いまは、19日(金)の朝の7時です。二度目、(部分的には五度目)の推敲を午前三時から今まで、4時間ほどかけて、いたしました。で、△印を二つにしておきます。6か所ぐらいで、加筆をしてあります。どうか、よろしく。また、二万字を超えたので、引き取って、抜いた部分もあります。自分の写真は抜きました。
副題1、『瓜南直子さんの死を、その4か月後に初めて知る』
副題2、『泉湧寺に問い合わせをしたが、微妙に変だった』
副題3、『伊藤玄二郎と、酒井忠康氏は、瓜南さんを利用しきって、その命を縮めたのだった』
副題4、『瓜南直子さんは、フェイスブックの世界でIT的に厚遇を受けていた』
副題5、『瓜南直子さんと、小町通りの共同溝工事と、全日本アスはが連』
副題6、『2012年10月16日はことさら、工事が派手だった。彼らは、・・・・・瓜南さんの死を知らない雨宮舜が、また、悪口を書いたぞ。これで、瓜南直子ファンをさらに、引っ剥がし、こっちサイドへ立たせられるぞ。勝った勝った・・・・・と、大喜びをしたのだった』
副題7、『ここで、気が付く、ユーロ圏危機への600億ドル拠出』
副題8、『瓜南直子さんと、鎌倉五山の管長たち』
副題9、『西洋的神と、禅宗の教えを考えてみよう』
副題10、『栗田玲子さんと柴田悦子さんは、伊藤玄二郎を、いい人だと信じているらしい?』
副題11、『色即是空、空即是色』
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副題1、『瓜南直子さんの死を、その4か月後に初めて知る』
最初に、申しあげます。2012年10月17日の午後一時に、このブログへコメントとして入った短い文章を読みました。それで、初めて瓜南直子さんの死を知りました。
が、2011年の11月まで金田佑子さんとコンビを組んで、豊島屋の源平巻きを種にして、活発なやり取りで、私をいじめまくっていた彼女が、
肝硬変ですか? たった、七か月後に亡くなるなど、夢にも信じられません。こんな速さで亡くなったことには唖然とする私です。
二人は液晶画面の上で、・・・・・そのやり取りを見ている私の目の前で、・・・・・間の時間を10秒も開けずに、・・・・・執事金田佑子が、お嬢様瓜南直子に対して、崇め奉りながら、・・・・・微妙にも私をいじめることに役に立つ、会話を活発にやり取りをしていたのです。まるで漫才みたいだったと下に書いていますが、
豊島屋の源平巻きの赤い包装紙を、剥いていくのを、女性の赤い袴・・・(よく神社の巫女さんが穿いていますね)・・・を脱がせることに例えたりして。
心理的に言えば、狂喜乱舞するという形でした。
「そんなことがどうして、重要なのですか?」とおっしゃる向きもあるでしょうがその前の2011年の10月の末から金田さんと二人で、めちゃくちゃなことをなさっているのです。金田さんの11月初旬の東京出張を機縁にした二人のお酒を飲む会も含んだであろう大騒ぎ(=私に対するいじめ)をここに書いていませんので、誤解を招くことは承知で、以上を書いていますが、下の初稿にも、『この源平巻きを種にしたジョークほど残酷なものはないと感じた』と書いています。
そのころ、私が『何を根拠にしてそのいじめに耐え、平静を保ち、ブログを書き続けたか』というと、聖書の中にあった、ある言葉でした。お子さんのない女性に対しては大変残酷な表現なので、ここに引用をすることは避けますが、
『子供を産まなかったとか、育てて来なかった女性に固有の未熟さが、上記の二人にはある』と、感じました。まだ60には達していない年齢の二人がこれほど、熱中して、真夜中にフェイスブックで遊んでいられるのは、お子さんがいないからでしょう。子供が二人でもいれば、高校受験、大学受験、就職活動、結婚、もしくは離婚と、課題が次から次へと起こります。それは子供にとっては人生の関所であって、無事にそれを乗り越えられるかどうか、親は口出しも手出しもできず、ただ、見守るだけですが、その見守りの愛情がないと、子供はだめになります。ところで、その、ただ見守って待つだけって、超が付くほど疲れるのです。その疲労感が頭の上に重くのしかかっていると、とてもではないが、はしゃげません。
で、私は、その日以来、二人に接触することを止めたのです。だから、瓜南さんが「肉体的な、疲労がたまっているのか、不調なのか、わからないが、絵を描くのが、1ミリもできない感じがする。それほど体を動かすのが億劫だ」という意味の文章を4月にブログで、公開したことは、まるでしりませんでした。
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副題2『泉湧寺に問い合わせをしたが、微妙に変だった』
ともかくのこととして、2011年の11月末以来、瓜南直子さんにはリアルは無論のこと、ネット上でも、接触をしておらず、・・・・・しかも、何かを書くときには、事前にネットの調査をしない主義なので、逝去のことは何も知りませんでした。コメントを読んでからあわてて、ネットで、彼女のことを調べましたが、どうしてか、最初には、項目が全部は出て来ないのです。これは、いつものことであり、『私のパソコンを常に支配していて、やりたいことを邪魔する人間がいるからだ』と、感じて、方向を変えて泉湧寺にお電話をかけてみました。
どうしてかというと、下にも書いていますが、瓜南さんが、私より上の存在であるということを見せつけるために、瓜南さんに対して、逝去の前に、数々の企画が持ち込まれていて、その一つが泉湧寺のグループ展だったからです。しかも、8月で、暑い盛りでした。瓜南さんは、暑いさなか、たまたま、横を通り抜けたパ-トナーの伴さんのタクシーが自分を拾ってくれなかったことを、上品な疑問を呈するという形で、嘆いておられますが、その10か月後に肝硬変で亡くなるのだったら、「タクシーに同乗させてよ」とお願いしたくなるのは気持ちは非常によくわかります。作品を2,3点持って東山に上る道は、日がカンカン照りったら、ただでさえつらいだろうに、その10か月後に亡くなるほど、肝臓が弱っていたのですから。
私も、とても体調の悪い人間です。どうしてかというと、卒業実験の担当教授が、東大卒・ハーヴァードとMITで、研修を続けたという偉すぎる方だったのが災いをしたのです。NASAに使うような耐熱性樹脂を作り出したくて、トルエン類を使う実験を命令なさったのですが、その際、突然の沸騰というのが頻繁に起きて、大量のトルエン類を吸っているので、骨も肉もボロボロなのです。
人間ドックでは、40代で、「すでに、90代の骨と肉体となっています」と言われていて、その三十年後の今は、100歳を超える骨と肉体になってしまっているでしょう。心臓をはじめとする全身の血管にある弁がうまく閉まらないので、血圧が下がりすぎて、ショック状態にはよく陥っています。そのうちのトルコ・イスタンブールのケースは特に重篤で、二時間以上無意識だったのです。蘇生術を、講じられたあとでも、下が40、上が60でした。だから、低体調状態の連続で、しかも、週に2,3度は徹夜するという無理を続けていますが、気持ちを時々リラックスさせて、上手な選択をして、生き続けているわけです。その上手な選択の一つに、タクシーの利用があって、それは、母から遺産が入ったので、最近、急に可能になった話でした。瓜南さんの最後のブログを読むと経済的な困窮にも触れておられて、そのあたりが、痛々しくて、つらいですね。芸術専攻だとそうであり、夫も、芸術家で、サラリーマンではないケースであったことも、さらに経済的には無理がかかります。
ところで、そんなに、リラックスして、自分だけの世界で生きていることができる私とは反対に、瓜南直子さんの最終段階は、怒涛の日々と言っていいほど、企画が重なっている日々でした。他者からお話を持ち込まれ、他者との接触の多い日々でした。2011年初夏には、鎌倉ドゥロ-イングギャラリー(非常に上品ないい画廊です。ご主人は吉井画廊にいたベテランだし・・・・後注1へ続く)で、
「鎌倉のセレブがオープニングにすべて集まった」と書いてありました。よかったですね。
だけど、それを知っても、私が文章の大意を書きなおすことはありません。私の文章は政治を語るものです。政治に直子さんが利用されたことは事実です。この日本と日本人を守ろうとする人間を追い詰めて、『お前、死ねよ』と言っている連中に利用をされたのは事実です。
人間関係上断れなかったとしても、はしゃぎながら人をいじめてはいけません。
そのセレブという連中の中心には酒井忠康氏と伊藤玄二郎は当然のごとく含まれているから、私には彼女の個展の情報は表側からは、何も入ってきません。それでいいのです。例えば、今、我が家の真下の、神奈川県立近代美術館・鎌倉館で、個展を開いている現代彫刻の作家さんは個展のたびに案内状をくださっている方でしたが、今回は来ていません。で、それが再び来るように願って、書き方の方針を変える? そんな小さな欲得に左右されて私が動くはずもありません。
で、泉湧寺に戻ります。
微妙に返答が変でした。むろん、私の質問は、「瓜南さんは逝去なさっているのですか?」などというぶしつけなものではなくて、「去年の八月にそちらで展覧会をなさっておられますが、ご交流はいまだ盛んにありますか?」というものでした。が、「プライバシーに関する質問には答えられません」ですって。お寺って衆生済度を願うところだから、ありとあらゆる人へ親切なはずなのに、違うので、『ああ、これは、死亡が真実なのだ』と思い直し、このパソコンへ向かって、逝去のことに触れはじめたのです。そうすると急にグーグルさんが瓜南直子逝去に関する項目を開示し始めました。
ところで、非常に意味深いことが二つあって、一つはブログの最後の文章の副題が、「いずみは湧き続ける」だったことです。私が、鎌倉のどの画廊にも、どの作家にも電話をかけず、京都までたどって電話を掛けたのは意味があったのでした。彼女は、去年の八月、泉が湧くという名前のお寺に招かれたことに大いなる意味を感じていたのでしょう。ブログの最後の文章は、痛々しいものですが(一種の絶筆と言っていいだろう。パソコンを使ったという意味ではこれが最後だったと思われる)そのタイトルは、赤字で「いずみは湧き続ける」とつけられていました。
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副題3、『伊藤玄二郎と、酒井忠康氏は、瓜南直子さんを利用しきって、その命を縮めたのだった』
もう一つは、金田佑子さんの情報が私の目の前では消えているということです。同じ説明文(この人物はフェイスブックをやっています)が付いてるもので、梅森伸一さんの紹介は今も存在していて、キューピーの片足が砂浜に転がっているアイコンだけは見ることができます。が、同志社大学卒業の若奥様(ただし、40は超えているだろう)で白地の和服を召した金田佑子さんのアイコンは見当たりません。説明文だけは残っているのに。
もしそれが、彼女の瓜南さんへの哀悼のしるしだったら、それでよしとしましょう。二人で一緒にやったことが、瓜南さんの命を縮めたという解釈が表れているから。でもね、例の敵たちに「抑えなさい。しばらくフェイスブックはやめなさい」と言われてやめているのなら、それは、何とも嫌味なことです。
ただ、私にとっては、それが、瓜南さんが、教唆をされていじめて来たということの証拠になるから、それでもいいのですけれどね。
もう一つ、そういう例を加えておきましょう。瓜南さんから離れることとなりますが、政治という意味では重要なので。
岩手県盛岡市で、タウン誌を発行している50前後だと思われる活発なママ、高橋真樹さんが、伊藤玄二郎(または、アイデアを提供したであろう井上ひさし)に勧められてでしょうが、私に対して、2012年の1月と2月に、ひどくて、しかもぴんとはずれな攻撃を二度ほど、フェイスブック内で、やって来ています。が、彼女に関する情報が、グーグルでは、今、すべて読めません。以前はたくさんあったのですよ。ただし、外のパソコンを借りて探索すれば読めるのかもしれませんので、いまだ、断言ができませんが、
伊藤玄二郎が、どれほど、あっち、こっちに粉をかけて扇動しまくって、私を苛め抜いているかが、これで、わかります。でもね、ここが最大に重要なことですが、
そろそろ彼の手法も破綻が見えて来たということです。自分が利用した駒が、疲労困憊のあまり、予想外に早く死んでしまって、どうして、安寧の境地に立てますか?
直子さんは、2011年の4月末の鎌倉ドゥローイングギャラリーの個展。夏に鎌倉観光展、そのすぐ後に泉湧寺のグループ展、その直後に東京テレビの、西部さんを司会者とする番組への出演、その後に、下に出てきますが、鎌倉五山の管長+覚園寺の管長さんと、一緒の懇談。そのすべては、伊藤玄二郎と、酒井忠康氏の発案であろうから、引っ張りまわしたということが、最適な表現で当たり、彼女を疲労困憊させたのです。
目的は、『お前より、この人の方が偉いんだから、お前は、下手に出ろよ。もう、文章を書くな』ということであり、彼女が偉い人であることを証明するためでした。
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ここで初稿では、音楽の話を入れています。それを、柱にしてまとめるつもりでした。が、急きょその部分は削除をさせていただきます。
が、その中の最後で、『王子ホールの出演者がハイレベルな音楽家なら、必ずNHKの収録車が来るのに、2011年の4月12日は来なかったのは、なぜか?』ということを問題にしていて、そこから、例の政治のごたごたと、鎌倉エージェントの存在へ入っていくことになります。で、その初稿を書いた2012年10月16日は、数々の嫌な思い出の中で、金田佑子さんと、瓜南直子さんのエピソードが特に頭に浮かんだのでした。
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副題3、『瓜南直子さんは、フェイスブックの世界でIT的な優遇を受けていた』
ところで、上の王子ホールのパソコンへ侵入をされている可能性を、『あなたの思いこみが強すぎる話でしょう』とおっしゃる向きがあるといけないので、これから、脇道へずれることになりますが、2011年秋の、京都旅行中の出来事を語らせてくださいませ。
その前に私への攻撃がいかに多方面から行われているかについて、瓜南直子さんという鎌倉在住の日本画家のフェイスブック紙上の投稿について述べないといけません。瓜南直子さんは、ご自分のホーム頁も持っておられるし、ツィッターもやっておられるので、もし、知らない方がいたら、それをご覧ください。
ユーモアのある人で人気が高いでしょう。
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ここから先は無論のこと、彼女の死亡を知らずに、書いているわけで、死を知っている人から見たら、死者にムチ打つと文章ということになるでしょう。
ただ、いつも神様に見守られていると感じる私が、この瓜南直子さんだけには、『どう戦っていいかの糸口がなかなか見つからず、相当に苦しめられた』ということがあるので、この原文の調子のまま、ところどころを直す程度で先へ進みます。
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この人がどうして、伊藤玄二郎側にリクルートをされたかというと、銀座の柴田悦子画廊とか鎌倉の夢松洞を通じてだと思います。ともかく旧軍人(大将だったかな?)の子女で、かつ芸大出身で美人です。鎌倉市内に二つの住居を持っているし、女性としては、ランクの高い人です。顔の実物を見たことはないが、同じいい女でも、酒井忠康夫人よりはこの日本社会においても鎌倉市内においても、存在感が強いでしょう。
フェイスブックの世界で、IT的なサポートを抜群に受けていて、反対の方角で、攻撃を受けている私は、やはり、それを気にしました。だから、さらにIT的いじめを、私が、フェイスブック内でやられることとなったわけですが、
ある時に彼女が紹介をしているホーム頁を見て、「これ、あなたがおつくりになったのですか?」とフェイスブック内の個人的なやり取り(一種のメール)を通じて問い合わせたら、「いえ、ほかの人(ITデザイナー)が作ってくれました」との答えでしたから、筆で描くアナログの人で、IT技術は、基本的なものを使える程度の人だったと思います。しかし、抜群の、高性能で、フェイスブックを駆使していて、シェアなども、ほかの人ができないことが、巧妙にも、希望通りにもできるらしいのです。
このIT的なレベルでの私との差ですが、例の古村浩三君がやっているのか、警察がやっているのかはわかりませんが、ともかく、『あんたとは差があるよ』ということを『これでもか?』というほど、常に見せつけられて来る存在です。
この人の私に対するフェイスブック紙上での、いじめを始める時期が、また、間髪をいれず、このブログに対応をしています。ブログが日本国民には隠されている政治の真実に迫るたびに、瓜南直子さんが、私をいじめて来るのです。ただ、『両者の文章を読み比べても、普通の人にはピンと来ないでしょうね』というほど、巧妙な攻撃です。
つまり、頭がいいので、呑み込みが早くて、「こうしてください」と頼まれたら、それを、オブラートに包んで、さらに一回か二回のメタモルフォーゼをかけて表現をすることができるので、ほとんどの人はその関連には、気が付かなかったと思います。
が、瓜南さんを攻撃用弾丸として使っている存在、およびIT的にサポート・・・(むろん、陰でやっているので、瓜南さんに自覚はないでしょう。金品を払ったなどという思い出もないはず)・・・している存在、および、警察などには、わかっていたでしょうし、何よりも、攻撃をされる私の方は、それを明瞭にわかっておりました。
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副題5、『瓜南直子さんと、鎌倉小町通りの共同溝工事』
だが、高度に知的に、ユーモアをまぶしてあるので、私との関係性の説明が容易ではなく、仕方がなく、こちら『銀座のうぐいすから』の読者様には、あまりそれを、説明してはおりません。
でも、今日は相当に腰を入れてそれに取り組みましょう。
*1)、鎌倉小町通りの共同溝工事(私) VS 全日本アスはが連(瓜南)
鎌倉小町通りに美しい敷石のプロムナードがありました。それは、現在では、伊勢神宮のおかげ通り、横浜元町プロムナード、辻堂の湘南モールから法務局を通って、第一国道までと、多方面で採用されているものですが、相当以前に、小町通りにもつくられたものです。ところが、私が敷石を磨く男という哲学を主題にしたエッセイ(未発表・月刊ギャラリーで使う予定があった。それは、編集長が、うむ、これなら連載を持たせても、よいだろうと判断したほど出来が良い文章だった)を書いたことで、つぶされるようになったと感じています。
私の文章がよいと、そこに登場する人物や物をすべて、なくしていこうとするのが井上ひさしと、伊藤玄二郎です。
すでにその時までに、
*鎌倉駅ホームに在った喫茶店。それから、
*ホームに沿って走る線路西側の道沿いにあって、小さいながら人気があった映画館という喫茶店、
*鎌倉八幡宮境内にあって、その珍しい姿勢に、私が、30年以上注目をしてきた、アメリカキササゲの木。
*京橋にあったギャラリー手、
*渋谷、銀座、京橋にあったオフィスデポという文房具店、なども消えております。
かれらに着目をされると、閉店を迫られたりするのです。で、私の素晴らしい文章(?)の中にあるその敷石をつぶし去り、復活させないがために、延々と工事が行われているのです。そして、大看板にある説明を読むと、次の道路はカラーアスファルトだとか。敷石は絶対に復活をさせない模様です。だから、この道路工事は彼らの、おもちゃであり、彼らの権力の誇示が、目的であることが明瞭です。
そして、2008年の2月に始まったそれは、四年もかかっているのにまだ終わらず、目的を、敷石を復活させないということから、私への単なる脅かし用作戦に利用されているだけと変更になっています。例えば、銀座に出かけない・・・(監視カメラや、画廊への問い合わせに引っかからない)・・・日にはやっていないとか、
反対に、敵さんたちが、『自分たちは今、有利だ』と判断をした日には、鎌倉市内へ買い物に行こうとして、山を降りていくだけでも工事が始まります。
私はすでに脅かされてはおりませんがそれを見るたびにこれが、石川和子女史と、柳沢昇氏の私の猫を巡る大失敗から来ていて、伊藤玄二郎のエージェントとしての、権力を見せつけるものだから、怒りは起こりますね。それも狙われています。びくびくはしないが怒る。そこで、エネルギーが消耗をされるだろうと狙われています。
それをここのブログに書くと、某所(某人物)から、瓜南さんへ、「こういう向きで文章を書いてくださいませんか?」という依頼が行くのだと推察しています。
瓜南さんが書いた攻撃とは、「全日本アスはが連というのを作った。この指とまれという形で、会員募集をする」ということです。そのホーム頁があって、盛田隆二という人が、事務局長をやっています。
全日本アスはが連というのは、全国の道路のアスファルトをはがしていくことを好きなのか、または、目的としている団体だそうです。
ということは彼女は工事を肯定しているというわけですから、伊藤玄二郎に味方をしているということになります。
ただね。これを私が嫌がるのは、瓜南さんの二つの家のうち、北にあるものは、我が家から、200メートルぐらいの距離であり、石段を降りるのに手間取っても、三分以内でいかれる場所にあるからです。したがって、彼女は小町通りを通る人となります。ごく最近開店した京都発の油であげた饅頭のお店についても言及しておられたので、それは、確かなことでしょう。
その彼女が、このまったく無駄であり、嘘がたくさん含まれている工事を、肯定しているとなると、私の方がおかしいとなりますね。私も毎日小町通りますけれど、比較すれば、彼女の方が有名人だから、彼女の方が正しいと思う人が多いでしょう。特にネットの世界でだけ、彼女の文章を見ていて、小町通りの工事の実態を知らない人ならそうなります。それを狙われて、この笑いのめした、全日本アスはが連というのを作ったのです。教唆は無論、伊藤玄二郎から来ているでしょう。
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副題6、『2012年10月16日はことさら、工事が派手だった。彼らは、・・・・・瓜南さんの死を知らない雨宮舜が、また、悪口を書いたぞ。これで、瓜南直子ファンをさらに、引っ剥がし、こっちサイドへ立たせられるぞ。勝った勝った・・・・・と、大喜びをしたのだった』
この文章の初稿を書いた2012年の10月16日(火)など、夜の八時半に、鎌倉市内のユニオンか、東急へ行こうと外出したら、八幡宮前で工事はやっていました。半分準備中という感じ。それから、豊島屋の本店前には、車がついたばかり。
主人との室内の会話を盗聴されているとか、『そろそろ彼女は、夫が買わない種類の乾物製品を買いに出るわけだろう』と、私の行動パターンが研究され尽くしているからです。しかし、小町通りには工事はやっておりませんでした。そこはまっくらで森閑としていたのです。鎌倉の我が家周辺(雪の下2丁目)は夜の6時以降は人通りさえなく、夜の八時半ごろは、北鎌倉街道でさえ、車が通らないほど静かないったいです。
その後、私は魚民(居酒屋チェーン)の個室で、夜の9時から、11時までパソコンを使って仕事をしました。鎌倉には夜も開いている喫茶店がマクドナルドしかなくて、そこは、最大限にネット環境が整っていますので、ネットができないように設定をされているパソコンでも内容が把握されると思います。昔から保存ができないとか、文章が白閃化して消えるとか、種々様々な妨害を受けてきている私はネット環境については肌で、ここがどういう条件下で、把握網に入っているかどうかはわかります。で、できるだけ、マクドナルド、スターバックス、エクセルシオーネ、ルノアールは避けたいのです。
私は別におどろおどろしいものを書いているわけではなくて、ただ、既に書いてあるものを、本の編集用に整理をしているだけなのですが、これが、邪魔をされるものの中で、最大の仕事なのです。
それで、外でやろうとするのですが、鎌倉ですと、夜遅くは、『魚民』程度しか思い当りません。大きくて、個室があるところでないとだめなのです。居酒屋のカウンターで、パソコンを打っていたりすると辺りの雰囲気を壊しますからね。
で、そこで、夜の9時から11時まで仕事をして、帰途についたら、小町通りで三か所、我が家のすぐそば、神奈川県立近代美術館の前でも、やっていましたので、鎌倉全体で、七か所も工事をやっていることとなります。それは、タクシーを使っても、徒歩で帰宅しても、工事現場を目視することになるという設定であり、・・・・・それほど、派手に彼らが脅かし行為をする日は、負けたと思っているより、勝ったと思っている場合の方が多いのです。
で、『何を根拠に、今日勝ったと思っているのだろう』と頭を巡らせても、わからないのです。
だが、次の日に、この文章に、コメントとして、瓜南さんの逝去のお知らせが入っていて、やっとあの派手な工事が設定された理由がわかりました。かれらは、その4,5時間前に大喜びをしたのです。『雨宮舜(本名川崎千恵子)が、また、瓜南直子の悪口を書いたぞ。これで、芸大出身者を中心にして、大勢の人間をさらに、こちら側に立たせられるぞ』と思ったからでした。彼らにとって、金貨玉条と言っていい概念は、『人は石垣、人は城』というものらしくて、私から友人、知人や、ブログ読者、およびフェイスブック読者などを引っ剥がすことなのです。
『なるほど。なるほど。そういうことでしたか』と、今もしみじみと納得をしています。
彼女はほかの件でも、徹底的に、おちょくって来ます。大切なことを語っている私を笑いのめして来ています。ただし、すべて、メタモルフォーゼをされているので、それを、私への攻撃だと証明するのは容易ではありません。
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副題7、『ここで、気が付く、ユーロ圏危機への600億ドル拠出』
さて、敵たちは自分たちで瓜南直子さんを使役していながら、それを、私が気が付いたということも、気が付いたらしくて、さっそくに瓜南直子さんを守る方策を考え出しました。それは、開発ちえさんを守るために私のパソコンを壊したのとコンセプトは同じです。
ただ、瓜南さんのケースでは私がフェイスブックを一生懸命、維持していた最中でもあり、そちらでの読者も多かった(900人を超えていたのですよ。自然にまかせて努力をしないでも増え続けていました。なので、もしパソコンを壊したら、すぐ外のパソコンで事態を読者様にお知らせをすることが予測をされたのでしょう。敵も当時は、パソコンを壊しては来ませんでした。その前には、何回も壊され、フェイスブックをオン出された後では、一回壊されたので、フェイスブックはパソコンの破壊を予防するという意味では、有効でした。が、この瓜南さんをはじめとして、大勢の人材を使って、神経を痛めつけることをやられて来ていたから、『そこをおん出されたのも、神の庇護であり、順当なことであったなあ』と、今では、納得をしています。自虐的に苦笑しながらですが。
パソコンを壊す代り、瓜南さんを、できるだけ高く持ち上げて私との差をつけるという方策を彼ら(敵たち)は取りました。京都の名刹で展覧会を行うよう企画を持ち上げたり、テレビで、西部さんと一緒の上品なトーク番組に出演するような企画も立てたり。
後で、大問題になる金田佑子さんとの仲良しぶりを強調させたりする。・・・・・それは、瓜南さんが、鎌倉名物を彼女に送るという形で、証明された・・・・・フェイスブック紙上で、私の紹介で、2人は友達になったのだから、これは、私の神経を痛めつける。特にラベルだけを張り替えた実際には売り出されてもいない日本酒『恋のうぐいすから』を使って、金田さんの方が私をからかいきってきた後だから、これが私の身に堪える。しかも、そのからかいの前に盗聴を目的としたデートのお誘いがあった。それを断るのがオオゴトだったが、断ることへの復讐として、そのからかいがあったのだから、余計に神経にこたえる・・・・
でも、繰り返しになりますが、このいじめほど戦いにくいものもありませんでした。ユーモアの連続ですから、攻め込む、とっかかりもない。でね、仕方がないので、根本的な解決を目指しました。
それは、政治についての分析を続けるということであり、その点では、決して萎えるることはないという形で、自分を整えて、コントロールして、瓜南・金田連合軍のいじめは、気にしないようにしたのです。
そのためには、瓜南さんについては、見ざる聞かざるを貫くと、心を決めました。ので、逝去を知らなかったわけです。
そして、自分でいうのもなんですが、見事に真実をついた分析をつづけたと思います。
ここで、最近開かれたIMF総会の中で、野田総理が、ユーロ危機に対して、600億ドル拠出したことを論じていますが、2万字を超えたので、削除をいたします。特にニュースが17日の早朝以来消えているので、ある程度以上にリスキーというか、おかしいところがありますので、もっと、よく見えてから書きます。
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副題8、『瓜南直子さんと、鎌倉五山の管長たち』
ある日、瓜南直子さんが「昨日鎌倉五山の管長さんと一緒に食事をしました。料理はラーメンです。場所は浄智寺でした。途中でお帰りになったけれど、覚園寺さんも見えました」と、フェイスブックに投稿をしたのです。
これは、意識せざるを得ない高級ないじめでした。まず、お料理がラーメンだったというのも一種のユーモアですから、いちゃもんのつけようがありません。円覚寺や建長寺も含む五山の管長が全部集まって、女性客は、瓜南さんただ一人。そして、彼女は主役として扱われています。彼女はお料理が上手で、一種のお料理研究家でもあります。彼女のお話を六人の、社会的な地位としては世の尊敬を受ける偉い男性たちは、笑いながら拝聴をしたと推察されます。
これは、普通の人にはできません。また、瓜南直子さん本人が、動いてもここまでスムーズにはことは運ばず、ほかの人が企画したと思われます。普通の人にもできないことを私ができるわけもありません。だから、数段のレベルの差がついて彼女の方が上であるとなります。しかも、覚園寺さんと、浄智寺さんが、ここに名前がでているということもこれが、重要ないじめであることを示しています。
そのどちらも、名刹のトップですから、上品で、直接に、いじめられたことはありません。だが、エージェントたちの企画には、乗られたことがあり、その企画ゆえに間接的にいじめられたことが過去にあるので、その二つの名前が重要なのです。特に浄智寺さんは、お部屋をご提供なさることは知っていてそこを何度も私も使っていますが、一応五山の中のおひとりです。が、覚園寺さんは、遠く離れていて違います。でも、こちらも伊藤玄二郎たちの企画にお乗りになっているのです。それは、レザンジュを利用して、最高裁判事夫人からの贈り物が届かなかった県都コンセプトは同じです。それを私の方は知っています。それを詳しく書くとまた、何万字も必要なので、『瓜南さんと、差がついていることを、したたかに味わわされた』と、ここでは記しただけで先へ進ませてくださいませ。
ともかく、『それはわかりました』として、それでも、私は健康を維持し、毎日新しい考察に入り、それを書き表し続け、この国を守るべく奮闘を続けます。
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副題9、『西洋的神と、禅宗の教えを考えてみよう』
その元気さを維持するために、考え方を変えていきます。それが私の言う哲学ということなのです。
まず、一般の人が信じている社会階層を考証しぬき、それが、人間の作った装置に依存をしていることに気が付き始めます。すると、『なんだ、そういう意味では、恐れるに足らず』と考え始めます。瓜南さんがどれほど、私より上に存在していようとも、その装置から外れれば、影響力はないのです。
フェイスブックで情報を見ないようにすれば、日本画家である彼女と接触する場所はどこにもないのでした。
一方で私は、神様に庇護されていて、愛されていて、そのまなざしのもとに、自分が生かされていることにも気が付いています。
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上の「神に愛されています」の二行は自分が弱い立場に立っていると思っての発言です。しかし、瓜南さんが亡くなっているとなると、この二行の言い方は、強すぎますね。
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人間とは究極の側面に立てば、誰もが平等のところに立っています。裸で生まれ、何も持たずに死にます。人間の作った葬式では棺は祭壇に飾っていた花で満たし個人が好きだったものも入れます。しかし、一時間後に、焼却炉から滑り出てきた金属板の上には、それらは残っておりません。
私がいう神様とは西洋式発想で出てきています。だけど、この上の数行は、禅宗にも通じる発想ではないかなとも思っています。
私は神に見守られる幸せというのも知っていますが、人間が、如何に、はかない存在であり、本日持っているものをあす失うかもしれないことをも知っています。
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これは、16日に、瓜南さんの死亡を知らないで書いています。自分に向けて書いています。ところが、驚くべきことに、今の18日になって見て、冷静に事態を見つめると、私より、15歳は若いであろう、瓜南さんの方が先に亡くなりました。今、大変に疲労をしているのは、その事実に『やはり』と言っていいほど、心が揺さぶられているからです。『やはりねえ。彼女は悪人にからめ捕られていて、一種の魔弾の射手となっていたから、こんなに早く命を落としたのだわ』と感じるから、そこに怖れさえ抱きます。絶対的な力を持つ神への畏怖心を感じます。
と、同時に『なんとはかないのだろう。人間の命なんて』とも思います。自分の上に高い壁の様にそそり立ち、ユーモア満載で、もし、私が何かの抗議や、怒りを書いても『あーら、私、あなた様など、眼中にござんせんよ。何を・お・ほざきになっているん・ざんしょ』と笑いのめしたであろうと、思われる、強くて、りりしい彼女は、現実の世界には、もういないのです。遺骨遺灰となって、立派であろう、瓜南家の墓所に眠っていると推察されます。それは私にとっては一種の勝利であろうが、
<<<<お互いに、根柢の真実に触れて語り合い、和解するチャンスが無くなった>>>>ということで、2人ともにとって、悲劇ではあります。
特に、4月の12日に書かれた絶筆と言っていいブログが、非常に切ないです。そこには、ユーモアで仮装したいつもの彼女はおらず、素顔の彼女がいて、苦痛をはっきりと、しかし詩的に述べています。一ミリも、絵を描いたり、身を動かしたりできない感じがあると。
私も、『ああ、自分はここで、費えるのかなあと、おもったことが、二度か、三度、もしくは四度ほど、あります。蒼白な顔になって、ほとんど死相が表れるという状態でしょう。横須賀共済病院では、周りの患者さんが、先生に告げてくれまし田。先生が、私があまりに我慢強い人なので、実は麻酔を使わないで、手術をされたのだそうです。謝罪を受けました。
その次に、顔に眼鏡が刺さって、手術をしてもらった後で、入院もせずに、電車で帰宅をしたら、品川駅で、長時間電車が止まりました。あれも、嫌がらせだったと思います。今ではそう思います。その待ち時間に例のショック状態がやってきて顔面も蒼白だったと思います。
ただ、顔に大きな包帯をしていて、内出血が、顎のあたりまで、降りてきていたので、誰も(なにかの事件に巻き込まれた人だろうと考えたのか、恐れて)、近寄ってきませんでしたが、貧血によるショック状態特有の、死にそうな苦しみを味わいました。むかむかとして、いてもたっていられない程度の、異様な感じ。だけど、回復しています。
瓜南さんも、そういう異様な苦しみ(痛みとは違うのですよ。だけど、自分で、これが、異常なものだとはわかります)をパソコンで書き記しながら、でも、回復を信じていらっしゃったのだと思います。だから余計に無残で、切ないです。
本当に死を予測したら、もっと違うことをお書きになったでしょう。
例えば、私だったら、家族に頼んで、「すべての人に感謝します」とまず言って、それに添えて、特別な献辞として、瓜南さんの名前も挙げるとか。
最初のうちはツィッターをさらに、お書きになっていたのかと思っていましたが、そうではなくて、
ツィッターの方は、前年度、2011年の7月まで、書かれたものでした。その2011年の6月に、全日本アスはが連が始まっているので、そのころ、伊藤玄二郎と、接触が始まったと思われます。つまり、伊藤玄二郎が、柴田悦子さんなどを通じて、いろいろな企画を持ちかけて、そのついでに、飲み屋でくつろいで話したりする形式で、いろいろ頼んだり、私への讒言を聞かせたりしたのでしょう。
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副題10、『栗田玲子さんと柴田悦子さんは、伊藤玄二郎を、いい人だと信じているらしい?』
それは、その前に鎌倉駅のトイレで、栗田玲子さんと出会った時に、彼女がなかなか、出てこなかったので、その理由を推理して、『なるほど、東京からここまで、伊藤玄二郎と一緒で、私の悪口を聞かされて来たのですね。東京でもレストラン棟で、二時間ぐらいは話したのだけれど、まだ終わらなくて、一緒に鎌倉で飲もうとなったのでしょう。奥様であり、葉山在住なのに、栗田さん、こんな時間に鎌倉にいていいのですか?』と、思い当たった日が役に立っています。
栗田さんとトイレでばったり出会ったのは、本当に偶然ですが、これがよく言う私の『神様に見守られている』ということの現実に現れる例です。その現象がその後の、伊藤玄二郎と、酒井忠康、栗田玲子の三人の行動とその目的、および、そういうことをやるときの心理状態への、解釈に非常に役立ってきます。
ところで、栗田玲子さんは、私をさんざん待たせたうえで、やっと出てきて、口紅を塗りなおしたのです。これって、私をどれだけ、ばかにしているかを表しています。だって、返答もまともにしないで、口紅を塗りなおしているのですから。これは、女性特有のテクニックでしょうが、私がテクニックに惑わされるような、単純な人間だと思うのは浅はかです。何冊も本を差し上げているのだから読まないとダメですよ。読んでいないから、間違った方向へ走るのです。
やがて、ここでも、栗田玲子篇を書くつもりですから、そこで、もう一回、書き表しますが、本当に失礼な女性です。お金と名誉だけで人間を判断する浅はかな女性です。教育大学の史学科を出ているのに、自分自身が保有している哲学がなっていない。
それと似たやり方で、柴田悦子さんも、伊藤玄二郎にからめ捕られたのでしょう。彼女は、朝日新聞の編集者などに対しては、下へも置かぬもてなしで接するでしょうが、私に対してはひどい態度を取る女性です。それは、哲学や、信仰の問題から、常に現象を考える私にとっては、『大学卒の画廊のオーナーとして銀座では威張っている人だが、本当の意味での教養は、高くないなあ』と考えてしまう存在です。
瓜南さんのように、その人自身の表現作品を知っていれば、まだしも、すくわれます。ただ、画廊での接客態度だけを見せつけられるので、この手の判断は変更される可能性がありません。社会階層的な上下関係で考えれば、彼女は「安泰よ。私って。雨宮舜(=本名川崎千恵子)ごときに何を言われても」と思っているでしょうが、本当はそうでもないかもしれませんよ。瓜南さんと私の上下関係が、こういう形で終わったとみれば。
ただ、物故作家として、瓜南さんがこれから、ブレイクして行く可能性もあります。NHK日曜美術館で特集される可能性もありますし。その際に作品を買うことができる場所の一つとして、柴田悦子画廊が生きてくるので、悪口もこの程度で納めておきましょう。それは、瓜南さんの過剰な消耗による死が、お気の毒だと感じているからです。
で、柴田悦子さんから、栗田玲子さんのトイレの場面に戻ります。特に、笑っちゃうのは、彼女の化粧直しを待って、やっと一緒にトイレを出たら、それを察した伊藤玄二郎があわてて、男子トイレから、先へ走って逃げたのです。その時まで、誰が栗田さんに声をかけたかがわからなかったけれど、栗田さんの失礼な対応を壁越しに聞いて、相手が私だと察したのだと思います。
彼の麻のスーツの上着の裾がひらひらするほどのスピードで、逃げ去っていきました。顔を見られたくなかったのでしょう。私の方は、写真で彼を知っていますが、絶対に顔を見られたくなかったと思われます。私が観察の鋭い人で、一瞥するだけで、事態を、正しく察することを知っているのです。それで、男子トイレを出て、すごいスピードで、向こうへ、さーっと走って逃げました。栗田さんと私の二人が、たどり着いた改札口あたりでは、どこにも彼の姿は見えませんでした。意地悪して物陰で、2人が再び、会話を交わすのはどこか、確かめて見たいとも、一瞬は思いましたよ(笑) が、そこまでするのは下品だと思ってやめました。
このことを一つとっても、彼が、どれほど、自分だけが大切な人間で、その時に仲間として組んでいる女性でさえ裏切り、先に一人で逃げていくほどの、臆病な存在だとわかります。
そんな人間の下半身の秘密を守るために、右往左往させられて、瓜南さんは、命果てたのです。お気の毒ですね。
勝っている存在として、はしゃぎ切っていた彼女の、ネット上での姿を、つい昨日のことのように思い出します。
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副題11、『色即是空、空即是色』
しかし、上の説の最後の2行を書くのは18日に入ってからであって、16日の私は、あくまでも勝っている人として、そしていじめてくる人として、瓜南さんをとらえていました。神山明という芸大出身で、東海大学の教授(?)が何のお断りもなく、FB上の友達関係を切ってきたのも芸大ルートがあるから、彼女からの讒言が原因だったかもしれないと思ったりして、そりゃあ、プレッシャーを感じていましたよ。
ついでにここで、申しあげたいが「神山さん、東海大学の教授程の、社会的な地位があるのなら、こういう礼儀知らずのやり方はだめですよ。社会階層だけで、世の中は動いているわけでもないからです。こういう文章が残るわけですから、どうか、ご慎重に行動をしてください。常に礼儀正しくあってください」と。
ドゥローイングギャラリーのオープニング(それは、急死の一年前です)で、『鎌倉中のセレブが来てくれた』とはしゃぎ、
いじめ用の文章ではしゃぎ、特に映画のプログラムの件もありましたしね。鎌倉五山の管長(それは、有名な円覚寺や、建長寺を含むのですよ)との、懇談をはしゃいで報告する彼女には死の影すらありませんでした。
で、彼女のいじめに対抗するためにこちらはどういう工夫をしているかを書いているのです。
それは、徹底的に捨てることです。
物は捨てられない私が、人間関係や、団体への所属を捨てる傾向があることを、ここで、報告しています。
そこあたりは、推敲の過程で、18日になって、非公開として、隠しました。
それは、ある種の決意表明で大切なものですが、瓜南さんが、大きな存在であったからこそ、書いたことで、彼女が亡くなってしまうと、そこまで、他者にさらす必要が無くなったのです。
特に敵の多い私には、その情報が悪用される恐れがありますので。24時間以上さらした後なので、もう今では、実際には防衛には、間に合いませんが(笑)、ここでは、一応ですが、引き下げます。
しかしその原文を16日に書いた私は、その時点で、自分が何も持っていないことを知ったのです。改めて、自覚したのです。肉体はありますよ。まだ、相当期間生きそうです(笑)。ゆるゆるとですが、生きていくでしょう。
だけどね。人生の途上で、努力によって獲得をしたものを、失っているのです。
その時に、この10月10日に法事があり、その席で、聞いた般若心経の言葉が、身に染みて浮かびました。その場所は、鎌倉二階堂にある、凛林という創作中華の家で、木々は家に覆いかぶさるが、東と南が開けている明るい家の中です。
お話をしてくださる方は、とても美しい顔をした御坊様で、曹洞宗で、偉い立場を持っておられる方です。
我が家は、祖父の代までは、浄土真宗でしたが、山口県の萩にあるお墓へは、子供や孫はお参りに行かないだろうと考えた父が、鎌倉霊園に新しいお墓を作り、宗旨も変更しました。横浜とか、東京の偉い御坊様を招いて、グループでお話を聞いたりして、その結果、選んだ御坊様です。東京圏には大きな葬祭場がたくさんあって、焼却場が20ぐらいある場所では、ほかのお葬式の組にも出くわしますが、この御坊様ほど、きれいな顔をした方はいないというほどでした。特にお若い時にはね。今は、相当に大人のお顔をしておられますけれど。
私は毎月鎌倉霊園に父母のお墓参りに行っていますが、嫁に行った人間で、姓も変わっているから、そこへは入らないでしょう。それに、普段考えている神様とは、西洋的な教養から生まれてきたもので、非常に高いところから、私を見守ってくださっている大きな力のある方です。
だけど、対瓜南直子という、何もかもメタモルフォーズ(=変換)してつかみどころのない形で軽蔑してくる人間が、いじめてくることに対しては、どうにも戦いようがないからこそ、非常にはかない存在(=敗者)として自らをとらえたのでした。
<<<<<私は、空も空。何も持っていないよ。ひどい終焉ですね。でも、それでも、幸せです。それって、お釈迦様が、最後にお考えになったというか、たどり着かれた境地とにているのではないかしら? やはり、私もアジア人なのですね。肉食系じゃあないですね。>>>>>と考えたことでした。
それが、瓜南さんの死をコメントとして、教えてもらう同じ一日内の、数時間前の思考ですから、またしても、自分の勘の鋭さに驚き入るのです。
直子さんが、私にそういう考えを抱かせたのではないかしら?
彼女はいじめるという形ではない別の形で、私と再度接触したいと思っているのではないかしら? 天国でそう思っているのではないかしら?
2012年、10月16日に初稿を書き、18日に推敲を終える。
雨宮舜 (本名、川崎 千恵子)
副題1、『瓜南直子さんの死を、その4か月後に初めて知る』
副題2、『泉湧寺に問い合わせをしたが、微妙に変だった』
副題3、『伊藤玄二郎と、酒井忠康氏は、瓜南さんを利用しきって、その命を縮めたのだった』
副題4、『瓜南直子さんは、フェイスブックの世界でIT的に厚遇を受けていた』
副題5、『瓜南直子さんと、小町通りの共同溝工事と、全日本アスはが連』
副題6、『2012年10月16日はことさら、工事が派手だった。彼らは、・・・・・瓜南さんの死を知らない雨宮舜が、また、悪口を書いたぞ。これで、瓜南直子ファンをさらに、引っ剥がし、こっちサイドへ立たせられるぞ。勝った勝った・・・・・と、大喜びをしたのだった』
副題7、『ここで、気が付く、ユーロ圏危機への600億ドル拠出』
副題8、『瓜南直子さんと、鎌倉五山の管長たち』
副題9、『西洋的神と、禅宗の教えを考えてみよう』
副題10、『栗田玲子さんと柴田悦子さんは、伊藤玄二郎を、いい人だと信じているらしい?』
副題11、『色即是空、空即是色』
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副題1、『瓜南直子さんの死を、その4か月後に初めて知る』
最初に、申しあげます。2012年10月17日の午後一時に、このブログへコメントとして入った短い文章を読みました。それで、初めて瓜南直子さんの死を知りました。
が、2011年の11月まで金田佑子さんとコンビを組んで、豊島屋の源平巻きを種にして、活発なやり取りで、私をいじめまくっていた彼女が、
肝硬変ですか? たった、七か月後に亡くなるなど、夢にも信じられません。こんな速さで亡くなったことには唖然とする私です。
二人は液晶画面の上で、・・・・・そのやり取りを見ている私の目の前で、・・・・・間の時間を10秒も開けずに、・・・・・執事金田佑子が、お嬢様瓜南直子に対して、崇め奉りながら、・・・・・微妙にも私をいじめることに役に立つ、会話を活発にやり取りをしていたのです。まるで漫才みたいだったと下に書いていますが、
豊島屋の源平巻きの赤い包装紙を、剥いていくのを、女性の赤い袴・・・(よく神社の巫女さんが穿いていますね)・・・を脱がせることに例えたりして。
心理的に言えば、狂喜乱舞するという形でした。
「そんなことがどうして、重要なのですか?」とおっしゃる向きもあるでしょうがその前の2011年の10月の末から金田さんと二人で、めちゃくちゃなことをなさっているのです。金田さんの11月初旬の東京出張を機縁にした二人のお酒を飲む会も含んだであろう大騒ぎ(=私に対するいじめ)をここに書いていませんので、誤解を招くことは承知で、以上を書いていますが、下の初稿にも、『この源平巻きを種にしたジョークほど残酷なものはないと感じた』と書いています。
そのころ、私が『何を根拠にしてそのいじめに耐え、平静を保ち、ブログを書き続けたか』というと、聖書の中にあった、ある言葉でした。お子さんのない女性に対しては大変残酷な表現なので、ここに引用をすることは避けますが、
『子供を産まなかったとか、育てて来なかった女性に固有の未熟さが、上記の二人にはある』と、感じました。まだ60には達していない年齢の二人がこれほど、熱中して、真夜中にフェイスブックで遊んでいられるのは、お子さんがいないからでしょう。子供が二人でもいれば、高校受験、大学受験、就職活動、結婚、もしくは離婚と、課題が次から次へと起こります。それは子供にとっては人生の関所であって、無事にそれを乗り越えられるかどうか、親は口出しも手出しもできず、ただ、見守るだけですが、その見守りの愛情がないと、子供はだめになります。ところで、その、ただ見守って待つだけって、超が付くほど疲れるのです。その疲労感が頭の上に重くのしかかっていると、とてもではないが、はしゃげません。
で、私は、その日以来、二人に接触することを止めたのです。だから、瓜南さんが「肉体的な、疲労がたまっているのか、不調なのか、わからないが、絵を描くのが、1ミリもできない感じがする。それほど体を動かすのが億劫だ」という意味の文章を4月にブログで、公開したことは、まるでしりませんでした。
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副題2『泉湧寺に問い合わせをしたが、微妙に変だった』
ともかくのこととして、2011年の11月末以来、瓜南直子さんにはリアルは無論のこと、ネット上でも、接触をしておらず、・・・・・しかも、何かを書くときには、事前にネットの調査をしない主義なので、逝去のことは何も知りませんでした。コメントを読んでからあわてて、ネットで、彼女のことを調べましたが、どうしてか、最初には、項目が全部は出て来ないのです。これは、いつものことであり、『私のパソコンを常に支配していて、やりたいことを邪魔する人間がいるからだ』と、感じて、方向を変えて泉湧寺にお電話をかけてみました。
どうしてかというと、下にも書いていますが、瓜南さんが、私より上の存在であるということを見せつけるために、瓜南さんに対して、逝去の前に、数々の企画が持ち込まれていて、その一つが泉湧寺のグループ展だったからです。しかも、8月で、暑い盛りでした。瓜南さんは、暑いさなか、たまたま、横を通り抜けたパ-トナーの伴さんのタクシーが自分を拾ってくれなかったことを、上品な疑問を呈するという形で、嘆いておられますが、その10か月後に肝硬変で亡くなるのだったら、「タクシーに同乗させてよ」とお願いしたくなるのは気持ちは非常によくわかります。作品を2,3点持って東山に上る道は、日がカンカン照りったら、ただでさえつらいだろうに、その10か月後に亡くなるほど、肝臓が弱っていたのですから。
私も、とても体調の悪い人間です。どうしてかというと、卒業実験の担当教授が、東大卒・ハーヴァードとMITで、研修を続けたという偉すぎる方だったのが災いをしたのです。NASAに使うような耐熱性樹脂を作り出したくて、トルエン類を使う実験を命令なさったのですが、その際、突然の沸騰というのが頻繁に起きて、大量のトルエン類を吸っているので、骨も肉もボロボロなのです。
人間ドックでは、40代で、「すでに、90代の骨と肉体となっています」と言われていて、その三十年後の今は、100歳を超える骨と肉体になってしまっているでしょう。心臓をはじめとする全身の血管にある弁がうまく閉まらないので、血圧が下がりすぎて、ショック状態にはよく陥っています。そのうちのトルコ・イスタンブールのケースは特に重篤で、二時間以上無意識だったのです。蘇生術を、講じられたあとでも、下が40、上が60でした。だから、低体調状態の連続で、しかも、週に2,3度は徹夜するという無理を続けていますが、気持ちを時々リラックスさせて、上手な選択をして、生き続けているわけです。その上手な選択の一つに、タクシーの利用があって、それは、母から遺産が入ったので、最近、急に可能になった話でした。瓜南さんの最後のブログを読むと経済的な困窮にも触れておられて、そのあたりが、痛々しくて、つらいですね。芸術専攻だとそうであり、夫も、芸術家で、サラリーマンではないケースであったことも、さらに経済的には無理がかかります。
ところで、そんなに、リラックスして、自分だけの世界で生きていることができる私とは反対に、瓜南直子さんの最終段階は、怒涛の日々と言っていいほど、企画が重なっている日々でした。他者からお話を持ち込まれ、他者との接触の多い日々でした。2011年初夏には、鎌倉ドゥロ-イングギャラリー(非常に上品ないい画廊です。ご主人は吉井画廊にいたベテランだし・・・・後注1へ続く)で、
「鎌倉のセレブがオープニングにすべて集まった」と書いてありました。よかったですね。
だけど、それを知っても、私が文章の大意を書きなおすことはありません。私の文章は政治を語るものです。政治に直子さんが利用されたことは事実です。この日本と日本人を守ろうとする人間を追い詰めて、『お前、死ねよ』と言っている連中に利用をされたのは事実です。
人間関係上断れなかったとしても、はしゃぎながら人をいじめてはいけません。
そのセレブという連中の中心には酒井忠康氏と伊藤玄二郎は当然のごとく含まれているから、私には彼女の個展の情報は表側からは、何も入ってきません。それでいいのです。例えば、今、我が家の真下の、神奈川県立近代美術館・鎌倉館で、個展を開いている現代彫刻の作家さんは個展のたびに案内状をくださっている方でしたが、今回は来ていません。で、それが再び来るように願って、書き方の方針を変える? そんな小さな欲得に左右されて私が動くはずもありません。
で、泉湧寺に戻ります。
微妙に返答が変でした。むろん、私の質問は、「瓜南さんは逝去なさっているのですか?」などというぶしつけなものではなくて、「去年の八月にそちらで展覧会をなさっておられますが、ご交流はいまだ盛んにありますか?」というものでした。が、「プライバシーに関する質問には答えられません」ですって。お寺って衆生済度を願うところだから、ありとあらゆる人へ親切なはずなのに、違うので、『ああ、これは、死亡が真実なのだ』と思い直し、このパソコンへ向かって、逝去のことに触れはじめたのです。そうすると急にグーグルさんが瓜南直子逝去に関する項目を開示し始めました。
ところで、非常に意味深いことが二つあって、一つはブログの最後の文章の副題が、「いずみは湧き続ける」だったことです。私が、鎌倉のどの画廊にも、どの作家にも電話をかけず、京都までたどって電話を掛けたのは意味があったのでした。彼女は、去年の八月、泉が湧くという名前のお寺に招かれたことに大いなる意味を感じていたのでしょう。ブログの最後の文章は、痛々しいものですが(一種の絶筆と言っていいだろう。パソコンを使ったという意味ではこれが最後だったと思われる)そのタイトルは、赤字で「いずみは湧き続ける」とつけられていました。
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副題3、『伊藤玄二郎と、酒井忠康氏は、瓜南直子さんを利用しきって、その命を縮めたのだった』
もう一つは、金田佑子さんの情報が私の目の前では消えているということです。同じ説明文(この人物はフェイスブックをやっています)が付いてるもので、梅森伸一さんの紹介は今も存在していて、キューピーの片足が砂浜に転がっているアイコンだけは見ることができます。が、同志社大学卒業の若奥様(ただし、40は超えているだろう)で白地の和服を召した金田佑子さんのアイコンは見当たりません。説明文だけは残っているのに。
もしそれが、彼女の瓜南さんへの哀悼のしるしだったら、それでよしとしましょう。二人で一緒にやったことが、瓜南さんの命を縮めたという解釈が表れているから。でもね、例の敵たちに「抑えなさい。しばらくフェイスブックはやめなさい」と言われてやめているのなら、それは、何とも嫌味なことです。
ただ、私にとっては、それが、瓜南さんが、教唆をされていじめて来たということの証拠になるから、それでもいいのですけれどね。
もう一つ、そういう例を加えておきましょう。瓜南さんから離れることとなりますが、政治という意味では重要なので。
岩手県盛岡市で、タウン誌を発行している50前後だと思われる活発なママ、高橋真樹さんが、伊藤玄二郎(または、アイデアを提供したであろう井上ひさし)に勧められてでしょうが、私に対して、2012年の1月と2月に、ひどくて、しかもぴんとはずれな攻撃を二度ほど、フェイスブック内で、やって来ています。が、彼女に関する情報が、グーグルでは、今、すべて読めません。以前はたくさんあったのですよ。ただし、外のパソコンを借りて探索すれば読めるのかもしれませんので、いまだ、断言ができませんが、
伊藤玄二郎が、どれほど、あっち、こっちに粉をかけて扇動しまくって、私を苛め抜いているかが、これで、わかります。でもね、ここが最大に重要なことですが、
そろそろ彼の手法も破綻が見えて来たということです。自分が利用した駒が、疲労困憊のあまり、予想外に早く死んでしまって、どうして、安寧の境地に立てますか?
直子さんは、2011年の4月末の鎌倉ドゥローイングギャラリーの個展。夏に鎌倉観光展、そのすぐ後に泉湧寺のグループ展、その直後に東京テレビの、西部さんを司会者とする番組への出演、その後に、下に出てきますが、鎌倉五山の管長+覚園寺の管長さんと、一緒の懇談。そのすべては、伊藤玄二郎と、酒井忠康氏の発案であろうから、引っ張りまわしたということが、最適な表現で当たり、彼女を疲労困憊させたのです。
目的は、『お前より、この人の方が偉いんだから、お前は、下手に出ろよ。もう、文章を書くな』ということであり、彼女が偉い人であることを証明するためでした。
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ここで初稿では、音楽の話を入れています。それを、柱にしてまとめるつもりでした。が、急きょその部分は削除をさせていただきます。
が、その中の最後で、『王子ホールの出演者がハイレベルな音楽家なら、必ずNHKの収録車が来るのに、2011年の4月12日は来なかったのは、なぜか?』ということを問題にしていて、そこから、例の政治のごたごたと、鎌倉エージェントの存在へ入っていくことになります。で、その初稿を書いた2012年10月16日は、数々の嫌な思い出の中で、金田佑子さんと、瓜南直子さんのエピソードが特に頭に浮かんだのでした。
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副題3、『瓜南直子さんは、フェイスブックの世界でIT的な優遇を受けていた』
ところで、上の王子ホールのパソコンへ侵入をされている可能性を、『あなたの思いこみが強すぎる話でしょう』とおっしゃる向きがあるといけないので、これから、脇道へずれることになりますが、2011年秋の、京都旅行中の出来事を語らせてくださいませ。
その前に私への攻撃がいかに多方面から行われているかについて、瓜南直子さんという鎌倉在住の日本画家のフェイスブック紙上の投稿について述べないといけません。瓜南直子さんは、ご自分のホーム頁も持っておられるし、ツィッターもやっておられるので、もし、知らない方がいたら、それをご覧ください。
ユーモアのある人で人気が高いでしょう。
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ここから先は無論のこと、彼女の死亡を知らずに、書いているわけで、死を知っている人から見たら、死者にムチ打つと文章ということになるでしょう。
ただ、いつも神様に見守られていると感じる私が、この瓜南直子さんだけには、『どう戦っていいかの糸口がなかなか見つからず、相当に苦しめられた』ということがあるので、この原文の調子のまま、ところどころを直す程度で先へ進みます。
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この人がどうして、伊藤玄二郎側にリクルートをされたかというと、銀座の柴田悦子画廊とか鎌倉の夢松洞を通じてだと思います。ともかく旧軍人(大将だったかな?)の子女で、かつ芸大出身で美人です。鎌倉市内に二つの住居を持っているし、女性としては、ランクの高い人です。顔の実物を見たことはないが、同じいい女でも、酒井忠康夫人よりはこの日本社会においても鎌倉市内においても、存在感が強いでしょう。
フェイスブックの世界で、IT的なサポートを抜群に受けていて、反対の方角で、攻撃を受けている私は、やはり、それを気にしました。だから、さらにIT的いじめを、私が、フェイスブック内でやられることとなったわけですが、
ある時に彼女が紹介をしているホーム頁を見て、「これ、あなたがおつくりになったのですか?」とフェイスブック内の個人的なやり取り(一種のメール)を通じて問い合わせたら、「いえ、ほかの人(ITデザイナー)が作ってくれました」との答えでしたから、筆で描くアナログの人で、IT技術は、基本的なものを使える程度の人だったと思います。しかし、抜群の、高性能で、フェイスブックを駆使していて、シェアなども、ほかの人ができないことが、巧妙にも、希望通りにもできるらしいのです。
このIT的なレベルでの私との差ですが、例の古村浩三君がやっているのか、警察がやっているのかはわかりませんが、ともかく、『あんたとは差があるよ』ということを『これでもか?』というほど、常に見せつけられて来る存在です。
この人の私に対するフェイスブック紙上での、いじめを始める時期が、また、間髪をいれず、このブログに対応をしています。ブログが日本国民には隠されている政治の真実に迫るたびに、瓜南直子さんが、私をいじめて来るのです。ただ、『両者の文章を読み比べても、普通の人にはピンと来ないでしょうね』というほど、巧妙な攻撃です。
つまり、頭がいいので、呑み込みが早くて、「こうしてください」と頼まれたら、それを、オブラートに包んで、さらに一回か二回のメタモルフォーゼをかけて表現をすることができるので、ほとんどの人はその関連には、気が付かなかったと思います。
が、瓜南さんを攻撃用弾丸として使っている存在、およびIT的にサポート・・・(むろん、陰でやっているので、瓜南さんに自覚はないでしょう。金品を払ったなどという思い出もないはず)・・・している存在、および、警察などには、わかっていたでしょうし、何よりも、攻撃をされる私の方は、それを明瞭にわかっておりました。
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副題5、『瓜南直子さんと、鎌倉小町通りの共同溝工事』
だが、高度に知的に、ユーモアをまぶしてあるので、私との関係性の説明が容易ではなく、仕方がなく、こちら『銀座のうぐいすから』の読者様には、あまりそれを、説明してはおりません。
でも、今日は相当に腰を入れてそれに取り組みましょう。
*1)、鎌倉小町通りの共同溝工事(私) VS 全日本アスはが連(瓜南)
鎌倉小町通りに美しい敷石のプロムナードがありました。それは、現在では、伊勢神宮のおかげ通り、横浜元町プロムナード、辻堂の湘南モールから法務局を通って、第一国道までと、多方面で採用されているものですが、相当以前に、小町通りにもつくられたものです。ところが、私が敷石を磨く男という哲学を主題にしたエッセイ(未発表・月刊ギャラリーで使う予定があった。それは、編集長が、うむ、これなら連載を持たせても、よいだろうと判断したほど出来が良い文章だった)を書いたことで、つぶされるようになったと感じています。
私の文章がよいと、そこに登場する人物や物をすべて、なくしていこうとするのが井上ひさしと、伊藤玄二郎です。
すでにその時までに、
*鎌倉駅ホームに在った喫茶店。それから、
*ホームに沿って走る線路西側の道沿いにあって、小さいながら人気があった映画館という喫茶店、
*鎌倉八幡宮境内にあって、その珍しい姿勢に、私が、30年以上注目をしてきた、アメリカキササゲの木。
*京橋にあったギャラリー手、
*渋谷、銀座、京橋にあったオフィスデポという文房具店、なども消えております。
かれらに着目をされると、閉店を迫られたりするのです。で、私の素晴らしい文章(?)の中にあるその敷石をつぶし去り、復活させないがために、延々と工事が行われているのです。そして、大看板にある説明を読むと、次の道路はカラーアスファルトだとか。敷石は絶対に復活をさせない模様です。だから、この道路工事は彼らの、おもちゃであり、彼らの権力の誇示が、目的であることが明瞭です。
そして、2008年の2月に始まったそれは、四年もかかっているのにまだ終わらず、目的を、敷石を復活させないということから、私への単なる脅かし用作戦に利用されているだけと変更になっています。例えば、銀座に出かけない・・・(監視カメラや、画廊への問い合わせに引っかからない)・・・日にはやっていないとか、
反対に、敵さんたちが、『自分たちは今、有利だ』と判断をした日には、鎌倉市内へ買い物に行こうとして、山を降りていくだけでも工事が始まります。
私はすでに脅かされてはおりませんがそれを見るたびにこれが、石川和子女史と、柳沢昇氏の私の猫を巡る大失敗から来ていて、伊藤玄二郎のエージェントとしての、権力を見せつけるものだから、怒りは起こりますね。それも狙われています。びくびくはしないが怒る。そこで、エネルギーが消耗をされるだろうと狙われています。
それをここのブログに書くと、某所(某人物)から、瓜南さんへ、「こういう向きで文章を書いてくださいませんか?」という依頼が行くのだと推察しています。
瓜南さんが書いた攻撃とは、「全日本アスはが連というのを作った。この指とまれという形で、会員募集をする」ということです。そのホーム頁があって、盛田隆二という人が、事務局長をやっています。
全日本アスはが連というのは、全国の道路のアスファルトをはがしていくことを好きなのか、または、目的としている団体だそうです。
ということは彼女は工事を肯定しているというわけですから、伊藤玄二郎に味方をしているということになります。
ただね。これを私が嫌がるのは、瓜南さんの二つの家のうち、北にあるものは、我が家から、200メートルぐらいの距離であり、石段を降りるのに手間取っても、三分以内でいかれる場所にあるからです。したがって、彼女は小町通りを通る人となります。ごく最近開店した京都発の油であげた饅頭のお店についても言及しておられたので、それは、確かなことでしょう。
その彼女が、このまったく無駄であり、嘘がたくさん含まれている工事を、肯定しているとなると、私の方がおかしいとなりますね。私も毎日小町通りますけれど、比較すれば、彼女の方が有名人だから、彼女の方が正しいと思う人が多いでしょう。特にネットの世界でだけ、彼女の文章を見ていて、小町通りの工事の実態を知らない人ならそうなります。それを狙われて、この笑いのめした、全日本アスはが連というのを作ったのです。教唆は無論、伊藤玄二郎から来ているでしょう。
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副題6、『2012年10月16日はことさら、工事が派手だった。彼らは、・・・・・瓜南さんの死を知らない雨宮舜が、また、悪口を書いたぞ。これで、瓜南直子ファンをさらに、引っ剥がし、こっちサイドへ立たせられるぞ。勝った勝った・・・・・と、大喜びをしたのだった』
この文章の初稿を書いた2012年の10月16日(火)など、夜の八時半に、鎌倉市内のユニオンか、東急へ行こうと外出したら、八幡宮前で工事はやっていました。半分準備中という感じ。それから、豊島屋の本店前には、車がついたばかり。
主人との室内の会話を盗聴されているとか、『そろそろ彼女は、夫が買わない種類の乾物製品を買いに出るわけだろう』と、私の行動パターンが研究され尽くしているからです。しかし、小町通りには工事はやっておりませんでした。そこはまっくらで森閑としていたのです。鎌倉の我が家周辺(雪の下2丁目)は夜の6時以降は人通りさえなく、夜の八時半ごろは、北鎌倉街道でさえ、車が通らないほど静かないったいです。
その後、私は魚民(居酒屋チェーン)の個室で、夜の9時から、11時までパソコンを使って仕事をしました。鎌倉には夜も開いている喫茶店がマクドナルドしかなくて、そこは、最大限にネット環境が整っていますので、ネットができないように設定をされているパソコンでも内容が把握されると思います。昔から保存ができないとか、文章が白閃化して消えるとか、種々様々な妨害を受けてきている私はネット環境については肌で、ここがどういう条件下で、把握網に入っているかどうかはわかります。で、できるだけ、マクドナルド、スターバックス、エクセルシオーネ、ルノアールは避けたいのです。
私は別におどろおどろしいものを書いているわけではなくて、ただ、既に書いてあるものを、本の編集用に整理をしているだけなのですが、これが、邪魔をされるものの中で、最大の仕事なのです。
それで、外でやろうとするのですが、鎌倉ですと、夜遅くは、『魚民』程度しか思い当りません。大きくて、個室があるところでないとだめなのです。居酒屋のカウンターで、パソコンを打っていたりすると辺りの雰囲気を壊しますからね。
で、そこで、夜の9時から11時まで仕事をして、帰途についたら、小町通りで三か所、我が家のすぐそば、神奈川県立近代美術館の前でも、やっていましたので、鎌倉全体で、七か所も工事をやっていることとなります。それは、タクシーを使っても、徒歩で帰宅しても、工事現場を目視することになるという設定であり、・・・・・それほど、派手に彼らが脅かし行為をする日は、負けたと思っているより、勝ったと思っている場合の方が多いのです。
で、『何を根拠に、今日勝ったと思っているのだろう』と頭を巡らせても、わからないのです。
だが、次の日に、この文章に、コメントとして、瓜南さんの逝去のお知らせが入っていて、やっとあの派手な工事が設定された理由がわかりました。かれらは、その4,5時間前に大喜びをしたのです。『雨宮舜(本名川崎千恵子)が、また、瓜南直子の悪口を書いたぞ。これで、芸大出身者を中心にして、大勢の人間をさらに、こちら側に立たせられるぞ』と思ったからでした。彼らにとって、金貨玉条と言っていい概念は、『人は石垣、人は城』というものらしくて、私から友人、知人や、ブログ読者、およびフェイスブック読者などを引っ剥がすことなのです。
『なるほど。なるほど。そういうことでしたか』と、今もしみじみと納得をしています。
彼女はほかの件でも、徹底的に、おちょくって来ます。大切なことを語っている私を笑いのめして来ています。ただし、すべて、メタモルフォーゼをされているので、それを、私への攻撃だと証明するのは容易ではありません。
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副題7、『ここで、気が付く、ユーロ圏危機への600億ドル拠出』
さて、敵たちは自分たちで瓜南直子さんを使役していながら、それを、私が気が付いたということも、気が付いたらしくて、さっそくに瓜南直子さんを守る方策を考え出しました。それは、開発ちえさんを守るために私のパソコンを壊したのとコンセプトは同じです。
ただ、瓜南さんのケースでは私がフェイスブックを一生懸命、維持していた最中でもあり、そちらでの読者も多かった(900人を超えていたのですよ。自然にまかせて努力をしないでも増え続けていました。なので、もしパソコンを壊したら、すぐ外のパソコンで事態を読者様にお知らせをすることが予測をされたのでしょう。敵も当時は、パソコンを壊しては来ませんでした。その前には、何回も壊され、フェイスブックをオン出された後では、一回壊されたので、フェイスブックはパソコンの破壊を予防するという意味では、有効でした。が、この瓜南さんをはじめとして、大勢の人材を使って、神経を痛めつけることをやられて来ていたから、『そこをおん出されたのも、神の庇護であり、順当なことであったなあ』と、今では、納得をしています。自虐的に苦笑しながらですが。
パソコンを壊す代り、瓜南さんを、できるだけ高く持ち上げて私との差をつけるという方策を彼ら(敵たち)は取りました。京都の名刹で展覧会を行うよう企画を持ち上げたり、テレビで、西部さんと一緒の上品なトーク番組に出演するような企画も立てたり。
後で、大問題になる金田佑子さんとの仲良しぶりを強調させたりする。・・・・・それは、瓜南さんが、鎌倉名物を彼女に送るという形で、証明された・・・・・フェイスブック紙上で、私の紹介で、2人は友達になったのだから、これは、私の神経を痛めつける。特にラベルだけを張り替えた実際には売り出されてもいない日本酒『恋のうぐいすから』を使って、金田さんの方が私をからかいきってきた後だから、これが私の身に堪える。しかも、そのからかいの前に盗聴を目的としたデートのお誘いがあった。それを断るのがオオゴトだったが、断ることへの復讐として、そのからかいがあったのだから、余計に神経にこたえる・・・・
でも、繰り返しになりますが、このいじめほど戦いにくいものもありませんでした。ユーモアの連続ですから、攻め込む、とっかかりもない。でね、仕方がないので、根本的な解決を目指しました。
それは、政治についての分析を続けるということであり、その点では、決して萎えるることはないという形で、自分を整えて、コントロールして、瓜南・金田連合軍のいじめは、気にしないようにしたのです。
そのためには、瓜南さんについては、見ざる聞かざるを貫くと、心を決めました。ので、逝去を知らなかったわけです。
そして、自分でいうのもなんですが、見事に真実をついた分析をつづけたと思います。
ここで、最近開かれたIMF総会の中で、野田総理が、ユーロ危機に対して、600億ドル拠出したことを論じていますが、2万字を超えたので、削除をいたします。特にニュースが17日の早朝以来消えているので、ある程度以上にリスキーというか、おかしいところがありますので、もっと、よく見えてから書きます。
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副題8、『瓜南直子さんと、鎌倉五山の管長たち』
ある日、瓜南直子さんが「昨日鎌倉五山の管長さんと一緒に食事をしました。料理はラーメンです。場所は浄智寺でした。途中でお帰りになったけれど、覚園寺さんも見えました」と、フェイスブックに投稿をしたのです。
これは、意識せざるを得ない高級ないじめでした。まず、お料理がラーメンだったというのも一種のユーモアですから、いちゃもんのつけようがありません。円覚寺や建長寺も含む五山の管長が全部集まって、女性客は、瓜南さんただ一人。そして、彼女は主役として扱われています。彼女はお料理が上手で、一種のお料理研究家でもあります。彼女のお話を六人の、社会的な地位としては世の尊敬を受ける偉い男性たちは、笑いながら拝聴をしたと推察されます。
これは、普通の人にはできません。また、瓜南直子さん本人が、動いてもここまでスムーズにはことは運ばず、ほかの人が企画したと思われます。普通の人にもできないことを私ができるわけもありません。だから、数段のレベルの差がついて彼女の方が上であるとなります。しかも、覚園寺さんと、浄智寺さんが、ここに名前がでているということもこれが、重要ないじめであることを示しています。
そのどちらも、名刹のトップですから、上品で、直接に、いじめられたことはありません。だが、エージェントたちの企画には、乗られたことがあり、その企画ゆえに間接的にいじめられたことが過去にあるので、その二つの名前が重要なのです。特に浄智寺さんは、お部屋をご提供なさることは知っていてそこを何度も私も使っていますが、一応五山の中のおひとりです。が、覚園寺さんは、遠く離れていて違います。でも、こちらも伊藤玄二郎たちの企画にお乗りになっているのです。それは、レザンジュを利用して、最高裁判事夫人からの贈り物が届かなかった県都コンセプトは同じです。それを私の方は知っています。それを詳しく書くとまた、何万字も必要なので、『瓜南さんと、差がついていることを、したたかに味わわされた』と、ここでは記しただけで先へ進ませてくださいませ。
ともかく、『それはわかりました』として、それでも、私は健康を維持し、毎日新しい考察に入り、それを書き表し続け、この国を守るべく奮闘を続けます。
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副題9、『西洋的神と、禅宗の教えを考えてみよう』
その元気さを維持するために、考え方を変えていきます。それが私の言う哲学ということなのです。
まず、一般の人が信じている社会階層を考証しぬき、それが、人間の作った装置に依存をしていることに気が付き始めます。すると、『なんだ、そういう意味では、恐れるに足らず』と考え始めます。瓜南さんがどれほど、私より上に存在していようとも、その装置から外れれば、影響力はないのです。
フェイスブックで情報を見ないようにすれば、日本画家である彼女と接触する場所はどこにもないのでした。
一方で私は、神様に庇護されていて、愛されていて、そのまなざしのもとに、自分が生かされていることにも気が付いています。
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上の「神に愛されています」の二行は自分が弱い立場に立っていると思っての発言です。しかし、瓜南さんが亡くなっているとなると、この二行の言い方は、強すぎますね。
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人間とは究極の側面に立てば、誰もが平等のところに立っています。裸で生まれ、何も持たずに死にます。人間の作った葬式では棺は祭壇に飾っていた花で満たし個人が好きだったものも入れます。しかし、一時間後に、焼却炉から滑り出てきた金属板の上には、それらは残っておりません。
私がいう神様とは西洋式発想で出てきています。だけど、この上の数行は、禅宗にも通じる発想ではないかなとも思っています。
私は神に見守られる幸せというのも知っていますが、人間が、如何に、はかない存在であり、本日持っているものをあす失うかもしれないことをも知っています。
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これは、16日に、瓜南さんの死亡を知らないで書いています。自分に向けて書いています。ところが、驚くべきことに、今の18日になって見て、冷静に事態を見つめると、私より、15歳は若いであろう、瓜南さんの方が先に亡くなりました。今、大変に疲労をしているのは、その事実に『やはり』と言っていいほど、心が揺さぶられているからです。『やはりねえ。彼女は悪人にからめ捕られていて、一種の魔弾の射手となっていたから、こんなに早く命を落としたのだわ』と感じるから、そこに怖れさえ抱きます。絶対的な力を持つ神への畏怖心を感じます。
と、同時に『なんとはかないのだろう。人間の命なんて』とも思います。自分の上に高い壁の様にそそり立ち、ユーモア満載で、もし、私が何かの抗議や、怒りを書いても『あーら、私、あなた様など、眼中にござんせんよ。何を・お・ほざきになっているん・ざんしょ』と笑いのめしたであろうと、思われる、強くて、りりしい彼女は、現実の世界には、もういないのです。遺骨遺灰となって、立派であろう、瓜南家の墓所に眠っていると推察されます。それは私にとっては一種の勝利であろうが、
<<<<お互いに、根柢の真実に触れて語り合い、和解するチャンスが無くなった>>>>ということで、2人ともにとって、悲劇ではあります。
特に、4月の12日に書かれた絶筆と言っていいブログが、非常に切ないです。そこには、ユーモアで仮装したいつもの彼女はおらず、素顔の彼女がいて、苦痛をはっきりと、しかし詩的に述べています。一ミリも、絵を描いたり、身を動かしたりできない感じがあると。
私も、『ああ、自分はここで、費えるのかなあと、おもったことが、二度か、三度、もしくは四度ほど、あります。蒼白な顔になって、ほとんど死相が表れるという状態でしょう。横須賀共済病院では、周りの患者さんが、先生に告げてくれまし田。先生が、私があまりに我慢強い人なので、実は麻酔を使わないで、手術をされたのだそうです。謝罪を受けました。
その次に、顔に眼鏡が刺さって、手術をしてもらった後で、入院もせずに、電車で帰宅をしたら、品川駅で、長時間電車が止まりました。あれも、嫌がらせだったと思います。今ではそう思います。その待ち時間に例のショック状態がやってきて顔面も蒼白だったと思います。
ただ、顔に大きな包帯をしていて、内出血が、顎のあたりまで、降りてきていたので、誰も(なにかの事件に巻き込まれた人だろうと考えたのか、恐れて)、近寄ってきませんでしたが、貧血によるショック状態特有の、死にそうな苦しみを味わいました。むかむかとして、いてもたっていられない程度の、異様な感じ。だけど、回復しています。
瓜南さんも、そういう異様な苦しみ(痛みとは違うのですよ。だけど、自分で、これが、異常なものだとはわかります)をパソコンで書き記しながら、でも、回復を信じていらっしゃったのだと思います。だから余計に無残で、切ないです。
本当に死を予測したら、もっと違うことをお書きになったでしょう。
例えば、私だったら、家族に頼んで、「すべての人に感謝します」とまず言って、それに添えて、特別な献辞として、瓜南さんの名前も挙げるとか。
最初のうちはツィッターをさらに、お書きになっていたのかと思っていましたが、そうではなくて、
ツィッターの方は、前年度、2011年の7月まで、書かれたものでした。その2011年の6月に、全日本アスはが連が始まっているので、そのころ、伊藤玄二郎と、接触が始まったと思われます。つまり、伊藤玄二郎が、柴田悦子さんなどを通じて、いろいろな企画を持ちかけて、そのついでに、飲み屋でくつろいで話したりする形式で、いろいろ頼んだり、私への讒言を聞かせたりしたのでしょう。
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副題10、『栗田玲子さんと柴田悦子さんは、伊藤玄二郎を、いい人だと信じているらしい?』
それは、その前に鎌倉駅のトイレで、栗田玲子さんと出会った時に、彼女がなかなか、出てこなかったので、その理由を推理して、『なるほど、東京からここまで、伊藤玄二郎と一緒で、私の悪口を聞かされて来たのですね。東京でもレストラン棟で、二時間ぐらいは話したのだけれど、まだ終わらなくて、一緒に鎌倉で飲もうとなったのでしょう。奥様であり、葉山在住なのに、栗田さん、こんな時間に鎌倉にいていいのですか?』と、思い当たった日が役に立っています。
栗田さんとトイレでばったり出会ったのは、本当に偶然ですが、これがよく言う私の『神様に見守られている』ということの現実に現れる例です。その現象がその後の、伊藤玄二郎と、酒井忠康、栗田玲子の三人の行動とその目的、および、そういうことをやるときの心理状態への、解釈に非常に役立ってきます。
ところで、栗田玲子さんは、私をさんざん待たせたうえで、やっと出てきて、口紅を塗りなおしたのです。これって、私をどれだけ、ばかにしているかを表しています。だって、返答もまともにしないで、口紅を塗りなおしているのですから。これは、女性特有のテクニックでしょうが、私がテクニックに惑わされるような、単純な人間だと思うのは浅はかです。何冊も本を差し上げているのだから読まないとダメですよ。読んでいないから、間違った方向へ走るのです。
やがて、ここでも、栗田玲子篇を書くつもりですから、そこで、もう一回、書き表しますが、本当に失礼な女性です。お金と名誉だけで人間を判断する浅はかな女性です。教育大学の史学科を出ているのに、自分自身が保有している哲学がなっていない。
それと似たやり方で、柴田悦子さんも、伊藤玄二郎にからめ捕られたのでしょう。彼女は、朝日新聞の編集者などに対しては、下へも置かぬもてなしで接するでしょうが、私に対してはひどい態度を取る女性です。それは、哲学や、信仰の問題から、常に現象を考える私にとっては、『大学卒の画廊のオーナーとして銀座では威張っている人だが、本当の意味での教養は、高くないなあ』と考えてしまう存在です。
瓜南さんのように、その人自身の表現作品を知っていれば、まだしも、すくわれます。ただ、画廊での接客態度だけを見せつけられるので、この手の判断は変更される可能性がありません。社会階層的な上下関係で考えれば、彼女は「安泰よ。私って。雨宮舜(=本名川崎千恵子)ごときに何を言われても」と思っているでしょうが、本当はそうでもないかもしれませんよ。瓜南さんと私の上下関係が、こういう形で終わったとみれば。
ただ、物故作家として、瓜南さんがこれから、ブレイクして行く可能性もあります。NHK日曜美術館で特集される可能性もありますし。その際に作品を買うことができる場所の一つとして、柴田悦子画廊が生きてくるので、悪口もこの程度で納めておきましょう。それは、瓜南さんの過剰な消耗による死が、お気の毒だと感じているからです。
で、柴田悦子さんから、栗田玲子さんのトイレの場面に戻ります。特に、笑っちゃうのは、彼女の化粧直しを待って、やっと一緒にトイレを出たら、それを察した伊藤玄二郎があわてて、男子トイレから、先へ走って逃げたのです。その時まで、誰が栗田さんに声をかけたかがわからなかったけれど、栗田さんの失礼な対応を壁越しに聞いて、相手が私だと察したのだと思います。
彼の麻のスーツの上着の裾がひらひらするほどのスピードで、逃げ去っていきました。顔を見られたくなかったのでしょう。私の方は、写真で彼を知っていますが、絶対に顔を見られたくなかったと思われます。私が観察の鋭い人で、一瞥するだけで、事態を、正しく察することを知っているのです。それで、男子トイレを出て、すごいスピードで、向こうへ、さーっと走って逃げました。栗田さんと私の二人が、たどり着いた改札口あたりでは、どこにも彼の姿は見えませんでした。意地悪して物陰で、2人が再び、会話を交わすのはどこか、確かめて見たいとも、一瞬は思いましたよ(笑) が、そこまでするのは下品だと思ってやめました。
このことを一つとっても、彼が、どれほど、自分だけが大切な人間で、その時に仲間として組んでいる女性でさえ裏切り、先に一人で逃げていくほどの、臆病な存在だとわかります。
そんな人間の下半身の秘密を守るために、右往左往させられて、瓜南さんは、命果てたのです。お気の毒ですね。
勝っている存在として、はしゃぎ切っていた彼女の、ネット上での姿を、つい昨日のことのように思い出します。
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副題11、『色即是空、空即是色』
しかし、上の説の最後の2行を書くのは18日に入ってからであって、16日の私は、あくまでも勝っている人として、そしていじめてくる人として、瓜南さんをとらえていました。神山明という芸大出身で、東海大学の教授(?)が何のお断りもなく、FB上の友達関係を切ってきたのも芸大ルートがあるから、彼女からの讒言が原因だったかもしれないと思ったりして、そりゃあ、プレッシャーを感じていましたよ。
ついでにここで、申しあげたいが「神山さん、東海大学の教授程の、社会的な地位があるのなら、こういう礼儀知らずのやり方はだめですよ。社会階層だけで、世の中は動いているわけでもないからです。こういう文章が残るわけですから、どうか、ご慎重に行動をしてください。常に礼儀正しくあってください」と。
ドゥローイングギャラリーのオープニング(それは、急死の一年前です)で、『鎌倉中のセレブが来てくれた』とはしゃぎ、
いじめ用の文章ではしゃぎ、特に映画のプログラムの件もありましたしね。鎌倉五山の管長(それは、有名な円覚寺や、建長寺を含むのですよ)との、懇談をはしゃいで報告する彼女には死の影すらありませんでした。
で、彼女のいじめに対抗するためにこちらはどういう工夫をしているかを書いているのです。
それは、徹底的に捨てることです。
物は捨てられない私が、人間関係や、団体への所属を捨てる傾向があることを、ここで、報告しています。
そこあたりは、推敲の過程で、18日になって、非公開として、隠しました。
それは、ある種の決意表明で大切なものですが、瓜南さんが、大きな存在であったからこそ、書いたことで、彼女が亡くなってしまうと、そこまで、他者にさらす必要が無くなったのです。
特に敵の多い私には、その情報が悪用される恐れがありますので。24時間以上さらした後なので、もう今では、実際には防衛には、間に合いませんが(笑)、ここでは、一応ですが、引き下げます。
しかしその原文を16日に書いた私は、その時点で、自分が何も持っていないことを知ったのです。改めて、自覚したのです。肉体はありますよ。まだ、相当期間生きそうです(笑)。ゆるゆるとですが、生きていくでしょう。
だけどね。人生の途上で、努力によって獲得をしたものを、失っているのです。
その時に、この10月10日に法事があり、その席で、聞いた般若心経の言葉が、身に染みて浮かびました。その場所は、鎌倉二階堂にある、凛林という創作中華の家で、木々は家に覆いかぶさるが、東と南が開けている明るい家の中です。
お話をしてくださる方は、とても美しい顔をした御坊様で、曹洞宗で、偉い立場を持っておられる方です。
我が家は、祖父の代までは、浄土真宗でしたが、山口県の萩にあるお墓へは、子供や孫はお参りに行かないだろうと考えた父が、鎌倉霊園に新しいお墓を作り、宗旨も変更しました。横浜とか、東京の偉い御坊様を招いて、グループでお話を聞いたりして、その結果、選んだ御坊様です。東京圏には大きな葬祭場がたくさんあって、焼却場が20ぐらいある場所では、ほかのお葬式の組にも出くわしますが、この御坊様ほど、きれいな顔をした方はいないというほどでした。特にお若い時にはね。今は、相当に大人のお顔をしておられますけれど。
私は毎月鎌倉霊園に父母のお墓参りに行っていますが、嫁に行った人間で、姓も変わっているから、そこへは入らないでしょう。それに、普段考えている神様とは、西洋的な教養から生まれてきたもので、非常に高いところから、私を見守ってくださっている大きな力のある方です。
だけど、対瓜南直子という、何もかもメタモルフォーズ(=変換)してつかみどころのない形で軽蔑してくる人間が、いじめてくることに対しては、どうにも戦いようがないからこそ、非常にはかない存在(=敗者)として自らをとらえたのでした。
<<<<<私は、空も空。何も持っていないよ。ひどい終焉ですね。でも、それでも、幸せです。それって、お釈迦様が、最後にお考えになったというか、たどり着かれた境地とにているのではないかしら? やはり、私もアジア人なのですね。肉食系じゃあないですね。>>>>>と考えたことでした。
それが、瓜南さんの死をコメントとして、教えてもらう同じ一日内の、数時間前の思考ですから、またしても、自分の勘の鋭さに驚き入るのです。
直子さんが、私にそういう考えを抱かせたのではないかしら?
彼女はいじめるという形ではない別の形で、私と再度接触したいと思っているのではないかしら? 天国でそう思っているのではないかしら?
2012年、10月16日に初稿を書き、18日に推敲を終える。
雨宮舜 (本名、川崎 千恵子)
瓜南直子さんて亡くなられてませんか?