海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

10・21県民大会から20年

2015-10-21 23:46:36 | 米軍・自衛隊・基地問題

 21日は午後から那覇へ行き、午後6時から県庁前広場で開かれた「10・21国際反戦デ―県民行動」に参加した。主催者発表で約500人の参加があった。

 20年前の10月21日、宜野湾市の海浜公園で、米兵3人による暴行事件を糾弾する県民集会が開かれた。宮古島、石垣島の集会を含めて約8万5000人が集まり、日米安保体制を揺るがす状況となった。当時コザ高校に勤めていて職場の分会で参加したが、集会が始まっても会場に来る人の波が切れず、自主的に参加した高校生も多かった。

 あれほど多くの人が県民集会に集まるのを目にしたのは初めてだった。あの時、米軍の犯罪から子供を守れなかった大人の責任が言われていた。20年経った今、沖縄は何が変わったか。普天間基地をはじめとした米軍基地は撤去されず、自衛隊の強化が進められて日米の軍事的一体化が進み、状況はむしろ悪くなっている。自分を含めて沖縄の大人たちは何をしてきたのかと、情けない思いに駆られる。

 20年前に事件が起こった沖縄島北部の地に「移設」と称して新基地を建設する。この愚劣さは決して日本政府だけのものではなかった。稲嶺県知事や岸本・島袋名護市長のもとで、今は新基地建設に反対している保守層を含めて、沖縄の中からも普天間基地の県内タライ回し=北部への押しつけが進められていたのだ。そのことを忘れはしない。

 午後6時40分に集会を閉じ、そのあと国際通りを牧志うがんまでデモ行進した。この20年で国際通りの様子をも大きく変わり、デモの掛け声も変わった。変わらないのは沖縄に米軍基地が集中し、いつ新たな犠牲者が生み出されるかもしれない、という危険に沖縄県民がさらされていることだ。

 那覇に向かって沖縄自動車道を走らせているとき、車窓からオスプレイが飛んでいくのを目にした。20年前の事件の当事者や家族にはその機影が違ったものに見え、爆音も違ったものに聞こえるだろう。沖縄の内外を問わず若い世代、そして、辺野古新基地建設を進めている作業員や海上保安庁の職員は、20年前に何があったかを学んでほしい。

 


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