スパイラルムーンの舞台では、人がものを食べる場面がよくあらわれる。
取りあげた戯曲がぐうぜんにそのことを指定しているのか、それとも演出家である秋葉さんの意向なのか、それはわからないけれど、ただ食事の場面はいつも、とても丁寧に演出されている。
食卓にあげられるものは、スイカであったり、そうめんであったり、おにぎりであったり、すき焼きであったり、さまざまであり、これが大事なことだが、彼らはそれがなんであれ、無心に食べる。もくもくと、儀式のように、とくべつな表情を添えることもなく。
そんなふうに舞台の上で役者が「本当に」食べ物を口に運ぶとき、あるいはコップ一杯の水を力強く飲み干すとき、僕はドキドキしてしまう。
ほかの芝居でそのように感じた覚えはない。たとえ、ものを「本当に」食べる場面があらわれたとしても、往々にして行為は状況に奉仕し、食べることはそのとき、劇のなかでただ記号として機能している。貧しさをあらわすために食べるとか、だらしなさをあらわすためにとか、そこが喫茶店であるからとか、ね。
スパイラルの役者たちは、誰もが、何気なく食べているように見える。戯曲の指定だから、物語の展開上、といった外在的な理由はそこにはない。そもそも、食べなくても、そんな場面は省いても、物語が損なわれることはなさそうなのに、むしろ筋の運びのテンポを遅らせてしまうようなのに、そんなことはお構いなしに、彼らはただ、食べている。彼ら自身の欲求に従って、食べている。そのように見える。
その演出の方法は僕にはひとつしか思いつかない。
「いつものように食べてください。でも、本当にお腹を空かせること」
咀嚼する音。嚥下する音。会話の中断、途切れたセンテンスの余韻。不意の吃音。
生きるために必要なこと、どうしても断ち切ることのできないもの、そういった物事の発するリズム。
食事をする人をまじまじと見つめる機会はあんまりない。それはいけないことだ、マナーに反することだ、という意識がなんとなく僕の頭にはある。
セックスとか、睡眠とか、排泄とか、人が人を殴ることとか、身を守るための悲鳴とか、それが「本気」である限り、僕たちには決して気取れない場面がある。食事もそのひとつであり、「本当に」食べる人がそこに現れたとき、僕たちの目に写るのは、装えず、むきだしにされたからだに宿る、プリミティブな愉悦にほかならない。
からだは時折、理性や意識をそれて、それじたいで動きはじめる。
そして僕にとって、それが自分のものであれ他者のものであれ、そのような振る舞いを直視することは恥ずかしい。裸を見せているようなものだから。
でも秋葉さんは見る。ごまかさずに見る。僕たちのからだの内奥から、くすぐったく匂いたつエロスを、じっと見つめる演出家の視線が確かにそこにはある。
もうひとつ、スパイラルムーンの舞台に立ちあって気づくことは、聖なるものの気配だ。
舞台に降りかかる光は美しい。僕のいるところからそれは、質量をもった微細な輝きが、いつまでも降りやまずに、際限なく、遥かな高みから贈り届けられているように見える。劇中を彩る音楽は時に、もしかすると必要以上に、崇高な印象を与えるが、祈りの背後で奏でられる音楽のように、どこか遠くからの風のふくらみを感じさせる。
やがて物語がひとつの終わりにたどりつく頃、光と音はのびのびとひろがり続け、劇場を満たすことになる。
スパイラルの生きる物語は、幻想の領域を描くことが多かった。
その世界には少しだけいつもと違う何かがあって、その何かに抵抗し、あるいは必死に納得しようと試み、人が格闘する姿を描出するとき、美しい絵空事のなかに立っていたのは、僕たちのみすぼらしいからだだった。
いつも通りの日常のなかをはみ出してしまう心の彷徨に、いつでもからだは付き添い、物語の終わりのまぶしい光のなかに立つのはいつも、この頑迷な、ことによると薄気味の悪い、気取れなくて、上手に踊れなくて、まごつくからだだった。
人の想像の織りなす限りない優しさのなかに、じっとうずくまるようにして事態を眺めていた重たいからだが、自らを持ち上げ、バランスを調え、どうにかして立ち上がるまでを、静かに寄り添うように見つめる視線がそこにはあった。
この生身のからだを引き連れて、聖なる場所へ。
何度でも、ここがどこでも、その一歩を踏みだそうとする演出家の覚悟を僕は心から信頼する。
SPILAL MOONの『水になる郷』に、820製作所の
佐々木覚と、昨年から立て続けに僕たちの舞台に携わってくれた
洞口加奈さんが出演。日曜日まで、下北沢の「劇」小劇場にて。
観終えて、一夜明けた今日、目が覚めて最初に発した一言が「クドヒデさん…」だった。どういうことだろう。