海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

山田町へ

2011-06-09 14:18:40 | 政治・経済










 5月29日に岩手県山田町と大槌町を訪ねた。時折雨が降るなか盛岡市から国道106号線を通って宮古市まで行き、海岸沿いの浜街道を南下した。海岸沿いの集落、堤防、ガソリンスタンド、スーパー、松林など津波で破壊された跡が延々と続いていた。
 菅首相は8月中に市街地や住宅地からのがれきの撤去を終えると発言している。ぜひそれを実現してほしいし、野党もそのために協力すべきだ。それと同時並行的に進めなければいけないのが、河川や海岸の堤防の補修工事である。余震による津波や台風、高潮など被災地は危機ににさらされ続けている。海岸沿いを車で走りながら、そのことを実感した。















 山田町第2・第4・第5地割を歩いた。
 海に向かって建てられた団地は、1・2階のベランダの柵が押し流されて室内が破壊され、3階のベランダの柵も破損していた。
 津波と地盤沈下で傾いだ家が水につかり、近くの家の土台にはウミネコが群れていた。地元紙の記事に、例年は外敵に襲われにくい山田湾の岩場が営巣地なのに、今年は被災した市街地近くでウミネコが営巣している、という記事が載っていた。6月に入り雛がかえる時期を迎えている。
 山田北小学校の前に被害にあった車が置かれていた。











 大杉神社周辺を歩いた。神社をはじめ家屋の大半が破壊され、がれきの中に漁船が横たわり、復旧作業はまだこれからの状況だった。
 沖縄にはウタキという聖地がある。シマを守る神がいる場所で、多くは森の中にあり、ウタキの木々や草は折ることを禁じられている。海岸には龍神を祭っている所も多い。海の彼方にあるニライカナイへの信仰もあり、海と森の神を崇めながら沖縄のシマの人たちは生きてきた。
 インターネットでこの神社の祭りの写真や説明を見た。祭りの歴史的由来の奥にあるのは、はるかな昔から海によって生きる糧を得てきたことへの感謝と神への畏敬の念ではないかと思う。その海によって被害を受けた神社の姿は痛ましく、まわりの状況を見ていると、住民が生活を立て直し、再び祭りが行えるまでに費やされる労力の大きさを思わずにいられない。
 岩手に行っている間に沖縄では台風が襲来していた。名護のナングスクでは幹の直径が1メートルほどある木が根こそぎ倒れている。ヤマトゥに来るまでには勢力が衰え、岩手では小雨模様になっていたのだが、これから夏になり大型台風が被災地を襲えば、せっかく進めてきた復旧作業が後戻りしかねず、新たな被害さえ起こりかねない。政府や各政党は人と機械、予算を被災地にもっと送って復旧作業のスピードアップをはかることに全力を尽くすべきだし、被災地以外の市民がそのためにもっと声を上げる必要がある。
 私の父は沖縄島北部の小さな港で働いていた。20代の頃はその港で仲仕のアルバイトをしていたので、港に行くと懐かしさを憶える。世界有数の漁場である三陸の各港は、私の故郷の小さな港とは比較にならない規模だ。それが破壊されて人の姿が消え、漁民や港湾労働者は生活の糧を奪われている。沖縄からできる支援は限られているが、日々の生活のなかでやれることを続けていかねばと思っている。



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