820note

820製作所/波田野淳紘のノート。

鳥だったその頃の記憶。

2011-06-13 | ノート。
十月の芝居の、『つばめ/鳥を探す旅の終わり』のノートを書いた。
「で、だから?」と言われたらひとたまりもないもの。
でも、これはノート。ただのノート。
心の忙しくないとき、よかったら。

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 青い鳥は、幸せの象徴として語られます。
 象徴とは、隠されたもの、かたちのないものを、かたちあるものに託し、あらわすこと。
 本来、触れることも見ることも、名指すことも難しいそのものを、具体的な事物によって、くっきりと輪郭づけること。それが象徴のはたらきです。

 幸せを、夏の陽射しとして語ることもできます。生きる力そのもののようなきらめく光線に、草木にこぼれる宝石のような輝きに、幸せと通じるなにかをわたしたちは見ます。
 もしかしたら冬、急ぎ駈ける朝の白い吐息とも、見知らぬ異国の夜の舗道とも、それを語ることができるでしょう。あるいは背の高いトウモロコシ畑と、まだあたたかなふかふかのバゲットと。道ばたの花壇と、くたびれたパジャマと、そして青い鳥と。

 鳥は、その声の届くかぎりに歌を運び、ちいさな物音に怯えては、また大空を駈けめぐります。
 やさしく世界を楽しませながら、同時にとてもか弱く、頼りなく、はかない存在でもあります。

 メーテルリンクの著した『青い鳥』はチルチルとミチル、幼い二人の兄妹が、そのながい旅路の果てに青い鳥を見つけるまでの物語で、探していた鳥はけっきょく自分たちの部屋のなかにいました。
 この物語はたくさんの象徴を秘めています。
 探すべき幸せは、もっともそばに最初からあるのだと、そう語ることもできます。本当はいつもそこにあるのに、ただ、人はそのことに気がつかないだけなのだと。
 また、幸せはいつだって一歩先にあるのだから、求めつづけなければ手に入らないのだと、そう語ることもできます。物語の終わりで、鳥が再び空へと飛び去るのを見送り、泣きはじめた恋人の手をとり、もう一度約束を――鳥を探す約束を交わすチルチルのように。

 じつは、チルチルとミチルは、自分達の部屋に青い鳥がいることを、そもそものはじめから知っていました。
 ところが二人に旅をうながす魔女は、それは「ほんとう」には青くないのだと語ります。そしていま、どうしても「ほんとう」に青い鳥が入り用なのだと。そのために二人は旅に出なければならないのだと。
 およそ一年をかけた旅を経て、もといた部屋に帰りついたとき、ようやく、それがたしかに青い鳥だったとわかるのです。

 なぜ、鳥はその羽根を「ほんとう」に青くしたのでしょう。
 いえ、「ほんとう」には青くなかったはずの鳥を、それでも「ほんとう」に青いのだと、彼らはなぜ知ることができたのでしょう?

 魔女が二人の部屋を訪れたのは、クリスマスの前の晩でした。
 そのとき、二人の兄妹は、窓から「向かいの、お金持ちのこどもの家」を眺め、その豪奢なよろこびの夜に、すっかり心を奪われているところでした。食べきれないほどのお菓子、たくさんのおもちゃ、歌とおどりの大騒ぎ。けれどわが家にはツリーもなく、「クリスマスのおじいさん」さえ今年は来られません。
 窓の外で、こどもたちがお菓子を食べはじめます。兄妹が、お菓子を「自分ももらったつもりになって」、想像のそれを分けあうフリをするとき、とつぜん戸がノックされ、魔女が姿をあらわすのです。

 なんという正確な、出発の合図でしょうか。
 「暗くって、小さくって、それにお菓子もない」このうちを出て、二人は様々な国を旅します。
 行く先々で、青い鳥は見つかります。ですが、捕まえたとたんにそれは色をうしない、くたびれて死んでいきます。「ほんとう」ではなかったのです。
 目をこらして、闇をすすみます。闇はときに二人を打ちのめしますが、見るべきものをまっすぐに見るための役にも立ちます。
 見たいものでなく、見えるものを。見えるものではなく、隠されたものを。隠されたものではなく、目のまえにあるそれを。ただ「ほんとう」のことを。
 そうして、みすぼらしかったはずのわが家のうつくしさに息をのみ、もういらなくて「みむきもしない」でいた鳥こそが、ずっと探していた鳥だったのだと知ることになります。

 たとえ、その鳥が青くなくても。弱弱しく、情けなく、頼りない存在であっても。だれからも見捨てられ、かえりみられない存在であっても。
 たとえそうであろうと、二人がその鳥を愛しみ、守ることのできるちからを得たとき、旅は終わりました。

 鳥が、鳥のまま夢を見て、歌うことを許される場所。
 おそらくはそのような場所こそを、わたしたちは家と呼び、家族や家庭と呼び、ホームと名づけたのです。わたしたちはそんな場所をいつも、いつでも日々の内に探しています。探しつづけている。

 青い鳥はどこにもいません。わたしたちが旅を終えない限りは。
 きみを裏切る仲間と、きみに信頼を寄せる仲間とを引き連れて、ときどきはたったひとりで、この世界の深い森を歩きださない限りは。

 兄妹の部屋に最初にいたあの鳥はもしかしたら、チルチルとミチル自身であったのかもしれないと思います。それは、二人の両親にとっての青い鳥であったのだと。
 だとしたら二人の旅は、幼きものを守り、時に縛りつける「かご」から抜けだして、自らが「おとな」となるための大切な試練だったにちがいありません。

 わたしたちは鳥でした。いつか、その羽根を青くしました。
 わたしたちは鳥でした。いつか、その声で世界を楽しませました。

 だれがなんと言おうと、わたしたちは鳥で、いつか、だれかの旅路の果てに、その羽根を青くしました。

 傷つき、声をなくしても。
 記憶の底をまさぐっても、羽根を青くした覚えがなくても。
 無力であることに嫌悪しか感じなくても。

 いま、生きている限り、わたしたちはだれかに、なにかに守られて、いつかひととき、夢を見ました。

 かごの外へ、一歩足を踏みだせば、ときに嵐のように傷つくこともあります。
 たたかいに敗れ、足がもつれ、窓の外へ落下しても、救いの手が差しのべられることは稀です。
 けれど、ただしく落ちつづける者だけが羽ばたくちからを持ち得るのだと、わたしたちは知っています。

 旅を、その終わりを、描きたいと思います。
 象徴的に。
 だから、なによりもあなたの深くにたどり着くように。

 幸せな芝居をします。


『つばめ/鳥を探す旅の終わり』ノート[1]