820note

820製作所/波田野淳紘のノート。

スクリーミン。

2009-10-31 | 生活の周辺。
Screamin' Jay Hawkinsをはじめて聴いてびっくりする。



たぶんトトは好きだろう。なぜかユルガリを思いだしてしまった。無責任に思うけども、そろそろ新作やらないかな。

820製作所の舞台において、僕はダンスへのアプローチに本腰を入れることに決めた。メンバーの人たちは覚悟するといい。ヒップにキュートに振りつけてやる。

前途洋洋。面白いことはたくさんある。待っていやがれ、楽しい未来。

スパイラルムーンを観て思ったこと。

2009-10-30 | 芝居をみた。
スパイラルムーンの舞台では、人がものを食べる場面がよくあらわれる。
取りあげた戯曲がぐうぜんにそのことを指定しているのか、それとも演出家である秋葉さんの意向なのか、それはわからないけれど、ただ食事の場面はいつも、とても丁寧に演出されている。
食卓にあげられるものは、スイカであったり、そうめんであったり、おにぎりであったり、すき焼きであったり、さまざまであり、これが大事なことだが、彼らはそれがなんであれ、無心に食べる。もくもくと、儀式のように、とくべつな表情を添えることもなく。
そんなふうに舞台の上で役者が「本当に」食べ物を口に運ぶとき、あるいはコップ一杯の水を力強く飲み干すとき、僕はドキドキしてしまう。
ほかの芝居でそのように感じた覚えはない。たとえ、ものを「本当に」食べる場面があらわれたとしても、往々にして行為は状況に奉仕し、食べることはそのとき、劇のなかでただ記号として機能している。貧しさをあらわすために食べるとか、だらしなさをあらわすためにとか、そこが喫茶店であるからとか、ね。

スパイラルの役者たちは、誰もが、何気なく食べているように見える。戯曲の指定だから、物語の展開上、といった外在的な理由はそこにはない。そもそも、食べなくても、そんな場面は省いても、物語が損なわれることはなさそうなのに、むしろ筋の運びのテンポを遅らせてしまうようなのに、そんなことはお構いなしに、彼らはただ、食べている。彼ら自身の欲求に従って、食べている。そのように見える。
その演出の方法は僕にはひとつしか思いつかない。
「いつものように食べてください。でも、本当にお腹を空かせること」

咀嚼する音。嚥下する音。会話の中断、途切れたセンテンスの余韻。不意の吃音。
生きるために必要なこと、どうしても断ち切ることのできないもの、そういった物事の発するリズム。

食事をする人をまじまじと見つめる機会はあんまりない。それはいけないことだ、マナーに反することだ、という意識がなんとなく僕の頭にはある。
セックスとか、睡眠とか、排泄とか、人が人を殴ることとか、身を守るための悲鳴とか、それが「本気」である限り、僕たちには決して気取れない場面がある。食事もそのひとつであり、「本当に」食べる人がそこに現れたとき、僕たちの目に写るのは、装えず、むきだしにされたからだに宿る、プリミティブな愉悦にほかならない。
からだは時折、理性や意識をそれて、それじたいで動きはじめる。
そして僕にとって、それが自分のものであれ他者のものであれ、そのような振る舞いを直視することは恥ずかしい。裸を見せているようなものだから。
でも秋葉さんは見る。ごまかさずに見る。僕たちのからだの内奥から、くすぐったく匂いたつエロスを、じっと見つめる演出家の視線が確かにそこにはある。

もうひとつ、スパイラルムーンの舞台に立ちあって気づくことは、聖なるものの気配だ。
舞台に降りかかる光は美しい。僕のいるところからそれは、質量をもった微細な輝きが、いつまでも降りやまずに、際限なく、遥かな高みから贈り届けられているように見える。劇中を彩る音楽は時に、もしかすると必要以上に、崇高な印象を与えるが、祈りの背後で奏でられる音楽のように、どこか遠くからの風のふくらみを感じさせる。
やがて物語がひとつの終わりにたどりつく頃、光と音はのびのびとひろがり続け、劇場を満たすことになる。

スパイラルの生きる物語は、幻想の領域を描くことが多かった。
その世界には少しだけいつもと違う何かがあって、その何かに抵抗し、あるいは必死に納得しようと試み、人が格闘する姿を描出するとき、美しい絵空事のなかに立っていたのは、僕たちのみすぼらしいからだだった。
いつも通りの日常のなかをはみ出してしまう心の彷徨に、いつでもからだは付き添い、物語の終わりのまぶしい光のなかに立つのはいつも、この頑迷な、ことによると薄気味の悪い、気取れなくて、上手に踊れなくて、まごつくからだだった。
人の想像の織りなす限りない優しさのなかに、じっとうずくまるようにして事態を眺めていた重たいからだが、自らを持ち上げ、バランスを調え、どうにかして立ち上がるまでを、静かに寄り添うように見つめる視線がそこにはあった。

この生身のからだを引き連れて、聖なる場所へ。
何度でも、ここがどこでも、その一歩を踏みだそうとする演出家の覚悟を僕は心から信頼する。

SPILAL MOONの『水になる郷』に、820製作所の佐々木覚と、昨年から立て続けに僕たちの舞台に携わってくれた洞口加奈さんが出演。日曜日まで、下北沢の「劇」小劇場にて。

観終えて、一夜明けた今日、目が覚めて最初に発した一言が「クドヒデさん…」だった。どういうことだろう。

あれから世界は。

2009-10-21 | 生活の周辺。
ある時期から、観にいった芝居のパンフレットをできるだけ手元に残すようにしたので、膨大な量がたまってしまった。それを整理する。
懐かしい気分にさせられる。あれから7年も経っていることに呆然とする。まだ高校生のときだった。電車を乗り継いで出かけていった、はじめての街。友達と歩く東京。東京の夜。音楽室と、巡業と、ある夜の祈りの芝居。暗がりから現れ、いくぶん上気しながら「こんなもんだよ」とその人は言った。7年前、5年前、4年前のチラシを眺めながら、この芝居観たいなぁ、と興味をかき立てられるものがいくつか。いくつも。今はもうすべて失われた舞台。なんて心強いのだろうか。過去のどんな舞台もいまに響きを伝えている。チラシはその演劇の起こすいちばん最初の小さなアクション。人の想像力と想像力がぶつかる場に演劇が生じるのなら、ほんのわずかなりとも、静電気のように、しゃっくりのように、ふいに、いまでもここに演劇がはじまる。5年後に、誰かに再び眺めてもらえるようなチラシを作りたいと思う。

作り手と観客をつなぐ存在がずっとほしかった。劇団として。でも、もういいや。まず何よりも先に僕が一人で立たないと。牽引する力を持たないと。眼差しの位置を定めないと。他者へと触手をのばす演劇をしっかりと創らないと。正しい方向にじたばたしよう。

作品の惹句を思いついて加藤くんにメールで送ったら「ビビッド。今、自分に言われたみたいだよ」と返信がきて笑う。そして嬉しくなる。たいした文句じゃないのだけど、ナイーヴすぎるかも、意味わからないかも、誰にも通じないかも、って小さくなっているときに、そう言われてほっとした。まあでも、そのあとのやりとりに脈絡がなかったので、もしかすると加藤くん、酔っ払っていたのかもしれないが。

きっと、どこかに共有するものがあるから同じ船に乗っているんだろう。4人とも、まず僕を筆頭に、とてもまぬけだ。気が抜けている。迷子になったことにも気づかずに笑っている子どもたち、のような危うさ。それでいて頑固。頑固だよなぁ、820の人たちは、どう考えても。頑固っていうか、不器用なだけなんだけども。

良いことも悪いことも伝わり合う。《だめ》は感染する。だからこそしっかりと、まずは一人で立たないと。期待せず、ごまかさず、利用せず、自閉せず、各自のたたかいを続けないと。

年の暮れにメンバー4人だけで芝居を創ることにした。はじめての試み。それ自体はでも特別なことじゃない。心をこめて、それぞれの役を生きること。あたりまえのことを丁寧に。まずはそこから。5年後、10年後に、嬉しい印象とともに思い返してもらえるように。

しびれる。

2009-10-19 | 生活の周辺。
勇太さんの家でチラシ作り。
またたく間に、格好いいデザインができあがる。さすがだなあ。無茶なことをたくさんお願いした。スナフキンは涼しそうに笑ってた。大好きだ。ありがとう、勇太さん。

そのあと高円寺の駅前で、やきとりを食べる。寒風だったけれも、外に座る。よもやま話をしながら、寒風だったけれども、元気に食べる。
いい町だった。北口はあまり探索したことがなかったけれど、レコード屋も、古着屋も、古本屋も、喫茶店も、みんな楽しそうに並んでる。居心地がよさそうに並んでる。

自分の抱えた傷を慰撫するためには創作って、っていうより表現って、かなり有効で、うまくいけばそれは他者にも届くものになるのかもしれなくて、でもだけど他者の傷口を、不潔な手でむりに消毒しようとするような思いあがり、無自覚さ、お門違いの使命感には吐き気がする。そうじゃないだろ。ぜんぜんちがうだろ。

なんだか右肩がしびれる。
誰かついてきてるの?
大丈夫だよ。一緒にいようよ。夜が終わる。もうおやすみよ。

さて。

2009-10-18 | 生活の周辺。
劇団紹介のプロフィールをつくろうとしたのだけど、納得のいくものは、どうにも無理だった。

これがうまくいったとき、あるいは開き直れたとき、820製作所はもう少し何とかなるだろう、けど。

演劇のことを、いろいろ考えて、でもまだ言葉にならない。
僕は自分のことがめちゃくちゃ嫌い。

それは救い。

けらけら。

2009-10-17 | 生活の周辺。
小学5年生の教科書に、ルナールの「蝶」という短い詩が載っていて、

二つ折りの恋文が、花の番地を捜している。
(岸田国士訳)

ため息をつく。訳が見事すぎる。11歳からこれを習うのかぁ。

最近「築地に行こう!」と誘われて「行く行く!」と答えたはずなのだけど、誰と交わした会話なのかを覚えてない。頭が崩れてるのだろうか。

崩れてるんだろう。
まあ、でも、笑っていようよ。いようじゃないか。

泣きじゃくる。

2009-10-14 | 芝居をみた。
昨日、というかもう一昨日、信頼する友人から勧められ、ハイバイの『て』を観にいき、あんまりにも面白くて、優しくて、さわやかで、悔しくて、身にしみて、声に出して泣いた。鼻水が手にべっとり。終演後、トイレに駆けこんで、またひとしきり泣く。

ああ。

ああ、僕は、演劇がやりたくて、演劇をしてるんだよなぁ、とか、しまりのない頭で、ぼんやりと考える。
感想とか、思ったことをくだくだしく書こうとしたのだけど、ちょっといまは無理だ。

トイレから出て、エスカレーターをのぼって、まだ昼間の池袋で、熱がさめるまで、ぼんやりと時間を過ごす。
二年前、あんなに通いつめたのに、街のかたちをまったく忘れてる。

帰りの電車で山川直人の『シアワセ行進曲』を読む。
それでまた泣く。

怒りとか、悲しみとか、ネガティブなものは描きやすい。
でも「シアワセ」を、勘違いじゃなく、ひとりよがりじゃなく、遠く、深く、広く届けることは難しい。

山川さんは、愛おしいものを、きちんと守っているんだ、この世界で、あきらめずに。

青くて上等だぜ。

2009-10-12 | 生活の周辺。
僕は、あともう少しでじぶんのことを「劇作家」と呼んでみてもいいのではないか呼べるようになるのではないかそうなる日も近いのではないかとうぬぼれていたのだが、とんだ勘違いだった。つくづくケツが青いなあ。青くて上等だけどさ。人間観の底の浅さに辟易。これしきのことで揺さぶられてどうする。でもいいことを聞いたよ。人間って奥が深いよ。わからないことだらけですよ。なにをいまさら。

さて、きょうは、神奈川県内の、とある島へ、820製作所のメンバーと一緒に、極秘裏でむかう。
覚さんは残念ながら、稽古の都合で断念。ガッツです。
カメラマンの勇太さんに同行してもらい、観光客の冷たい目を浴びながら、わりと恥ずかしいポーズで、パシパシと写真を撮る。

で、これが灯台の前でウクレレを抱えた男の子、を撮る勇太さん。


このあいだこの場所に来たときに、ああしたいな、こうしたいな、と思っていた絵を、イメージ通り、いやたぶんそれ以上に素敵に、撮ることができた。あたりまえだけど、人の「思い」や「思ったこと」が世界を動かしていくんですよね。すごいね。こんなのささやかなことだけど、でもすごいなあ。びっくりしてもいいことだよ。

で、これがギターを抱え、太陽を背に「We Love You!」と絶叫する勇太さん。


頭の中に描いたイメージを、ほんとうにカタチにしていくことの愉悦。これが俺の一番のストレス解消法かも。でもそのために死ぬほどストレス蓄えてるけど。

ちなみに僕はいままで生きてきて、スナフキンのオーラをまとっている人と三人知己を得たのだが、そのうちの一人が、勇太さんだ。とても旅が似合う。というか、どこにいても、いるだけでその場所を旅の空間に変容させてしまう。あこがれてしまう。スナフキンは煙草を吸い終え、バイクにまたがりスイスイと山道を走っていった。

勇気。

2009-10-05 | 生活の周辺。
《締切りを私は守ったことがない。締切りというものは私にとっては唯一、いつも破るという限りにおいて存在するのです。金を返すようにと裁判所の執行官が来ても、私の事情というものがある。》(『闘いなき戦い』ハイナー・ミュラー)

それはそうと、たまに立ち寄るファミレスでお会いするウェイトレスのおばさまが、いかに素晴らしい人なのかをここに書きたいのだけれど、うまく言い表せそうにない。とても繊細で微妙な話だから。

まず第一に、いついかなる時も彼女は踊っている。比喩ではなく。
扉をあけ、おじぎをする彼女と相対したときから、あれ、へんだなと思う。すでにダンスは始まっているのだ。テーブルへと導かれながら、僕たちは自然と彼女の踏むステップに歩調をあわせ、席に着くとともに軽い高揚感を覚える。それと気づかせずに客を相伴させるダンス。熟達の技。それから後、注文をとるときも、料理を運ぶときも、お会計のときも、そわそわうずうず、いつでも素直に心の沸き立ちを響かせている。手首とか、足先とか、肩甲骨とか、からだのあらゆる部位に、あるいは言葉(いらっしゃいませ/こちらへどうぞ/どうぞごゆっくり)のはしばしに。

第二に、彼女はとても元気だ。
声が大きいわけじゃない。動作がとくべつに機敏だというわけでもない。むしろハンカチをそっと折りたたむように声をつかい、水の底をたゆとうように歩く。
ただ満ち足りているのである。満ち足りた人間から周囲に溶けだしていくあのやわらかな幸福感を彼女もまた放ちつづける。

第三に、言うまでもないことだが、彼女の微笑みが絶えるのを見たことがない。

ただそれだけのことなのだけど。
彼女のダンスや元気さや曇ることのない微笑みがどのように魅力的で貴いものであるのかを、その細部を、言葉にする力が僕にはない。

笑顔を崩さずにファミレスで踊りつづける元気な中年の女性のことを「とても変な人」とカテゴライズしてしまう社会を僕は知っている。
でも彼女は、そんなふうにレッテルを貼ろうとする者の指先こそを手にとって、いまこの時間も、お店のなかで、世界のどこかで、晴れやかにダンスをつづけている、誰かを迎えるために。

おなかのすいた誰かを、よるべのない誰かを、じぶんの座る場所へ案内するために、だ。

とりあえず胸をそらせて。

2009-10-02 | 芝居をみた。
電車のなかで女子高生が「あたし大和撫子になるっ。頑張って性格変えるわ」と宣言していて、ああ、頑張れば性格が変わる年齢なんだなぁと思って、こっそり応援した。

乗り換えのために降りた駅のホームに、ムーミンの鞄を肩に提げているお姉さんがいて、あやうく惚れそうになった。やあ、あなたもムーミン谷から。あちらではそろそろ冬眠の季節ですね。スナフキンはもう出発したのでしょうか。僕たちはいまどこを旅しているのでしょうか。

そんな修行の秋。

近所にできた素敵な喫茶店へ足を運ぶ。
おとぎ話の小道のような、やわらかな草花に彩られた庭を横切ると、ちっちゃな埴輪がお出迎え。
店内にはグランドピアノ。優しい味の珈琲。絶品のカレー。マスターはアーティストで服飾のデザイン・縫製も手がける。めちゃくちゃかっこいいジャケット!
ここで芝居がやりたい、やりたい、やりたい、と気持ちが膨らむ。

加藤くんの本番を観に渋谷へ。
シンプルな舞台セット。緻密な脚本。遠くの旋律に耳をすます意志。
『聖者の行進/reprise』のときに大きな力を貸してくれた西山さんと古川さんと再会する。
お元気そうで何より。また芝居をいっしょにやりたいな。この現場で加藤くんは「じれったい人」の立ち位置にいるようだ。うん、じれったくあれ。うずうずさせるんだ。でも板の上では心をひらけ。

靴下の片一方が必ず行方不明になる友人の話を聞いて笑う。

原因不明の吐き気と悪寒と頭痛にさいなまれる。友人は「それを風邪というのだよ」と。嘘だ、バカは風邪をひかないんだぞ。

上を向いて歩こう。嘔吐はとりあえずこらえよう。ハードボイルドに、揺るがずに、こんがらがらずに、人を愛そう。あのちっぽけな埴輪のようにね。