海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』を読む 4

2009-05-24 23:52:48 | 「集団自決」(強制集団死)
 秦郁彦編『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』には、第二章として「宮平秀幸陳述書」が収録されている。言うまでもなく大江・岩波沖縄戦裁判の控訴審に提出されたもので、判決文で〈秀幸新証言は、それまで自らの述べてきたこととも明らかに矛盾し、不自然な変遷があり、内容的にも多くの証拠と齟齬している〉〈秀幸新証言は明らかに虚言であると断じざるを得ず、上記関連証拠を含め到底採用できない〉と厳しい判断が下されたものである。
 本書の第三章には藤岡信勝氏による「【解説】宮平秀幸証言の画期的意義」が添えられているが、藤岡氏と並んで秦氏も、「宮平陳述書」に強く執着しているようだ。藤岡氏が宮平氏と〃偶然〃出会ったという2008年1月26日の座間味島ツアーには秦氏も参加していて、その場でチャンネル桜が行ったインタビュー映像に秦氏の姿が映っている。藤岡氏や鴨野守氏、チャンネル桜と並んで秦氏も、宮平新証言を紹介し宣伝した一人だから執着するのは当然であるが、秦氏にとっては他のメンバーとは違う理由もあるだろう。
 歴史研究者、戦史の専門家として秦氏には、宮平新証言に関して他のメンバー以上の分析、検証が問われる。秦氏という専門家のお墨付きで宮平新証言を押し出したのに、それが控訴審で〈虚言〉とまで断じられたとなれば、秦氏の面目は丸潰れである。意地でも宮平新証言は真実であると言い張り、戦史研究者としての面子を保つために秦氏も必死なのだろう。
 おそらく、本書の読者で控訴審の判決文まで読む人は少ないと思う。「宮平陳述書」の内容を〈虚言〉と断じた控訴審判決の報道も、時間の経過とともに忘れられていく。戦史研究者という肩書きを持つ秦氏が編集した本に「宮平陳述書」を入れておけば、そのうち専門家による〈厳密な資料批判〉に耐えた証言であると勘違いする読者も出るだろう。何やらそういうさもしい魂胆が透けて見える。これが秦氏が本書の「あとがき」に書く〈最終判断は後世に委せる志向〉(329ページ)なのだろうか。
 そうではない、「宮平陳述書」は真実を述べていて、本書に収めるだけの資料的価値を有する。秦氏がもしそう主張するのなら、「宮平陳述書」が〈厳格な資料批判に堪えられ〉るものであることを、秦氏は証明しなければならない。それは歴史研究者として本書を編む上での最低限の義務だろう。大江・岩波沖縄戦裁判に原告側支援者として関わり、宮平新証言を押し出した一人でもある秦氏からすれば、本書の刊行は戦史の専門家として「宮平陳述書」を検証し、その真実性を証明して、〈虚言〉と断じた控訴審判決文を論破する絶好の機会でもあったはずだ。
 しかし、秦氏はそういう作業を本書でまったく行っていない。「宮平陳述書」が真実であると本当に思っているのなら、その判断の根拠を秦氏はどうして示さないのか。具体的な検証作業を通して〈厳格な資料批判〉を行えば、逆に「宮平陳述書」の嘘が露呈してしまうと秦氏は考えたのであろうか。
 宮平秀幸氏の新証言に関しては、それがチャンネル桜の映像として流され、藤岡氏や秦氏らが宣伝をはじめた直後から、インターネット上で疑問や批判が続出した。宮平氏の過去の証言や母親の証言との食い違い、矛盾が指摘され、宮平氏の新証言が持つ問題点が次々と指摘されていった。裁判でも「宮平陳述書」は過去の証言や他の証言、証拠との比較検証を通して分析がなされ、その結果として〈虚言〉と断じられたのだ。
 裁判では論じられなかったが、私も「宮平陳述書」について、本部壕入口に衛兵が配置されていなかったのか、という問題を指摘した。「宮平陳述書」の最も重要な点は、1945年3月25日の夜に座間味村幹部らが本部壕に梅澤隊長を訪ねたとき、2メートルしか離れていない所でそのやりとりを目撃したということにある。それまで梅澤氏と宮城初枝氏の二人しかいなかったこの場面の証人に、新たに宮平氏が証人として名乗りを上げたのだ。しかも、その証言の中味は梅澤氏の主張を裏付けるものだった。それ故に、藤岡氏や秦氏らは宮平新証言を大々的に宣伝し、控訴審での逆転を可能にする重要な証言と持ち上げた。
 しかし、当の梅澤氏は宮平氏について、3月25日の夜にそばにいたことは「記憶にない」と述べていた。そのために「宮平陳述書」では、本部壕入口には艦砲弾や火炎放射器対策のために濡れた毛布がかけられていて、宮平氏はその陰に隠れて話を聞いたので、梅澤氏は宮平氏に気づかなかったかのように書かれている。だが、問題はそのようなことがあり得るのか、ということだ。
 米軍による攻撃が始まり、上陸が目前に迫った状況下で、本部壕入口に警戒にあたる衛兵が一人もいなかったのか。本部壕入口に衛兵がいたなら、入口にかけられた毛布の陰に隠れ、座間味村幹部らと梅澤隊長の話を盗み聞きすることなどできるはずがない。
 本部壕にかぎらず軍事施設の入口や周辺に衛兵・歩哨ををおくのは、軍隊の常識である。騎兵、戦車兵として中国戦線で戦い、豊富な実戦経験をもつ梅澤隊長が、衛兵をおく判断力もなかったというのか。宮平氏がいうように簡単に本部壕に近づいて、中での会話を盗み聞きできたのなら、防諜も何もあったものではない。米軍上陸が間近だというのに、島の最高指揮官がいる本部壕入口に衛兵がいなくて、米軍の奇襲攻撃を受けたらどうするのか。
 宮平氏が「陳述書」で述べていることは、とうていあり得ない話なのだ。本部壕入口に衛兵が配置されていたことは、宮城初枝氏の手記にはっきりと書かれている。宮城晴美著『母が遺したもの』(高文研)新・旧版に収められた「血塗られた座間味島」という初枝氏の手記には、本部壕を訪れた際に入口に立っていた衛兵に誰何され、衛兵が梅澤隊長を呼びにいく場面が書かれている(38~39ページ)。「宮平陳述書」と「血塗られた座間味島」を読み比べれば、3月25日夜の本部壕入口の様子について、どれが戦場の事実を語っているかは一目瞭然である。
 私が疑問に思うのは、戦史研究者として膨大な量の資料を読んできたはずの秦氏が、以上に指摘した「宮平陳述書」の不自然さ、あり得なさに気づかなかったのかということだ。「宮平陳述書」には本部壕から忠魂碑に行った宮平氏が、そこで家族と一緒になり、そのあと整備中隊の壕に移動したときのことも書かれている。3月26日の午前2時頃、本部壕での梅澤隊長と座間味村幹部らのやりとりから4時間ほど後のこととされる。本書収録の「宮平陳述書」から引用する。

 〈こうして家族7人が整備中隊に着いたのは、忠魂碑前を出発してから2時間近くも経った、午前2時ごろでした。
 整備中隊の入口には衛兵が2、3名、銃に着剣して立っていました〉(72ページ)。

 さらに、そこから移動して訪れた特攻隊の第二中隊の壕の場面ではこう書かれている。3月26日午前4時頃のこととされる。

 〈…私の左の手で祖母を押すようにして歩かせ、祖父を右手で肩に担ぐような格好で進み、やっと第二中隊の壕にたどり着きました。
 そこにも衛兵が立っており、「誰だ!」と声をかけられました〉(75ページ)。

 整備中隊の壕や特攻隊の第二中隊の壕には、入口に衛兵が立っていて警戒にあたっていたというのだ。では、なぜ本部壕入口にだけは衛兵がいなかったのか。戦史の専門家である秦氏は「宮平陳述書」のこの記述を読んで、その不自然さに疑問を抱かなかったのか。だとしたら秦氏の資料の読み取り能力の低さに呆れるが、実際には、この部分のおかしさに秦氏は気づいていたのではないか。その上であえて今も無視しているのではないか。
 先に書いたように「宮平陳述書」の最も重要な点は、3月25日夜の座間味村幹部と梅澤隊長のやりとりを、2メートルしか離れていない所で目撃したということにある。それが嘘だとなれば、「宮平陳述書」の真実性は根本から崩れる。本部壕入口の毛布の陰で盗み聞きしたという宮平氏の証言は、本部壕入口には衛兵が配置されていなかったということが前提条件となる。しかし、そんなことはあり得ない。そのことは戦史の専門家である秦氏なら、よく分かっていることではないか。
 秦氏がもし、3月25日夜の本部壕入口の衛兵の有無について、初枝氏の「血塗られた座間味島」は間違いであり、「宮平陳述書」が真実だというのなら、本部壕入口に衛兵がいなかったことを証明し、その理由を説明しなければならない。そのためにはまず梅澤氏に会って、3月25日の夜に本部壕入口に衛兵を配置したか否かを確認すべきだろう。原告側支援者として活動してきた秦氏なら、その気になれば可能なはずだ。なぜそれをやらないのか。
 いったい梅澤氏がどう答えるか見ものだが、そうやって「宮平陳述書」を検証し、〈厳格な資料批判〉を行うのが、歴史研究者としての秦氏の仕事なはずだ。それをやらずに〈虚言〉と断じられた「宮平陳述書」を本書に載せることで、秦氏は歴史研究者として不見識ををさらし、自らの首を絞めているのだ。

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歩哨を立てるのは基本中の基本 (阪神)
2009-05-25 08:58:16
こんにちは。梅澤氏に問い質したら、必ず「歩哨を立てていた」と答えるはずです。もし歩哨を立てていなかったと答えたら、無能な戦隊長である事を認めることになるからです。例え隊長が歩哨を立てる命令を忘れたとしても、下位の者がすぐに気付いて補佐するのは当たり前ですから、戦隊長がいる壕に歩哨がいないはずがありません。秦氏はこの件については口をつぐみ続けるでしょうね。
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Unknown (元座間味住民)
2009-05-25 10:06:22
私は近所に住んでいたので、宮平秀幸氏の人となりを知っているつもりです。
もうお歳しと言うこともあってか、ますます思い込みが強い性格が現れてきてます。
周囲の関心を引きたがる方なので、今回の証言もさもありなんと思いました。
このような性格は裁判官もお見通しでしょう。
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Unknown (ni0615)
2009-05-30 20:39:26
産経新聞 論説委員・石川水穂氏が秦郁彦本をネタに奇妙な言説を始めたようです。今日の紙面らしいです。しばらくはネットを巡回すると思われますので、とりあえず情報としてお知らせします。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090530/acd0905300356001-n1.htm
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Unknown (ni0615)
2009-05-31 10:16:05
昨夜、石川水穂批判を私のブログに急ぎアップしました。

【土・日曜日に誑(たぶら)かす】 論説委員・石川水穂先生
http://ni0615.iza.ne.jp/blog/entry/1060789/

重要なポイントは、この石川論説委員が、照屋昇雄さんの産経デビューにも、宮平秀幸氏の産経デビューにも、直接筆を執っていることです。

目取真さま皆様
沖縄からの視点で拙ブログをご批評くだされば幸いです。
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疎開について (目取真)
2009-05-31 13:06:10
ni0615さん、情報提供有難うございました。
ブログも読ませていただきました。
ご指摘のとおり、批判の一番の要は慶良間諸島では疎開が行われなかったということです。
海上特攻隊の秘密基地が置かれた島として、情報流出防止のために島民が疎開を許されなかったとすれば、逃げ場のない小さな島で島民の運命はどう位置づけられていたか。
そのような視点から秦氏や石川氏らの主張を批判していく必要があります。
この問題については、秦氏への批判の続きとして、私のブログでも書こうと思っていましたが、サイパンに行ったりして遅れてしまいました。
沖縄の住民の疎開についても、サイパンの玉砕=全滅以降、組織的に進められていくわけですが、これに関しては多くの資料、証言があり、何を今さら、の感があります。
むしろ、秦氏が発掘した「新資料」なるものの「Ⅲ守備大綱」「Ⅳ島民の直接戦闘力強化について」などを見ると、第32軍がいかに住民を「戦闘力」として組織化していったかが証明されます。
また、Ⅴの3「疎開の時期と場所は、沖縄群島球部隊司令官が指示する。…軍、県庁、県民は、これらの執行について賛意し協力すること」という一節にも注目する必要があります。
住民の疎開=移動やⅥの3「水、食糧の保管と分散」など、県・市町村の行政や住民生活が、軍の指示=命令によって統制されていたことが分かります。
このことから慶良間諸島における住民の避難=移動の問題、食糧問題と「集団自決」、住民虐殺の関連を考える必要もあるでしょう。
私は北部の今帰仁で生まれ育ちましたが、北部の町村は疎開民の受け入れのために、食糧確保や小屋の準備、住居の一部提供などを行っています。
しかし、元もと北部は山が多く、畑地も限られています。
島内疎開した人たちの食糧をまかなうことは、とても無理でした。
北部に逃れてきた中南部の住民は、飢えとマラリア、敗残兵と化した宇土部隊兵士による食糧強奪、住民虐殺に苦しめられ、多くの人が犠牲になっています。
とても「安全地帯への避難」と呼べるものではなかったのです。
軍にとっての住民の疎開とは、Ⅴの1でまっ先に書かれているように「軍の作戦を円滑に進め」るためのものでしかありませんでした。
その悲惨な実態を隠して、軍が住民の生命と安全を考えて対処したかのように主張するのは、事実を歪曲する欺瞞でしかありません。
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Unknown (ni0615)
2009-07-02 06:09:53
宮城晴美さんの近稿、検証「集団自決」ジェンダーの視点から(琉球新報)が、汚されWEBに晒されています。http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/f92130655367f9df0174d72230f9dc62
忍びなく止むを得ず汚されてない素のままを掲載しました。 http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2138.html
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ジェンダーの視点から (目取真)
2009-07-02 16:24:58
「集団自決」の問題をジェンダーの視点から分析する宮城晴美さんの論文は、沖縄・問いを立てるシリーズの4『友軍とガマ 沖縄戦の記録』(社会評論社)にも、試論として収められています。
今回の琉球新報の連載は、それを深化させたものなのでしょうが、新しい視点から「集団自決」を検証する意義ある試みだと思います。
狼魔人達にはその意義も理解できないようですが、夜郎自大の皆さんには自己満足の世界にひたらせておけばいいでしょう。
『友軍とガマ』には沖縄戦に関する興味深い論文が5本収められています。
多くの人に読んでほしいと思います。
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