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時事問題を中心にブログを書く日々です。
イタリアオペラのソプラノで趣味は読書(歴女のハシクレ)です。日本が大好き。

一意専心・・・皇族問題と小和田家や皇室に有害な有識者会議などは切り離して考えるべきである(最終)

2012年02月26日 | 社会

再掲になるが、「建国記念の日」の平沼赳夫氏からの一斉メールより抜粋。

安易な女系天皇容認・長子相続優先などは、我が国の歴史の連続した流れを断ち切ることに繋がります。
我々の祖先の守り続けてきた伝統を、現在だけの価値観で否定し破壊することは、断じて許されることではありません。
後世の日本と日本人ためにも決して認めるわけには参りません。
また皇室の問題を、一部の報道機関などが浅薄な世論調査などのパーセンテージによって論ずる姿勢も不見識極まりないことだと思います。

文化や伝統は、守り受け継ぐものであり、多数決の論理で安直に、否定し改変すべきものではないと存じます。

 当たり前のことですが皇室にかかわることを、決して政争の具にしてはなりません。
しかし現在の価値観だけに基づいた皇室典範に係わる結論ありきの議論や特定の意見以外を、封殺しようとする可能性があることこそが懸念されます。
 安易で拙速に過ぎる女性宮家創設論議や皇位継承論議に強く反対するとともに、神代から今日まで繋がる皇室の長い歴史と伝統に基づいた見識ある十分な論議が尽されることを強く求めます。 (以上)



☆ 再び「皇室問題」について(最終)

これもこの言葉は私が「皇太子誕生日会見」で赤い字で入れているが、
皇族問題と小和田家や皇室に有害な有識者会議などは切り離して考えるべきである。・・・これを教えて下さったのは「円卓」の論客、鶏さまである。

皇室ゆかりのご家庭にお育ちになったKenさまも「雅子妃殿下のバッシングというのは何とも品位に欠けた行為。そもそもバッシングそのものが下品きわまるのにそれを御皇室にたいして向けるとは。

ただし小和田家はじぶんたちの立場をわきまえてないことは確かです。
口をつつしみ、じぶんたちの家から皇太子妃が輩出されたことにもっと粛々とすべき。
」とコメントされている。

また、鶏さまは、小和田家や皇室に有害な有識者会議(女性宮家など)=皇族
ではないことも述べていらっしゃる。

私が懸念しているのは、雅子妃批判が<際限なき憎悪>に広がってきていることである。
書きたくなかったが、例を挙げよう。

読みのも汚らわしい内容であるが「長期株式投資」というサイトに書かれた次のことをどう思われるか?
それを「深く同意」なんて、とても信じられないバカげた妄言である。
『批判から際限なき憎悪へ』への危惧でもある。

皇太子さま52歳 陛下の負担軽減「喜んでお助け」 2.23 08:26 (「長期株式投資」より転載)

記者会見の内容、ある程度予測されたものであったが、例年通り、雅子氏や愛子氏を擁護礼賛するばかり。

雅子は頑張っているだの、病気なので引き続きあたたかく見守っていただきたいだの…(陛下に対し大変不敬ながら)代替わりまでもう少しだとばかりに、必死に時間稼ぎを続けているのだろうが、国民への謝罪が全くないのはいつもながら唖然とさせられる。

「雅子や愛子が学習院の生徒、保護者、そして学校の皆様にご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」

「雅子が皇太子妃としての役目をまったくと言っていいほど果たせず、国民の皆様にご迷惑をおかけいたしましてまことに申し訳なく思っております」

「愛子の振る舞いが内親王としてはおろか、10歳の子供としてお恥ずかしいところばかりお目にかけて親として情けなく思っております」

等という言葉はこの先も出てこないだろう。

こんな徳仁氏よりも、かの山口県光市母子殺害事件の遺族で、犯罪被害者の立場を守るために戦ってきた本村洋さんの方が、はるかに日本人らしいと思うのは私だけだろうか。

徳仁氏はまるで卑劣な世論操作を繰り返す犯人・大月(福田)孝行やその担当極左人権派弁護士・安田好弘と同類ではないか。いや、法で裁けない立場にある点では、かの連中よりもっと厄介なのか。
(以上、転載おわり)

皇太子殿下とあの光市母子殺害事件の犯人、大月(福田)や安田弁護士と、同類、とは
しかも、法で裁けない立場にある点では、かの連中よりももっと厄介?・・・
これこそ「雅子妃批判から際限なき憎悪への広がり」ではないのか。
歯止めが効かず、文化大革命やフランス革命の「扇動された」民衆と同じ恐ろしさがある。
「このサイトに深く同感」、などいったいどうすれば「同感」できるのか・・・

そのほかのことは重複するものもあるがやはり再掲しておこう。
上のゴミサイトに同感などということ以外にも、「美智子」と呼び捨てに思い上がったコメントをなだめることもなく、祭祀をさぼっている、などと「上から目線」、少しは言葉を選べないものか・・・、
青山氏が言っていることは「女性宮家」についてであり、皇族個人をみんなで責め立てよと言っていることではない。青山氏はそんなことは微塵も言っていない。問題をすり替えているだけである。


ところで、さらりんさまがコメントで「一意専心」とお書きになった。
私はその意を深く受け止めたい。
この先、男系維持する時、私たちは覚悟しなくてはならないのは「私たちが望むような天皇陛下ではない」こともある、という覚悟である。(さすがさらりんさまは才女である。これは私たちへの覚悟を示されたものである。)
御病気やその他、いろいろあることも覚悟しなくてはならない。
これを「一意専心」で乗り越える、これからの展望である。
Kenさまのように「おつつしみを」と説得することも必要、また側近を「国士」でかためることも必要である。(平沼氏)
御病気なら佐々淳行氏のいうように「摂政」も考えられる。
それを乗り越えて今がある。
政治家と皇室とは違う。そにへんをわきまえないとどんでもない御仁に騙されることになる。

フローラはなさまが、「皇太子さまと雅子さま、お揃いで陛下のお見舞いにいらっしゃればいいのにね」ってお書きになっていた・・・それまで私は雅子妃が好きではなかった。
雅子妃への不満は、書こうと思えば山ほどあり、それを思うほど、批判が憎しみに変わってくるのを自分で「恐ろしい」と感じた。
その「恐ろしい」と感じたその時、フローラはなさまのさわやかなコメントだった。
フローラはなさまはその名の通り、美しく芳しい花々をいっぱい撒き散らして下さった。

ああ盟友、私を救って下さった・・・ここで私は絶望から希望へと変わった。
フローラはなさまは大きな松明を掲げてコメントにきて下さった。
いつもそうだ・・・いつも適切な政治批判を語られるフローラはなさまの大きさ・たくましさ!

また、さらりんさまの叡知、ご皇室関係の流れを受け継ぎ、東郷元帥のご子孫である賢明なKenさま、そしていつも確かな判断をなさる龍やんさま、また河村市長をいちはやく支持なさり私にそれとなく教えてくださったizanagiさま、美智子皇后の優しさを、そのままお感じになったフィリピン出身のizanagi夫人、その名のように気高い翡翠さま・・・その他、大勢の読者の方々、

私は多くを学んだし、今は心が晴れ晴れしている。
「一意専心」・・・日本人の尊い美学である。またそれは勝ち負けの問題ではない。
諸葛亮・岳飛・坂本竜馬・福澤諭吉・岡倉天心・ヴェルディ、など・・・国境も超えて美しいものは美しいのだ。















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2 コメント

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天皇への批判と2.26 (Ken)
2012-02-26 22:33:04
今日は「2.26の日」ですね。

どうしてこんな冬もそろそろ終わる日に雪がふったのでしょう。季節はずれの雪、2.26の抱いていた思想もまた、産業立国となった昭和日本には時代遅れになりつつあるものだった、のでしょうか。

さて、御皇室に対して批判の言葉をおくる、それ自体は、2.26の将校たちも同じでした。

たとえば将校のひとり磯部浅一のことば「天皇陛下のお振る舞いは何事か。皇祖皇宗に謝りなされ」。

天皇陛下に、神に謝れ、と言うとは、なんと激烈な批判でしょう。

しかしこれは、サムライの死を賭けた批判であり、この批判はむしろ御皇室の権威を高めるものです。

神風連は明治天皇の軍隊と戦ったが、かれらは神の占い(ウケヒ)によって決起し、我々に日本に神がいて、それが絶対であり、そのために死ぬ価値があることを教えた。

御皇室の権威を落とすメディアの薄汚いことばは、むしろ日本には神がおらず代理人としての人間天皇がいるのみだということを、世に伝播し、虚無感をひろげ、国家そのものを解体しようとしている。

巨大な違いです。

ニーチェの「神は死んだ」ということばがかえって(形骸化した神の向こうにいる)巨大な神の存在を知らしめるのと、通ずるメンタリティを、サムライたちの精神に感じます。
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2月26日に、ありがとうございます。 (Kenさまへ   ベッラ)
2012-02-26 23:46:10
今日は歴史的な2,26事件の日ですね。
私も本を買っています。
ついでですが、「二百三高地」DVDをレンタルしてきました。
これから見るわけですが・・・ドキドキですね。

「三国志」で趙雲子龍は、誠心誠意で仕えた名臣、何と片袖ぬいで後ろを向き、劉備に説教します。
これは「死」をかけた諫言と知りました。

軽い気持ちでなく、命がけで諫言する、そういえば魏徴もそうです。
「人生意気に感ず」と魏徴が自作の詩に書いたのは、それを聴きいれた皇帝の広さでもあります。

「巨大な違い」・・・よくわかります。
情けない今の言いたい放題、全く質が違います。

サムライという言葉、このごろよくわかります。
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