海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

米軍の沖縄島上陸から70年の日に進められている新基地建設の愚劣さ

2015-04-01 23:52:18 | 米軍・自衛隊・基地問題

 4月1日は米軍が沖縄島に上陸してから70年目だった。70年経っても米軍が沖縄に広大な基地を維持しているだけでなく、新しい基地が日本政府の手で(私たちの税金で)造られようとしている。そのことを異常と感じる感覚も判断力も喪失している人々が日本社会では大多数を占める。米国のために尽くせば米軍が自分たちを守ってくれると信じている愚かさよ。

 軍隊は住民を守らない、敵軍だけでなく自国の軍隊も。地上戦を体験した沖縄の人々が語り継いできた教訓だ。しかし、本土決戦を回避したヤマトゥでは軍隊への幻想が生き残った。地上戦となれば何が起こるか。友軍と呼ばれた日本軍は沖縄で何をやったか。沖縄では個人が出した戦争体験記や県、市長村がまとめた記録集など、沖縄戦に関する膨大な量の住民証言が本やビデオとして残されている。それらをぜひ積極的に読んで、見てほしい。戦争体験に限らず、琉球・沖縄の歴史を知らずして辺野古や高江の運動に参加しても、底の浅い認識しか生まれない。

 1日は9艇のカヌーで松田ぬ浜を出発した。辺野古崎の岩場を抜けて長島の南側に向かうと、すでに海上保安棟のゴムボートが集まっている。人事異動で新しく来た海保の職員もいただろうが、自分が何をやっているかよく考えることだ。あたらしい米軍基地の建設に手を貸し、沖縄県民を基地被害で苦しめる。それがいま辺野古の海、大浦湾で海保がやっている仕事だ。人命救助や海難救助とは無縁の新基地建設のためのガードマン。そういう仕事をさせられて空しさを覚えないだろうか。

 長島の間を抜けて大浦湾に出ると、特に何かの行動を起こしたわけでもないのに、フロート付近を漕いでいたというだけで拘束が始まった。2艇はラブ子号まで逃げたが、7艇は海保のゴムボートに拘束され、松田ぬ浜まで連れられていった。初っぱなで拘束して船とカヌーを引き離し、松田ぬ浜に連れ去ることでそのあとの行動もできなくする。海上抗議行動をいっさい封じ込める、という強硬姿勢で弾圧に乗り出してきていた。

 2隻のスパッド台船とクレーン付台船1隻では、海底ボーリング調査が行われている。3月31日の調査延長期間がすぎ、中谷防衛大臣は6月末まで延長することを示した。当初は昨年の11月30日で終了する予定だったから、7ヶ月も作業が遅れていることを意味する。他の作業も同じように遅れていくのは間違いない。

 ところで普天間基地の5年以内の運用停止はどうなっているのだろうか。安倍首相や菅官房長官は仲井真元知事との約束を守り、普天間基地の運用停止を急がなければならない。運用停止が実現されれば、普天間基地の「危険性の除去」は実現される。辺野古の作業が遅れても、安倍首相と菅官房長官が約束を守りさえすれば、支障はないというわけだ。5年以内の運用停止をほったらかしにして、辺野古新基地建設だけを進めるのは許されない。

 1日は午後から、名護署に留置されている仲間の支援行動に参加するため、カヌーチームの行動は午前中で切り上げられた。急いでカヌーを片付けて昼食をとり、名護署に向かった。午後1時半すぎに、前日キャンプ・シュワブ・ゲート前で不当逮捕された仲間が乗せられた車両が、那覇地検に向けて名護署を出た。事前に集まっていた市民は、逮捕された仲間が好きだという「六甲おろし」を歌い、激励の言葉をなげかけた。名護署の正門前に集まって、走り去る車両をみんなで見送った。

 キャンプ・シュワブ・ゲート前の行動を終えたあと、再び名護署前に集まり、午後9時前まで仲間が解放されるのを待った。人事異動の時期に当たっていて手続き上の問題で、釈放は明日に持ち越しとなったとの説明があった。辺野古ぶるーや辺野古ドリームをはじめ多くの市民が名護署の正門付近と裏で抗議の声をあげ、名護所内の仲間に声援を送った。「六甲おろし」などを歌い、明日も朝から来るぞ、という言葉をおくって、ひとまず支援行動を終えた。

 


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