海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

十・十空襲の証言

2009-10-10 18:29:32 | 沖縄戦/アジア・太平洋戦争
 今日10月10日は65年前に沖縄が初めて米軍の大規模な空襲を受けた日である。マスコミは那覇の9割が灰燼に帰したことを中心に報道するので、その他の地域の実態は余り知られていないが、今帰仁も仲宗根の町や海軍の魚雷艇基地があった運天などが空襲の被害を受けている。
 私の祖父母は当時仲宗根で散髪屋を営んでいた。朝、祖母が店の前を箒で掃いていると、イナブスモーの上の空(西の空で本部方向)に飛行機の編隊が見えたという。祖父に伝えるとみな最初は友軍の飛行機だろうと思っていた。しかし、実際には米軍機の来襲で、攻撃が始まってあわてて逃げ出した。そういう体験談を子どもの頃に祖父母から聞いた。
 2007年2月に沖縄戦を体験した元日本兵の方に鹿児島県で話を聞いた。2時間余に及ぶ証言の中で十・十空襲の話も出た。第32軍司令部通信隊の様子や空襲後に沖縄県民へのスパイ視が強まっていくことなど興味深いことが語られていた。十・十空襲の一側面を知る参考になると思うので紹介したい。ここでは証言者はK氏としておく。

目取真:十・十空襲の当日はどうだったんですか?
K:当日はですね、朝五時起床ですからね、軍隊は。五時に起きましてね、すぐ朝ご飯の準備をして、部隊長を迎えに行ったんですよ、もう部隊長出勤しておられたから。というのは、その日はですね、陸軍も海軍も、空軍というのはあったかどうか知りませんけども、陸海空合同の防空演習がある日だったんです。だから幹部たちは早く出勤しておられた。それで私たちも五時になってですね、もう洗面もそこそこに炊事場にすっ飛んでいって、炊事場にはもう準備ができておったから、ご飯持ってきて、他の人はご飯をお膳につぐんですよね。私だけは部隊長の当番兵だから、お前早く部隊長呼んでこい、ということで、部隊長室に行こうとして、ちょうど将校集会所といいましてね、そこを出ようとしたときに、その隣は暗号室なんですよ。そこが非常に騒がしいんですよね。は、何だろうと思ったら、読谷の飛行場爆撃中なんとか、お、演習は七時からと聞いておったのに、あれもう始まったのか、あれーと思ってですね、それで聞き流して、そして部隊長は二階だったから、二階に上がろうとして踊り場から読谷の方をちょって見たんですよ。そしたらですね、飛行機がキラッ、キラッ、キラッて輝いてるんですよ、赤いのがですね。あれーと思ってあれしとったら、高射砲の弾幕が上がるんですよ。あらー、演習にはおかしいな、と思って、すぐ部隊長の所に行って、部隊長殿、読谷の飛行場爆撃中と暗号班で言っておりました。なに、今日は演習というのをお前知らないのか。はい、知っております、だけれども、弾幕が上がっております。なに、それから部隊長がこうして見られて、空襲だ、空襲だ、空襲だ、と言ってですね、それっきり部隊長いなくなっちゃったんです。それで私はもう、部隊長は軍刀一本握って、そのまま飛び出して行かれたから、事務室に号令かけてね、全員待避しろ、空襲だ、空襲だと言ってですね、軍刀と鉄かぶとだけ握って、おられなくなったんですよ。空襲警報の発令ができないんです。それで副官の田辺という人が、当番、早く部隊長探せ、決済ができない、どこに行かれたか。さっきまでここにおられたが、向こうに行かれた。もうすぐに探して、結局、探したときには飛行機が上にきましてね、小禄の飛行場をさーってやっとるんですよ。
目取真:そのときにも部隊長の決裁がないと空襲警報は発令できなかったわけですか?
K:そうです。32軍司令部の通信隊で、警報とかそういうのは通信隊長の専決事項ということでしたので。
目取真:この通信隊長というのは先ほどの大竹さんですか?
K:そうそう、大竹部隊長の専決事項になっていましたからですね。
目取真:そのときに空襲警報を出さないうちに、飛行場とか空襲がはじまったわけですね。
K:そうそう、それで空襲警報出ていない。民間のサイレンなんかは鳴りましたよ。ですけど正規の空襲警報というのは出ておりません。(注1)
目取真:それじゃあ米軍の不意打ちみたいになったわけですね。
K:そうです。それを大元にしてですね、沖縄県民はスパイだと。結局その、明日の七時から陸軍・海軍の防空演習を行う、それには航空機も参加するので、敵機と見間違えないようにせよと、厳しい通達があったわけですよね。それで朝七時からというのに六時半頃はもう来とるわけです。不意打ち中の不意打ち。だからアメリカ側は一応キャッチしとったんだろうと思います、今考えますとね。ですから、沖縄県民の中にスパイがいる、そういうことをアメリカに通知、連絡してる。そういうことから、そのときには安里の通信隊でいろんな会議をしておったんです。軍司令部の作戦会議をですね。
目取真:じゃあ軍司令部の牛島長官とか安里の通信隊に来て話をしてたわけですか?
K:そうです、はい。参謀たちも、全員は来ませんけどね、司令部は松川町にありましたから、首里の手前のですね。松川町の蚕地試験場にありましたから、そこからオートバイなんかで乗り付けて来よった。そして将校集会所といいましてね、この(家の)二間よりももう少し広いくらいの座敷があって、そこでずーっと会議をしておられた。そのときに沖縄県民に気をつけろと、スパイがいる。
目取真:十・十空襲のあとの会議でですか?
K:そうです、十・十空襲の翌日…、翌々日ぐらいじゃなかったですかね、その会議が。
目取真:その話のときに、やっぱり不意打ちを喰らったのはおかしいということで…。
K:そうそう、そうです。
目取真:その話し合いというのはKさんも聞かれたんですか?
K:ええ、そうです。私なんか当番兵たちはですね、周りの草むしりなんですよ。草むしりというよりも、ほかの兵隊や民間の人が近寄らないように見張ってるんですよ。
目取真:草むしりをする振りしてですか。
K:草むしりをするんだけども、しょっちゅうこうやって。
島袋:監視をしてるわけですか?
K:はい。憲兵たちもその草むしりなんですよ。
目取真:そのときに聞こえてくるわけですか、会議の話が。
K:そうです。まだ暑いからですね、障子を開け広げてるでしょう。
目取真:そういう早いときからスパイという話が出ていたわけですね。
K:私なんかだけは、ほかの兵隊たちはそれは分かりません。だけどほかの兵隊たちもですね、やはりこう、スパイがおるよということ言ってましたよ、その不意打ちを受けた関係で。翌朝七時から防空演習をやるというそのときに、五時過ぎにはもう読谷飛行場に襲いかかってるわけですからね。
目取真:先ほど、明日演習があるという通達が出ていた、と言ってましたよね。その通達はどこまで出したわけですか?
K:それは兵隊全員ですよ。
目取真:兵隊の中で?民間にも行ってたわけですか?
K:いや、民間には行ってないと思います。兵隊の中だけだと思います。
目取真:兵隊の中だけの通達が外部に漏れているということだったんですかね。
K:もう繰り返し繰り返し、敵機と間違わないようにせよと。航空機も参加するから、敵機と間違わないようにせよということをしょっちゅう。
○○:県庁関係にも通達は行っとったんじゃないですか?
K:それはちょっと分からないんですよ。
目取真:その日はですね、一日壕の中にいたんですか?
K:いや、壕は造っていない。まだアメリカが来るとは思ってないから、それで壕も掘ってないんですよ。
目取真:どうされたんですか、じゃあ。
K:安里のすぐ近くにタピオカの畑があったんですよ。二メートルぐらいの高さにはびこってましたからね、そうしてこう畝を立ててあるでしょう、その下に潜り込んだんですよ、兵舎から出てですね。
目取真:ほかの兵隊たちもそこに行ったわけですか?
K:ほかの兵隊たちも、はい。それで部隊長はどこに行ったかというと、これは戦後聞いた話なんですけどね、戦後やっと分かったんですが、女たちのところを回っとるんですよ。炊事、裁縫する縫工場といっておりますけどね、炊事場、縫工場、それから経理部、そういう女の連中が隠れているところに走り回ったんです、部隊長は。
目取真:逃げなさい、ということでですか?
K:そうです。それは戦後聞いたんですよ。そうだったのかと。
目取真:でも、どうしてそこに行かれたんですかね。
K:結局あの、女は兵隊じゃないから、怪我させちゃあいけないんだと。それで怪我をさせないようにして家庭に帰さないかん。だから女たちを怪我させちゃあいけない、その責任感だけ。だからまー、私が遺骨収集に一所懸命なっとるのはそういうことなんだと。大竹部隊長のそういう気持ちですね。
目取真:その隊長は非常に住民というか、女性たちを犠牲にしちゃあいけないという気持ちで、真っ先に避難させようとしたということですね。
K:そうです。それであのー品物といったら当時の軍隊では軍器(?)ですからね、あの兵器ですから、戦うための道具だから。それで縫工場といったらミシンがあるでしょう、ミシンなんかを運び出してた。そしたら部隊長が来て、お前ら何しとるんだ、早く逃げんかい、ミシンは金で買えるんじゃないか、人間の体は金では買えないんだぞ、早く逃げろ、何しとるんだ。さんざん怒鳴り散らして、そしてまたほかのところへ走って行かれたと。
目取真:その日はじゃあ、Kさんは部隊長と会われたんですか?
K:結局は会いましたけれどもな、安里から小禄の飛行場に向けて、安里あたりから発射しますからね飛行機、ロケット弾もパーって飛ぶんですよ。そういう事態になってから部隊長は居り場所が分かったんですよ。そしたら、自分の隊は抜け出して、炊事場と経理部の女の子を全員引き連れて、高射砲隊の壕に、そこは安里のインターチェンジよりも崇元寺寄りの方ですけどね、そこに高射砲隊は立派な壕を掘ってたんですよ。そこに入っとったんです。そこに私がようやく行きましたら、当番まいりました、って言ってね、双眼鏡やら道具を渡したんですよ。命令、有線中隊は有線網を構成すべし、余は現在地にあり。余所の陣地に飛びこんどって(笑い)。そしてまたそれを有線中隊に命令を伝えてですね、そこに有線網を構成すべしだから、電話線を張ったわけですね、部隊長がいる余所の(陣地に)。そしたらまた部隊長がいないんですよ。せっかく電話線を張っとって。また部隊長を捜して、私は有線中隊長に命令を伝えに言ったんです。で行って、引っ返して復命しようと行ったら、女だけしかいないんです。部隊長はって訊いたら、知らない、知らないって。結局はですね、通信室に入っとった。
目取真:そこで何をされたんですかね?
K:いや、ただ椅子に座っておるだけ。見習士官連中がですね、待避しないんですよ。何をしとるんだお前らは、早く待避せよ。それで見習士官を叱りとばして待避させて、自分はその椅子に腰掛けて腕組んで。
目取真:自分は指揮官だからそこにいないといけないという使命感だったんですか?
K:いや、そうじゃないですよ、部隊長、結局通信してるのは、無線機を扱ってるのは兵隊たちですからね、それを監督する見習士官というのが、将校の卵たちがいるんですよね、幹部候補生たちが。その連中は待避させ、自分が兵隊たちの監督者になって、腕組みをして椅子に座ってる。そこは木造ですから、爆弾が落ちたら吹っ飛ぶんですから。
目取真:そこは空襲は受けなかったわけですか?
K:すぐ近くは受けましたよ。だけど被害はありませんでした。だけどすぐそばには爆弾落ちましたよ。結局、兵隊が死んだら俺も死ぬんだという気迫、それがつくづく分かりましたよ、その時に。
目取真:兵隊たちは通信であちこちに連絡をしてるわけですか?
K:私は部隊長の当番兵だから、部隊長の面倒みるというのがあれですからね。
目取真:一緒にそばにいたわけですか?
K:なるべく部隊長のそばにおってということですから、だけど私も待避しろ、何しとるんだ当番、お前用はないから向こう行け、といってものすごい剣幕で怒られましたよ。だけど怒られはしたけど嬉しかったですね。兵隊たちが七、八人おりましたからね、無線機を扱ってる連中が、その後ろに部隊長は威張りくさって座っておられたけど。
目取真:十・十空襲のあとはどういう状況だったんですか?大きな空襲を受けますよね、それからは緊張感というか、米軍が迫っているという雰囲気が出てきたんですかね?
K:那覇はもう全滅ですからね。その時にですね、私は、当番向こう行け、と言われたから、部隊長が木造の中におって頑張ってるんだから、私はタピオカ畑に逃げるわけにいかんから、おり場所がないから、そばにでっかいラジオがあったんです、通信隊だから。そのラジオをいじっておったんです。そしていろんなあれを聴いておったんです。そして、夕方になりまして大本営発表があったんですよ。その大本営発表を聴いていた。すると、とんでもないことを言ってるんですよ。えーとですね、どういうあれだったかな、大本営発表と、こうしてその、那覇は空襲を受けたと。そして一番気にかかっとるのがですね、那覇はやられたと、アメリカの飛行機を何機撃ち落としたと、そう言うんでよね。わが方の損害、港湾施設に若干の損害ありたるも、軍事施設に被害なし。こういう大本営の発表だったんです。うわー、大本営の発表というのは、これはデタラメも酷いもんだと。と言うのは、小禄飛行場は全部やられてるんです。那覇港の船も全部沈んでしまっとるんだから。その中で、軍事施設に被害なし。これは大変なことだな、自分たちは大本営発表を聴いておったのに、これはとんでもないことだと考えましたよ。それは忘れられません。
目取真:その時に聴いてそう思ったわけですよね?事実と違うなということを。
K:はい、そうです。だけどほかの兵隊は聴けないんですよ。自分は隠れてそれを聴いとるから。怒られるから。友達連中にはこっそりと言っておりましたけどね。だけど公には言わなかった。

 以上、紹介終わり。
 K氏は沖縄に来る途中、米潜水艦の攻撃を受けて沈没した富山丸に乗っていて九死に一生を得ている。米軍の沖縄島上陸後、通信隊員として宜野湾の嘉数や浦添と首里の間を走り回ったことなど通信隊の活動の様子、摩文仁の海岸に追い詰められて米軍の捕虜になるまでに目にした沖縄戦の実態など、ほかにも貴重な証言を聞かせていただいた。

(注1)これは安里にあった通信隊におけることであり、K氏の判断である。

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6 コメント

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十・十空襲について (一郎)
2009-10-11 15:42:24
 はじめまして。目取真さんの文章を読んで、祖母のことを思い出しました。僕の祖母は、学童疎開で本土にいたらしいのですが、そこで十・十空襲の噂を聞いた時は、皆で泣いたらしいです。
 ところで、鳩山総理が県内移設容認を示唆する発言をしたらしいですね。初めてこのニュースを知ったとき、唖然としてしまいました。初の公約違反が「辺野古移設」だとしたら、本当に腹立たしい話です。僕の考えでは、東京のど真ん中に、ほとんど人が住んでいない広大な面積の土地があるので、そこに移設してもらいたいです。
 やはり、沖縄戦はいまだに終わっていないと思います。
鳩山発言について (目取真)
2009-10-12 05:52:20
鳩山首相ほか北沢防衛相、岡田外相、前原沖縄担当相がそれぞれ異なった見解を示しつつ、徐々に世論を「辺野古移設やむなし」に誘導しているように私には見えます。
おそらく、知事や名護市長の言う「沖合移設」を受け容れることで、地元の声を聞いた、という体裁を取って落とし所にするのではないかと思います。
これは一つの予測にすぎませんが、問題はそれを許さないために主体的に何をやるかです。
政治家に公約を守らせるのは有権者の姿勢であり、他人事のように評論して終わってはいけないと思います。
皇居の森は保護した方がいいと思いますので、そこに普天間基地を移せという意見には私は反対です。
Unknown (阪神)
2009-10-12 16:38:53
こんにちは。「血に染まるかりゆしの海(第三文明社)」に伊江島で飛行場建設に動員されていた山田さんの証言があります。朝5時にいつものように起床して作業をしていたら「今から飛行演習がある。全員腰をおろし見学せよ」と命令されたそうです。4機の黒い飛行機が飛んできて空襲が始まったそうです。演習と思って見上げていた人達は逃げ遅れ、多くの犠牲者が出たそうです。
余談ですが、この本は北部地域の方の証言集であり、ハブに咬まれた話が数件あります。血清がなく犠牲になられた方も多数いるとの事です。
伊江島動員 (目取真)
2009-10-13 05:53:17
伊江島の飛行場建設には今帰仁からも大勢動員されていて、私の伯父や伯母も参加しています。
北部では伊江島や渡久地港、運天港などの軍事施設だけでなく、屋我地島の愛楽園(ハンセン病療養所)も日本軍の基地と間違えられて攻撃を受けています。
今は開発が進んでハブも少なくなりましたが、私が小学校の頃(1960年代)は自宅の庭でもハブを捕らえました。
64年前は今の比ではなかったでしょう。
Unknown (ni0615)
2009-10-13 10:09:52
曽野「ある神話の背景」を読み返しています。10/10空襲に出会った赤松の体験が採録されています。

曽野の描写によれば、兵棋演習に参加予定のれっきとした将校が、命令系統から外れて連絡の糸が切れた状態になって、何もできず亀甲墓を渡り歩く単なる避難浮浪者となっています。曽野の意図は、赤松が予想外に動転する読者と同じようなフツーの25歳の青年であったことを示し、「決して鬼のようなグンジンではなかった」ことを示したかったのかもしれませんが、この糸が切れた凧状態こそ、軍隊としての組織的構造欠陥の証明であって、それこそ痛恨の極みと感じるべきところです。

それにもかかわらず、牛島満中将の「一昨日は大変でごわした」の一言に勇気を貰ったなどと、素っ頓狂な〆でお茶を濁す曽野綾子39歳の精神はスカスカといえましょう。

赤松がせめて、北山に避難させながら自分が放り出した渡嘉敷島住民を、10・10空襲下の自分に置き換える想像力の持ち主だったらと思うと、犠牲者の皆さんの口惜しさもさぞかし、と思います。

曽野が賛美する軽薄でスカスカで現実を直視しない軍人精神こそ、民衆惨劇をもたらした根元ではないでしょうか。満州における集団自決も根っこは同じでしょう。

ところで唐突な質問で申しわけありませんが、曽野「ある神話の背景」には、赤松訪沖(1970/3)直後に古波蔵元村長が書いたとされる「手記」が度々引用され、その都度執拗に「赤松隊員の言」若しくは曽野の所見によって、こっぴどく罵倒されています。

これを読むと、その「古波蔵手記」とはいずれに? という疑問が起こります。赤松訪沖(1970/3)直後に古波蔵元村長が書いたとされる「手記」について、何かご存知の方がいらっしゃるなら、どうかご教示願います。

また、曽野「ある神話の背景」でこれほどこっ酷くやっつけられた元村長としては、当然、その後の反論なり釈明なりを発表したと思うのですが、そのような文献はあるのでしょうか? もしそれがないとすれば、古波蔵惟好氏の言い分を、当時の沖縄言論界或いはマスコミが、「復帰和解」の御旗のもとに封殺してしまったのではないか、という疑いが残ります。
元村長への感謝 (ni0615)
2009-10-22 17:34:52
私は、星雅彦さん嶋津与志さんを筆頭とする沖縄の知識人が、なぜ渡嘉敷島の元村長である古波蔵惟好さんを褒め称えないのか、なぜもっと擁護しないのか不思議でなりません。

勿論、古波蔵惟好さんは退役兵長であり、村民に軍国主義を叩き込んだ張本人です。もしかすると、部隊の意志を明確に表明できない赤松嘉次25歳大尉に代わって、住民の思想統制の先頭に立ったA級戦犯候補だったかもしれません。そして「集団自決」の号令である「天皇陛下万歳」を叫んだ罪は、「天皇」と同程度に持つ資格はあると思います。無辜の民の命を奪ったことに於てです。

しかしどうでしょうか? 少し冷静に振り返ってみてください!

古波蔵惟好さんは、住民に急かされて、仮にシブシブであったとしても、「村長」という立場を堅持しながら、赤松「部隊長」に公然と謀反し、しかも、降伏勧告に行かせた2人を失ったとはいえ、残りの人たちを、「無血」で赤松部隊から脱出させることに成功させたのです。こんなことを顕彰しないのは、私は日本人として恥ずかしく思います。

それは、赤松隊の「人斬り以蔵」であった知念朝睦をして、刀の柄に手をやらせなかったことでも明解です。しかもそのうえ、「人斬り知念」に対して恨むどころか、「副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、働突し、軍籍にある身を痛嘆した。」という美しい餞(はなむけ)まで送って、タイムスの特認記者に書かせたではありませんか。

古波蔵村長は、渡嘉敷島における「ベルリンの壁」を破った偉人です。栄養失調に苦しんで死の淵にあった赤松の戦隊兵の多くも、古波蔵村長のその「偉大なる寝返り」によって、辛うじて「内地の故郷」に生還できたのです。

生還できた特幹兵に為り替わってでも、私は、感謝申上げたいと思います。

なぜ、沖縄の皆さんが渡嘉敷島の「ベルリンの壁」を、無血で乗り越えた古波蔵村長にシカトするのか、ヤマトンチュウの私は不思議でなりません。

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