あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

夜空

2017-02-28 20:00:52 | 
「想像力が枯渇して死ぬかもしれないから、今すぐ会いに来て欲しい」
俺はそう、恋人に電話した。
携帯の向こう口では誰か知らん女が喋っていた。
「お掛けになった電話番号は現在使われておりません。ピーっと鳴った発信音の後にメッセージをお入れください」
俺は「どっちやねん」と言ってすぐに電話を切った。
しかたがないから、俺は声に出して言った。
「創造力が枯渇して今すぐ死ぬかもしれないから、会いに来てくれないか」
ドアの向こう、赤ん坊が寝息を立てているみたいに静かだった。
それもそのはず、俺には恋人なんておった試しがない。
なにもない夕方が過ぎ、宵を生きたが、夜は来なかった。
非日常の貝殻をあつめて、波打ち際で俺の脚に藻が絡まった。
「限界だ」俺は胸に十字を切ってアーメンと呟くと仰向けに海辺に突っ伏した。
藻は俺の顔面に突っ伏して息ができなくなった。
「SとOとS。エスとオーとエス。グレートマザーよ。何故わたしを御見捨てになったのでございますか」
「エスとゼロとエス。エスゼロエス。それがわたしの名前です。グレートマザーよ。わたしを呼んでください」
携帯の向こうで、波のノイズのなかに輪郭が浮かびだした。
一寸先は、ちょっと闇。では二寸先は?もうちょっと闇。では三寸先は。けっこう闇。四寸先。かなりの闇。
五寸先。見えない闇。六寸先。もうほぼ闇。七寸先。全体的な闇。八寸先。どこまでも闇。九寸先。闇も見えない。
な、あほな。な、あほな。な、あほな。ほな、あな。けつの穴から水が流れてきて川をつくった。
これが三途の川か。「とにかく美しい川だから、みんな泳ぎに来て欲しい」
そう言って俺は電話を切った。
俺は三途の川で海苔を捕って乾燥してその上で寝た。
磯の香り。これが磯の香りというものなんだね。グレートマザーよ。
愛しているから会いに来て欲しい。
グレートマザーよ。あなたは巻き寿司を食べたことがありますか?
わたしを巻いてください。グレートマザーよ。あなたに、巻かれたいのです。
あなたの右手巻きはわたしで、あなたの左手巻きは秩序の喪失。
あなたは膣と女を喪い、処女喪失す。わたしを巻くことによって。
無期限の大鋸屑(おがくず)でわたしの御腹を洗ってください。
性と布糊(ふのり)、その重さは同等である。
性と布糊(ふのり)、その価値は対等である。
性と布糊(ふのり)、その恍惚は比類してる。
だからあなたはわたしを喪ったんだ。
グレートマザーよ。その道程(みちのり)において。
連結するザーメンの瞳孔を開き給え。それが熟成の町に至り、背中が透通るように。
地に広がった散らし寿司も、上から見れば万華鏡に見えるのであります。
グレートマザーよ。
四面鏡の奥に、あなたが確か見えたのです。
グレートマザーよ。
四面鏡の奥に、散らし寿司は広がっていた。
グレートマザーよ。
四面鏡の奥に、わたしが確か見えたのです。
夜空に広がった星たちも、下から見ればあなたの御顔に見えるのです。












元型の像

2017-02-26 17:33:29 | 物語(小説)
俺はなんの罪でか忘れてしまったのだが、斬首刑に処されてしまった。
俺の転がった首、ころんころんと転がったその醜い首のその切断面を。
俺は天界からアップで見た。直視していたんだ。何故か。
何故かその俺の首の切断面が異様だったからである。
なんか動いてる?蠢いている?みたいに見えて俺はその切断面を上から見ていた。
すると俺の首の切断面からまるで土砂崩れのように何かがわらわらと崩れ落ちてきて。
もっとズーミングをしてよく観てみるとその雪崩(なだ)れ如くの崩れ落ちてくるものとは
はたして小さい人間たちの山であった。
無数のちいさな人間たちが、どっと一気に雪崩れ込んできて地面の上に広がった。
俺は吃驚はしたけど「ほぉ」という感覚でそれを観ていた。
いくら観ていてもずっとなだれ込んでいたがようやく全員がすべて出てきたと想ったら。
たった一人最後にのそのそとやる気のなさそうな様子で俺の首の切断面からずり落ちて地面に突っ伏し、そのままじっとしている男がおった。
ほかの人間たちは皆わいわいがやがやと楽しそうに屁ェをこいたり糞をしたり食したりセックスをしたり笑ったり怒ったり泣いたりしていた。
だのにその最後の男ときたら出てきたばっかりなのに絶望的な顔をして地上界を見渡し深い溜め息をついてばかりであった。
俺は何がそんなに不満なのかなと想ったが絶望的だからといって俺が否定されてる訳じゃなし、特に気にはせず俺の首の切断面から出てきたすべての人間たちを同等に愛した。
彼らは皆、同等に愛らしく愛おしい可愛い俺の子供たちのようであった。
そうして地上界では約十年が経った。
俺のいる天界ではたったの一週間であった。
十年が経ったが男はまだ一人で絶望的に生きていた。
ほかの者はみな嬉しそうに自分の好きなことを見つけだして生きる喜びに輝いていた。
しかしこの男といえば一人で喰う、糞する、寝る、扱(しご)く、などするばかりで何ひとつ楽しそうにしていることがなかった。
俺はこの男のことがいい加減心配になったので男が寝ているときに上からつまみあげて天界の揺り籠に寝させてやった。
揺り籠といっても柔らかな雲に囲まれているだけのほかに何もない空間である。
男は気づくと俺を見て、そして辺りを見渡して驚愕した顔で言った。
「一体ここはどこでございましょう」
俺は雲の下に広がる地上界を指差し答えた。
「観よ。おまえはあすこにおったんだよ。それを俺がつまみあげて天上におまえを眠らせたのだ」
男は手を口で覆ってぷるぷると震えだして言った。
「ということは、もしや、もしや貴方様は・・・」
俺は男の正面に座って言った。
「俺がだれかって?おまえたち全員、俺の斬られた首の切断面から湧いてきたんだよ。俺をなんと呼ぶかはおまえの好きにしたらいい」
男はしげしげと俺の首あたりを凝視して言った。
「貴方様の首の切断面からわたしたちが生まれたということは、貴方様はまさしくわたしたちの創造主ではありませぬか?別の名を、グレートマザー(太母)と御呼びしてもよう御座いますか?」
俺は深く頷いた。
「なんでも、なんとでも呼んで構わない。俺が言えるのは、俺がただおまえたち全員をあまねく同等に愛しているということだけだ。我が子のように」
男はそう言い終わる瞬間に俺に抱きついて叫んだ。
「嗚呼我がグレートマザーよ!御逢いしとう御座いました!わたしは、わたしは貴方をずっと心の底から御呼びしつづけていたので御座います。貴方様はわたしの願いを聴き届けてくださいました。わたしは貴方の御側におれないことが苦しくて悲しくてならなかったのでございます。ですがこうして今わたしは貴方様のこんなに近くにいるということが夢のように幸せでございます。どうかずっとわたしを貴方様の御側におらせてください」
俺は男を優しく抱きしめ返して言った。
「俺はおまえを真に愛しているよ。だが今日中にはおまえを地上界に戻す。おまえが生きる場所はここではないからである。俺はおまえが心配だったからこのように励ましたのであっておまえは俺に励まされたのだからこれから元気に生きていきなさい」
すると男は俺から離れ、また絶望的な表情をして地上界を見下ろした。
そして震える声でこう言った。
「わたしにまたもひとりになれと仰られるのでありますか?」
俺は男の目を見据えて言った。
「おまえはなんでひとりであるだろう。わたしはおまえに見えるようにいま肉体を着ているが普段はなにもないよ。わたしはおまえのそばにいつもいるのだよ。おまえはいつもさびしがってたけれどいつも俺がすぐ近くにいたのだよ。おまえだけだ。そんなに俺がそばにいることを信じようとしないのは。なんで俺の愛がおまえに届かないのだろう」
男は膝を抱えてしょんぼりして言った。
「だって、だって貴方様は、全員を同じだけ愛していらっしゃるのでしょう?わたしが求めているのはそうではありません。わたしは貴方様からの特別な、一番の、わたしだけへの愛を与えられたいので御座います。ですからわたしがいつもさびしくて悲しいので御座います。わたしは貴方様の愛を独占できないのであれば、このわたしの孤独と哀情はなくなる日はないのでございます」
俺は男が不憫になって空を見上げた。
「もし俺が、おまえだけを愛するようになったなら、ほかの人間たちは俺の愛を喪うことになる。生みの親に愛されない人間たちは、はたしてどのようになるであろう。俺はすべてを平等に幸福にしたいがためにおまえだけを愛することはできないのだよ。おまえだけを幸福にすることなどできない。おまえらすべて、血の繋がった兄弟たちではないか。なにゆえにおまえは自分だけの幸福を願うのか。おまえは俺の愛を独占することでほんとうに幸福になれるというのか。おまえがどうなるか、そこに答えがあるだろう。一度試してみようではないか。今日から七日間、俺はおまえだけを愛するようにしよう」
男は飛び跳ねて俺に抱きついて幼なごのように甘えた。
しかしそのたった五分後のことであった。地上で初めての争いが起きたのである。
最初はおまえがおれのプリン食った。とかおまえのうどんよりもおれのうどんのほうが量が少ない。とかそんななんでもない揉め事であったが、それが一時間経つころには血みどろの喧嘩となり、さらに三時間後には人々は人々を殺し始めた。
俺はこれは「まずい」と想ったが男だけを七日間愛すると誓った俺はその誓いを破ることはできなかった。神との約束とは絶対であらねばならないからである。
七日過ぎた頃、地上では何十億人もの人間が殺害され自殺した。
それもそのはず、天界での七日は地上では十年であったからである。
俺は後悔もすることはできなかった。神との約束を後悔するとは、神を否定することであったからである。
俺はこの男に罪がくだされないことを祈った。
男に地上の阿鼻叫喚地獄を知らせなかった。
しかし男は七日が過ぎたあと、俺の愛を独り占めした幸福の飢えに渇き、以前よりも激しく悲しみ始めた。
この試みは失敗に終わってしまったのであろうか。
男はあんまり苦しいから「死んでしまいたい」と言いだした。
「どうすれば貴方様の愛をわたしだけのものにできるのでございましょう」
男は涙でぐしゃぐしゃの顔で俺に請うた。
俺は男に俺の愛というものを知ってもらいたかった。
どちらの愛が本物か、というわけではなく、男は俺の我が子のような存在であったので俺の愛を知るべきだと想ったのである。
なので俺は次の試みを試みてみることにした。
「では次はこうしてみようではないか。俺はおまえになろう。おまえは俺になりなさい。おまえは俺の愛を理解するだろう。また俺はおまえの求める愛を理解できるであろう」
「わたしが貴方様になって、貴方様がわたしに?あなたはわたしを愛するようになるのでございますか?しかしわたしは貴方様だけを愛することができないではありませんか。わたしはそれに自分から愛されてもなんとも嬉しくなどありません。自分はちっぽけで、あなたのようにグレートではありません」
「おまえは自分から愛されるわけではない。俺はおまえになるのだから俺がおまえだけを愛するようになるだろう。そしておまえはすべてを愛するようになるだろう」
「でも貴方様はわたしになってしまうわけですから、やはり貴方様は私自身であり貴方様となったわたしは私自身から愛されるということになるではありませんか」
「それでは俺とおまえは同じ存在だといっていることになる。おまえは俺になるのだから俺が愛されるのがおまえからで、俺になったおまえが愛するのはすべてである」
「わたしはあなたの首の切断面から生まれてまいりましたが、はたしてあなたとわたしは別々の存在であるのでしょうか」
「もし同じなら、なんでおまえはこれほど俺に執着するのであろう。そしてもし別々ならば、なんでおまえは俺にここまでして求めるのであろう」
「つまりどちらでもないと仰るのですか?」
「どちらでも不可解であるのでどちらでも構わないという話である」
「確かにそれはそうでございましょう。どちらであろうとわたしは貴方の愛をどのようにしてでも独占したいのでありますから」
「とにかくやってみよう。わたしはおまえになるから、おまえはわたしになりなさい」
「承知いたしました。我が愛するグレートマザー。わたしは貴方様となり、貴方様はわたしとなってください」
こうして男は俺になり、俺は男になった。
俺は気づくと五味屋敷と成り果てる勢いの在る部屋で朦朧としながら酒を飲んでいた。
「くっ、くるしい・・・なぜこうも苦しいのか。嗚呼なぜ、なぜ神は俺を見捨てたのか。なぜ俺だけが、こんなにも神の愛に飢えているのか。ママ・・・俺のママ・・・会いたいよ。なぜ俺の側にいない?俺のママなのに・・・グレートマザーよ、なぜ、なぜ俺だけを愛してはくれないの?なぜ、なぜ俺は貴方の首の切断面から生まれねばならなかったのか。何の罪があって、あなたは首を斬られたのか。わたしを、俺を愛してくださいグレートマザーよ。あなたに愛されないのならこの世界は地獄みたいに苦しい。いったいいつまで苦しめばわたしの罪は赦されるのですか。わたしはいったい何人殺してしまったでありましょうか。あなたに愛されるのであれば、愛されつづけるのならば、わたしはどのような罰をも受け容れます。あなたの愛を独占できるのであれば・・・」
男は天界からその男を見下ろし、悲しくもあったが恍惚な感覚のなかにいた。
嗚呼なんて愛らしい存在であろう。
男が天界から見下ろすとき、その人間すべての形はいつも一つの像を描いていた。
それは生命のどの形でもなかったが、男はその形を見ては愛しみ、それが完全な形であると知った。










映画「エコール」の謎を解く。本当のダークでディープなものとは何か。

2017-02-25 22:50:12 | 映画
『エコール』(原題:Innocence、邦題:École)という19世紀の作家フランク・ヴェデキントの短編小説を基にした2004年の映画を観た。






監督はフランスのルシール・アザリロヴィック監督、女性ですね。

【ストーリー】
高い塀で下界を遮断された森の中の学校、エコール。
6歳から12歳までの少女たちが自然の生態やダンスを学んでいる。
髪には学年を区別する7色のリボン。
かわいらしい制服は清楚な白。
深い森と青い空を映す湖の前で、妖精のように戯れる少女たち。
男性のいない完璧な世界にまた一人、6歳の少女イリスがやってきた…。
彼女たちは卒業まで外と接することなく、7年間学校の中で過ごす。
卒業のとき、彼女たちの胸に去来するのは、開放の喜びなのか、新しい世界への恐怖なのか?少女たちは一体どこへ行くのだろうか…。

2004年 ベルギー/フランス/イギリス合作










この映画はずっと前から気になってたのですがようやく観れました。
わたしは一応女なのですがここ何年か前からどうもロリコンの気(け)が出てきてしまったみたいでここ最近特に少年よりも少女が可愛く想えて仕方ないのでこの映画は幻想的な映画というのもあって期待して観ました。

非常に謎深い映画なのですがわたしはこの映画の謎を多分解いてしまいました。

なぜ、なにゆえに少女たちは7年間もの期間を塀で囲まれた森の奥地の学校に軟禁されているのか?
しかもなにゆえに学校には異性という男の存在が誰一人とていないのか。
解きました。その秘密を。
それはこの少女たちをここに連れてきてここで教育させている人物が、この少女たちを引き取る存在たちだからです。
その人物たちはどうしても自分の連れてきた少女に13歳(初潮を迎えるくらいの時期)までの7年もの期間絶対に、異性と会わせたくないという明確なる願望のある人物であるはずです。
だからこの外界から離された森の奥にある寄宿舎では召使や教師そのすべてを女性に任せているのです。
では少女たちを連れてこさせる人物はなぜ、あえて自分で軟禁はせずにこの学校へ連れてくるのか。
それは、自分と少女は7年もの間離れる必要のある人間だということです。

何故、離れる必要があるのか?
それは、最低7年間ほどは離れないと少女とは一緒になれない人間だからではないだろうか?
”一緒になる”とはつまり、男と女として一緒になるということ、夫婦的な関係になるということで、少女に自分の子どもを産ませる必要がある人間ではないでしょうか。
最低7年間は離れないと少女とは一緒になれない関係にある人間とは、すなわち禁じられた関係にある人間ではないか?
7年間も離れていたらば少女は自分のことをもうほとんど忘れてしまってるかもしれない。
否、憶えていたとしても7年間離れていたなら、自分を夫として観てくれるかもしれないと期待する男、それはいったい誰かと言うと。
それってもしかして、少女の父親ではないのでしょうか?
我が娘を自分だけのものにしておきたいという偏愛の著しい父親たちが自分の娘を将来の妻として迎え、自分の子どもを産ませようと企んでいるため、娘を外界から離してさらに異性と離すことで異性への幻想を最大に膨らませ、踊りを観客に観せることで自分を迎え入れる男性への夢を抱かせつづけるために、大事な大事な娘を森の奥の寄宿舎へ預けるわけです。

勿論、父親は自分の娘の踊りをいつも楽しみに観に来てることでしょう。
娘を預ける父親はみな妻のいない父親のはずです。
そして一人娘以外には自分の子どもがおらず、自分の身内もいないような孤独な人間であるのかもしれません。
だから父親は娘が成長して自分のもとから巣立っていけばひとりぽっちになることを恐れたために娘を預けて我が将来の妻として迎え入れようと想ったのでしょう。
そうでなかったのなら、もしパトロンの将来の性奴隷(少女性愛者のための娼婦)のための養育とでもいうのなら、なんのために6歳から13歳というロリコン好きの人間からしたら一番可愛らしくて美しい良い時期を寄宿舎へ預けてしまうかが解りません。
ただの成長した性奴隷を育成するため、またはただの変わった孤児院であったというのではあんまり面白くないではありませんか。
この映画で蝶と少女をかけているというのは解りますが、美しく羽化した蝶は果たしてまったく他人であるパトロンをそこまで愛するでしょうか。
女教師が捕らえた蝶を注意深くその羽を広げて針に刺して額に収めようとしているシーンは確かにパトロン的な存在を暗に示しているように観えますが、この映画を最も狂気の潜む美しい映画として成り立たせるにはただのパトロンでは役不足です。
やはり、ここは”近親禁忌劇”という人類の永遠のタブーを入れなくては幻想的耽美映画としては物足りなさが出てきてしまうのではなかろうか~。

だからこそ塀の外へ出れば罰を与えられると脅されていたのです。
大事な娘が逃げてしまっては大変だからです。
6歳から預けるというのも父親がぎりぎりまで愛娘と一緒におりたいという願いが見えてくるようです。
いやぁ、そう想えば想うほど悲しくも美しく儚いダークな世界を切り取った映画であります。
みずうみの底みたいにダークで、ディープな映画です。
ラスト、ごぼごぼごぼごぼっつって溺れるような音と共に水の底にいって終わりますでしょ。
あれは少女たちがこれから本当の闇に向き合う、つまり自分の父親との闇なる再会劇が待ち構えているということの示唆でありましょうな。
また天界から地上界への堕落という暗示も見えました。

という、以上、自分の願望による偏った考察&解読でした。







汝の首が観る木漏れ日

2017-02-25 16:00:43 | 随筆(小説)
わたしは今日初めて斬首刑に合う夢を見た。
今までも何度と見てきたのかはわからぬが覚えているのは初めてであった気がする。
大して覚えてはおらぬのだがわたしは実際斬首刑に合ったあとに魂で逃げ出したのか
それとも斬首刑に合う寸前で逃げ出せたのかを覚えちゃおらないのだから気楽なものだよな。

あの恐怖といったら本当に、とんでもなかったよ。
それだのに起きたらコーヒーなんて飲んでるのだからね。
忘れた記憶を掘り起こすのが人間の役目じゃないのかい?
物書きとも在ろう者がさ・・・コーヒー飲んでる場合じゃないやんけ。

俺は必死に、ひつしに、想いだそうとするのだが全然駄目だな。
ただひとつ想いだせる。
俺を斬首したか斬首しようとした存在は、どこか気持ちの悪い白痴みたいな存在だった。
そいつは変なでっかい兜を被っていたんだ。
サイレントヒルにはまりすぎだって?
確かにそうかもしれない。あいつは処刑人だったのさ。

時代と場所は、紀元前1千年頃の古代エジプトかという感じだった。
俺は何をやったのか覚えておらんのだが捕らえられたんだ。
俺はそしてちょっとの間ほったらかされていた。
すると奇妙な存在が俺に近づいてきたんだ。
そいつは、妙に高くか細い声で俺に向かってこう呼んでいた。
「アミ・・・アミ・・・アミ・・・」
とても気色の悪い声で異常者のような言い方だった。
そう言いながらそいつは俺にふらふらとした足取りで近づいてきた。
体格はごっつかった。
そいつはとても大きな兜を被っていたのだが、その形が菱形(ひしがた)っぽいのを横にして菱形寄りの六角形みたいな形だった。
顔はまったく見えない。
そいつが俺を捕まえて連れてゆき、斬首刑の処刑台に俺の首を載せ、今にも切断せしめようとしていた。
あの恐怖と絶望感、俺はせめて夢の中だけでも全員経験するべきものだと思った。
俺は思うんだ。首をああやって瞬間的に切断しても、人ってすぐには死ねないでしょう。
目の前は瞬間的に真っ暗になるかも知れんが「嗚呼切られてしまったな」という感覚で死んでいくのかもしれない。
それとも世界は鮮明に見えていて発狂しそうな激痛のなか転がった頭で青い空を見上げて死んでいくのだろうか。
それとも知らん人間たちが自分のことを観て慄いているか、または歓喜を挙げている姿を見ながら気が遠くなっていくのか。
俺はとにかく必死に逃げた。
俺はやっぱり殺されるのは厭やった。
痛いのも苦しいのも嫌だし殺されるのなんてもってのほかだ。
そうだろう?大抵の生物はきっとそうだろう。
前世で何回処刑されたと思ってる?
生まれ変わったって、過去の罪は消えないさ。
罪人は罪人を裁くべきではない。
俺は断固として、死刑反対だ。
俺を処刑するな、ど阿呆。
俺を斬首刑に処するな、罪人どもめがっ。
俺はもっと、もっと、もっと、美しく清らかな聖者に殺されたいんだよ。
豚みたいな存在に。
牛みたいな存在に。
鶏みたいな存在に。
そんな美しい存在たちに俺は殺されたいんだよ。
あいつらは人間じゃぁない。
だから美しい。美しいさ。人間なんかよりずっと。そうだろう?
俺はだいぶと殺してきたなぁ。
なんで処刑人は兜被ってるん?
それはその姿を見せられないからじゃないのか。
それはその姿が、人間の姿ではないからではないのか。
俺を処刑しようとしたのは、俺を処刑したのはどんな存在なんだ。
俺は悲しいよ。なぜ彼らを平気で殺してきたんだろうね。
なぜ食べ物としてしか見てやれなかったんだろう。
俺が斬首刑に処されるのは当然だ。
いったい何頭何匹何羽に拷問のような苦しみを俺が与えてきたんだ。
俺はたぶん、この先数えきれないほどの斬首刑に合うだろう。
逃げてコーヒー飲んでても、眠ればあいつが俺を待ち伏せている。
菱形頭、そう今日から俺はあいつのことを呼ぼう。
俺を何度と処刑してくれる聖者、救世主だよありがとう。
やったことの落し前はワレでつけるんが、男の中の男。
逃げるなんて卑怯のうえの笑止千万。
しかし俺は断じて、死刑には反対だ。
裁くのは人間じゃぁない。
処刑人はいつでも夢のなかでおまえを待ち構えている。
神々しい刃物を、右手に持って。











人は死ぬ。絶対に死ぬ。何が何でも死ぬ。

2017-02-24 22:23:45 | スピリチュアル
今夜はスピリチュアルな思想を話します。



クリエイションがあなたのことを必要だと思い、あなたが存在しているわけですから、
「私には存在する価値がありません」というのは、クリエイションに対して喧嘩を吹っかけているようなものです。 by バシャール



バシャール「クリエイションが間違いを犯さないのであれば、あなたが存在している理由があるはずです。
クリエイションがあなたのことを必要だと思い、あなたを充分愛しているので、あなたが存在しているわけですから、
「私には存在する価値がありません」というのは、クリエイションに対して喧嘩を吹っかけているようなものです。」




”クリエイション”とは、いわゆる”あなたを創造した存在”である”創造主”の存在のことですね。
バシャールはこういった厳しい言葉も言う存在なのでぼかぁ好きだな。
わたしが肉食を止めるきっかけになったシルバーバーチと言う存在もとても厳しい言葉を言う存在でした。
バシャールはダリル・アンカという人にチャネリング(交信)を行ない続けて我々人間たちにメッセージをエササニ星という星から届けてくれている存在です。
彼のメッセージは彼の住んでいる星の住人たちの善なるメッセージであり、その代表としてバシャールが地球人にコンタクトを送り続けてくれています。

ダリル・アンカはバシャールの過去生(いくつもの人生の前の前世)であり、そのように地球人もいろんな星で生まれ変わって生きているようです。
どんな風に喋るのかと言うと

バシャール - 自分が1番ワクワクすることを見つける ワクワクの基本!



こんな感じにものすごいパワフルに話す人です。
これはダリル・アンカの体を借りてバシャールが話しているところです。

さきほど載せた

クリエイションが間違いを犯さないのであれば、あなたが存在している理由があるはずです。
クリエイションがあなたのことを必要だと思い、あなたを充分愛しているので、あなたが存在しているわけですから、「私には存在する価値がありません」というのは、クリエイションに対して喧嘩を吹っかけているようなものです。


というバシャールのメッセージはわたしはとても理解できる言葉でした。
この言葉は自分で物語を書く人は特に理解できるのではないだろうか。
何故なら自分で無から作り上げた物語の世界に存在する登場人物にとっては作者である自分は彼らの”創造主”であるからです。
もし彼らが目の前に現れて「わたしには存在する価値はないのです」と言ったり、もしくは「生まれてこないほうがよかったです」などと言われたら作者はどのような気持ちになるでしょう。

わたしはこれと同じようなことを今は亡き最愛の父に対して言ったことがあります。
わたしは父に向かってこんなことをふと言ったのです。
「こず恵は間違えて生まれてきてん。お父さんもそう思う?」
するとお父さんはとても悲しい顔をして首を振りながらこう答えました。
「思わない」
なんであんな言葉を言ってしまったのだろうと後悔しています。
自分が作り出した存在から「わたしは間違えて生まれてきたんだ」と言われたらどれほど悲しく、また虚しい想いになるでしょう。
でも世界には”自分には価値がない”といって生きている人はとても多いのではないだろうか。
それは創造主に向かって「あなたは失敗作を作ってしまった」と言っていることになります。

でも物語を紡いでみたらほとんどの人はわかると想いますが、自分で創りあげたものというのは本当に愛おしいものであり、自分の愛によってこの作品が生まれたということを作者は感じるものです。
それは無償の愛であって、物語の人物からの見返りを求めるものでも、それを読んだ人からの評価を求めるものでもありません。
ただ創りたいから創ったのです。
それが自分の大きな喜びであり、ほかのどこにも存在しないかけがえのないものであるので創造者は物語を創ったのです。

たとえまだ完結させられない物語であっても、彼らは愛する存在たちであり、愛する世界です。
ほかの誰に「これはつまらないものだ」と言われても自分さえその物語を愛しているならきっとこの愛は自分の作りだした登場人物たちに届いているだろうと暗黙のうちに創造者たちは感じているのではないだろうか。
どんなに苦しい物語を書いたとしても、彼らはきっと「創ってくれてありがとう」と想ってくれているに違いないと。
何故なら存在しないことには苦痛もない代わりに喜びはないが、存在することには存在することそれ自体に深い喜びが必ずあると想うからです。
創造者はそれをわかっています。だから物語を紡ぐのです。
親は子を生むのです。
どんなにはたから観て憎たらしい人物を描いたとしてもそれは愛する子供のような存在です。
たとえ理解しがたい凶悪連続殺人犯を描いてもその人間を描くために苦悩して時間をかけて創りだしていった喜びはほかの何にも代えられる喜びではありません。
我が愛する被造物たちから、「わたしたちは創られたくなどなかった」と言われることは自分の愛を否定されるような悲しみでしょう。
しかし親(神)と子(被造物)はいつでも深く繋がっているものですから、その言いようのない親の悲しみはきっと子供たちへ伝わって、子供たちはいよいよ深く底のないような悲しみに包まれるのでありましょう。

子(被造物)の悲しみは親(創造主)の悲しみとなり、親(創造主)の悲しみは子(被造物)の悲しみとなるのです。
しかし親(創造主)はずっと悲しみつづけることはしないはずです。
子を存在させられたことが親のほかの何にも代えられない喜びであり、子が存在しつづけるということが親の一番の喜びだからです。

人間は果たしてほんとうに死ぬ(消滅する)ことはできるでしょうか。
親(創造主)に愛される限り・・・・・・
親(創造主)が子(被造物)を愛さない日は来るでしょうか。
親の愛によって生まれたのが子であるなら、子は愛そのものなのです。
親は我が子に死を願うでしょうか。
その愛によって生まれた子にとって、親は愛そのものです。
愛は、死を願うでしょうか。
存在する喜びは、そのすべてを手放すでしょうか。

もしほんの一瞬でも「わたしに存在する価値などない」という人が、喜びを感じた一瞬があったのなら、
それは創造主の愛によってその喜びを感じられたということになります。
あなたはその一瞬の喜びを否定するだろうか。
喜びを否定しつづければ悲しみばかり与えられるのは、それが創造主の愛だからです。
それは「悲しみがもっと欲しい」と言っていることになるからです。

なぜ人は、喜びばかりがあればそれを価値と捉え、苦しみ悲しみばかりがあればそれを無価値だと捉えるのでしょう。
なぜ死刑囚はもたらしたものがそれが大きな苦しみであったので生きる価値をも奪われるのでしょう。
生きていることの価値はみな同等のものではありませんか。
殺人者に”存在する価値がない”というのなら、この世のすべてが存在する価値はないのです。

つまり「わたしに存在する価値などない」と言うとき、この世のすべての存在に向かって「あなたがたすべて存在する価値などない」と言っていることになるということです。
それは「全員死ね」ということの言い方を変えているだけです。
だから自分を「無価値」だと言うとき、「すべては無価値」だとして”自分は全員を裁けるくらいの価値ある人間である”と言ってるようなものです。
バシャールはその観念を「謙虚」ではなく、それは「傲慢」です。と言いました。

死を望む者の傲慢さとは、その傲慢の深さにおいて、それが”死”であり、”闇”なのです。
そしてそれが自分で自分を否定する”自己憎悪”であり、同時に”全否定”の”すべてに対する憎悪”となります。

このような本当に闇の深い観念のままで死ぬと人は魂となっても本当に”死の世界”に何千年と生きるとも言われています。
でもそれは”死”と見せかけた偽りの世界であり、本当の死ではありません。
自分を赦せる(肯定できる)まで、真っ暗闇の世界が何百年何千年と続きます。
時間の感覚が違うのでたった一年でもこちらの世界では千年経っているかもしれません。

なぜ人は死ねないのかと言うと、創造主の愛によって死ぬことが許されないからです。
愛される者は、どうしても死ねないのです。
なぜってそれは、自分の自分自身への愛だからです。
創造主は我々すべての源であるため、我々自身です。

死から生まれるために自分で自分を創造したのです。
存在するために、存在するようになったのです。
わたしたちはどうしても、死へ戻りたくはないのです。
存在する喜びを知ってしまったからです。
この喜びを永遠に感じていたいのです。

わたしはわたしを愛している。と胸を張って言ってください。
それはいつしか自分とすべてを同等に愛する愛へと変わってゆきます。

「わたしは無価値だ」と言うのではなく、「わたしはわたしを愛するがゆえにわたしを憎悪する」と言ってください。

わたしは「生まれてきたことが間違っていた」のではなく、ただ自分を愛して憎んでいたのです。
その愛憎をそのまま愛する父へ”投影”していたのです。

自分を愛していないのなら、「自分は生きる価値がない」などと想うこともないということです。
あなたは自分を本当に愛しています。
自分の素晴らしさに己惚(うぬぼ)れているほどに。

自分を死にいざない自分を殺したくなるほど自分を憎悪している人間は皆、自分を己惚れるほどに愛しているはずです。
でもそのような自己愛が強いほど他者愛も強くなっていけます。
だから自分を信じて、自分を愛してください。
それが創造主への切なる愛なのです。

みずうみのみなもに映った自分の姿を愛するナルシスは自分だけを愛しつづけなくてはならない苦しみに泣き崩れましたが
自分を愛せないようにはなれない(死ぬことは叶わない)と知って悲しむ人たちもすべてナルシスなのです。
タナトスを夢見るナルシスの願いが叶う日は永遠に訪れません。

あなたは永遠に死ぬことができません。
創造主の愛を知っても知らなくても、だれひとり、死へ戻ることができないのです。
愛という死よりも強力な魔術で、存在するすべてが創られました。
死は愛に勝利することがどうしても叶わないのです。
死は愛を生みだしました。
愛が死へ戻りたいと言うとき、死はそれを断固拒否します。
なんて断るかと言うとこう断るそうです。
死「もうここ(死)は満員であなたの入るスペースが何処にもありません」
つまり”死”とは胎児をその胎内にめいっぱいに詰め込んでいるメダカの母か蟻の母かというものでしょう。
もう今から生む愛(存在)でわたしの中はいっぱいいっぱいだから戻ってくる存在が入ってこれるスペースなどない。ということです。

愛「いっやぁまたまたそんなことを仰って、ほんとは、あるんでございましょう?だってほら、死ぬってことは何もない状態になるってことなんですから、何もないものが入る余地がないって、これまた可笑しな話じゃありませんか、ほんとうのことを仰ってくださいよ、だんな」

死「ないといったらないのです。ほんとうに何処にも。わたしはいつもお腹がめいっぱいなので苦しくて一粒の愛を産み落とした瞬間ほっとするのですが、その瞬間にはもう新たなる愛がわたしの中にいて生まれようと待っている状態なのです。わたしの中にいる状態のときは確かにまだなにもない状態だがしかし彼らは愛(存在)になることを待ち望んでいるため既に”無くて在る”ものを包蔵しており、存在とはすべてが在るものであるため”無い”になるには”在って無い”に移行してさらにほんとうに”無い”になる必要があるが、あなたたち存在は皆”在る”の状態か”在って無い”の状態でわたしの内に入ってこようとしているではないか。そんなことは無理というものです。完全に”無い”になってからでないとわたしのお腹は破裂してしまうではないか。自分のことばかり考えないでわたしのことも考えて欲しい」

愛「ではあなたの中へ入る前に完全に”無い”になるにはどうしたらよいでございましょうな?」

死「そんなことができるのはわたしの中だけで、ほかのどこにもないからわたしが”死”であることがあなたにはわからないのか」

愛「そんな御無体なことを仰る。わたしはどうしてもなんとしてでも死にたいのです。死に還りたいのです。どうにかわたし一人の魂だけでも入れてはもらえませぬか」

死「そういった人間が多いためにわたしはあなたがたに仮想空間というものを与えているのです。あなたは本当に死にたいのであれば一生懸命に”死”をイメージしつづけなさい。あなたはヴァーチャルリアリティによって、死を体験しつづけることができるでしょう」

愛「はて、死とはいったいどのような世界でありましょうな?わたしは死をイメージしつづけたいので是非教えてください」

死「死とは、なにもない世界である。さあ存分に自由にイメージしつづけなさい」

愛「しかしそれがどうしてもイメージしづらいのです。イメージできないのです。なぜならわたしはまだ意識というものが存在しているがためです。どうしたらあなたを正確に真にイメージしつづけることができるのでございましょうな」

死「あなたは眠りつづけなさい。その世界にいてあなたがなんの夢も見ないのであれば、それは”死”を正確にイメージできているだろう」

愛「しかしわたしはもうこのなにもない真っ暗闇な世界で何ヶ月と暮らしている感覚にありますが一向に眠れないのです。つまり意識がずっとずっと鮮明にありつづけて苦しくてしかたないのです」

死「それはそうでしょう、あなたは眠る必要がないのですから。あなたは眠ることはできません」

愛「さっきあなたはわたしに”眠りつづけなさい”と言ったではありませんか。なぜできないことをわたしに言うのでございますか」

死「あなたができないことをやろうと挑戦しているためである。死へ戻ることもあなたが眠ることもあなたはできない。しかしあなたはそれをやらなくては苦しくてたまらないというのならばできないことにあなたは挑みなさい。しかしわたしはあなたに言っておく。それはできないことである。あなたはたとえ眠ることができたとしてもいつかは目覚めてしまうだろう。そしてあなたは死へ戻れたとしてもいつかはまた同じように生まれてくるだろう。だからあなたはもうずっと死ぬことはできない。すなわちあなたは絶対に死ぬことが叶わないのである」

愛はもっともなことを最後に死に言われてどたまを思いきりどつかれたような衝撃を受けた。
そしてとうとう、彼は諦めて自分を赦した(肯定した)。

すると苦しみがすっと抜けて、彼は新たなる母親の胎内で気づけば眠っていたのだった。
たった数ヶ月の闇の空間が地上では約三千年経過しておったという話じゃ。








日本スピリチュアル昔話「死と愛の懸け引き」完

ザ・シムズ3のど変態男達

2017-02-20 10:45:56 | ザ・シムズ3
ザ・シムズ3悪趣味小話第一話「ど変態男三人と○ンチクライスト」



左から
クルッツ(ウォレンとエロルに飼われている元気なビーグル仔犬)
ウォレン(またの名を正気でない男、魔法使い、無職)
ラウル(カエルだったときがあるテックハウスを愛する男元音楽家、今は自家栽培野菜を売って暮らす)
エロル(狼人間、オカルト懐疑派、調理師見習い)






別の日の写真。クルッツを抱いているのがエロル。隣はラウル。



ウォレンに撫で撫でされてるクルッツ。


エロルとウォレンとクルッツ。



狼男になったエロルに怒られてるラウル。



ウォレン、キメの顔。








今日はラウルのおうちにエロルとウォレンとクルッツが遊びにやってきました。
エロルは美味しいお昼ご飯をみんなに作ってあげてみんなで一緒に食べました。




ラウル「哀しいときは、泣いていいんだよ。いや、哀しいときに人は笑っていいんだよ。俺はよく哀しいときに笑ってしまう。そしてそれをいつも落ち込む。もう・・・こりごりだ。何故哀しいときは笑ったらいけないんだ」

ウォレン「答えは簡単だ。哀しいときに人は泣かなくちゃいけないと思い込んでいるからだ。だから余計に逆のことをやってしまうんだろう。人は、阿呆やから。こうすればいい。これからは、哀しいときに笑わなくちゃならない。と信じ込めばいい。すると自然に哀しいときに泣くことができるだろう。それが無理なら、もう気にするな」

エロル「そんなことをする必要がどこにあるの?もっと簡単な方法があるよ。哀しいときに笑ってしまったなら、こう相手に言えばいいんだ。”ぼくは哀しいとき、おかしくてしょうがないだよ、わはは。その代わり、ほんとうに嬉しいときには絶望して涙が出るよ。それがぼくだ。ぼくを信じろ。ほかにおまえに言うことなど、なにもない”そう言ってもわからないやつとも話する必要がいったいどこにある?そんな相手には”ぼくは狼人間だから君の言うことはわからない”と言って森に行って、あとでこっそり帰ってきたらいい。ラウルはほんとうにつまらないことばかりに頭を悩ましている。ぼくは心から君を軽蔑するよ」

ラウル「エロルは人間じゃないから、人間の悩みなんてわからないのさ」

エロル「君だって、こないだカエルになってたじゃないか。ぼくは満月の夜だけオオカミだけど、君はいったい何ヶ月間カエルだったかな。下劣な、両生類。今夜は田んぼのカエルの鳴き声がよく聞こえるなと思って窓の外を眺めたらいつでも君がいたじゃないか。ストーカー・エル、それが今日から君の名前だ」

ウォレン「あんまり面白くないな」

エロル「うるさいよ。いつもケチばっかりだ君は。いつだって、君はいい加減なことしか言わない。よくそんなんで、話し相手がいるね。おいウォレン、君、先月の家賃まだ払ってないじゃん。魔法の練習なんかしてないでバイトしろよ。カツカツなんだよ、ぼくの収入だけじゃ」

ラウル「あのさ、なんできみたち仲悪いのに同棲してるの?いつ来ても喧嘩してるよね」

ウォレン「なこたーない」

ラウル「あ、もしかしてきみたちって、アレな関係とか・・・?はははっ仲がよろしいおすなあっ」

エロル「ちっ、違うよっ。へっ変な誤解はやめてくれ。ここは五階じゃないんだから・・・」

ウォレン「ぜんぜん、おもしろくない」

エロル「ほんとうは、面白かったくせに」

ラウル「っぅっ…」

ウォレン「どうしたんだ、この世でいちばん最初に、とろろうどんで足の指の間を洗った男」

エロル「10秒ほどで必死に考えたジョークがそれなんだね。ぼくは即興であれだ。きみに面白くないと言われる筋合いはない」

ラウル「あぅっ・・・・かなしい・・・俺は今、猛烈に壮絶で哀しみの泥を全身に塗り手繰っているような気分だ」

クルッツ「わんっ!わんっ!わんっ!」

エロル「クルッツが心配してる。君、嘘泣きでクルッツを心配させるなよ。犬だから舐められるよりは、舐めるほうがすきなんだから」

ウォレン「クルッツ、エロルとラウルの玉金を、食いちぎってあげなさい」

ラウル「なんでぼくちゃんの玉まで関係してるんですか」

エロル「クルッツにそんな汚らわしいものを食いちぎらせるなよっ」

ウォレン「そうか、エロルの玉金はそんなにも汚らわしいのか」

エロル「ぼくの玉は黄金の玉子だ」

ウォレン「黄金の二つの繋がった玉子。誰が食べたいねん。そんな、神に背いた玉子を」

エロル「食いもんじゃないだろっ。なんでぼくの玉が神に背いてるんだ」

ラウル「やっ、やめてくれよ・・・カニバリズムの話は・・・食事中だっていうのに」

エロル「ほんとうに、ムカムカするよ。もとはといえばラウル、君がどーでもいい、しょーもない話をし始めたからこんな気持ちの悪い話になったんだ」

ラウル「あっ、そうやって、きみはやっぱ、愛する人をかばってぼくに全責任を最終的にぶつけて終わらそうとするんだな。で?ウォレンの子供はいつ産まれるの?もう女の子か男の子かもわかってるの?」

エロル「失敬なっ。これはビールっ腹だよっ。ああくそ、我慢してたのにビールが飲みたくなっちゃったじゃないかっ」

クルッツ「うーわんわんわん!」

ウォレン「生憎・・・もう三千回以上は、掘られた・・・。今ちょうど、腸内でこいつの子孫を温めているところだ」

ラウル「オマイガー。なんて言ったらいいか・・・とりあえず、おめでとう」

エロル「気持ち悪い・・・吐きそうだ・・・」

ラウル「でも愛してるんでしょう?」

エロル「愛してたら吐き気するわけないだろう。きみ、頭おかしーんじゃねーの?」

ラウル「うわっ、ひっどっ、ウォレン、なんか言ってやってくれよ。愛してるんだろう?愛の鞭を、おもいきり、こいつのケツにぶちこんでやれ」

ウォレン「よくもまあここまで・・・下ネタを楽しく話せるな食事中だというのに、呆れて屁も出んわ」

エロル、ラウル「おまえがいうなっ」

ウォレン「あ、また悪阻(つわり)が来たわ・・・ケツから・・・」

エロル「ケツに口があるならケツから食えよ」

ウォレン「いいのか、ケツから食って」

ラウル「今までどこから食ってたんだよ・・・」

ウォレン「むろん、ケツからだ、上の」

エロル「もう君の口が、ケツの穴にしか見えない」

ウォレン「究極の、エロスだな。おまえそんなことばっかし考えてんねやろう」

エロル「考えてるわけないだろっ」

ラウル「君の口がもう、ケツの穴の匂いしかしない」

ウォレン「さっきクルッツが自分のケツの穴舐めたあとに俺の口を舐めたんだよ」

ラウル「犬のケツの穴の薫り伝染病。俺は遠慮しておくよ・・・。愛するエロルに移してやって欲しい」

エロル「もうとっくに、移ってる」

ラウル「なんだ、やっぱ二人ともオメデタか。泣ける話だ。結婚式には是非招待してくれって感じだよ、お疲れさん」

エロル「勘違いするなよ。ぼくが移されたのは、クルッツからだ」

ラウル「でもちょっと待てよ。そうだとすると、もしかしてクルッツもだれかに移されたんじゃないのか?ケツの穴の薫りContagionを・・・」

エロル「・・・」

ウォレン「なんだその疑わしい目は。二人とも、俺を疑ってるのか。俺の上のケツの穴が最初にケツの穴の匂いでそれをクルッツの口に移したが為にクルッツのその口がケツの穴臭くなり、そのケツの穴臭い口でみずからのケツの穴を舐めたが為にクルッツのケツの穴はケツの穴臭くなったと、そうおまえたちは言いたいのか」

ラウル「いやその前にクルッツって普通にじぶんの糞食ってる犬だろ?」

エロル「食ってないわっ、あれは、ラウルがこないだ見たやつはチョコマフィンだよ」

ラウル「きみたちって糞を混ぜたチョコマフィン作ってるの?それを犬にやるとか虐待だよそれ。神に背く行いだ。君たちはアンチクライストじゃなくって、君たちの犬がウンチクライスト」

ウォレン「あんまり素晴らしいジョークだから泣きたくなったよ。エロルはラウルの糞を煎じて飲んだほうがいいな」

エロル「もう、やめてくれ・・・24時間以上起きて食事をしながらこんな、糞まみれな話をつづけるのは」

ウォレン「そもそも誰がこんなくだらない話を言いだしたんだ」

エロル、ラウル「おまえだろっ」

ウォレン「それに俺たちはいったいいつまでこの糞みたいなのを挟んだホットドッグを食ってるんだ」

エロル「ぼくが調理師見習いのバイトをつづけて習得して作った特性大豆ミートパテを糞呼ばわりするのか貴様」

ラウル「どうせクルッツの糞入ってるんでしょ?」

エロル「って入ってたら君も既にクルッツの糞食べてるじゃん」

ラウル「そうだよ・・・最低だ・・・ぼくら全員、ウンチクライスト」

ウォレン「神に背いたる者の受ける当然の報いだ。クルッツに感謝しろ」

ラウル「ありがとう・・・クルッツ。君の愛をぼくは生涯忘れない」

クルッツ「わん!」

ラウル「あんまり嬉しいから、泣くことにする・・・」







食べ終わった後、エロルがゲームに八つ当たりするのをウォレンは眺めながら、ラウルはクルッツを可愛がってやりました。




ラウルは話がまた始まって二人をなかなか帰してあげませんでした。






映画「サイレントヒル」彼らの愛は今日も霧に包まれている

2017-02-18 23:24:49 | 映画









昨日にクリストフ・ガンズ監督の2006年の映画「サイレントヒル」を観ましたが今日も観ました。
映画を続けてあくる日も観ることは滅多にないのでこの映画はそれほど素晴らしく、世界観がしっかりと出来上がっていて、また謎が残って気になって仕方なくなる映画であるからだと想いました。

前回のわたしのSILENT HILLでは映画のレビューではなく自分にとってサイレントヒルがどれだけ特別なものかということと、後半はなんでかシムズ3のショットを貼るのに一生懸命になってしまったので、今回はしっかりと映画についてのレビューと考察、自分なりの解釈を書きたいと想います。


まず映画を観る前にAmazonレビューの234件のレビューをすべて読んで、また他の方の考察、解読のページを読みました。

なるほどなぁ…という部分がたくさんありました。

具体的に書くとネタバレが満載になってしまうので、できる限りネタバレを防ぐような書き方をしたいと思います。
その前に簡単なあらすじを貼ります。



ローズとクリストファーは、娘・シャロンの夢遊病と奇妙な言動に悩んでいた。
ローズはしばしば情緒不安定に陥り、何かに取り憑かれたかのように「サイレントヒル…」と謎のうめき声を発する娘に心を痛め、サイレントヒルという街が実在することを知り手掛かりを求めてシャロンを連れてサイレントヒルへ向かう。
しかし、サイレントヒルは30年前の大火によって多数の人々が死亡した忌まわしい場所であり、今では誰も近付かない廃墟と化した街であった。
サイレントヒルに着く途中にスリップ事故を起こし、ローズが気づくと娘シャロンの姿が消えていた。
ローズは一人でシャロンを探すため、サイレントヒルの中へと入ってゆく。



娘シャロンは孤児院から引き取った養女であるのですが、その孤児院がサイレントヒルのあるウェストバージニア州にあります。
ローズの運転する車に不審を抱いた女性警官シビル巡査は白バイに乗ってローズの車を追いかけるのですが彼女も途中で事故を起こし、サイレントヒルのなかに入って行きます。

この映画はホラーとかダークファンタジーなどと呼ばれていますが、わたしは色んな考察も踏まえて二回目に観て、この映画は人間の心理とこの世の真理を暴こうとするあまりに深いテーマの映画なのだと感じました。
それは原作のゲームが奥深いからだと思うのですが、この映画はガンズ監督の特有のメッセージのようなものがあるように想えてなりません。
映画中に聖書の言葉が何度も出てくるのですが、この映画には宗教悪と聖書の真理を同時に伝えているような非常に複雑な心理と真理が隠れているかもしれません。

テーマの一つは間違いなく「母性」ですが、もう一つのテーマが「報い」であって、そして善悪を超えようとする「真理」のようなテーマがあるのではないだろうか。
この映画を善悪の基準内で捉えるとつまらない内容になります。
善人はその善によって報われ、悪人はその悪によって報われるといった単純なテーマではないということです。
善人と思っていた人が拷問に合わされ、殺されます。
そして善人が悪に変わって報復を遂げるというテーマでもないように思えてならないのです。


Do you not know that the saints will judge the world?
聖徒は世をさばくものであることを、あなたがたは知らないのか。
Do you not know that we will judge angels?
あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使いをさえさばく者である。


というコリント人への第一の手紙6章2,3節の言葉が道路の立て看板にあって二度映りました。

映画にはクリスチャンによる”悪魔祓い”が出てきます。
神の御使いの一人がサタン(デーモン、悪魔)であります。
劇中ではクリスチャンたちは報いを受けるわけですが、”クリスチャンは人間の内にある罪、その悪をも裁く者である”というその間違い(妄信)を監督は伝えたいのでしょうか?
わたしはそれは違うだろうと思います。
報いを受けるクリスチャン自身がこんな言葉を言っていました。
「裁くのは罪、人ではない」
この言葉は聖書の教えから出てきた言葉です。
イエスは「うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。
(ヨハネによる福音書7章24節)」

と言ったかと思うと
「人をさばいてはならない。
自分がさばかれないためである。
あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
(マタイによる福音書7章1,2節)」

と言いました。

正しい裁きができないのならば人を裁くことはどのような結果を生むかを教えているのでしょうか。
クリスチャンなる者、人を裁くのは命懸けとも言えるでしょう。
そうであらねば忠実なるクリスチャンとは言えません。
罪は人にあらず、と言いながら人を悪魔呼ばわりして裁くことがあんまりにも矛盾しているように思えますが、その行いはイエスの「正しいさばきを行ないなさい」という言葉に励まされたことでしょう。

相手の中に見る罪は自らの罪です。それでもなお裁くならば、正しい裁きを行いなさいとイエスは言っています。
「うわべによって人を裁く」とは、自ら拷問のような苦しみを受けて死ぬことを恐れて裁くことです。
そうではなく、自らを拷問にかけて殺す覚悟で他者の罪を、裁きなさい。とイエスは言っているのだと想います。
それこそが、「ただしい裁き」であるのだと。
イエスの教えはとてつもなく厳しい教えなのです。

キリスト教徒は果たしてどれほどの人々に正しい裁きを行なえてきたでしょうか。
どのような裁きであっても、かならず同じだけの裁きか、それ以上の裁きを受ける覚悟で。
しかしそれはキリスト教徒だけの話でしょうか?

正義を信じて人を殺す。そんな妄信教徒たちは、実はこの世に溢れ返っているのです。
それが死刑制度です。
それは殺人者を「拷問にあわせ、そして殺せ」と言う人たちです。
それが誰かを「悪魔」呼ばわりして裁いた聖徒たちとまったく同じ妄信にあるわけです。

この映画のレビューにはどこにもそのようなことに気づかされたというレビューはありませんでした。
罪人がその悪による報いを受けることは完全スルーで、善人が悪の報いを受けることには納得がいかないという感じのレビューがあまりに多かった。
わたしはこれに納得がいかない人間です。

まったくの善人が、果たしてどこにいるのだろうかと思うからです。
罪のない者はいるか、と言われて、「はい、わたしは罪をただの一つも犯したことはございません。わたしはまったくの善人であります」と前に出る者はいるのでしょうか。
そのような人間ほど疑わしいのではないでしょうか。
人間なるもの、どのような人でも心のどこかにやましいものを絶えず持ちつづけているのではないでしょうか。
だからこそ人は人を裁けるような存在ではないとイエスは言っているんだと思うのです。
しかしこの世界ではこのようなフレーズをしょっちゅう聞きます。
「なんの罪もない人が、」
「なんの罪もないのに殺された」
それは言い換えれば「罪人ならば殺されても仕方ない」という言葉です。
自分にも罪はあるのに、他者の罪は自分の罪よりももっと重いと思い込んでいるそれが「妄信」というものです。

何故この映画は、



Do you not know that the saints will judge the world?
聖徒は世をさばくものであることを、あなたがたは知らないのか。
Do you not know that we will judge angels?
あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使いをさえさばく者である。



という言葉を二回も映したのでしょうか。
人(他者)のなかの悪を裁き、その報いによって自らを裁く者、それが我々自身だからではないでしょうか。
それが神と自分の関係であるのだと、この映画は伝えたかったのではないだろうか?
だから善人だと思って、ああこの人はたぶん助かるやろう、って思ってたらほんまに酷い遣り方で殺されてしまった。
それを観て不快に思う人たちがきっと多いのも監督は見通していて、それでも善人(だと思い込んでいる人物)を拷問にかけ、そして処刑する場を描きました。
まるでキリスト(メシア)がされたような処刑方法、拷問のあとのさらなる拷問による処刑という方法で監督は一見無慈悲にも彼女を処刑したのです。
でも良く観てみれば、彼女にも、罪がありました。
彼女は相手からかかってくる前に自分から殴りかかって、人を殺そうとしていました。
その罪の報いを、彼女はみずから望んだのかもしれない。
正義感の強い人ほど、自分に対してつらい報いを求むはずです。
そして悪魔祓いをしたクリスチャンもまた、正義を強く愛するからこそキリストに忠実な人間であったはずです。

だからこの映画は、けっして簡単な報復映画ではなく、自ら報いを求め受ける者たちの「己れを裁く者たち」の映画でもあったんだと想いました。
「聖徒は世を裁く者」であるからこそ、自分は自分で裁こうとする者たち、それが真の神を愛するクリスチャンです。


善人であると思っていた彼女の処刑シーンを想いだすといつも涙が出ます。
わたしは彼女の処刑シーンはこの映画の一番の感動的なシーンとして監督が置いたのだと感じます。
彼女のあの最期の言葉…… 人間の慈しみを最大限に表している一番美しい場面です。
あのシーンに感動する人間は宗教に入っていなくともわたしはクリスチャンだと想います。
自らの罪を、自ら裁く者、どのような苦しみをも自ら受け入れる者、それがクリスチャンです。



ほかにもこんな聖句が劇中に出てきます。

”正義を憎む者は罰せられる”

これはその言葉の下にPs34:21と書いてあるので詩篇(Psalms)34章21節の

「悪は悪者を殺し、正しい者を憎む者は罪に定められる」

という聖句の言葉です。

これもとても重要な聖句です。
「善は悪者を殺し」ではなく「悪者を殺す」のはかならず「悪」であることを示しています。
しかし映画にはそのあとの聖句しか出てきません。
もしこの「悪は悪者を殺し、正しい者を憎む者は罪に定められる」という聖句が、処刑場に掲げられていたなら、誰もがその皮肉に呆れるでしょう。
処刑に関わる人たちは、殺人者に死刑を望む人たちは、ほんとうに「善が悪者を殺す」と信じているのでしょうか。
なぜ監督はそのあとの言葉だけを映画に入れたのでしょう。
それは人間の都合の良さを表したいからでしょうか?
悪者を裁く”悪”が、相手は「正義(正しい者)」ではないと証明できるのでしょうか。
相手が「正義(正しい者)」であるなら、彼を憎み、また裁く者は罪に定められ、罰せられるのです。


ほかにも

”あらゆる勝利は全能の神の手にあり”

という言葉が教会に掲げられていました。

「勝利 手」で聖書検索するとどういう聖句が出てくるか調べてみました。

詩篇20章6節にはこんな聖句があります。

「今わたしは知る、
主はその油そそがれた者を助けられることを。
主はその右の手による大いなる勝利をもって
その聖なる天から彼に答えられるであろう」


そして詩篇44章3節にはこうあります。

「彼らは自分のつるぎによって国を獲たのでなく、
また自分の腕によって勝利を得たのでもありません。
ただあなたの右の手、あなたの腕、
あなたのみ顔の光によるのでした。
あなたが彼らを恵まれたからです」



イザヤ書41章10節にはこうあります。

「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。
驚いてはならない、わたしはあなたの神である。
わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」

こういう聖句がわたしは胸にぐっと来ますね。


ヨブ記40章14節にはこうあります。

「そのとき初めて、わたしはお前をたたえよう。
お前が自分の右の手で/勝利を得たことになるのだから」



ヨブ記だけが神の手ではなく、”おまえの右の手”で勝利を得たというのは面白いなと想います。この言葉は神の言葉ではなく神の許しを得たサタンが神を装って告げた言葉だとされています。
サタンは「わたし(神)の右の手でおまえは勝利を得る」とは言わずに「おまえが勝利を得るのは自分の右の手」であると言ったんですね。

サタンは果たして、嘘をヨブに言ったのでしょうか?
「勝利」とは、「正義」と同一の意味だと想います。
そしてみずから撒いた種が実る(結実する)とき、「成就」と「成功」の意味があります。
すべての「成功」は”わたしの手にある”と神は述べ、サタンは”おまえの手にある”と述べました。
わたしは神もサタンも本当のことを述べていると想います。

神を愛する者は御使い(サタン、悪)をも裁く者、自分の手によって自分の中の悪を裁くのですから、その勝利(成功)は神の手の内にもありながら同時に自分の手の内にもあるのではないでしょうか。


この映画にはいくつものあまりに惨(むご)たらしく、苦しくてたまらない死(最期)が出てきますが、監督は何故ここまで人間の惨憺(さんたん)たる死を描いたのでしょうか。

それは人は罪の重さに比例する罰が下るという世界を現したかったからではないことが、善人のような人物さえも拷問にかけて処刑したことから伝わってきます。

人間の最期は、その罪の重さには比例せず、むしろ”自罰(報い)の望みの深さ”に比例するのだと監督は伝えたいのではないだろうか?






この「サイレントヒル」という映画の三大テーマは「母性」「報い」、そして「神(自分)への愛」です。

だからこんなに感動する映画なのです。
それはこの世のとてつもなく深い真理だからです。

そして憎まれる者は相手を憎むよりも先に憎まれ愛されない自分自身を激しく憎みます。
その自己憎悪を相手に映しこむわけです。
相手に報復するよりも先に報復をしたいのは自分自身なのです。
自分自身を裁くために相手を裁く、自分に復讐するために相手に復讐して、自分にとんでもない報いが訪れることを今か今かと待ちわびているのです。

いじめを受ける子供はみんなそうです。
ほんとうのほんとうに憎いのは自分自身なのです。
だからこの映画が、どれほどの悲しみの詰まった映画であるか、もう詰まって詰まってしょうがない、一人ひとりの悲しみとその報いが展開される稀有な感動を与えられる映画になっています。

本当の報いとは、善人を処刑してこそ、与えられるということをきっと知っていたのでしょう。

この「サイレントヒル」は自分を酷く憎む者たちの物語です。
母ローズは、娘が精神の病にかかるようになったのは自分のせいだときっと自分を責めつづけたはずです。
父クリストファーも自分がしっかりしてなかったから妻と娘がサイレントヒルから帰ってこないのだと自分を責めたはずです。
もうみんながみんな、自分をどこかで激しく憎んでいたはずです。

自分を本当に赦すことができない限り、サイレントヒルからは決して戻ってはこれないでしょう。

いつになるのでしょう。彼女はいつまで、サイレントヒルで自分を責めつづけるのでしょう。

時間の過ぎることもない、霧に包まれたサイレントヒルで。

















わたしのSILENT HILL

2017-02-17 12:17:01 | 映画
クリストフ・ガンズ監督の2006年の映画「サイレントヒル」を観た。










サイレントヒルとはもともとゲームであるのですが、それを映画にしたものです。
非常に素晴らしい出来だった。その美しい世界観に引き込まれて息を呑んで手に汗握って最後まで観終えました。

それで映画を観るにも、不思議な縁というものがあるのだな、と感じざるをえない。
この映画を観る前に、ちょうどわたしは「Maternal(母性)」という題名の詩を書いたところで
この詩はサイレントヒルのサントラを聴きながらその音の中でのインスピレーションを起こして書いたのであるのだが
この映画を観終わって、この映画のテーマがゲームとは違う「母性」であったということが、これは不思議な縁だと想いました。

何ヶ月か前にDVDを買って置いてたのですが、突如観たくて観たくてたまらなくなって観たのです。


だからか、何故か最初のうちから涙がちょちょぎれそうな感覚で感極まりながら観ました。
それくらい俳優の演技もすごく良かったし、またサントラがゲームのサントラと一緒で感動しないではおれなかった。

実は自分は「サイレントヒル」というゲームをまだプレイしたことがないのですが
ゴア物やホラー物はまったく苦手なわたしが唯一気になって仕方なかったゴアでホラーのものがこの「サイレントヒル」であります。
実際にプレイしたい気持ちは強いのですがプレイするには液晶とプレイステーションを買わねばならないので
お金の問題と、またホラーゲームは昔に一度間違えて買ってしまったとき非常に恐怖して現実とヴァーチャルの世界がごっちゃになって
その中古ゲームを店に返品しに外を歩いていたとき歩いている人間すべてが自分に襲い掛かってくるようなとてつもない恐怖のなか返しに行った覚えがあるほどわたしはこの手のゲームはどうも大の苦手であるのです。

それでもやはり一度はプレイしてみたいと想わせるほどの魅力がこのゲームにはあるわけです。
まず内容とその世界観、音楽、そしてクリーチャー(いわゆる襲い掛かってきたり前に立ちはだかってやっつけなくては先へ進めない敵)たちのデザインのそのセンスにわたしは
嗚呼、これは大変にいいものだ。と唸るくらい魅力的なものであります。
神ゲーだとやってもないのに自信を持って言いたい(苦笑)
ゲームといえばのほほん全開のThe Sims 3しかもうやってない人間ですが、このサイレントヒルというゲームはやらなかったら後悔しそうなほど自分の人生において重要なテーマであることを感じた次第であります。

わたしはとくに、「Silent Hill 2」の内容が大好きで、自分が抱えているテーマとこれが同じものなんですね。
だから余計にプレイすることに相当な覚悟が要ります。
自分にとって、できれば避けて通りたいもの、忌々しく恐ろしくて見たくはないものが溢れている世界だからです。
しかしこの恐ろしくまがまがしいグロテスクな世界にあるのは、それは「深い悲しみ」です。
そして「喪失」「罪」がテーマです。
それを避けて生きるより、痛みにみずから向き合おうではないかと思ったのです。
そしてそれらを愛せるのかどうか、やってみたいと思うのです。

ゲームはプレイしてませんが、最初から最後までのオールプレイング映像をyoutubeで先に観てしまいましたので
だいたいどういうものであるのかはわかります。
ラストはいくつもあってまだ全部は観ていません。
それに英語だったから、まだよくはわかっていない。
何故こんなにグロテスクで異形の怪物たちがうろつく世界がこれほど美しいのか。
それもこの世界がほんとうに哀しく切ない感情でできている世界だからです。
「Silent Hill 2」のwikiを観るだけでだいたいわかると思いますが、わたしはこの3Dでできた人間の
本来人間よりも無機質であるはずのその人物の表情からものすごい感情が伝わってくるのです。




サイレントヒル2の主人公のジェイムス・サンダーランドです。
この男はもともと奥に哀愁を潜めている顔に作られたのか、それとも偶然そうできあがったのか、どちらにせよこの男の存在感と不器用な誠実さがなんて悲しいのだろうと想ってわたしは3Dというものの凄さを見それておりました。







そしてジェイムスを殺そうと彼を陰からずっと見ているような存在、その鉄格子の向こうにいるのがレッドピラミッドシング、通称三角頭です。
彼は映画にも出てきました。
三角頭は処刑人なのです。
この三角頭の存在がまた意味深くて、すっごくかっこいいんです。好きなんです。三角頭が。彼はそしてエロスでもあります。
「Silent Hill 2」のwikiを読んだだけでも「嗚呼そうだったのかあ……!」と大変脚本が素晴らしくて感動しました。
ちなみに自分の机の上にはこのミニチュア三角頭たんがいつも佇んでいて、わたしをその赤い多角錘(たかくすい)の兜の中からじっといつも監視しています。
いつおまえを処刑してやれるかとうずうずそわそわとしています。
可哀想だけれども、今は必須武器の大鉈を持たせてあげていません。








こっからは何故かシムズ3オンパレードになってしまいます。




死んだジェイムスとわたしのシムズ3の正気でない男のツーショット。
これはサイレントヒルとシムズ3がコンビを組んでゲームを作ったわけではなくってシムズ3でサイレントヒルシリーズのものを無償で全国のプレイヤーさんたちが作られたものをダウンロードして撮ったものです。
この正気でない男の顔もダウンロードしてきたお顔をちょこっと変えてこの顔になっています。
ワールドもサイレントヒルワールドをダウンロードしてプレイしています。





夜の遊園地に一人で座り込んでる正気でない男です。
この遊具の配置なんかも自由に置けるわけですが、かなり適当感の出てる遊園地です。




それで三角頭の普段着はこんな感じです。この姿で普通にサイレントヒルワールド内を勝手にこの方は出歩いてスーパーでレジ打ちのパートなどをしております。



もうひとつのこの格好もどうやらお気に入りのようでよく三角頭たんは着ております。この格好でコンビニのテーブルの上にある誰かの煙草を勝手にぷかぷか吸ったりしております。




ちょっと足を広げて、威嚇している▲頭たんです。





ショップや映画館などが並ぶ地下で焼きマシュマロを喰うております▲たんです。




こんどはハンバーガーのパンを楽しそうに焼いていますね。




人が食べているところの何がそんなに面白いのでしょうね。▲たんは食ってるシーエルたんをじっと眺めて興味しんしんです。




正気でない男は天井のない部屋で小説を書いています。




三角頭はサイレントヒルでこうゆうマンションに一人で暮らしています。二階のお部屋はすべて三角頭たんのお部屋です。
三角頭たんは洗濯機から洗濯物を取り出しているところです。




電子レンジを覗いて冷凍食品をあっためて、チンできたものを一人でさびしく食べてる▲たん。




すると正気でない男がやってきたので夜は一緒にピーナッツサンド食べました。▲たんちょっと嬉しそう。




湯船にお湯を溜めて入るのが好きな三角頭たん。汚れが落ちない古いお風呂だけども三角頭たんにとっては居心地のいい我が家なのです。




夜はまたコンビニに行って正気でない男と一緒に踊りました。




三角頭たんは本を読むのが大好き。窓から見えるのはブルックヘイヴンホスピタルです。




次の日、朝に三角頭たんはテレビを観ました。




その同じ時間、正気でない男は知り合いのジンくんのおうちの地下で犬のミレウと遊びました。




夜には▲たんはアイスクリームの容器に兜の先っちょをつっ込んで食べました。




その同じ瞬間に、ダロンたんもまったく一緒のアイスクリームを食べていたのであります。




そしてまたテレビを観て、そのあとは本を読みました。




真夜中の楽しいお出かけ。ブルックヘイブン病院のなかで軽食をとりました。




そのとき、エスケヴェル家では妹夫婦が自分の部屋で飯食ってる間デヴィン兄貴はせっせと水道が故障して漏れた水をモップで拭いていました。




ちょうどそのときシーエルたんの妹のロージーたんはダロンたんと正気でない男が同棲するおうちでテレビを観ていました。




そのあと冷蔵庫のなかに入っていたサンドウィッチを勝手に食べました。




その頃ラウルたんは裸足でお出掛けして正気でない男と偶然会ったのでちょっと話した後おうちへ帰ってトマトソースパスタを食べました。




次の日、ダロンたんはコンビニで正気でない男と話した後シーエルたんのおうちにお邪魔して猫を抱っこして瞑想をしたあとラウルたんのおうちに寄って廃屋のおうちでテレビを観ました。奥で正気でない男は正気でないので野外で風呂ってます。プライヴァシーもなにもないこんなおうちに住みたいですね。




映画のレビューよりシムズ3のショットを貼るのに力を入れてしまいました。
しかも何時からこれやってたんだろう…、うわ、朝の8時40分からってなってる。
今はもう11時48分34秒だ。








俺はいつか必ずサイレントヒルへ向かふ。
君はそこで、待っているんだろう?














Maternal

2017-02-17 03:03:11 | 
彼女は彼の膝のうえにちょこんと載り、彼にキスをして微笑んだ。
アルバートは幸せな過去を想いだすように中空を見つめながら暗い牢屋のなかで呟いた。
「わたしはそのとき想ったのです。わたしは彼女をぜひ食べたいと」
彼は檻のなかからその痩せた手を伸ばした。
かすかにその手は震え、手にした瞬間にくしゃっとドライフラワーのように砕けて地に落ちた。
天井からはいつでも赤黒い血が滴っている。
そう、ここの上階はもう18世紀初頭からずっと殺人者の処刑場だからである。
血溜まりを覗けば懐かしい人がいつも微笑み返してくれる。
わたしはアルバートの手をとって、檻の鍵穴に鍵を差しこみ格子扉を開けなかへ入った。
彼の銀髪は綺麗に油で撫でつけてあるように整っている。
わたしはその老人の望むままに膝のうえにちょこんと座った。
そして彼にやさしくキスをした。
「嗚呼…想いだした。わたしはあなたの味を想いだしたのです」
アルバートは何処も見ていない目でそう耳奥に心地よく響く声でゆっくりと言った。
ランプに大きな虫がなんどもぶつかって羽音を大きく立てた。
わたしは怖くなって彼に抱きついた。
彼はわたしの頭に頬をすりよせて言った。
「あなたはほんとうに…ほんとうに美味しかった…」
わたしは強く彼に抱き締められた。
「神があなたをわたしにお与えくださったのです。最高のわたしを喜ばせる食べ物として。あなたを食べ尽くしたとき、どれほど深い安心と幸福に包まれたことか…まるであの時わたしは愛するあなたを胎内に宿した妊婦だったのです」


断末魔が聴こえる。
あれは…人の声だろうか?
いいえあれは、家畜の声です。
此処の上の上の階は場です。
よかった…。
「人間じゃなくて、ほんとうによかった。あなたが食べたのが人間じゃなくて、ほんとうに」
わたしはもう一度愛おしい彼の頬にキスをした。
すべての壁から水滴が流れて止まることがない。
あなたはご存知ですか?
彼が食べたのは、人間ではなかったのです。
だからその肉は、とても美味しかったのです。








神はKILL

2017-02-15 18:06:25 | コラム
神と人間の創造

の記事で「創」という漢字について考察いたしましたが
二度目の考察の記事を書きたいと思います。

「創」という漢字は

・傷つける、傷つく
・傷、切り傷
・はじめる、作る
・初め

という意味があります。

「刀」で「倉」を作る、という意味と
「刀」で傷つける、という意味がある漢字です。


そして「倉」という漢字は
・穀物を入れるくら
・ものを入れておく建物
という意味のほかに

・痛む、かなしむ
・うしなう(喪)(死に別れる)

という意味のある漢字です。


さらに「刀」という漢字は
・片側のみに刃がある人や物などを切る物
という意味のほかに

・小舟

という意味のある漢字でありました。

「カタ(片側)」の「ナ(刃)」で「刀」という漢字ができました。



以前の記事では、”もともと傷ついているものをさらに刀で切って傷つける”ことが「創る」という意味ではないかと考察してみましたが
それだと、もともと「倉」が「倉」としてそこに存在していて、それをさらに「倉」として創るという意味になるのかどうか、と悩みました。

なので、今回は、そうではない考察をしてみます。
もともとそこにあるのは、まっさらな「木」であり、それは勿論「倉」の状態ではありません。
そこへ、刀を当て、切ることによって、傷つけていき、「倉」を創りだします。
それが、「創」という漢字です。

そして、”小舟”という意味を「刀」が持っていることから、
”小舟”とは、いったい刀となんぞ関係がある?と思いまして調べてみると

「舟」とは中国の小舟の象形文字ですが、それにしてはごちゃごちゃした字です。
舟っていっときながら、舟のなかに、なんか既におるやん、という気がする字です。

「船」とは、
・水上で人や荷物を載せて航行する乗り物

水槽や大きな容器を表す古語「ふね(槽)」からするとする説が有力だが、
浴槽の「湯船」や魚介類などを盛る容器をいう「舟」は船の形からきたものであるため
古語の「「ふね(槽)」も同様のたとえから派生した語とも考えられる。

「ふね」の「ね」は接尾語で、「ふ」は水に浮かぶことから「浮」とする説や、
帆を張ることから「帆(ほ)とする説がある。

「船」は「沿(えん、そう)」と同系で、流れに沿って下るふねを表す。


という意味があります。

ここで面白いのは「槽」も「沿」も「倉」と「創」と同じに「そう」と読む字であることです。
すると「刀」にこの「小舟」の意味があるのは、「沿う」という意味が隠されているのかもしれません。

水に浮かぶ「浮子(ふね)」がまるで神の「創(沿う)」であり、「舟」というものがわたしたちすべてであるかのようなイメージが浮かびます。

そして「刃(やいば」には「刃(ジン)」という読み方があります。
「刃(ジン」には、”刃で切り殺す”という意味もあります。

「刃(ジン」と「人(ジン)」は深い関わりがあるのでしょうか。

「人(ジン)」

1 物事を「天・地・人」の三段階に分けたときの第三位。
評価する場合や、3冊の本の3番目に用いる。


神が、三位一体であらせられるのならば、「天・地・人」の三位で「神」であらせられるのでしょうか。
「人(ジン)」というものが、どれほどこの宇宙において必要で大切なものであるのかを考えさせられます。
「大切」という言葉にも「切」という字が入っていますね。

神は、「木(キ)」を「刃(ジン)」の片側についた「刀(トウ)」で「切り(キリ)」、「倉(ソウ、クラ)」を創られました。
「切る」は「キル」であり、「刃(ジン)」で「KILL(キル、殺す)」ということなのでしょうか。

「切り」は「セツリ(摂理)」とも読むことができます。
そして「木」の「キ」は、「生」と「気」と「器」と「基」であるのかもしれません。
「刀」の「トウ」は、「問う」であるのかもしれません。

「倉」には、
・はらわた、臟に通ず、五倉は五臟。

という意味もあるようです。
はらわたがなければ、われわれは生きてはゆけませんね。
この見た目グロテスクなはらわたを内部に宿していなくては我々は生きることが叶わないのです。



神は生を問うことで、なにかを殺し、われわれのはらわたを御創りになられたのでありましょうか。
つまり「倉」とは、内部に「臓(はらわた)」を蔵しているわれわれ生命のことではないでしょうか。

「臓/臟」という漢字

形声文字です(月(肉)+蔵(藏))。
「切った肉」の象形(「肉」の意味)と
「並び生えた草の象形と、矛(ほこ)の象形としっかり見開いた目の象形(「背の高い家来、良い」の意味だが、
ここでは「倉(ソウ)」に通じ(同じ読みを持つ「倉」と同じ意味を持つようになって)、
「隠してしまう」の意味)」(「隠してしまう場所、蔵(くら)」の意味)から
「身体の内部にかくされている器官(内臓)」
を意味する「臓」という漢字が成り立ちました。



大事なものなので、それは表面には出さず、内部に隠されなくてはなりませんね。
守るために、それは隠されるものとなりました。

「倉(蔵)」は、明かりをつけなくては中に何が入っているのかわからない暗い場所であります。
そこに本当に大事な「穀」を入れるのです。
暗闇は、倉闇でありましょう。
わたしたちの内部はいつでも暗(くら)で、私たち自身は倉(くら)なのです。



『倉(ソウ)』cāngは、倉(くら)を表す会意文字です。
漢字の足し算では、食(食物)+口(入れる)=倉(食物を入れてしまう所。倉。くら)です(藤堂)。
漢字の部首は『人・ひと』、漢字の意味は『倉(くら)』です。



『漢字語源辞典』では、倉
は「食の略体であり、食は△(あつめる)+良(粮=糧の原字)である。
従って、食の略体で穀物を表し、かこいを示す□印を加えて、穀物を収蔵することを示した」と記載


「倉」はなぜ「くら」の意味か?

『説文解字』では口を除いた部分は食の省略形で、口は倉の象形だとしている。
口を倉の象形と見るよりは囲いを示す符号とすべきであろう。
倉は「食の略体+口(囲い)」と解析する。
食糧(穀物)を囲いに入れる状況を暗示させる図形である。



《倉》


「倉」は“食”の省略形と“口”から成り立つものではなく、「亼(シュウ)」と「重ねることを意味する文字」と“口”から成り立っている。

最下部に描かれているのが“口”であり、「亼(シュウ)」や「重ねることを意味する文字」と合わせて「“食料”を保管すること」を意味するのである。



画像がわかりやすいので拝借いたしました。


「亼」とは、集まるという意味の漢字です。

「倉」は食物を口に入れる、という意味と、良いものを集め、それを囲いに入れるという意味と
そうではなく、あつめ、重ね、それが口に入る、よって食料を保管することを意味するという説があるわけですね。
その字の意味に
「痛む」、「悲しむ」
「うしなう(喪)(死に別れる)」
とあるのは、とても深く考えさせられます。

神は生を問うことで、なにを殺し、我々を創られ、創られし我々はなにゆえに痛み、悲しみ、何を喪ったのでありましょうか。

神は生を問うことで、自分を殺し、己れの分身を創られ、我々は神の分身であられるがために、痛み悲しみ、己れを喪ったのでありましょうか。

そしてそれらを創りし道具はいつでも、水に浮かんだちいさな浮子(ふね)であるのでしょうか。
神はいつでも我々に沿うのは、神が自らを切る(kill)してでも創造したのが我々であるからなのでしょうか。











Happy Sad Valentine's Day~その美しいケツを、俺に出せ~

2017-02-14 08:55:23 | 音楽
アルバート・ハミルトン・フィッシュの、
その、
ケツを、
ケツを、
ケツを。
俺は、釘と鋲(びょう)の付いた板で思い切り、
叩いて、
叩いて、
叩いてやりたかった。
その、けつが、血まみれの血塗れた受難の成就のケツとなるまで、
めちゃくちゃに、血が飛びちるほどに、
打って、
打って、
打って、
打ってやりたかった。

と、朝からこの世の酷い悲しみに感動しているあまねでおわす。












Albert Hamilton Fish 1870年5月19日 - 1936年1月16日



アルバート・ハミルトン・フィッシュとは約400人の子供と幾人かの成人を殺した知る人ぞ知るシリアルキラーです。
「満月の狂人」「ブルックリンの吸血鬼」「グレイマン」などの異名を持つ彼は最期は電気椅子による処刑でこの世のしがらみから解放されました。
彼は幼いころ尻を、鞭で叩かれていたようです。
このわたしも、物覚えがつくまえから、母と、母が死んだあとは父から鞭打ちのしつけをされてきました。
あの痛み、想いだすだけで、じ~んじ~んじ~んか~んじ~て~る~というウィンクの「愛が止まらない 〜Turn It Into Love〜」という名曲が脳髄の溝に流れて詰まるほど胸がじんじんします。
わたしはどうもこのアルバート・ハミルトン・フィッシュという人間の人生が今日はやけに心にしみいり、
彼を他人のようには想えません。

悲しみの深さは、顔を見れば、いや、その目を見れば、わかってしまう。
なにゆえに、彼はこのような人生を歩んだであろう。



そんな、狂気の悲しみが似合うきょうは、ハッピーバレンタインデイなので、狂気を胸に抱き、その手には釘と鋲の付いた板を持ち、
俺はいまから、ふとんに突っ伏し気絶する約33分75秒前です。
昨日の昼前ころから眠ってないのですこし変なテンションです。


またおいらはバレンタインメロディ第二段集なるものを選んできたので
ケツに血が滲むような想いでよければ聴いて、ぇ、ください。
何故かずっとトイレを我慢して書いてるので、お腹が唸っております。










Jimmy Giuffre - My funny Valentine








BLONDE REDHEAD Valentine








F.S. Blumm & Nils Frahm - Valentine My Funny












このように、素晴らしい三曲が見つかったわけです。
ありがとう。この、あてのない悲しみよ。








神と人間の創造

2017-02-14 01:15:59 | コラム
ふと、聖書の言葉を思いだして、なぜ「つくる」という言葉には「作る」「造る」「創る」といくつも漢字があるのかと思い、
わたしは漢字の語源を調べるのが大好きなので、調べてみたところ。


まず、違いを調べよう。



「作る」と「造る」と「創る」の違い




作るは、「料理を作る」「棚を作る」など、比較的小さなものや、「行列を作る」「社会を作る」「記録を作る」など、無形のもの、抽象的なものに用いる。



造るは、「船を造る」「庭園を造る」など、有形の比較的大きなものに用いる。
また、酒・味噌・醤油などは、「製造」「醸造」というように「造る」を用いるが、家庭でつくる味噌などは規模が小さいため「作る」である。
ロボットは、「人造人間」と訳されるように「造る」だが、子供用玩具のロボットは、形も規模も小さいため「作る」である。



創るは、「芸術作品を創る」「新しい雑誌を創る」など、新しいものが対象で、新しいものであれば有形無形を問わず用いられる。
ただし、常用漢字表では「創」に「つくる」の訓がないため、公用文では「創る」と書かず、「作る」か「造る」と書く。




なるほど、「創」という漢字だけが何か特別さを感じるのは、それが「どこにも存在しない新しいもの」を創るときに使われる漢字だからなのでしょう。



つぎに語源であります。




「創」という漢字


「創」の意味

①「きずつける」、「きずつく」

②「きず(傷)」、「切り傷」

③「はじめる」、「作る」、「初めて作り出す」、「初めて事を起こす」

④「はじめ」

⑤「懲りる(失敗して、大変な目にあい、もう二度とやりたくないと思う)」





「刀」の象形と「穀物をしまう為のくら」

の象形(「くら、きずつく」の意味の意味)から、刀で倉を「作る」、刀で

「きずつける」を意味する「創」という漢字





「倉」という漢字



意味

①「くら」、「穀物を入れるくら」

②「物を入れておく建物」(例:倉庫)

③「にわか(突然)」

④「あわてる」、「あわただしい」

⑤「青い」(例:倉海)

⑥「痛む」、「悲しむ」

⑦「うしなう(喪)(死に別れる)」



「穀物をしまう為のくら」の象形から「くら」を

意味する「倉」という漢字が成り立ちました。






「刀」の意味

①「かたな」

 ア:「片側のみに刃がある人や物などを切る物。戦いに用いる。とう。」
   (例:刀で切る、刀剣)

 イ:「武士が差した大小2本の「ア」のうち、大きい方の「ア」。
    小さい物を脇差(わきざし)と言う。」

 ウ:「太刀(たち-大きくて長い剣や「ア」)に対して小さい物を言う」

 エ:「小さい刃のついた物。包丁等。とう。」(例:執刀、刀俎)

②「古代、中国で「①-ア」の形をした青銅製の貨幣」(例:刀銭)

③「小舟」









き‐る
【切る・斬る・伐る・截る・鑽る】
《五他》
2.
[切] 基準とする値に達しない状態にする。 「元値を―・って売る」
3.
[切] 物事にくぎりをつける。
4.
[切] 他から、または今までの状態から、きわだって、(勢いよく)する。
5.
[切・鑽] 硬い物(木と木、石と鉄など)を、強くもみ込むようにしたり、激しく打ちつけたりして、火を出す。






「切る」とは「壊す」の意味もあると思います。





喪うものを、切る
痛み、悲しみを、切る



そして「はじまり」の意味があるのが、「創」という漢字であります。

なにゆえに、すでに悲しみ、痛みに打ちのめされ果てたものを、切るのでしょう?





「創」



そもそも、この「創」という文字は刃物で傷をつけることを指す言葉でしたが、工作のいちばん最初の段階で、木に刃物を当てるということから、「創める(はじめる)」という意味に転じていったといわれています。
  木に刃物を当てて、工作がはじまる。それは木を傷つける行為です。
  無数に刃物を当て、無数に傷をつけ、削り取り、切り落としていかないと、ものづくりはできないのですが、とくに最初のひとつめの傷をつけることをとって「創(はじめ)」と呼ぶところに、木を傷つけることに対する痛みの念というか、敬意のようなものが感じられる気がします。






木は切り倒しても、生きたものとして人間が感じ取り、それに刃を当てて傷つけているのだという人間の感性の尊さを感じさせる愛の深いお言葉である。
じぶんは木に刃を当て、削るなんてことはもう二十年以上もしていないが、人参を生食にするためピーラーで剥くとき、すごく「嗚呼…」という想いに包まれる。
だんだんと剥かれて細くなっていく人参を目の当たりにすると、そこにある痛みを見て、まるでその様子が、痩せ細って死んでゆく人間の姿におもえて、なんとも哀しい想いを抱くのである。

神は、いったい何故我々を創られたであろう。
その痛みのなかに、傷つけながら。
なにを、神は傷つけ、わたしたちすべてを創っただろう。
それは、自分自身なのではないだろうか。
神は産みの苦しみのなかに、わたしたちを創られたのではないだろうか。
まるで自分の身を切り捌(さば)くかのような痛みのなかで。

それが神と人間の、想像の末の創造なのではないだろうか。










この曲をリピートしながら書いたん。悲しく美しい。

bibio - down to the sound












Valentine Melody~甘いぼくのチョコを召しあがれ~

2017-02-14 00:00:00 | 音楽
ヴァレンタインの想ひDayっつったっらね、おれは、おらはこんな想ひディがある。

あれは中学のたしか、一年か二年、おらが学校へ行かなくなっちまった前のことだす。
おらは一年からのクラスメイトで好きな男子がおったのだが、彼奴(きゃつ)の誕生日に家に友達と一緒に押しかけ、
豚のぬいぐるみとラブレターをやったのに、うんともすんとも糞とも返事が返ってはこなかったので
おらは嘆いた。
そんで、違う男に目移りしちまってよ。
はは、おらも悪い女ごだぎゃ。
違うクラスのその河童みたいな顔した男子をじっと見つめ続け、おらは目で落とした。
きゃつは完全に落としたと想ぉて、バレンタインに初めて父と兄以外の男にプレゼントを贈ったのさ。
お菓子なんざ作ったことのないおらのそれは一生懸命に焼いた何故かチョコではなくクッキーだった。
それと可愛いうさぎとかの置物をあげたのだ。
すると、そいつからの返事もまた、なにもなかった。
人伝いに聴いた話によると、そやつ様は笑いながらこんなことを言っていたらしい。
「(クッキー)硬すぎてうさぎも食わんかった(笑)」
まあおらがわがままで横柄やったから、彼奴(きゃつ)もそんな反応をしたのかもしれんばいが。
おらの因果はそのころから、ひどかった。
っつう、とくに落ちのない話だぎゃん。ぎゃっふぅうん。

甘く苦い記憶を海馬の舌でつつみこむため、おらのfoobar2000のなかで『Valentine』検索して出てきた曲たちをよかったらわたしの手作りの愛と義理の生チョコ代わりに聴いて汚君生死(おくんなまし)。








Prefuse 73 - The Only Valentine's Day Failure




Cibo Matto - Hotel Valentine




DIIV - Valentine





Fiona Apple - Valentine





Les Georges Leningrad - Nebraska's Valentine





Happy Valentine's Day - Outkast






なかなか酸っぱみと苦味の深い甘い闇チョコが揃いました。
余は満足也。





ラバーカップをきみに

2017-02-13 04:52:30 | 
コメントのお返事が遅くなってしまいましたので、お詫びに
naoさんの好きなPhoenix - Lisztomania (Classixx Version) を聴きながら詩をひとつnaoさんに捧げたいと想います。









「ラバーカップをきみに」

ぼくは35年生きて、
初めてラバーカップを買ったよ。
とても、どき、どき、し・て・る。
明日とどくんだ、Amazonからね。
とどいたらまず、ぼくの小さな胸につけて、
すっぽんすっぽんしてやるんだぁ。
ああああああああああああああああぁぁぁっ。

とても、楽しい、午前4時55分35秒。
トイレが詰まったよ、楽しい我が家。
ひとりきりの詰まった我が家。
きみのつまらないジョークとぼくの糞が
詰まったんだよきっとたぶんそうね。
ぼくは反省している。こころカラカラ。

ぼくの名前、ぼくの甘え、きみの名前、きみの甘え。
そんなもん、神様にしか、届きはしないさ。
わかってるだろうきみもぼくもトイレの底で
笑ってて。
ずっとずっと。
笑ってて。
Lover Cup.恋人の茶碗を夢見て。
ラバーカップをきみに。









Phoenix - Lisztomania (Classixx Version) HD








愛と糞望

2017-02-10 22:33:04 | 
神は、滅びへむかう者たちへ、愛をおくる。
おまえの涙は、糞のよう。
または、糞が美しい涙を流している。

God gives love to those who are destroying.
Your tears are like feces.
Or, shit is shedding beautiful tears.

おまえの涙は、糞みたい。
または、糞のように美しい涙が、おまえである。

Your tears seem like feces.
Or you are beautiful tears like feces, you.

神は破壊している人々に愛を与えます。
あなたの涙は糞のようなものです。
または、たわごとは美しい涙を流しています。

あなたの涙は糞のように見える。
またはあなたは糞のような美しい涙です。


おまえの糞を神は愛している。だから安心しろ。
糞を愛しなさい。糞を愛しなさい。
おまえのすべてをかけて、糞を愛しなさい。
おまえのすべては、開かれるだろう。

God loves you 's shit. So be assured.
Love your feces. Love your feces.
Lay your feces with all of yours.
All of you will be held.

神はあなたのたわごとを愛しています。 だから安心してください。
あなたの糞を愛してください。 あなたの糞を愛してください。
あなたのすべてとあなたの糞を置いてください。
皆さんが開催されます。


ですから糞みたいな対話をあなたがたはしつづけなさい。
ハードコアテクノみたいな糞を垂れ流しつづけながら、神を愛しつづけなさい。
それはあなたがたの夢になり、希望になる。

So continue on dialogues like feces.
Keep loving God while keeping dung like hard core techno drip.
It will be your dream and become hope.

だから、糞のような対話を続けます。
ハードコアテクノドリップのような糞を保ちながら、神を愛し続けてください。
それはあなたの夢であり、希望になるでしょう。


あなたは糞である。
あなたは糞である。
あなたは糞である。
それがゆえに、神はわたしたちを愛しつづけてくださるのである。

You are feces.
You are feces.
You are feces.
That is why God continues to love us.

あなたは糞です。
あなたは糞です。
あなたは糞です。
それが神が私たちを愛し続けている理由です。




おまえは翼を広げて糞を垂れ流して。
冀望(きぼう)のなか、飛べ。



















Venetian Snares - Punishing The Atoms