作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

遊女の救い

2006年05月09日 | 芸術・文化

 

ようやく連休が終わった。桂川の土手をバイクで走っていても、美しい新緑が眼に沁み入る。新緑のきれいな季節になった。

先日、たまたま日経新聞を読んでいたら、その文化面に、たぶん五月三日の記事だったと思うけれど、河鍋暁斎の「地獄太夫と一休」の絵について、どこかの学芸員による解説コラムが掲載されていた。

一休禅師は室町時代の僧侶であるが、河鍋暁斎は幕末から明治にかけての画家である。江戸、明治期の画家が、室町の一休宗純と遊女の地獄太夫を題材に絵を描いている。

そのコラムの解説によると、地獄太夫という女性は、もともと高貴な家の──武家らしい──生まれであったが、悲運にも泉州堺の遊郭に身を落とすことになった。誘拐され、身代金代わりに売られたとも言う。江戸時代のみならず先の戦前までは、日本には遊郭は存在したし、戦争ではそうした女性は慰安婦と呼ばれたりもしていた。

太平洋戦争後、日本から少なくとも公娼制が廃止された。もし、それが敗戦によるものとすれば、それだけの価値はある。もちろん現在においても、実質的な「遊郭」は、今もその名前だけを変えて存在しつづけているけれども。

遊女という「職業」は、人類の歴史と歩みを伴にしている。聖書の福音書の中にも、姦通を犯して石打の刑にされかかった女が救われた話や(ヨハネ第八章)、イエスの足を涙と髪で拭った罪深い女性の話が出てくる。(ルカ第八章)

遊女の境遇は「苦界」とも「苦海」とも呼ばれたりする。そして、女性がそうした世界に身を沈めるのは、多くの場合「お金」のためである。貧困のためであったり、借金を身に背負ってそうした世界に足を踏み入れる場合も多いのだろうと思う。ドストエフスキーの小説『罪と罰』のソーニャもそうした女性の一人だった。

今、サラ金業者のアイフルがその強引な取立てのために、金融庁から業務停止の処分を食らっている。聖書の中では、すでに数千年前にモーゼは、同胞からは利息を取ってはならないと命じている(レビ記第二十五章、申命記第二十三章)。同国人から暴利と高利を貪る現代日本人とどちらが品格が高いか、藤原正彦氏に聞いてみたいものだ。サラ金や暴力金融の取立てから、売春の世界に余儀なく落ちる女性も少なくないのではないか。10%以上の金利は法律で規制すべきだ。それが悲劇をいくらかでも減らすことになる。まともな政治家であれば、そのために行動すべきである。サラ金から政治献金を受けて、高金利を代弁するサラ金の走狗、あこぎな政治屋でないかぎり。

一休和尚となじみになった地獄太夫も、自らを地獄と名乗ることによって、彼女自身の罪を担おうとした。一休はそうした彼女を、「五尺の身体を売って衆生の煩悩を安んじる汝は邪禅賊僧にまさる」と言って慰めたそうだ。しかし、一休は現実に彼女を解放することはできなかった。そんな言葉だけの慰めが何になる。

遊女の隣にあって、一休和尚が骸骨の上で踊っている姿は、すべての人間の真実の姿である。骸骨が、肉と皮を着て、酒を食らい宴会で踊っている。仏教ではこんな人間界を娑婆とも呼んでいる。

 


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