二つの時代の日本人の顔――大日本帝国と戦後民主主義
さきに大津市の中学二年生のいじめ自殺事件について自分のブログに意見を書いていたとき、たまたま佐藤守氏という元航空自衛隊に所属して今は軍事評論を行っている方のブログで「2012-07-17 人相から窺えるもの」という記事を読んだことがある。
2012-07-17 人相から窺えるもの
http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20120717/1342501213
私もこの大津市の中学2年生いじめ自殺事件に関連するテレビ報道などを見ていて、そこに登場する教育関係者たちのご面相の印象について、佐藤守氏と同じような印象を持っていたので、なるほど私個人の印象だけでは必ずしもなかったのだな、と自分の印象の「普遍的性格」に確信を得た気がした。
リンカーンだったか「人は誰でも四〇歳を過ぎれば自分の顔に責任を持たなければならない」と言ったとか、またラテン語に「顔は魂の符丁である」という諺のあることを思い出した。昨夜のロンドンオリンピックで、サッカー男子チームは初戦で強豪スペインを破ったが、そこでのサッカー選手やサポーターたちの表情を見ていて、以前に「生き残り日本兵の顔つきと日本サッカー陣」という記事を書いたことを思い出していた。
「生き残り日本兵の顔つきと日本サッカー陣」
http://blog.goo.ne.jp/askys/d/20100618
そこであらためて大日本帝国の日本人と戦後民主主義の日本人の二つの時代の「日本人の顔」を比べてみようと思って、YOUTUBEなどを暇に任せて「明治人の顔」などで検索してみたが、次のような動画があった。
「幕末から昭和初期の日本人の顔 Old Japanese Face」
http://www.youtube.com/watch?v=UUohJUf02fs&feature=player_embedded
この動画を見ながらすぐに思い出したのは、現代の自民党や民主党などの政治家たちの表情だった。昭和初期の政党政治も相当に堕落していたらしいから、明治期の政治家や軍人、文学者たちが比較的に「立派な」面立ちをしていた(個人的にそういう印象をもつ)のは時代としては例外であったのかもしれない。
今回のサッカー試合に登場した若い選手にも「茶髪」が多かった。茶髪を受け入れるかどうかは教養水準にも比例するとも思われるが、それにしても印象に残っていていつも思い出すのは、昔テレビでアメリカ在住の日本人青年が一重まぶたを二重に整形手術したのを、なぜそうするのかと白人の女性アンカーにインタビューを受けていた様子を見た時のことである。詳しい内容は忘れてしまったが、その青年の受け答えのなかに、彼が日本人や東洋人としての自負とアイデンティティーを完全に失っている様子を、その女性アナウンサーが哀れみの眼で見つめていたことが、いまだに忘れられない。
その日本人青年がアメリカ暮らしのなかで、敗戦国民としてどのような屈辱を体験したのか、私には想像も及ばないが、「二重まぶたと茶髪」という彼の自己の肉体の改造に、日本人としての自己嫌悪の感情を読みとることは難しくはなかった。
こうした感情の根源には先の第二次世界大戦、太平洋戦争における日本の完膚無き敗北と、その後のマッカーサーの巧妙な占領政策の存在することは言うまでもない。その影響は深刻で、最近の中国の台頭もあり、民族として腰を抜かされた日本人が歴史的に再び立ち直れるか否かはわからないと思っている。とくに戦後教育を典型的に受けた政治家、財務省や外務省などの「高級官僚」たち、高学歴の女性や「一般庶民」にアイデンティティー喪失の根が深いからである。
敗戦国民の悲哀は続いている。マッカーサーの占領政策と戦後民主主義の克服のためには、歴史的敗戦の軍事的のみならず文化的にもさらなる全面的客観的な検証、世代の交代と一世紀二世紀にわたる民族精神の回復のための忍耐づよい戦いが必要なのだろう。それを通じてはじめて「Old Japanese Face」を再び回復できるのかもしれない。日本人の顔の問題の根本的解決の鍵は日本国の軍事的独立である。
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