あるいはエンドロールのない世界で、訪れる明日を祝福すること。
なによりもそれはことばのたたかいだ。
小野さやか監督の『アヒルの子』がいまジャック&ベティで上映されている。
ひとりの女の子が自らの家族を「壊す」過程を描いたドキュメンタリーだ。
僕たちはだれひとり同じことばを使ってはいない。どんなに長い時間をともに過ごした家族でも、恋人でも、まったく別個のそれぞれにかみ合わないことばを手に世界を生きている。ときには奇跡のように合致することもある。互いに浸食し合い、ついにはそれぞれをつなぐ岸辺の地形を変えてしまうこともある。互いを削ぎあう衝突の連続に、擦り切れるような痛みを抱えるはめになることも、やがて磨耗してのっぺりとした目鼻のないことばだけを手に疲れはててしまうことも、当然ある。
親密で調和した世界があり、そこからはみ出してしまうことばがある。響きの合わないことばは連中の朗らかな笑いを引き攣らせるだろう。親密で調和した世界があり、そこに違和と嫌悪しか感じない者がいる。連中は連中のことばできみを寸断し、錘をあちこちにつけるだろう。ことばには重力があり、きみを巻きこみ、その内部に縛りつける。親密で調和した世界があり、きみはそこでは口をつぐむしかない。たたかいがはじまる。
このことを口にしたら世界が凍ってしまう。
きっと世界が終わってしまう。
僕たちはそんなことばを持っている。嘘じゃない。「ほんとうのこと」を持たない者などひとりもいない。
このフィルムのなかにはそんなことばを抱えて震えてる女の子が映っている。
たたかいに赴くとき、彼女の足がぶるぶると震えてしまう。からだを流れる血が鼻水の筋となってとどめようもなく垂れてしまう。世界を映す瞳がきゅっと縮まる。ため息が幾度もからだを駆け巡る。
それは比喩ではなくほんとうに世界を砕くことばだ。投げつける自らも無傷では決していられない、そのような類の。
だから、その女の子はもう片方の手に映画を握りしめたんだろう。ことばを届ける砲台として。
人を殺すためでも自分を殺すためでもなく、それは象徴的には「殺す/壊す」ための行いかもしれなくても、彼女は生き延びるために、端的に言えば「仲直り」をするために、くそったれの世界にあたらしい調和をもたらすために、たたかう。包丁ではなくハサミでもなく、ことばとカメラと映画の文法で立ちむかう。
とても個人的なたたかいであり、その記録であり、あるいはそれは「作者の吐瀉物」と呼ばれる危険もあるし、映像のレベルとは別のところで「その程度の暗闇なんか」という批判が生じる可能性もあるが、そう、俺だって映像のレベルとは別のところで映画を語っているんだからこれは批評でも何でもない感想文だが、よかったんだ、とっても。すれ違いつづけることばでも、どんなにかみ合わなくても、たがいにそれを許し合うことができるということ。そのとき、彼らを包もうとするもっともっと大きなことばが生じる予感。
映画は終わるがこの世界にエンドロールはなくて、だから解決されない様々なものごとは自ら抱きしめにいくしかないんだな、とか。
7月30日まで横浜のジャック&ベティで、そのあとは西日本で順次公開とのこと。
先日上演した『青い鳥の群れ/靴』がまさに「家/ホーム」と「ことば」をめぐる物語だった。
ふつう表現をする者は誰でも自らの表現を見つめる怜悧なまなざしを持っていて、作品を生みだすこと、他の作品に触れること、日々を生きること、他の生と交わること、そのくり返しのなかで少しずつまなざしの数は増え、鋭さは磨かれていく。大勢の人間に愛される作品を創る者は、自分のなかに大勢のまなざしを持っている。
芝居を上演したあと、誰かから「意味がわからない(から、だめ)」とか「爆睡」とか「死ね」とか言われるたび、僕のなかにきみがいなくてごめん、と心から思う。
そんなことも映画を観ながら考えていたのさ。
なによりもそれはことばのたたかいだ。
小野さやか監督の『アヒルの子』がいまジャック&ベティで上映されている。
ひとりの女の子が自らの家族を「壊す」過程を描いたドキュメンタリーだ。
僕たちはだれひとり同じことばを使ってはいない。どんなに長い時間をともに過ごした家族でも、恋人でも、まったく別個のそれぞれにかみ合わないことばを手に世界を生きている。ときには奇跡のように合致することもある。互いに浸食し合い、ついにはそれぞれをつなぐ岸辺の地形を変えてしまうこともある。互いを削ぎあう衝突の連続に、擦り切れるような痛みを抱えるはめになることも、やがて磨耗してのっぺりとした目鼻のないことばだけを手に疲れはててしまうことも、当然ある。
親密で調和した世界があり、そこからはみ出してしまうことばがある。響きの合わないことばは連中の朗らかな笑いを引き攣らせるだろう。親密で調和した世界があり、そこに違和と嫌悪しか感じない者がいる。連中は連中のことばできみを寸断し、錘をあちこちにつけるだろう。ことばには重力があり、きみを巻きこみ、その内部に縛りつける。親密で調和した世界があり、きみはそこでは口をつぐむしかない。たたかいがはじまる。
このことを口にしたら世界が凍ってしまう。
きっと世界が終わってしまう。
僕たちはそんなことばを持っている。嘘じゃない。「ほんとうのこと」を持たない者などひとりもいない。
このフィルムのなかにはそんなことばを抱えて震えてる女の子が映っている。
たたかいに赴くとき、彼女の足がぶるぶると震えてしまう。からだを流れる血が鼻水の筋となってとどめようもなく垂れてしまう。世界を映す瞳がきゅっと縮まる。ため息が幾度もからだを駆け巡る。
それは比喩ではなくほんとうに世界を砕くことばだ。投げつける自らも無傷では決していられない、そのような類の。
だから、その女の子はもう片方の手に映画を握りしめたんだろう。ことばを届ける砲台として。
人を殺すためでも自分を殺すためでもなく、それは象徴的には「殺す/壊す」ための行いかもしれなくても、彼女は生き延びるために、端的に言えば「仲直り」をするために、くそったれの世界にあたらしい調和をもたらすために、たたかう。包丁ではなくハサミでもなく、ことばとカメラと映画の文法で立ちむかう。
とても個人的なたたかいであり、その記録であり、あるいはそれは「作者の吐瀉物」と呼ばれる危険もあるし、映像のレベルとは別のところで「その程度の暗闇なんか」という批判が生じる可能性もあるが、そう、俺だって映像のレベルとは別のところで映画を語っているんだからこれは批評でも何でもない感想文だが、よかったんだ、とっても。すれ違いつづけることばでも、どんなにかみ合わなくても、たがいにそれを許し合うことができるということ。そのとき、彼らを包もうとするもっともっと大きなことばが生じる予感。
映画は終わるがこの世界にエンドロールはなくて、だから解決されない様々なものごとは自ら抱きしめにいくしかないんだな、とか。
7月30日まで横浜のジャック&ベティで、そのあとは西日本で順次公開とのこと。
先日上演した『青い鳥の群れ/靴』がまさに「家/ホーム」と「ことば」をめぐる物語だった。
ふつう表現をする者は誰でも自らの表現を見つめる怜悧なまなざしを持っていて、作品を生みだすこと、他の作品に触れること、日々を生きること、他の生と交わること、そのくり返しのなかで少しずつまなざしの数は増え、鋭さは磨かれていく。大勢の人間に愛される作品を創る者は、自分のなかに大勢のまなざしを持っている。
芝居を上演したあと、誰かから「意味がわからない(から、だめ)」とか「爆睡」とか「死ね」とか言われるたび、僕のなかにきみがいなくてごめん、と心から思う。
そんなことも映画を観ながら考えていたのさ。