「ジャーナリズムの不在」を書いた時は体調が悪く、まとまりに欠け、アップするべきかどうか迷った。その後も削除することを考えたが、説明不足である以外は自分の意見として言いたいことを書いたので削除することはやめた。
また、この「基本的なスタンス」も書くべきかどうか迷いながら書いているが、とりあえず一度自分のスタンスを表明しておいたほうが今後書きやすくなるかとも思って書くことにした。
私の現在の基本的なスタンスは、平和主義でも国家主義でもなく、自由主義である。
国家観としては、国防・防災など国民保護と、セフティネットや老後保障など保険面の2点を強化する点で国家の役割があると考えている。それ以外は、地方分権や民間主導を推し進めた方がいいと思う。
自由な行動を保証するために、安全の確立、機会の平等、リスク分散は重要なことだ。安全の確立は、警察、防災のみならず国防や外交などと関わる問題だ。機会の平等は自由主義にとって最も大切で、既得権打破の構造改革の目指すものと言えるだろう。個人が自己責任において起こした行動の結果、全責任をその個人が負うのは一見正しいように見える。しかし、例えば経済活動において、起業して失敗し全部の負債を担うことになればそのリスクは相当のものとなる。それでは誰もチャレンジできない社会だ。もちろん相応の責任を負う必要はあるが、リスク回避ばかりが求められる社会に希望も成長も訪れないのだから、チャレンジするリスクを負担するセフティネットはもっと充実しなければならない。失敗したら人生終わりでは、誰も挑戦などできない。年金の基礎部分は税によって担うなども同様の視点から言えることだ。
こうした立場から、憲法の全面的な改正を希望している。理想を言えば、天皇制廃止による共和制への移行、自衛隊の日本軍への格上げ、一院制と国会議員の削減、国家公務員の大幅削減と地方分権への移譲、海外からの労働者の大規模な受け入れと一定期間を超える日本滞在外国人への地方参政権導入、東京の首都機能の分割と地方移転、既得権打破に向けた様々な更なる改革などが挙げられる。
もちろん全ての問題に対し意見を持っているわけではないし、自己の内部に多数の矛盾を抱えていることも認識している。矛盾やゆらぎ、無知、誤解などが自分の意見に反映されることも少なくはないだろう。ただこれまで自分の頭で考えてきたことを積み上げて自分なりの考えを形成し、今後様々なものの見方に触れて変わっていくだろうが、少なくともその時点で精一杯考えたことを自分の意見として記していこうと思っている。
自分の意見を悪く言えば、「アメリカかぶれ」なのかもしれない。ベースにあるのはアメリカ的自由主義だからだ。アメリカは多数の問題を抱え、その自由も決して万能ではないことは分かっている。またアメリカの文化風土が生み出したものであり、人種の坩堝という環境が自由主義の根底にあって、日本とは状況が違いすぎるという意見ももっともだと思う。ただそれでも普遍的な部分はあり、そうした中から人が生きていく社会がどのようなものであればよいかを考えた結果として、現在の意見がある。
性善説にも性悪説にも立たない、人を矛盾と不合理の塊として私は見ているので、平和という言葉は信用できない。時として人は戦わねばならないことがあると思うから。
国家もまた、生まれ育ったからという理由では愛せない。これまで生きてきた中で国家の恩恵を受けているのは事実だが、それでも国家を愛するには愛するに足る国家になってもらわねばならない。ゆえに私は愛国者ではない。ただ必要を感じれば国に殉じることも厭わないと思う。
歴史を識る限り、社会の変化はすさまじく速い。日々滝の流れのように大きく変化している。その流れはあまりに大きくて、個人の力で変えることは不可能と思えるだろう。現代において一人の力で流れを変えられると思うことは妄想と呼んでもいいくらいだ。しかし、この流れを変えるのはほとんどが人の力だ。意図した通りに変えられるかどうかは別として、社会の変革をもたらすものは人なのだ。
私のブログが社会の変化につながるとは思ってはいない。碌に行動も起こさず、ネットの片隅にノイズを撒き散らしている程度で、理想と現実のギャップを埋めることなんてできない。それでも書いてしまう。いつの日か大河の一滴になることを妄想しながら・・・。
また、この「基本的なスタンス」も書くべきかどうか迷いながら書いているが、とりあえず一度自分のスタンスを表明しておいたほうが今後書きやすくなるかとも思って書くことにした。
私の現在の基本的なスタンスは、平和主義でも国家主義でもなく、自由主義である。
国家観としては、国防・防災など国民保護と、セフティネットや老後保障など保険面の2点を強化する点で国家の役割があると考えている。それ以外は、地方分権や民間主導を推し進めた方がいいと思う。
自由な行動を保証するために、安全の確立、機会の平等、リスク分散は重要なことだ。安全の確立は、警察、防災のみならず国防や外交などと関わる問題だ。機会の平等は自由主義にとって最も大切で、既得権打破の構造改革の目指すものと言えるだろう。個人が自己責任において起こした行動の結果、全責任をその個人が負うのは一見正しいように見える。しかし、例えば経済活動において、起業して失敗し全部の負債を担うことになればそのリスクは相当のものとなる。それでは誰もチャレンジできない社会だ。もちろん相応の責任を負う必要はあるが、リスク回避ばかりが求められる社会に希望も成長も訪れないのだから、チャレンジするリスクを負担するセフティネットはもっと充実しなければならない。失敗したら人生終わりでは、誰も挑戦などできない。年金の基礎部分は税によって担うなども同様の視点から言えることだ。
こうした立場から、憲法の全面的な改正を希望している。理想を言えば、天皇制廃止による共和制への移行、自衛隊の日本軍への格上げ、一院制と国会議員の削減、国家公務員の大幅削減と地方分権への移譲、海外からの労働者の大規模な受け入れと一定期間を超える日本滞在外国人への地方参政権導入、東京の首都機能の分割と地方移転、既得権打破に向けた様々な更なる改革などが挙げられる。
もちろん全ての問題に対し意見を持っているわけではないし、自己の内部に多数の矛盾を抱えていることも認識している。矛盾やゆらぎ、無知、誤解などが自分の意見に反映されることも少なくはないだろう。ただこれまで自分の頭で考えてきたことを積み上げて自分なりの考えを形成し、今後様々なものの見方に触れて変わっていくだろうが、少なくともその時点で精一杯考えたことを自分の意見として記していこうと思っている。
自分の意見を悪く言えば、「アメリカかぶれ」なのかもしれない。ベースにあるのはアメリカ的自由主義だからだ。アメリカは多数の問題を抱え、その自由も決して万能ではないことは分かっている。またアメリカの文化風土が生み出したものであり、人種の坩堝という環境が自由主義の根底にあって、日本とは状況が違いすぎるという意見ももっともだと思う。ただそれでも普遍的な部分はあり、そうした中から人が生きていく社会がどのようなものであればよいかを考えた結果として、現在の意見がある。
性善説にも性悪説にも立たない、人を矛盾と不合理の塊として私は見ているので、平和という言葉は信用できない。時として人は戦わねばならないことがあると思うから。
国家もまた、生まれ育ったからという理由では愛せない。これまで生きてきた中で国家の恩恵を受けているのは事実だが、それでも国家を愛するには愛するに足る国家になってもらわねばならない。ゆえに私は愛国者ではない。ただ必要を感じれば国に殉じることも厭わないと思う。
歴史を識る限り、社会の変化はすさまじく速い。日々滝の流れのように大きく変化している。その流れはあまりに大きくて、個人の力で変えることは不可能と思えるだろう。現代において一人の力で流れを変えられると思うことは妄想と呼んでもいいくらいだ。しかし、この流れを変えるのはほとんどが人の力だ。意図した通りに変えられるかどうかは別として、社会の変革をもたらすものは人なのだ。
私のブログが社会の変化につながるとは思ってはいない。碌に行動も起こさず、ネットの片隅にノイズを撒き散らしている程度で、理想と現実のギャップを埋めることなんてできない。それでも書いてしまう。いつの日か大河の一滴になることを妄想しながら・・・。