたあらゆる事象の垢をそぎ落として、もうひとつ大きな次元の現実を浮かびあがらせること。いつになくそのことを演出する者に対して、戯曲が要求している。必要なのはスリルなのだが、そうなのだが……。



と、混乱している。いちおうモチーフはカフカのはずなのに、カフカの迷宮感はどこへやら。だれに怒られてもいいけれど、カフカに怒られるのは悲しい。苦笑くらいで済むだろうか。あなたは笑ってくれるだろうか。