作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

夏の終わり

2008年09月10日 | 日記・紀行

夏の終わり

畑に行く途中に見る稲畑も、いよいよ色づき始めた。真夏の頃にあの覚めるように青かった田んぼも、時間の移ろいに色づきはじめた。稲穂もいよいよ重そうに頭を垂れる。

とりわけ夏の八月は、終戦記念日や広島長崎での原爆投下を回顧する特別の月でもあった。また今年の夏は、お隣の中国で北京オリンピックが開催された。ちょうど四十四年前に日本が東京オリンピックを契機に高度経済成長に入り、国際経済の仲間入りを本格的に果たしていったように、これからは中国が政治的に経済的に台頭して来ることは紛れもない事実としてある。

開催日時を八という数字にこだわったり、共産党幹部の指示で歌唱少女とは別の女の子を舞台に立たせるなど、共産国家の裏にある、いかにも面子にこだわる権威主義の一面も見せた。開会式も閉会式もテレビで観戦したが、台頭する中国と、一方に国際的にも存在感を失いつつある日本と、いろいろ考えさせられることも多かった。すべて自業自得とはいえ国の衰退に立ち会うのは耐えられない。「すべての国民は自分にふさわしい政治しかもてない」というのは、西洋のことわざである.

この夏は思い出深い夏になったと思う。祭りの後のように、今はすっかり枯れ葉になったキュウリやトマトに夏の盛りの面影はもうない。生命力にあふれた暑い夏のことを思いながら、枯れ葉や枯れた茎を取り払う。

照りつける夏の陽の下で、十分に熟れたトマトをもいで口にしたときに舌に残った甘みの記憶。トマトのあの特有の香りもまだ消えてはいない。やがて夏の終わりとともに、生命の宴も終わりの準備を始める。

その一方で、遠く冬を見てニンジンや大根の種を蒔く。たった一ミリか二ミリにも足らない小さな種子から、あの大根やニンジンの姿が現れて来るはずである。すでに青い小さな可愛い芽生えがある。人間すらあの小さな卵子と精子から成長してくるのだから。自然の「概念」の神秘に打たれる。季節も宇宙も生命も全て回帰してゆく。八月の夏もすでに遠い。

理性のかけらもない現在の虚しい日本の政局主義政治を離れてしばし「芸術?」の世界に遊ぼう。欧米の歌曲にすら夏の情感を共鳴するようになってしまったのは、西洋に毒された私たちみじめな敗戦国戦後世代の宿命か。いったい誰に日本の夏の新しい物語を語れるか。

Looking For The Summer 

All summer long 

Chris Rea : On The Beach

Sweet Summer Day...

 

 

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