作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

「いじめ」の文化から「民主主義」の文化へ(3)

2006年10月20日 | 教育・文化

そうしたクラスの組織面での研究とともに、民主主義の精神的な、倫理的な教育訓練をも研究改善し実施してゆく必要がある。

たとえば、「民主主義手帳」(名前は何でもよいし、冊子の形式でもよい)を作成して配布し、生徒たち一人一人に持たせることである。その中に、学校生活のあり方や民主主義の倫理観などの基本的な事項を記載し、ホームルームの時間などに、常時活用できるようにしてゆくのである。戦前は「教育勅語」などがその機能を果たしていたが、今日に至るまで、それに代わる確固とした倫理基準が学校現場で生徒たちに教えられていないことが問題なのである。

「教育勅語」に代わるべき倫理観とは何か。それは「民主主義の倫理観」である。そうした問題意識が、首相や文部(科学)大臣、教育委員長などに必要ではないだろうか。

それとも「民主主義の倫理」など聞いたこともないか。
個人の尊厳とは何か、基本的人権とは何か。なぜそれは尊重されなければならないか、具体的な学校生活の状況のなかで教えてゆかなければならない。現状ははなはだ不十分だから、問題を防ぎきれない。オーム真理教事件などは、現在の日本の学校教育の失敗の象徴ではなかったか。

その他にも、法律や規則は遵守すべきこと、多数決には従うこと、しかし、少数意見も尊重されて、意見を無理に変える必要はないことなど、そうした民主主義の精神と倫理についての基本的な概念を生徒たちに教えて行くことである。そうして学級や学校を民主主義教育の現場にしてゆく必要がある。

また、具体的な教科の内容や教材などについての学習上の問題の把握と改善や、体育祭・文化祭などのクラス運営の問題などについても、子供たち自身の民主主義的なクラス運営によって、できうる限り自主的に解決してゆくための教育訓練も必要である。クラス会議の議長や書記の選出や議事録の取り方、文書管理の仕方など、会議の運営の仕方を教え訓練して、クラス運営の技術などについて基本的な事項を説明し、それを常に生徒と教師に携帯させて活用して、教育訓練してゆくことである。

そうしたクラス運営のための基本的な知識や技術も「民主主義手帳」に記録して、日常的に民主主義の精神倫理とその活用の技術をクラスの現場で教えてゆく必要がある。

ホームルームなどのクラス全体会議で、クラス内で起きている問題を、もし北海道の滝川中や福岡の筑前市の三輪中の生徒たちに起きているような「いじめ」があれば、それをクラスの問題として、生徒自身に自発的、自主的に発言させ、常にどんな問題であってもクラス内の出来事は隠すことなく問題提起でき「情報公開」できる雰囲気をつくり、同時に、クラス全体の力でクラス内の問題を自主的に解決してゆく訓練に日常的に取り組んでゆくことだ。

そうした教育訓練の必要を学校教育関係者、文部科学省職員、さらには安部首相や伊吹文部科学省大臣などが切実な問題意識としてもち、そうした民主主義教育の研究こそを実行して、その恩恵を生徒たちにもたらすようにすべきである。

安部内閣は教育改革を重要な課題として取り上げ、教育改革諮問会議をも立ち上げている。しかし、率直な感想としては、おそらくこれらの陣容では改革の実は挙がらず、今度もせいぜいお茶を濁すだけに終わるのではないだろうか。

 

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「いじめ」の文化から「民主主義」の文化へ(2)

2006年10月20日 | ニュース・現実評論

子供のいじめ行動は、また大人社会の模倣行動でもある。どこかの学校で教諭が校長の「パワハラ」で自殺したことも報じられていたが、大人社会の「いじめ」文化が子供社会に反映しているにすぎない。

こうした「いじめ」を学校内から発生することを防ぐ根本は、まず第一に共同体としての性格を学校に復活させることである。仲間意識や友情が育まれやすいように環境を整えてゆく必要がある。そのためには現在の学校教育における立身出世主義の、受験本位の、単なる就職のための教育観を改めてゆく必要がある。

大人社会が、「ホリエモン氏」のような弱肉強食の競争社会の覇者、「勝ち組」を持て囃しているから、子供たちもそれを見習っているにすぎない。そこには遅れた敗者や仲間に対する思いやり感情のかけらもない。どこかのボクシングのチャンピオンのような、ただ暴力的に強いだけでは何の価値もないことを思い知らしめるような文化の環境が、そもそも大人社会にはない。

他者のために、社会や国家のために尽くす、そうした人間を誉めたたえるような人間観や価値観、そうした文化の浸透した社会を形成して行く必要がある。戦前のいびつな滅私奉公に国民が懲りたからかもしれない。それにしても、今日の国民大衆の国家意識や郷土意識のなさも問題ではないだろうか。もちろん、競争は健全な人間社会に不可欠であるが、ライバルと友情が両立する文化社会でなければならない。

たしかに、学校は市民社会と家族の中間に位置する共同社会である。
学校は小さな一つの市民社会であるが、同時に、家庭の性格も持たせる必要がある。そうして学校という集団に共同体としての性格を復活させ、今子供たちに欠けている「横の道徳」を回復し、生徒同士のモラルを確立してゆく必要がある。

そのためにまず、一学級の単位定員数を二十四名にすることである。そうして生徒一人一人の言動について、クラス担任の目が、つぶさに行き届くようにすることである。現在の学級定員では、教師の生徒の心理と身体の状況把握は、物理的に困難であると思われる。

そして、クラス内に三(ないし五)人を一単位とした「班」を作る。その目的は、子供たちが学校生活や学級生活を営んでゆくうえで出会う、さまざまな問題についての相互扶助のための最小単位を作ることにある。学校生活の中では、子供たちの間に自然発生的に友だちやグループが形成されるが、それを自然発生的に任せるのではなく、三(ないし五)人一組の「班」を人為的に組織的にクラス内で作り、それを、生徒のさまざまな行動単位として、またクラスの運営単位としても明確に位置づける。

戦前日本の町内会に隣組とか五人組とかいった近隣同士の相互扶助を目的とした最小単位の組織が作られたが、それと同じように相互扶助単位を学級内に「班」として作ってゆく。それは、名簿順にか席次順にかで作っていってよい。いずれにせよ、そうした「班」単位の生徒関係を作ることによって、生徒一人一人の友情関係を深めるきっかけを作るとともに、子供たちが「いじめ」のような内面的な心理的な問題や健康上や身体的な悩みに出会ったときに、子供たちの間に助け手が身近にいるようにするためである。

生徒が孤立して周囲の友人から何の支援も受けられないという、殺伐としたクラスの人間関係を「組織的」に防いでゆくことが目的である。またそれは、学習活動の遅れや欠点を補う、生徒同士の相互援助の単位でもある。このように子供たちの学級構成を、友情や相互扶助が成立しやすいように、まず生徒たちの人間関係を組織面から改善してゆく。

 

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