葬儀は祖母の遺志で、お坊さんも呼ばず、セレモニー・ホールも使わず、花で飾られた実家の和室に棺を置き、ごく近しい者だけがそばで見守る、家族葬というかたちで行われ、入れ替わり立ち替わり、ご近所の方や、久しくお会いしてなかった親類の方々が線香をあげに来てくださり、みなそれぞれの思い出ばなしをして帰っていく。
――おばさん、僕が子どものころ、おばさんは僕を連れて、○○町に住む、三人姉妹のもとに連れていってくれたでしょう。20歳前後のきれいな人たちでした。おばさんはいちばん上のお姉さんと熱心に話しこんでいて、待ってるあいだ双子の妹のほうが、僕とよく遊んでくれました。会うのが楽しみだった。このごろよく思いだすんです。ふしぎな時間でした。夢だったようにも思う。テレビか映画でみたものを勝手に自分の記憶にしているのかもしれない。大人になってから、あれは誰だったんだろう、どうしておばさんは僕を連れてってくれたんだろうって、ずっとふしぎに思ってたんです。あの人たちは誰だったんです。あれは、おばさんの生徒さんだったんですか。
――いいえ、ちがうのよ、あの子たちはね……、
物語が目覚めるような会話を、たくさん聞いた。
叔父の中学からの友人である方が来てくださり、むかしは悪者であったという叔父と、この町のはなしをしていた。青春時代を60年代・70年代の横浜で過ごした人たち。僕はもう物語のなかでしか知らない町。彼らの交わす言葉の端々にそのころの熱気が宿る。あとで、ゴールデンカップスの軌跡を追った記録映画を見せてもらった。なんていう不穏な音だ。ゾクゾクするような格好よさ。いい顔してるなぁ、みんな。ミッキー吉野、悪そうな顔してるなぁ。
叔父夫婦を見て、幸福っていうやつは、日々たゆまずにごまかさずにコツコツと積みあげたものが形をなしているのだなと、当りまえのことを思う。「信じられないような」って形容される幸福は、実はたいしたことないんじゃないかと。宝くじが当たらなくても、互いに支えあうステディや、お姫さまのような娘や、還暦を間近にあだ名で呼びあう40年来の友人と笑いあえる時間を持つほうが、よっぽど大事なことだろう。それでも「信じられないような」ことは起こるし、それを乗り越えるためにはまた、日々の裏で重ねてきたものが必要となるのだな。
報せを受け取ったのは地元の駅の改札を抜けたところで、その足ですぐに病院に向かい、一瞬だけ間にあわなかった。病院の入口にはちょうどタクシーから降りてきたばかりの叔母と従妹がいて、早足で階上にあがり、まだ呼吸器と点滴がつながれたまま横たわる祖母の部屋に案内された。数分のあいだに何人かが遅れて駆けつけた。おおまじめな場面である。化粧と着替えををすませた祖母の顔を、従妹は写メで撮りはじめ、よいアングルを求めてベッドのまわりを回りだし、いまはそういう時代なんだ! と軽くカルチャーショックを受けていたら、祖母の妹は真剣な顔で、この角度がいいわよ、なんて指示出しをしていた。僕はずっと笑ってた。これはもう祖母の人徳。湿っぽくさせないように、なんでもないことのように、周りの者が気を配る。
棺のそばで、ずっと音楽が流れていた。
祖母が好きだったという曲や、叔父が大ファンであるところの南沙織のベスト、あるいは棚に眠っていたクラシックの名曲集。いつか芝居で使ったことのある音楽も流れだした。そういえば、一度だけ僕の出演した芝居を観にきてくれたことがあった。劇の途中、交通事故で死ぬ役。終わったとき、祖母は泣いていた。僕は困って、泣かないで、と言った。泣きながら、あんたがいちばんよかった、と僕の手をとった。そんなわけないよ、と繰り返したが、おばあちゃんが嘘をつくはずがないので、たしかにおれがいちばんよかったんだろう。よかったにちがいない。いちばんよかったおれを観せられてよかった。おれの行く末をいつも気にしていた。大学を卒業するはずの時期に就職も卒業もしていないおれをふしぎそうに見ていた。お骨を持って家に帰るとき、やはり音楽を流して迎えたのだが、それはメロウに濡れたピアノの曲で、やりすぎだと思った。安っぽい下品な曲。泣かせてどうするんだ。遺影も苦笑してるじゃないか。演出家として、ここで流すべきは、忌野清志郎の歌うデイ・ドリーム・ビリーバー。それ以外に考えられない。ただ、もちろん、それも過剰にやりすぎで、どっちにしろ僕は泣くだろう。ありがとう、おばあちゃん。
――おばさん、僕が子どものころ、おばさんは僕を連れて、○○町に住む、三人姉妹のもとに連れていってくれたでしょう。20歳前後のきれいな人たちでした。おばさんはいちばん上のお姉さんと熱心に話しこんでいて、待ってるあいだ双子の妹のほうが、僕とよく遊んでくれました。会うのが楽しみだった。このごろよく思いだすんです。ふしぎな時間でした。夢だったようにも思う。テレビか映画でみたものを勝手に自分の記憶にしているのかもしれない。大人になってから、あれは誰だったんだろう、どうしておばさんは僕を連れてってくれたんだろうって、ずっとふしぎに思ってたんです。あの人たちは誰だったんです。あれは、おばさんの生徒さんだったんですか。
――いいえ、ちがうのよ、あの子たちはね……、
物語が目覚めるような会話を、たくさん聞いた。
叔父の中学からの友人である方が来てくださり、むかしは悪者であったという叔父と、この町のはなしをしていた。青春時代を60年代・70年代の横浜で過ごした人たち。僕はもう物語のなかでしか知らない町。彼らの交わす言葉の端々にそのころの熱気が宿る。あとで、ゴールデンカップスの軌跡を追った記録映画を見せてもらった。なんていう不穏な音だ。ゾクゾクするような格好よさ。いい顔してるなぁ、みんな。ミッキー吉野、悪そうな顔してるなぁ。
叔父夫婦を見て、幸福っていうやつは、日々たゆまずにごまかさずにコツコツと積みあげたものが形をなしているのだなと、当りまえのことを思う。「信じられないような」って形容される幸福は、実はたいしたことないんじゃないかと。宝くじが当たらなくても、互いに支えあうステディや、お姫さまのような娘や、還暦を間近にあだ名で呼びあう40年来の友人と笑いあえる時間を持つほうが、よっぽど大事なことだろう。それでも「信じられないような」ことは起こるし、それを乗り越えるためにはまた、日々の裏で重ねてきたものが必要となるのだな。
報せを受け取ったのは地元の駅の改札を抜けたところで、その足ですぐに病院に向かい、一瞬だけ間にあわなかった。病院の入口にはちょうどタクシーから降りてきたばかりの叔母と従妹がいて、早足で階上にあがり、まだ呼吸器と点滴がつながれたまま横たわる祖母の部屋に案内された。数分のあいだに何人かが遅れて駆けつけた。おおまじめな場面である。化粧と着替えををすませた祖母の顔を、従妹は写メで撮りはじめ、よいアングルを求めてベッドのまわりを回りだし、いまはそういう時代なんだ! と軽くカルチャーショックを受けていたら、祖母の妹は真剣な顔で、この角度がいいわよ、なんて指示出しをしていた。僕はずっと笑ってた。これはもう祖母の人徳。湿っぽくさせないように、なんでもないことのように、周りの者が気を配る。
棺のそばで、ずっと音楽が流れていた。
祖母が好きだったという曲や、叔父が大ファンであるところの南沙織のベスト、あるいは棚に眠っていたクラシックの名曲集。いつか芝居で使ったことのある音楽も流れだした。そういえば、一度だけ僕の出演した芝居を観にきてくれたことがあった。劇の途中、交通事故で死ぬ役。終わったとき、祖母は泣いていた。僕は困って、泣かないで、と言った。泣きながら、あんたがいちばんよかった、と僕の手をとった。そんなわけないよ、と繰り返したが、おばあちゃんが嘘をつくはずがないので、たしかにおれがいちばんよかったんだろう。よかったにちがいない。いちばんよかったおれを観せられてよかった。おれの行く末をいつも気にしていた。大学を卒業するはずの時期に就職も卒業もしていないおれをふしぎそうに見ていた。お骨を持って家に帰るとき、やはり音楽を流して迎えたのだが、それはメロウに濡れたピアノの曲で、やりすぎだと思った。安っぽい下品な曲。泣かせてどうするんだ。遺影も苦笑してるじゃないか。演出家として、ここで流すべきは、忌野清志郎の歌うデイ・ドリーム・ビリーバー。それ以外に考えられない。ただ、もちろん、それも過剰にやりすぎで、どっちにしろ僕は泣くだろう。ありがとう、おばあちゃん。