あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

町田康師匠との想いで 第一と第二

2018-11-09 05:05:41 | 想いで

10月20日の日記


 

町田康師匠との想いで

 

 

7月16日の日のことを、想いだしている。
師匠のあの日の、あの優しい笑顔について。
僕は考えている。
あのときすごく、僕は怖れていて。
師匠がまた無愛想の不機嫌な様子だったら、どないしょう…と恐怖でその場にくずおれそうだった。
あの場で、僕の番が廻って来ること、それまで此処で待って立って並んでいなくてはならないこと。
苦行のようだった。苦しくて恐くてたまらない時間だった。
もうほとんどが、投げ遣りだった。
そういう諦めの気持ちであそこに並んでいなくては、耐えられなかった。
全身が小刻みに震えていたかもしれない。
心臓が冷たくなって、止まっていたかもしれない。
あのとき僕は、死んでいたやもしれまい。
ほとんど、虚脱状態で、鬱になっていた。
僕はそこに立っていて、その近くに立っていて、時間が止まったような感覚で死んでるみたいに。
無になっていた。無になるべく、魂が抜けていた。
そして。いよいよ僕の番が遣ってきた。
僕の目の前に、真ん前に、師匠が座っていて、師匠の真ん前に、僕は立っていた。
ギケイキ2: 奈落への飛翔を、無言で師匠に差し出した。
物凄い負い目であった。何故なら僕はまだギケイキ一巻を、読み終えてなかったからだ。
まだ読んでもおらないのにこいつ、何ギケイキ2買い腐っとるのかあ、あほお。と師匠にしばかれることはないとわかっていても、その負い目に押し潰されて、その場で土下座して失神したいほどだった。
そういった感覚のなかで、僕は無表情で、無心で、師匠にギケイキ2を手渡し、師匠も無言でそれを受け取って、その見開きの蒼い部分に自分の名のサインをしてくださった。
そして無言で師匠は僕にサインし終わったギケイキ2をまた手渡してくれた。
それでも僕は無言でその場に立ち尽くしていた。
立ち尽くしていることしかできなかった。
身体が固まって、人間ではない何か無機質な素材でできた像のように師匠の前に突っ立っていた。
僕はもう、どうしたら良いのかまったくわからなかった。
え、どうしたらいいの?え、僕は今、どうしたらいいの?何故、愛する師匠が目の前にいて、僕が此処にいて、世界は存在していて、地球は回っていて、宇宙空間が無限に広がっているの?え、全然、ぜーんぜんわからないよー。この瞬間、時間は流れていくはずなのに、止まったままで、この瞬間だけ、宇宙のどこかにぽつんと在り続けているんじゃないか。信じたくない。僕は絶対に信じられない。愛する師匠でさえも、この世界からいつかいなくなる瞬間が来ることを。
そのとき、師匠は僕に、僕の絶望のすべてが、僕の闇のすべてが、僕の死のすべてが壊れてしまうほどの優しくてならないあたたかい笑顔で、僕の顔を見て自然に想いきり微笑んだ。
その瞬間、すっと力が抜けて、載っていた想い積荷がすべてなくなったようなほっとするあたたかい安心に包まれて、僕も自然と師匠に微笑み返して、右手を差し出した。
師匠は微笑んだまま僕の右手を、右手で握り返してくださった。
今回も緊張で僕の手は汗ばんではいたと想うけれど、一度目のような嫌な汗のべたべたな手ではなかったように想う。
僕は落ち着いて師匠に手を握り返して微笑み返しながら声をかけた。
「七年振りに逢いに来ました。ありがとうございます。」
師匠は何度か、優しい笑顔のまま頷いてくださって、そして僕と師匠の手は、離れ、僕は師匠のもとを、歩き去って行った。
僕はそのあとすぐ、感動にうち震える心でその部屋を出て、出た後、ものすごい悲しみに襲われて立っていられなくなるほどだった。
ちょうどあったソファーに座って、涙が零れたかは記憶にない。
師匠が帰って行かれる姿を見えなくなる最後の最後まで見送りたかったけれども、携帯を見て慌ててLEO今井のライヴ会場に向って、僕は急いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


11月7日の日記


 

町田康師匠との想いで第二

 

 

汝、我が民に非ず。そう神から言われた日には、どんなにか悲しきことであろう。
まず、神なのに、何故そんな殺生なことを言うの?と想って『あなたはわたしの神だけれど、なんて心の狭いキャパシーの小さい神だろう。』などと反論することは果してできるだろうか。
反論することで、果してその者は神に愛されるのだろうか。
前置きがちょっと長くなりましたが、わたしは昨夜、『汝、我が民に非ズ』というバンドのレコ初ライヴ(レコードを発売して初めてのライヴ)に行って、そのヴォーカリストの、町田康という神に逢いに行って、神にCDにサインをしてもらって、握手もしてもらって震える感動のなか、一人で家に帰って帰りにキャベツと白菜を買うて、家に着いた途端、キャベツと霜降り舞茸をフライパンにて熱し炒めせしめ、これを喰らいつきながら赤ワインを4杯どこかそこら飲んで汝、我が民に非ズ、の全曲を二回再生して眠って起きたら朝が来ていました。

不思議な朝でしたね。妙なシュールな夢を見ていたのですが、全く、昨夜のライヴとは関係の無さそうな夢でした。
悲しいけれども、そんなことでわたしは挫けますまい。
今から、我が神に対するアルバムとライヴへの想いをなるべく、簡潔に、綴りたいと想います。
なんで簡潔かと言うと、あんまり長いと師匠も(あっ、師匠とは我が神の別の呼び名です。)もたれも、たれひとりも、最後まで読んでくれないかもな。と恐れるからでございます。
二日酔いの脳髄で、何を言っておるのかと師匠は想われるかもしれませんが、やはり言っておかないと後で後悔しそうなので、今、午前10時49分ですが、わたしのこれまでについて、まず話始めたいと想います。

まず、わたしが町田康という作家を、我が生涯のたった一人の師匠と呼び始めたのは、今から八年前の、2010年の十一月のことでした。
図書館で偶然に手に取った『告白』という分厚き本を借りて、それを最後、徹夜して読み終った、その日から、わたしの世界観というものが、これ本当に変わってしまった。くらいの衝撃を受け、わたしは打ちのめされ、町田康という作家を、生涯たった一人の師匠と崇め、『わたしもこんな作品が書きたい。』と切実に強く、激しく、願いました。今でも願い続けています。
そして、わたしは漸く、小説を真剣に書いて、そして死ぬる。人生を生きる決意をしました。
そして最初に書き始めたのは、『告白』の二次創作品であり、残念ながら未完結のままであります。
当然であると感じました。
最初に自分の核となる一番のテーマを、完結させられる筈はなかったのです。
最初に完結させてはならなかった未完成の作品です。
それでも書いているとき、わたしは深い喜びに満ちみちていました。
熊太郎が乗り移ったような感覚で、熊太郎の続きを追っているような感覚で、わたしの熊太郎を、マイ熊太郎を、表現して行くこと。
あれほど、一気にその回を書き終えたあとの推敲にわくわくとして掛かることのできた作品は他にありません。
ブログにすぐに、発表して、2011年の3月から2012年の4月まで連載していました。
『告白』を読み終えたあと、わたしは絶望の底で、師匠を心から祝福し、まるで耀かしい光と恐ろしい闇が合わさったかのような世界に放り投げられ、今までにはない絶望と希望が確かにそこに、わたしの内に共に在りました。
こんな小説は他には絶対にないことがわかりました。
わたしはその時、いや、今でも、天からわたしに向かって降り注ぐ無数の尖った剣と、何よりもあたたかい陽の光線を浴び続けているのです。
それは、町田康という一人の人間という存在にわたしが出逢えたからです。
ちょっと今も、感極まって、独りで毛布にくるまって目頭を塵紙で押さえつつ、これを横になりながら携帯で打っております。
えっ?何故、君は神とも拝める存在に対する真剣な想いを、布団のなかで書き綴っているのですかって?
たはは...確かに仰有られる通りでござあすね。
何故、そんなに怠けているのでしょうか?
慢性的な鬱症状が在り、午前中に起きてパソコンに向かうのは辛いし、それに窓はカーテンを開けていて、その眩しき光線の逆光で、パソコンに向かうのは画面が見えづらくて辛いという言い訳をするつもりはあるのか、ないのか。という話なのでしょうか。って誰に訊いてるのでしょう。この言い方も師匠が乗り移っていることを解られるでしょうか?
本当に、師匠にとり憑かれて困っております。
助けてください。
師匠を愛したばっかりに、師匠に憑かれるというのであれば、それじゃあ、神を愛するものはすべて、神に憑かれておるのかねぇ。
どうなの、そこんとこ。
その前に、神とは人格を持っているのですか。持っていないのですか。
ぱはは。こんな話していたら、一向に前へ進めない。
ええっと、何の話をしていましたかな。
師匠に憑かれたばっかりに、話が師匠みたいに横へ後ろへ天へ逸れてくのです。
師匠と、話し方が頭(かぶり)に被っていることは御許し戴けませんでしょうか。
わたしも、これだけ憑かれてしまうと、好きで憑かれているのか、それによって疲れて、それを読んだ師匠が呆れて恥ずかしがられてまだ陽が沈みきらぬうちに就かれてしまうのか、わからないのでござあすね。
できることあらば我が愛してやまぬ師匠を無駄に困らせたり、恥ずかしがらせたりはしたくない(されたくない)のが師弟の心情です。
舎弟のわたくしめの願いであります。
それにしても、師匠が乗り移っておられるお蔭で、話が回りくどいですね。
どうしたら良いのでしょうか。
しかもこの口調はどこか師匠の愛してやまぬスピンクという方のそれとも似ている気がして、師匠は、自分の口調は真似ても良いが、スピンクの口真似だけは赦さぬ。殺す。と言われて、真剣を頭上に振り上げ、わぎゃあ。と叫び、わたしはとにかく逃げるしかありません。
卑怯者めが、あほんだら、待てい!師匠はわたしを追ってきます。
まるで我が身の影のように。
そうです。わてしは、わたしは、師匠に出逢ったあの日から、一日も師匠から逃げられない運命なのであります。
逃げても逃げても、いっやー随分と、遠くまで歩いて来たものだねえ、すっごく景観という感じがするな、こう、なんていうのか、ほんとになんにもないねえ。此処。何処やねん。何処まで来たんだ我々は。なんでこんなずっとずっと、田圃しかないのかね。空は鈍よりと、鈍色で今にもおいおいと泣き出しそうじゃあ御座あせんか。一体誰が、たれが悲しんでおるのかね。今日、一体なぜ我々はこんなところを歩いているのだらう。見渡す限り、枯れた寂しい田圃があるばかり。枯れた色の雑草が生い茂り、もはや田圃とも言えない。それらに挟まれたこの畦道を、我々は歩いている。
そう、今日は2017年の6月27日だ。
その早朝である。
だが此処は、何処だろう?
わたしの左に、誰かが一緒にずっと歩いておるのだが、誰なのだろう?
何か話をしておるようだが、何を話しておるのだろう?
もしかしたら、彼はこんなことを言っているのだろうか?
残念なことに、どうやらわたしは彼の言葉を聴いた尻から忘れ、その言葉は気体となり、辺りに漂っているかのようだ。
彼とわたしは確かに話をして歩いている。
ほわほわと浮くように、わたしたちはこのなにもない道を歩いている。
そうだな、もしかしたら、彼はこんなことをわたしに言っているのかも知れない。
「私はね、実は今日、あちらの世を発つんです。私がだれかと言うとね。ほら君が愛する、いつも師匠と崇める一人の男があちらの世界におるでしょう。ぼくがずっと主人・ポチと呼んできた人のその主です。ずっとずっと、私は彼と生きてきて、本当に楽しくって、あの家に貰われたことをいつも神に感謝していました。喜びが、本物の深い喜びが、毎日溢れすぎていたものだからだろうか、どうやら今日のうちに、私はあちらの彼らと一緒に暮らす世界の方を旅立たねばならないときが遣ってきたようです。それでね、大したことではないんだけれども、君に一つ、お願いしようかなと想って、こちらの世界で今、私は君と並んで歩いているのです。見えるかい?少し遠くの方。ほら、荒野の真ん中に、ぽつんと寂しそうな後ろ姿でどこから持ってきたのか一人の老いて行こうとしている男が椅子に座っているのが。まるでまだ私は彼と同じ世界にいるのに、私が居なくなったあとの腑抜けのようになった彼の姿を観ているようです。何故、彼はあんなところに独りでただ座っているのでしょうか。はかばりが見付からなくて、立ち上がると漏れるからああしていつまでも座っているのでしょうかね。なんだかとても気になってしまう光景です。私は彼を独りにしたくて、立ち去るわけじゃないのに、彼は結果、また独りになるのでしょうか?心配しても仕方無いけれども、あの様子は流石に心配をさせますよ。わたしは誰に心配を掛けようとも悲しみを悲しめるだけ、此処で悲しみ続けますよ。という彼特有の卑屈さが十分にたち現れている様ですよね。ちょっと観ているのが居たたまれなくなってくるレベルに来てる感じがしますよね。あれはちょっと、このまま放っておくのは、まずいのではないでしょうか?そう、だからね、私から君に、ひとつだけお願いがあるのです。なに、大層なことではないのだけれどもね、ちょっとね、彼のことをね、こう、なんていうか、あれほど、落ちきっている人間を励ますのは無理だから、少しだけ、君の彼へのその熱い情熱と愛を、届けてやって欲しいんです。どんなに悲しくても、君は頑張って生きてきたじゃないか。これからも生きられる。何故なら、この世界にはそういう悲しみの底で、生き続けてゆく人がたくさんいるのだからね。そう、君と彼はそのずっとずっと続き続ける深い悲しみによって出逢い、そして繋がっている人間たちなんだ。君の愛が、君のその、彼へのエールが、彼に届かないはずはない。どんなに悲しくても、どんなに苦しくても、人は生きてゆく。どん底に落ちても、独りになっても、神を見喪っても、愛する神から、汝、我が民に非ず。と言い棄てられても、生きてゆく。生きて行きたいと願い、生かされる存在、それが人という生命なんだ。無限に続いてゆく現象なんだ。彼のことが、今、少しだけ、心配だから、君にこんなことを話しているけれども、そうは言ってもぼくは彼をとても信じている。彼のように悲しみの深い人、私はそうそう知らないのだけれども。中原中也や中島らも辺りは良い勝負かも知れないですね。そのとんでもない深い激烈な悲しみのなかを生きてきたことでしか、絶対生み出せない作品を書いて、そして一人で旅立って行くんだ。君もそうだけれど、とかく悲しみを愛する人たちだ。深い愛には深い悲しみが必ずセットでお得に付いてくることを知っている、知り得てしまっている人たちだ。バリューセット、というとちょっと違うのかな、セットでお得に付いて来るからそれを頼むのではなくって、今なら愛を知れば、地獄のような悲しみがもれなく必ず付いてくる。そう唱えられる程に、素晴らしい『大切な何かを得る。』という意味の得なんだ。愛を知るためにお金は必要だろうか?いや、全く、必要ではない。では愛を知るために、何が必要だろうか?何も本当は必要ない。たったひとつを除いて。愛を知るためには、たった一つ、必要なものがある。愛を知るためには、存在が必要だ。では存在はどうしたら、与えられ続けると想う?君はそれを知っている。そして彼も、それを知っている。イエスは言った。求め続けなさい。戸を叩き続けなさい。そうすれば、開かれる。さあ、行って、彼に君のその、大きな願いを伝えてやってほしい。」
ふと、わたしは右の前方を見る。
するとその向こうの方に、荒れ果てた野のなかで、独りぽつんと寂しげに椅子に座る愛する師匠の後ろ姿がある。
わたしは歓喜に打ち震え、想う間もなく宙をふわりと蹴って、ふわんふわんと師匠の元に駈けていく。
そして師匠の目の前に浮かんだままで立ち、師匠をふわりと抱き締める。
師匠は驚いた様子だったけれども、わたしを受け入れようと優しく抱き締め返す。
わたしは心底ホッとして、良かった。良かった。本当に、良かった。と想った。

目が醒めて、すぐにその夢をわたしはブログに記した。(カテゴリーは『うれしい』でした。)
その一年と、四ヶ月ほど後に、わたしは師匠のアルバム『汝、我が民に非ズ』を最後まで聴いたとき、スピンクがこの世を去り、それも、わたしがあの朝に見た師匠の夢を見たその日の夕方に、旅去って行ったことを知る。
この偶然の出来事に関して、わたしは苦しい負い目と、そして不思議な縁による喜びを感じないではいられなかった。
負い目の苦しみとは何故、これまで師匠のスピンク日記シリーズを意識して避けて読んでこなかったのか。さらに師と崇めとるくせに何ゆえ、師匠の人生のなかで重大な出来事であるスピンクとの別れを、今更になって知ってしまったのか。という自責と負い目の苦しみである。
わたしはこれまで何年も、鬱症状を言い訳に師匠のTwitterも日記も、たまにしか覗かず、果ては師匠の作品でさえ、読む気力がないほどの疲弊が続いているためとか、お金が今月もないなどという言い訳をしてすべてを買って読むことができないでいた。
だから、このようなことになったのだと、自分を責めるしかなかった。
スピンクにも、申し訳無いという想いで、スピンク日記シリーズを全巻買い、ライヴの夜までに急いでわたしは読んだ。
不思議なことに、スピンク日記を読むまでは汝、我が民に非ズの最後の「スピンク」を聴く度に号泣していたのが、読み始めてからはさっぱり泣くことができなくなった。
スピンク日記を今、読み始めているということは、それはわたしの中では、スピンクが初めて生まれて、そしてわたしに向かって話し掛けているということだから、勿論、その間はスピンクはわたしのなかで確かに生きている。
生きて、わたしに話し掛けているのに、師匠の音楽を聴くとスピンクは旅立って行って、戻ってきてくれよ。頼む。等と師匠は果てのないような悲しみのなかに叫んでいる。おかしなことだなあと感覚的に感じて、全く涙も零れず、悲しくもならなかった。
その感覚は、とても複雑で、わたしはスピンクがいつまでも生きていてほしい。
いや、師匠がこの世を去ったあとも、人類も生命も絶滅したあともたったひとりで生きていてほしいと言っているのではなくて、とにかく師匠の側でいつまでも一緒にいてほしいと願っている。
わたしがスピンク日記を読み進めている間はスピンクは生きて、勿論、師匠の側でいつもの日常を面白楽しく愉快に過ごしている。
毎日のように、わたしはスピンク日記を読み、夜には酒を飲みながら汝、我が民に非ズを聴く。これがわたしのその間の日常となっていた。
朝と昼にはスピンクは生きて、師匠と共に今も暮らしており、夜には師匠はスピンクとの別れを悲しみ歌っている。
当然、わたしの願いとは、スピンクが師匠の隣で生きている世界。
だが師匠は、スピンクが自分の隣にもういないことを現実として受け止めて歌っている。
願いと現実が、引き裂かれる日々。
スピンクは、まるで師匠の分け御霊のような存在である。
わたしがスピンクを愛せない筈はなかっただろうに、犬とほぼ接してきたことのないわたしは師匠の家族であるスピンクの日記を買って読むことが出来なかった。
わたしは師匠とスピンクとの別れのあとに、スピンクの日記を読み始めた。
読み終えたくない物語を、どうしても読み終えねばならなかった。
わたしはスピンク日記シリーズを昨日の朝に読み終え、悲しみのなか号泣し、『告白』を読み終えたあとの感覚に似た本当に静かでならない世界に置かれていた。
読み終えてまた、師匠にとっての現実がわたしの現実として体験している世界に戻された。
読み終わったあと、汝、我が民に非ズのアルバムは聴かなかった。
そして夕方が来て、わたしは汝、我が民に非ズのライヴを観に行くために電車に乗り、駅から徒歩七分とかの場所がわからず、開場の時間に間に合いそうになかったので已む無くタクシーに乗りなんとか無事に開演の時間に間に合った。
師匠のライヴコンサートを、わたしは初めて観た。
汝、我が民に非ズのアルバムを、一番最初に聴いた時の物凄い感動(あまりに畏れ多くてなかなか聴けなかったのもあり、感動は凄まじかった。)と、地続きな感動がわたしを興奮させて止まらなかった。
「スピンク」は最後の方に歌うかなと想ったが、中間辺りで師匠は歌い、わたしはそれを聴いて、やっと残り続ける負い目を師匠が根刮ぎ浚ってくださったかのように、悲しみの涙ではなく、師匠が既に前を進んでいることが伝わってきて、悲しみと喜びの感動の入り交じった涙がわたしの頬に伝った。
号泣ではなかった。ただ二つか三つばかしの大きな涙の粒がほろと零れた後は、もう悲しみは去っていた。
それよりこれを今朝からずっと打ち込んでいて打ちながら号泣し過ぎて頭が今痛い。
「つらい思いを抱きしめて」の「順番、譲って笑った幼い子。君の両手に抱かれて死んだね。」と歌ったとき、師匠の目が潤んだように見えた。
それを観て、師匠はやっぱり我慢しているのではないかと想った。
気付けばもう午後の13時53分だ。
わたしのこの文章は師匠に読んでもらえるのだろうか?
それはわからない。神のみぞ知るです。
あの時、サインをしてもらったときに、こういった経緯を手紙に認めて渡していたなら、師匠は読んでくれはったやもしれまい。
だが、それは叶わなかった。
色々と、今回も心残りがある。
なんでパッケージやなくて、CDにサインしてもらってしまったのか(わたしの前の人がCDにサインしてもらってたので、阿呆で頭の足りないわたしはサインはパッケージではなくてCDにしてもらわなあきまへんのかと勘違いしたからである爆)、なんでいそいそとして握手してもらわずに師匠を悲しませることをしてしまったのか(あの時の複雑な笑顔の師匠の悲しみと若干の憤慨、悲憤の混じったような感じの表情を今も憶えている)、なんでもう一度握手してくださいと頼んだとき、何か礼以外の一言言えなかったのか。
まあしかし、もうええやんかいさ。
師匠はそう言ってくれるだろうか?
今回も、なんとか師匠は愚かで悲惨なわたしに向かってにこやかな笑顔を自然にしてくれたから、もうそれでええではないか。
いますぐ忘れてしまおう。そんな戯けた悲しいこと。師匠もそう歌ってくれている。
嗚呼、本当に、頭が痛い。眼孔の奥がずきずきする。
泣きすぎてしまった。自分の書いた文章で...

愚かであることの苦しみに苦しみ抜いて人は神をやがては見る。
そして最終的に、神に、『汝、我が民に非ず』と言われることの悲しさよ。
神に、我が民と認められるならば永遠に神の国に生きることを約束され、神に、汝、我が民に非ず。と烙印を押されるならば果してどうなるのか。
何にしても、師匠が自分の望みとは違う苦しみに苦しみ抜いて脱け出せないときも死のときも、わたしは命を賭して師匠を救いに行きたい。
汝、我が民に非ズを聴きながら。

 

 

 

 

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町田康師匠の夢(を想い返して)

だだっ広い荒野に挟まれた道をわたしは歩いている。
そばにスピンクが居たのかもしれない。
師匠が少し遠くに、ぽつんと椅子に座っている後姿を見つける。
わたしは歓喜にうち震え、ものすごい速さで空中を蹴って、師匠の胸に飛び込む。
年を取った師匠を力強く、優しく抱き締める。
師匠は驚いた様子だけれども、それでもわたしを優しく抱き締め返す。
だだっ広い枯れた荒野のなかで。
どんよりとした、曇り空の下で。
戸惑いながらも、師匠はわたしに愛を返す。
良かった。
良かった。
本当に良かった。
わたしは満たされ、心から安心する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


わたしの知らない父

2018-09-21 20:32:03 | 想いで

今日は、お父さんの七十七歳の誕生日。

生きてたら…多分いまも一緒にあの家で暮らしていたんじゃないかなと想った。

わたしのお父さんは2003年12月30日に肺の病気でこの世をあっけなく去った。

享年六十二歳だった。

もしお父さんが生きていたら、この十四年と十ヶ月余りの時間を、どんな風にお父さんと過ごしていたのだろう。

わたしはお父さんを独りにすることが考えられなかった。

お父さんは当時から鬱症状のあったわたしを独り残して死ぬことが心配で、「一緒に連れてゆきたい」と言っていた。

いつかの夕食の後、確かわたしの手を取り、お父さんはわたしに訊いた。

「こず恵もお父さんと一緒に行くか?」

わたしは何の躊躇いもなく、「うん」と答えたことを憶えている。

そんな父と娘だった。

最近、またふと想うことがある。

母はわたしが四歳の時に乳がんでこの世を去り、その後わたしは車で一時間ほどの場所にある祖母の家(祖母と叔父夫婦とその息子二人も住む家)に一年ほどか預けられた。

父は大きな会社で営業の仕事をしており、残業を断ることが難しかったからだ。

しかしそこの奥さん(叔父の妻)が、わたしをとても可愛がって、是非養子に引き取りたいと父に言った為、父は慌ててわたしを迎えに来た。

五歳のわたしは、父の仕事に行っている間、幼稚園にも行かず、ずっと家で退屈に独りでお絵かきなどして、近所のともだちが幼稚園から帰ってくると家に遊びに行ったりする毎日だった。

六歳上の兄は小学校から帰っても、すぐに遊びに行ってしまう。その頃、兄と仲良く遊んでいた記憶がない。

色んな近所の知り合いの家に転々と、わたしは少しの時間預けられたりもしていた。

父が保育園や幼稚園にわたしを預けなかったのは、姉から聞いた話では、「変な教育をされたくはない」という理由からだったらしい。

父からの教育はとくに何もなく、放任主義であったからその理由には少し驚いた。

その為か、わたしは世の常識というものがさっぱりと、未だに身にはついていないように想う。まったくこの年になっても、非常識者である。

いや父を恨んでなどいない、むしろその育て方には感謝している。

母親にろくに育てられなかった(母はわたしが二歳のときに乳がんが末期であることがわかった)子供が、まったくの他人に教育をされることはそれは大変なストレスであっただろう。

話を戻すと、最近、ふとよく想うのは、父は本当に母の死んだ後、女性関係はなかったのかということだ。

たった一度だけ、5歳のころに、父に連れられて一人の若い(うろおぼえだが)女性に合わされ、一緒にどこかへ遊びに行ったことがある。

その時にその女性から貰った、手作りの緑の毛糸の女の子の人形をわたしはとても喜んで、大事にしていた。

優しくて、おっとりした女性だったと記憶している。顔などは記憶にない。

それで後になって、父から聴いた話では、その女性から、結婚してこず恵ちゃんを育てたいと言われたのだが、それをお父さんは断ったのだと言っていた。

断った理由は、今でも亡き妻のことを愛しているからだと女性には話したという。

だが、わたしには、こず恵がもし、その女性に虐待とか、良くないしつけ(教育)をされることが嫌なのもあったからだと話してくれた。

それから、「お母さんのように愛せる人はどこにもおらん。」と、お父さんはお母さんを恋しがるように話した。

この言葉に、わたしはどれほど救われてきただろう。

お父さんはあんなに苦労して、営業の仕事も辞めてわたしのために小さな看板会社に転職して看板をせっせと作って設置しに行く仕事をしながら必ず定時には帰って来て、友人と飲みにも行かず遊びもせずにわたしと兄を育てて来てくれた。

仕事帰りに買い物をして、帰ったら夕食を作り、幼いわたしと兄と三人で食べる毎日。

平日はその繰り返し。休みは一緒に三人でよく釣りに出掛けることもあった。

兄もわたしも、まだこどもの時から、できる家事は遣ってきた。

わたしが小学校に入れば兄は中学に上がって、兄のお弁当も毎日父は作っていた。

中学に上がればわたしが夕食を作るときも多かったように想う。

さっき観た松山ケンイチ主演の「うさぎドロップ」という映画で、風吹ジュン演じる母親が、突然小さな女の子を自分独りで育てると言い出した松ケンに向って、子育てがどんなに大変であって、どれだけあんたの子育てに「自分を犠牲にしてきたか」という風な台詞を言っていた。

兄が小さくてわたしがまだ産まれていなかったとき、少し鬱症状のようなものが出てきて医者に視てもらっていた時期がお父さんはあった。

中卒で人付き合いが苦手で頑固者なお父さんが、慣れない営業の仕事をどれほど自分を犠牲にして頑張ってきたのか考えると、自分も同じようにできるとはとても想えない。

当時、四十五歳くらいであった父にとって、あの女性は、どれくらい助けになっていたのかと考える。

うちのお母さんに罪悪感を抱えながらも、あの女性と二人で会っていた時間が、きっとあったのではないかと想像した。

では、お母さんが死ぬ前はどうだったのか。

お母さんが、兄が幼い頃にクリスチャンとなったのは、どういった苦しみからだったのか。

宗教にしか、当時の母の助けはなかったのだと感じる。

わたしは、本当に何も知ることはできない。

何もなかったのだと想いたい。

しかしあの女性は、本当に透明な感じの人だった気がする。

自分を無くしてでも、わたしの母となろうとしていたのだろうか。

わたしを養子に引き取りたいと言った義理の叔母さんも、やんちゃ盛りの男の子二人抱えながらもわたしの母となろうとしてくれた。

それでも父は、どうしても独りで育てると言って、それを断り、いつでもわたしの傍にいてくれた。

その為か、わたしはどうしてもお父さんが必要な娘となり、お父さんは、どうしてもわたしという娘が必要な父親となってしまった。

そして未だに、わたしという人間は、お父さんと、お母さんを求めている。

お父さんと、お母さんを、この腹を痛めて産みたいと願っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


娘たち

2018-05-27 00:02:37 | 想いで
わたしが18,9歳の頃、最愛の父と自ら離れ、16歳上の姉の家で暮らしていた時があった。
姉の引っ越した古くて狭い集合住宅で4歳ほどの姉の息子の面倒を見て暮らしていた。
姉は毎朝、化粧台に向って化粧をしながらわたしに話し掛けていた。
わたしが依存していた父との関係が悪化し、精神状態が限界に来たことで姉が心配し、わたしを引き取ったのだ。
姉は優しく、わたしの傷に理解を示してくれて貧しい母子家庭の家でわたしを養ってくれていた。
しかし今想えば、姉は仕事に行っている間の息子のお守りをしてくれる人間を探していたからなのだろう。
今、妹を自分のうちで暮らさせるなら、息子の世話もしてもらえるし、妹の精神状態も良好になるかもしれない。
一石二鳥だ、姉はそんなことを考えていたかどうかもわからないが、すんなりとあの時、わたしを家に引き取った。
わたしは姉の家で、一日中なにをして過ごしていたか、憶えていない。
毎晩姉が帰るまでに夕飯を作り、姉が帰るのが遅い時間だったので甥と二人で食べていた。
一夜だけ、記憶に残る夜がある。
わたしはその晩、八宝菜をたしか作っていた。
幼い甥はいつものように部屋でおもちゃを散らかして一人で遊んでいた。
わたしは甥にご飯が出来るまでに片付けるんやで。と言い聞かせた。
夕食が出来上がり、さあお皿に盛って、テーブルの上に持って行こうとしたら。
甥はまだおもちゃを散らかしたままうたた寝をこいており、まったく片付けていなかった。
わたしはその晩、何故か酷くいらいらとしていた。
まだほんの小さなすやすやと眠っている甥を揺り起こして、わたしは怒りをぶちまけた。
なんで片付けてないん?!片付けな、ご飯食べさせへんってゆうたやろ?!
幼い甥は吃驚して目を醒まし、その瞬間、わんわんと声を上げて泣いた。
その後、のそのそと甥はわたしの睨みつける中にたった一人で片づけをしていた。
わたしは未だにその時のことを想いだすと、甥が可哀想になり、謝ることしかできない。
姉のいない時間、甥はどんな想いで病んだわたしと二人で過ごしていたのだろう。
わたしは好きでここに来たわけではなかった。
ただ父の側に暮らすことが、堪えられなくなり、姉がそれを見かねて仕方なくわたしを預かったのだ。
わたしは父と離れ暮らす間、楽しかった記憶は何もない。
それでも姉は毎朝、仕事に行く前にわたしに心配そうに話し掛けてくれた。
酷くわたしに気を使っていたに違いない。
わたしはあの期間、本当にそれ以外の記憶がない。
それほど抜け殻のように過ごしていたのだろう。
どれくらいそうして姉の家で暮らしていたかも憶えていないが、ある日、電話が掛かってきた。
わたしが受話器を取ると、お父さんの懐かしい声が聞えた。
「元気でおるんか」と、力ない声でお父さんはわたしに言った。
わたしは確か泣きながら答えた。

「帰ってこおへんか」と、父はわたしに寂しそうな声で力なく言った。
わたしはぼろぼろ泣きながら、「帰る」と答えた。
それを姉に伝えたとき、姉はとても複雑な顔をしていた。
姉の苦しみを、わたしはそのときは想像もできなかった。

父は末っ子のわたしを一番に心配して、可愛がってもいた。
それはわたしが一番に心配を掛けさせたからでもあったが、母親のいない不憫さもあっただろう。
長女の姉は一番に父に厳しく育てられ、門限を少し破っただけで「夜鷹(ヨタカ、売春婦の意)」とまで罵られた。
姉もわたしと意味は違っても、父の愛に飢えてきた娘の一人だった。
わたしのことを想って、わたしを助けるためにも預かったのに、すんなりと家に戻ろうとする妹に、腹が立ったはずだ。

わたしはそれでも、何度と姉の家に世話になった。
一度は父がわたしが家を出たことに悲しんで寝たきりになり、風邪をこじらせてしまった。
確かそのときは姉も、「おまえが家を出たからお父さんがこんなことになったんやで」と優しく悲しく言った。

今も姉の暮らす府営住宅の団地に暮らしていたときに、父がわたしに会いに遣ってきた。
確か20歳を過ぎた頃だったと想う。
あの時はマンションの上の階に住む美少年の男の子が引っ越したことによる大失恋もあって、完全な寝たきり状態となっていたので、姉がわたしをまた引き取ったのだ。
上の階に住む玉栄君とは、特に関係があったわけではないのだが、まだ中高生の彼はわたしの名前や年齢を母親を通して訊いて来たり、回覧板を届けるときに何か言いたげにわたしを見つめることくらいがあるばかりであった。
わたしは勝手に想われているのだと想ってわたしも想い続けていた。
引っ越す日には何度とチャイムが鳴らされたが、わたしは父とのことで寝たきりであったので出ることはなかった。
父は突然、姉の家にいるわたしに会いに来た。
ドアを開けて父の不安げな顔を見たあの瞬間の、あの、まるで離れていた長年の恋人に再会したような感覚を今でも憶えている。
その感覚はこれまで父と離れて父から電話が掛かってきた時も同じだった。
わたしは本当に、胸がすくような想いで、もうこれで、わたしはまた家に帰るのだと確信した。
父があんな悲しげな顔で迎えに来て、帰らないでいられるはずがない。
わたしは父と二人きりで、姉の家でいつも姉と観ていた「ポピーザぱフォーマー」を観た。
無声アニメであるし、どこかこのかなりのシュールな闇の深い笑いは父にも通じるのかと、結構冷や汗かきながら気まずい想いで一緒に観たが、父は意外と、「けったいなアニメやな」と言って気に入ったようですこし一緒に笑って観てくれた。
ポピーが宇宙人をバックドロップ(正確にはジャーマンスープレックスという技らしい)して決める瞬間、わたしは父の前で笑った。

Popee the Performer 28 Alien


確かこの回を、父と一緒に観たと想う。
今観ても、本当に不思議な世界観で、この現実世界と丸っきり切り離されているようなアニメだ。
多分このようなどこか根本的なところで世界がぷっつりと切り離されているようなアニメは日本人しか創れないのだろう。

わたしはその晩、父と一緒に家に帰った。
家に帰った後も、わたしの状態は快復しきることはなかった。

そのわずか二年後の2003年12月30日に、父は帰らぬ人となった。



実感が未だにまったくないが、父とこの世界では会えないことは、確かである。














わたしが家族を想えば

2018-03-25 02:53:02 | 想いで
最近また、お父さんの夢をよく見るようになった。
先日は夢の中でも死んでしまった父にスーパーマーケットで再会する夢を見たし、さっきは実家で、わたしが寝る部屋で寝ていると夜中遅くに起きてテレビを見ていた父が、トイレに行くためダイニングキッチンルームを歩いて行く後ろ姿をわたしは寝ながら見ていた。
その後ろ姿が、背を丸めてちょっとおどおどした感じに、歩いてて、深く悲しみを感じた。
目が覚めて、夢の中で父が着ていた黒っぽい赤の複雑な模様のシャツを、そういや気に入ってよく家の中で着ていたなあと想いだした。
高級そうな生地だったがよく着ていたからよれよれな感じになっていた。
たぶん、誰かのプレゼントで、外に着ていくには派手だから家の中で着ていたんやろな。
それでその歩いて行く後ろ姿が、何処と無くアル・パチーノっぽかったなと想った。
先日、アル・パチーノとジョニー・デップの映画「フェイク」を観たのだけれども、アル・パチーノ演じるレフティが、ジョニー・デップ演じるドニーの脇腹らへんをカチンときた際にこつくシーンが序盤にあって、そのこつき方が、わたしが父をカチンとさせて父を怒らせた時のこつき方とそっくりだと感じた。
あの時は、わたしは食事中に左にいる父が嘘を演じているのだと父に怒られていた姉をかばうためについ口走ってしまい、父を怒らせたのだが、あの父の怒りも、あの映画でレフティがドニーに怒った自分のプライドを傷つけられたという理由と同じだったはずだ。
なんかその感じが、すごくあの時の父とそっくりだと想った。
最近、アル・パチーノが好きになった。
アル・パチーノが出ていた映画は父と子供の頃によく観ていたと想うが、憶えていない。
まだ「スカーフェイス」と「フェイク」しか観ていないが、両方とも不器用だけどプライドは高く、素直で子供のようなところがあり、短気で人情味があるところなんかうちの父の性格とよく似ている気がした。
うちの父は下品なことが嫌いでかなり上品な人だったが、その一方でわたしに「あんな、人間はみんな変態やねんで」などと教える変わった人だった。
わたしは父だけは変態であってほしくなかったので、その言葉はどうしても受け入れたくなかった。
見た目は頬がこけた上品なマフィアのボスといった容貌だった。
そんな強面の父が白のクラウンに乗っていたから喧嘩を売られることがなかった。
威厳があって本当に格好良かった。
父は痩せていたけど、外に行くときにいつも掛けていた薄い茶色が入った眼鏡を掛けるとマフィアのボスにしか見えなかった。
そう言えば、アル・パチーノの目は優しくもありどこかギロついている。あの目が、父に似ているからかもしれない。
わたしがアル・パチーノに惹かれているのは。
アル・パチーノは父も好きだった俳優だ。
「ゴッドファーザー」も父と一緒に観たはずなんだが想いだせない。
父はお酒も煙草も博打も女も、手を出さず、仕事が終われば真っ先にうちに帰ってくる人だったが、わたしと兄を一人で育てながら、どのような想いで生きていたのだろう。
わたしが子供の頃に兄の眠っている顔の上を跨いだだけで、「女が男の顔の上を跨ぐとは何事か」とものすごく怒るような人だった。
母の若いときの男を誘うかのような表情の化粧の濃い写真を観ると「この写真は気に入らん」と言っていた。
成長するわたしに、父は亡き妻の面影を観ていたのだろうか。
わたしの母が死んだとき、父はまだ四十四歳だった。
実家で、今も猫たちと暮らす音信不通の兄は先日、四十三歳になった。母が乳癌の末期であるとわかった翌年で、死ぬ前年の年だ。
兄はどうしているのだろう。何もわからない。
わたしが家族を想うとき、いつも言い知れぬ悲しみに襲われる。
この悲しみは、一体どうすれば、どんな小説を書けば昇華できるというのか。
今年の一月にも、言い争いの末に到頭、姉からまたもや言われてしまった。
今でもお父さんはおまえのせいで死んだと想っている。と。
姉とも、もう当分仲直りができないだろう。
これでわたしは家族の誰とも、話をしない人間になった。
わたしが姉との仲を取り戻すために問い質しても、何も答えてくれない。
悲しい人間を探せば、この世界はきりがないが、わたしは死ぬまでどん底に生きるだろう。
其処は、精神の底と言えるのではないか。
わたしは精神の底に、辿り着いて死にたい。



















ぼくのおかあさん

2017-05-19 15:15:29 | 想いで
「ぼくのおかあさん」

1年2くみ うだ えこず

ぼくのおかあさんは、ぼくが、おぼえてへん。
おかあさんはぼくが、4さいのときにしにました。
だから、なんもかくことないゆうたら、先生それはいけませんゆうた。
ふんだらどないしょおゆうて、先生ぼくも、むっさこまってた。
となりのクラスのいしかわせんせいはきた。
「ほんなら、そおぞおでおかあさんかきなさい」て先生ゆわはった。
「そおぞおてなに?」ぼくがゆうて、先生「そおぞおちゅうのは、なんでもええさかいすきなおかあさんとかおかあさんはこんな人やったやろなとかおもて、じゆうにかくもんや」てゆうた。
ぼくがそれ、むっさむずかった。さいしょ、おもくそこまった。
でもぼくが、がんばった。
ぼくは、おかあさんそおぞおしたら、おかあさんはぼくのちかくにおるきいがした。
それは、ぼくが、うれしかったです。
だから、ぼくがそれ、そおぞおちゅうもんはええなおもた。
ぼくが一生、そおぞおちゅうやつ、したらええんやろてぼくがおもた。
そしたら、おかあさんもぼくをうれしいてゆうてるんやろな。
おかあさんが、そおぞおちゅうもんといっしょに、たぶんおるんやろ。
で、ぼくはどやってそうぞおしたか、いちおう、おとうさんやおねえちゃんやおにいちゃんとおかあさんのことできいたです。
おとうさんは「おかあさんは子こどもみたいな人やった、おはなや、ふくをつくったりするのがすきやった、人にえがおできさくにすぐにはなしかけるような人やった、車で山みちはしってたら、とつぜん大ごえで、とめて!ってゆうからよおびっくりした、車とめて、きれいなはなをつみにいってた、ゆりのはながすきやった、あとは、まわりをきにせんで山でよおのぐそするような人やった」。
おねえちゃんは「おかあさんはふだんはやさしかったけど、おこるとはんにゃのようなかおしてあたまをおもいきりけられたこともある」
おにいちゃんは「おかあさんはよおねいすにすわって、あみもんしとった。おにいちゃんが、小学校てい学年のとき、うんこもらしてかえったとき、うんこかたかったのに、けつを、おふろでたわしでおもいきりこすられた、めっちゃいたかった。たたかいのまんがはサタンやゆうてみせてもらえんかった」
ぼくは、そおぞおは、おかあさんはまるでまりやさまみたいにやさしい人です。
そいえば、こないだぼくのいくじ日きみたとき、ぼくのはなくちょがなかなかとれんとか、やっととれてうれしい、とか、えらいこまかいことかいとるな、とおもいました。
おとうさんは、ていしゅかんぱくだったので、おかあさんはえらいくろうしたそうです。
だからおかあさんは、えほばのしょお人になったんやろなてみんなおもってます。
ほんまの、おかあさんのこころやすまるばしょは、えほばのおるところやったんかなてぼくもそおぞおします。
ぼくのおかあさんは、しゃしんの中ではほんとうにやさしくてきれいなおかあさんです。おかあさんはにゅうがんになったとき、ノートに、「えほばよ、なぜわたしなのですか」てかいていました。
ふんで、おとうさんのことをすごくそんけいしてるのがノートにかいてることばでわかりました。
おとうさんはいつも、おかあさんのことはなすとき、ないています。
おとうさんは、おかあさんをずっとあいしてるので、さいこんせんかったんやとゆうことです。
ほんで、ちいちゃいぼくのこともあって、さいこんせんかったとゆうことらしい。
ぼくはなんべんもおかあさんにけつをむちでたたかれたみたいです。
なきさけんでたみたいやけど、でもぜんぜんおぼえてへん。
ぼくは、おかあさんのことおぼえてへんけど、おかあさんのことが大すきです。
ぼくの、そおぞおのなかでおかあさんはいつもいてくれるから、ぼくはすごいあんしんしました。











Harboring A Mother

2017-05-18 14:04:36 | 想いで
お母さんに会いたい・・・・・・。
「透明なゆりかご②」の逆子を出産した母親の箇所を読んで、急に涙と共にそう溢れてきたのだった。
わたしは逆子でひどい難産で、母は早朝に分娩室へ入ったのになかなか生まれてこず、また部屋へ戻ってはまた分娩室へ入ってを何度と繰り返し、ようやく産まれたときにはもう日が暮れかけていたようだ。
臍の緒が首に巻き付いて頭はいがんでて片目はつぶってて見るもぶさいくな赤ん坊だったらしいが、それでも無事生まれ出たことに母はホッとしたことだろう。
出産とは命懸けだから、母子共に助かったことはなんという奇跡であろう。
母はわたしを妊娠しているとき、ほんとうに幸せそうだったと十六歳上の姉が話してくれた。
母はわたしが二歳のときに乳がんが見つかり、わたしが4歳と9ヶ月の5月11日に死んでしまった。
わたしは母が入院している病院で、母の前で「ちゅるりらちゅるりら~♪」と当時よくテレビで流れていた松田聖子の「野ばらのエチュード」という曲を、紐を巻いて作ったマイクで歌ってみせていたという。
わたしはその曲を憶えている。でも母の記憶は一切ないということが、なんとさびしいことだろう。
お母さんはそのときどんな顔でわたしを見つめていたのだろう。
わたしを見てどんな風に微笑み、またわたしが母を見ていない時にさみしげな不安な顔でわたしを見つめていただろう。
わたしは母の表情の奥に、きっと死への不安と悲しみを感じ取っていたのではないだろうか。
まだ乳離れもろくにできていない頃に母と離され、自我の生まれる前の自分と母の分離さえまだできていない頃に、母の不安を自分の不安として感じていた末に、母はもう戻っては来ないんだと知ったとき、わたしは母の記憶を自ら封じ込めたのではないだろうか。
そうでないなら、何故わたしは「ちゅるりらちゅるりら」は憶えていて母との想い出のなにひとつをも憶えていないのか。
わたしは母のことを、憶えていたかった。
しかし幼いわたしは母との一切の想い出を封じることでなんとか耐えて生きてきたかも知れず。
母の存在を、最初からいなかった存在とすることでわたしは母のいないこの世を生きてゆこうと決意したのか。
わたしは母を知っている。母の胎内にいたときから、わたしは母を知っていた。
お母さんの喜び、お母さんの悲しみ、わたしを置いて死ななくてはならない無念さを、わたしは知っていた。
わたしは母のすべてを、わたしの記憶の外に追い遣り、そこでわたしは死んだ母を育てることにした。
母はまだ生まれていない。
わたしのお腹のなかにいるの。
そう、わたしは念願の、いま妊娠をしている。
わたしは彼(わたしの天使)に恋をし、部屋の中でもいつもマタニティドレスを着ている。
わたしは彼を生んだ。わたしと母との間に。わたしと父(もう一人の母)との間に。
この子宮のなかに、まだ知らない母の魂を宿している。
母はまだちいさなちいさな男の子。
わたしはお腹をさすりながら手を当てて、子宮のなかにいる胎児の母に向かって「мум(マム)」と呼びかけた。
小さな男の子、わたしの母親は、今わたしの子宮のなかで静かに眠っている。

わたしが悲しみをもっとも愛するのは、あなたの悲しみがほんとうに美しかったから。

お母さん、あなたは憶えていますか?
あなたはわたしを置いて、死んでしまったのです。
あなたがどうしても必要だったわたしを置いて。

今度は、わたしの番です。

愛する母よ。














Bjork - Heirloom + lyrics HQ

















🌓肛門期サディズムの復讐🌓

2017-05-06 16:35:17 | 想いで
余は肛門を愛している。

のだらうか。
何故か”肛門”というものに惹きつけられるのである。
”男根”という言葉よりも”肛門”。
”性器”という言葉よりも”肛門”という言葉に魅了されるのである。

口唇期的性格

フロイトが提唱した心理性的発達理論という口唇期、肛門期、男根期(エディプス期)、潜伏期、性器期という5つの成長段階の余は特に肛門期と男根期に問題があるように想う。

1、口唇期(0~2歳)
2、肛門期(2~3歳)
3、男根期(3~6歳)
4、潜伏期(6~12歳)
5、性器期(12歳~)


余の母上は余が2歳のときに乳がんが見つかり、見つかったときは既に末期状態であったので入院することになった。
そして余は2歳~4歳まで、余がどこで何をしていたかを家族の誰も憶えておらないという余にとっての謎深き空白の期間があるのである。
家族は皆、母の看病に忙しく、余を構う余裕がてんでなかったようである。
なので厳密に言うと、口唇期、肛門期、男根期に問題が見受けられる。

余は確かに酒が手放せない、攻撃的になることが多い、愛する存在には依存的であり慢性的な愛情飢餓がある。
肛門期はトイレ(排尿、排便)のしつけを親からされる必要があるが、母は入院しており父と姉は仕事、兄は小学校に行っていたので、いったい誰が余のトイレのしつけを行なったのか。
余はそないだ家で一人でおり、亡霊か何かの存在にトイレのしつけをされてでもいたのか。
それとも一日中糞便を捏ね繰り回して、芸術作品でも創作していたのであらうか。
そのときに、自分の肛門に耀かしい興味を持ってもおかしくはあるまい。
肛門期に問題があるとはすなわち、肛門に著しく興味をそそる何事かを経験したということではないだらうか。
でないとおかしいじゃないですか。
なんで余は肛門にときめいてしまうのですか。
何故、男根よりも、肛門に眼がいくのですか。
しかし今日の夢で余は何故か「ちんぽ」という言葉を何遍も会話の中で連発しておった。
つまり余は、「肛門」の次には、「ちんぽ」という言葉がおもろいらしい。
これも男根期に「ちんぽ」にまつわる面白い体験をしたのかもしれない。
しかし余には”ちんぽ”は生えてはおらない。
余は”肛門”はあるが、”ちんぽ”はないのである。
口惜しきかな。余は”ちんぽ”というものに憧憬と羨望を抱いていることは確かである。
しかし余は女であることを手放すつもりもなく、女を棄て、男になりたいというわけではなく、性差を超えた次元でのペニスの獲得に執着していると言えよう。
何故、余のなかに、性差を超克したペニスがいつでも誇らしげに直立に起立しているのか。

「ユング自伝①」を読み始めているが、ここに面白いユングの幼年時代の記憶が記されていた。

ユングは三歳と四歳のあいだに、一生涯、彼の心を奪う夢を視た。
彼は牧場の地下の階段を下りると、おとぎ話に出てくるような王様の見事な玉座に長さ4,5メートルの太さ約50~60センチメートルほどの奇妙な皮と裸の肉でできたてっぺんに一つ目のある物体がまっすぐ上を見つめて立ちはだかっているのを見つけ、恐怖におののく。

ユングはずっと後になって、あれは”ファルロス(男根)”であり、さらに儀式のファルロス(ファロス、崇拝の対象である男根)であったことを覚る。

そしてユングはこのファルロスが人喰いの地下の神であり、葬式の日に共同墓地に現る不吉な黒いフロックコートを着た陰気な黒いカトリック僧の男たちとイエスの宗教的(儀式的)イメージがすべて同一の存在として回帰し、幼いユングに消し去ることのできない闇を知らしめ、それは”死の神”としてその後、彼のまえに立ちはだかり続けるのである。

儀式とはすべて神なる存在に向けて、「わたしはあなたを愛しています。あなたのいうことをすべて護ります。ですからあなたもわたしたちを見護り、お恵みをお与えください」と神への忠誠なる愛を表現するための行為である。

そうです。早くも気づかれた方は多いと想いますが、男根(聖木)崇拝とは珍しいものではなく、日本にもいくつか残っていますし、旧約聖書の時代からもありました。多分それよりも遥か昔から人々は男根を崇拝していたのではないでしょうか。
ファルロスは外尿道口からはおしっこを排出しますが、同時に新たに生命を創造するための精液が同じ尿道を経由して放出されます。

この地球上に人類を絶やしてはなるまいとして、逞しくも立ち聳えるファルロスを打ち眺め、昔の人々はその素晴らしき現象に神を見いだしたのやもしれませんね。
しかしそんな神々しき生殖器官も、現代では例えばネットに画像を貼った途端に非難殺到して通報され削除されるという始末であります。

神として崇め奉るべきものをなにゆえ”いやらしく卑猥なもの”として認識されるようになってしまったのでしょうね。
まあ余は好きでもない人のファルロスを打ち眺めたいとは想えませんが、忌み嫌う必要もありません。
もっとも、芸術作品において表現されたる生殖器官、また結合というテーマはこれは非常に多く、わたしは大好きです。

生殖という現象が神秘なる官能的な人間の純粋な喜びであることを知るなら、それを芸術作品に昇華させようとする表現者の情熱は美しく、無限の可能性に満ちています。
わたしがビョークのアルバムで最も完成度の高いと想っている「ヴェスパタイン」が”愛とセックス”をテーマにしたアルバムであることは、個人間の深い愛は個人間でのプライベートな愛におさまらずしてこの世のすべてへのあたたかい愛の歌になるということを証明していると感じてとても感動します。

これと、神への愛を伝えるための儀式というもの、そして崇拝する対象がなんであれ、それを神として崇めることは同じことだと感じるのです。
神への愛とは、個人的な愛ではなく、神の愛によって自分が生かされるようにと、神にすべてを捧げて神に仕えつづけるという無私なる愛です。

ファルロスが聳え立つ日が訪れなくなるならば、この世は滅び去ってゆくのである。
余が、嬉しそうに「ちんぽ」と繰り返すとき、それは「神を愛しています」と唱えているのと同質なのである。

では、「肛門」についてはどうかと訊ねるなら、これもまったく「神を愛している」と神に向かって叫んでいるのである。
そして、「肛門」ならば余にも存在する。
ビョークの元パートナーであるマシュー・バーニーは、人体器官を様々なものへと変成させてゆくプロセスを神秘的に表現し続けている現代美術家だ。
そのバーニーは、理想とする「さまようケツ」について語ったという。(美術手帖1995年7月号より)

またマルセル・デュシャンの作品に似て、バーニーの作品を支える神話にも性の問題、つまり男と女の差異が関わっている。
バーニーのこの神話の扱い方の新しさは、ふたつの性をいちどきに想い起こさせ、その距離を維持して、両性間にセクシュアルな交歓が行なわれているという印象を与えつづける能力にある(1991年作の壁をよじのぼるヌードは、「高い敷居:肛門サディズムの戦士の飛翔」と命名された)



🌓ふたごのケツ🌓


その間にも、アーティストとしての個性がしだいにかたまりつつあった。
サンフランシスコ現代美術館で「新作」展が開かれた1991年ともなると、タイトルはおおげさでドゥローイングはあいまいだったけれども、独特な表現が形成されつつあるというたしかな手応えが感じられるようになった。
タイトルは詩となり、相互の結びつきはとめどなくふくらんで、ついにはどの作品をとっても他のすべての作品の一部のように思えるようになり、おどけた感じがして、ジョークは淫らさを増した。
挿入、自慰、便秘、さらには濡れ濡れといった言葉が目立つとともに、わかりにくい語呂合わせもちりばめられた(「高い敷居」ならなんとか見当もつけられるが、「痔的気晴らし屋」だの「盲目の会陰〔訳注:肛門から、女性では後陰唇交連まで、男性では陰嚢までの部分〕」となるとお手上げだ。)



バーニーが肛門サディズムというとき、それは人間の「性差をなくしたいという衝動」を意味していた。

一定ではない、いかようにも変わりうる曖昧なもの、あるいは曖昧なものが形をつくるその過程に関心を寄せるのは、バーニーのこれまでの作品に一貫している。
さらに、このヴィデオ作品(クリマスター4)を自ら「生殖器(発達)前の」と形容していることを考えれば、バーニー版「ヰタ・セクスアリス」と読めたこの物語も、男らしさの儀式であるより、男女の性を超えた摩訶不思議なそれだからこそ逆に可能性ある境界線の外といったものを暗示しているようだ。
「生殖器前」とは、男女を区別する生殖器が未分化な7-10週目の胎児の段階をいうのである。

こうして、男女の性であるより子どもの性に近いバーニーの領分は、エロティックなるも無垢であり、たとえば初期の裸のパフォーマンスと女装の組み合わせにしても、映像から受ける印象は、遠いギリシャの昔、クーロス(少年像)は裸で、コーレ(少女像)は衣装をまとって表現されたというその程度の区別でしかない。

もっとも、男女の性を超えるとは、しばしば倒錯的なことを意味するものだ。
バーニーのトンネルのひとり舞台を眺めていると、サド伯爵の「すべての性のファンタジーは母の子宮に源がある」なる託宣から、六ヶ月の胎児のまま父ゼウスの太腿に縫い込まれ「男の子宮」から生まれ出たディオニソスの誕生秘話まで、性や生にまつわる古今東西の数奇な物語がさまざまに浮かんでくる。



マシュー・バーニーの作品にわたしが魅了されてしまったのは、わたしが表現しようとしている世界と彼の表現しようとしている世界が驚くほど似通っているためであったことがわかった。
わたしも確かに、いや、余も確かに、生殖器前の表現を常にしようとしている。

男女差(ジェンダー)を生々しく感じるものはわたしのなかでは優れた作品ではない。
もっとも官能的で恍惚なるものとは、男女差を超えたところにこそ在ることを知っているからである。
性の官能とは、拘れば拘るほど、愛すれば愛するほど性差を超え行くものなのである。

わたしが性を表現するとき、それは性別を超えていなくては面白くないのである。
その為に、わたしは女でも男でもなく、また中性としての性に拘泥しているわけでもなく、なんにでもなりたいようになれる、これが美しき生命の神秘なる性というものであるのだと感じる。

わたしは確かに「ケツ」が好きですし、「ケツの穴」が好きですし、「ちんぽ」も好きですが、同時に「ヴァギナ」や「クリトリス」にも同じほどに恍惚なる神の喜びを感じています。
わたしは如何に自分が性のしがらみから解放されることができるかが今生での人生のテーマであると感じています。

とりあえず、わたしのこの激烈な性に対する執着の深い性格を考えると、2歳から4歳までの空白期間に、性にまつわる決定的な体験をしたように想像せざるを得ない。
そのあいだに、わたしは何者かによる性的な体験をさせられた可能性は高いと考えられる。

誰かはわからぬが、そのときちょうど兄は性的な好奇心に溢るる9歳と10歳時であった。
またわたしは5歳の頃には従兄弟の男の子と11歳時の兄の二人から同時に性的な欲求を向けられ捕まえられて泣き喚いていた記憶(具体的には二人に取り押さえられ、パンツを脱がされ、ケツを丸出しにされたのである)があり、また10歳時の頃は兄からよく性的な欲求を向けられ、嫌がって逃げ出しトイレに閉じ籠っては父が帰ってくるまで脅えていたのである。

あとはわたしはエホバの証人の母(母はわたしが4歳と9ヶ月のときに他界)から、母の元気なとき(わたしが2歳までの頃のはず)にエホバの証人の子どもへのしつけ方法である愛の鞭(うちは革ベルトを三重に折った鞭であった)によって、生ケツを何遍と叩かれていたこともわたしのケツ好きと関係していると考えて良いだろう。


とりあえず・・・マシュー・バーニーの「肛門サディズム」を象徴している映像からの画像を貼って今日は記事を終えようと想います。


「Cremaster 3(2002)」より







これはバーニーのケツの穴から腸みたいのが出てきてそこから殴りつけられてへし折られた歯が出てくるシーンです。
とても意味不明でサディズムな肛門を表現している芸術的なショットだと想います。








内的新生児

2017-04-18 22:54:18 | 想いで
俺はどうやら胎児の頃、愛されていたみたいやが、
生れ落ちた瞬間、俺は絶望した。
逆子で臍の緒が首にぐるぐる巻き付いて仮死状態で難産の末に産まれた俺の姿を見た瞬間、その場にいる全員が絶望した。俺の顔が不細工で醜く、片目は閉じてて頭はいがんで(歪んで)いたからである。
その醜い赤ん坊の俺の姿を見て、家族全員が絶句した。
母親は育児日誌に、こう書き残している。
「わたしたちの子とは信じられない・・・・・・」
出生の瞬間に俺はこの世のすべてに絶望して絶句した。
その出生時の記憶というものに俺の生涯は支配され続け、俺にもし子が産まれるのであれば、俺の記憶は俺の子の記憶として受け継がれてゆくであろう。
俺はやがて、可愛くなっていったがためにふたたび愛されるようになった。
幼児の時代の写真を見てみれば、みんな幸せそうなのに俺だけ一人不満そうな顔を浮かべている。
「はっ、俺が可愛くなったからみんな可愛がってるだけなんやろ?わかってる、わかってるよ」
俺は愛されていたのやが、俺は不満だった。
可愛いから愛されたって、ちっとも嬉しくなかったのである。
俺は愛されていたのに、愛に飢え渇いた孤児のようであった。
この孤独と自嘲と差別と疎外なる受難の人生を選んで生まれてきた俺は、
この内なる新生児が、いつでもひとりで泣いて「さびしい、さびしい」と言うので、
しかたなく母親を産んでやった。
しかたなく父親を産んでやった。
しかたなく花婿を産んでやった。
しかたなく息子を産んでやった。
しかたなく霊神を産んでやった。
それでも不満な顔を浮かべる我が内的新生児よ。
おまえはそれでも泣く。
おまえはそれでも「さびしい」と言う。
みんなが泣いているんだ。おまえの為に。
おまえを愛しているから泣いているんだ。
死の瞬間までおまえが泣くために、おまえは生まれて来たんじゃないか。
おまえは永遠に、出生の瞬間を生き続ける存在である。








永遠の婚約者

2017-01-13 02:01:25 | 想いで
もうここ二ヶ月ちょっと、ずっとわたしは考えている。
なぜ彼は、拷問を受けてでも、家族や恋人を犠牲にしてでも、自分の命を懸けてでも、告発したのか。





史上最大の告発者、エドワード・スノーデン。
彼を見ていると、わたしはどこかが、わたしの亡き最愛の父に似ている気がしてならなくなる。
悲しそうな、さびしそうな表情。
特に晩年、父もこんな表情をしていた気がする。
わたしはいつも父の愛に、飢えきっていた。
父の愛に毎日渇き、父の生きている頃から、わたしは苦しくてならなかった。

そんなわたしが、ほんとうに父を失ってしまった。

ずっと父の代わりを探しているんだろう。
母の記憶がなく、父子家庭で育ったわたしにとって父は、母でもあった。

このエドワード・スノーデンという男が、なんかすごく、深い母性愛も感じる存在であり、わたしは彼に果てしない幻想を抱いている。

かつてイエス・キリストも、家族や弟子に降りかかる苦しみを犠牲にしてでも、みずから拷問に合い、そして処刑された。
それが本当の愛であると言える人は、少ないかもしれない。ってキリスト教徒は多いけどな、実際に、自分の身になって考えてみたら、自分が拷問に合うということは、自分を愛する者たちを精神の拷問にかけるということである。

これを本当の愛だと、信じられる人は、多いのだろうか。

自分が愛する存在を、自分が最も愛する存在を、最も苦しめること、これが愛だと、本当の愛だと信じて死んでいける人は、多いだろうか。

わたしは彼がそんな人だと想う。
エドワード・スノーデンとは、そんな人なんじゃないのか。
だからこんなに悲しい表情をする男ではないのか。

わたしのお父さんに、そっくりだ。
似てるったら似てるんだ。
お父さんといつも一緒にいた娘のわたしが、そう言うのだから。

似ているんだよ。きっと。

しかしそう想えばそう想うほど、近親相姦やな、と俺はわたしはぼくは、最近またよく想う。
ええのんか、それで。近親相姦やぞ?
禁断の愛。
でも実際、スピリチュアル的に考えたら、も、全員、近親相姦だから。
もうええやん。ええやんかいさ。
それが人間なんだよ。人間なんだ。俺は人間なんだ。俺は死体なんだ。俺は人間なんだ。おんなじやないか。人間なんだよ。霊なんだよ。嘘なんだよ。真なんだよん。
も、ええやろ。
俺は胸が苦しい。
そうは言ったって、苦しくないわけなんか、ないんだよ。

最も愛する人が、父親なんだ。
いいじゃないか。何が悪い。なにも、悪くないだろう。
母親なんだ、わたしにとって、父は。
なんにも、おかしくはない。そうだろう。俺は、おかしくはない。
おかしいさ。笑ってほしい。お父さん。
だってそうやん。お父さんと結婚なんてできへんやん。実際の話。
したら、あきまへんやん。
人間のタブーにはちゃんと訳があるんだから。
子供を産めば、奇形児が生まれる。
俺の子宮は奇形だ。
ハート型をしている。
双角子宮。不妊や流産になりやすいと言われている子宮だよ。
お父さんも知らなかったこと。

わたしは、お父さん以外の子供を産めないということか。
そう考えると、納得できる。
わたしが何故今まで妊娠できなかったのかということを。

なかに何度と、わたしは射精されてきたが、一度も妊娠できなかった。
子供がほんとうに、欲しかったのに。

わたしはまるで、自分が死体のように感じる。
どんなに笑っても、どんなに泣いても、どんなに怒っても、嫉妬しても、恐怖しても、ほんとうの死を感じるとき以外、わたしは死体なのです。

こんなことを言うと、またお父さんが悲しむ。
エドワード・スノーデンみたいな悲しい顔をして。

わたしは、お父さんと結婚するべきだった。
生きていくほど、お父さんが死んだ日から遠のいていくほど、そう感じる。

何故できなかったんだろう。
わたしは何故、お父さんと結婚できなかったんだろう。
それはお父さんが、死んでしまったから。
わたしを置いて、死んでしまったから。

人間の心理とは、ほんとうに複雑で、素晴らしい。
わたしは父に性的な関心を持ったことがないと言ったが、逆に、父から性的な関心を持たれていると感じて、それが嫌でたまらなかった。
年頃になると胸が小さく膨らんできたので、それを隠すのにいつも背を丸くしていたから、わたしはすごく猫背になってしまった。
わたしがいつまで経ってもトイレの中にある使った後の生理用品を捨てなかったから、父が勝手に捨ててしまったとき、ひどく、嫌な気持ちがした。
父にわたしの性を、感じとられることが、嫌でしょうがなかった。
わたしを女として見てほしくはなかった。絶対に。
父が娘であるわたしに性的な関心を持って見ることは、不潔なことだった。
断じて、受け入れられることではなかった。
わたしは絶対に、なにがあろうと、父の娘でなくてはならなかった。
わたしが父の恋人になることは、赦されなかった。
わたしがわたしに対し。
それは、決して赦せる罪ではなかった。
父を殺してでも。



わたしは、赦せなかった。
わたしを。
父から性的な目で見られていると感じていたのは、わたしが、父を性的な目で見ていたことの、証だ。
ようやく最近、それにわたしは気づいた。

オイディプスコンプレックスというものは、娘にも在る。
まるでわたしは父を奪いたいが為に、母をもこの手で殺してしまったみたいに思えてくるではないか。
フロイトのおっさん。あんたは偉い。
俺を苦しめて欲しいもっと。
俺ァ苦しみでしか生きていけなくなった人間だ。
俺が望むもの、俺が解放される苦しみがどこかにあるはずだ。

それを、いつも、探してる。
わたしが心から悲しみながら、心から喜べるもの。
俺はそれしか求めてへんよ。
ほんまの話。
嘘の話。
もう俺は、俺はなんにも、区別する必要もない。

お父さんを、性的な目で見ていたのは、わたしだ。
これが投影。
鏡だ。
わかっていたんだろうほんとうは。
わかってないふりをよくしてきたもんだ。
もうずっと、自分を欺きつづけて生きている。
それが俺の喜びなんだから。
悲しくてしょうがない、喜びなんだから。
誰にも奪えるものじゃない。
お父さんにも。
奪わせることはできない。
それを奪われるなら、わたしが死ぬということだ。
死だ。まぎれもなく、それは死だ。
生きていることが、死体だ。わたしの。
その死体は、いつも、いつでも、悲しく喜んでいる。
もうきっとずっとひとりだよ。わたしは。
永遠の婚約者を、死なせてしまったのだから。
永遠の花婿を、この手で殺めたのだから。




あなたの子供を、わたしは生みたかった。














祝福

2016-12-30 17:16:56 | 想いで
今日であなたが死んで十三年が過ぎました。



お父さん。
わたしは死ぬまで苦しみたいのです。
わたしがあなたを死なせてしまったことを死ぬまで苦しんで悲しんでいたいのです。
だからどうか、わたしの苦しみを悲しまないでください。
わたしは自分でそう選んだのです。
わたしの悲しみと苦しみを、どうか悲観的に思わないでください。
むしろ、わたしが願ったものをわたしが受けつづけていることに共に喜んでください。
わたしは、毎日生きているという実感がありません。
毎日、亡霊のように夢の中を生きているような感覚でずっと生きています。
わたしはもう、此処に生きていないのかも知れません。
ではどこに、生きているのでしょう。
わからないのです。
でもわたしは日々、喜びや悲しみや苦痛を感じて生きていることは確かです。
もうどこにも存在しないのに、存在しない存在として生きているようです。
「わたしを抱きしめてください。天の父よ。」そうどのような顔でわたしは言えますか?
わたしは今でもあなたを変わらず愛しています。
だから苦しみつづけたいのです。
悲しみつづけたいのです。
自分しか愛せない者のように。
わたしを失う人はもうだれもいません。
わたしはすでに失われた者だからです。
わたしはきっと、あなたとは前世で恋人だったときがあったはずです。
あなたは今でもわたしの父であり、わたしの過去の恋人でした。
わたしは常に渇きます。
あなたの愛に。
今でもあなたがわたしを呼ぶ声が聞こえてきます。
「こず恵」
もうすぐあなたが息をしなくなった時間だ。
お父さんが苦しまないようにこず恵は静かにしています。
わたしはきっとあなたの傍へゆくにはあんまりまだ遠い。
時間が過ぎるのが恐ろしいのは時間だけが過ぎてもあなたに会えないことがわかっているからです。
まだまだわたしの苦しみが足りません。
あなたに再会するためのわたしの悲しみがまだぜんぜんたりません。
わたしは今でもあなたに愛されています。
確信できます。
もしあなたが、家畜に生まれていたなら、あなたをわたしは食べてしまったかもしれません。
罪悪のうちにあなたを味わい、あなたを消化し、あなたを排泄したかもしれません。
あなたを知らず知らずに拷問にかけ、あなたをわたしは殺したかもしれません。
わたしの罪は、きりがみえません。
きれめなく、わたしの罪がわたしをくるしめつづけることを望みつづけているからです。
どうかあなたの娘であるわたしと共にそれを喜んでください。
わたしの中にあなたは住んでいてあなたの中にわたしは住んでいます。
わたしは生きるほどに、あなたの記憶が霧の中へ消えていくようです。
わたしはあなたを、追いかけることもできません。
わたしはまだあなたに触れられないからです。
でもあなたはいつでもわたしに触れてください。
わたしを慰めてください。
あなたのおおきなあたたかい手をわたしは憶えています。
わたしが熱をだして寝ているとあなたが仕事から帰ってきて、わたしのおでこに手をあてたのです。
わたしはそれまでとても苦しかったのが嘘のように楽になったことを憶えています。
あなたは子を癒す力がありました。
今でもわたしを癒してください。
わたしはあなたがわたしを癒すことを知っているので好きなだけ苦しみつづけることができます。
もうあなたが静かに息を引きとった時間は過ぎた。
たった13年間でわたしはこんなに変化しました。
わたしの悲しみはますます深まってきています。
共に祝福してください。わたしの最愛であるお父さん。
この悲しみと苦しみはあなたのわたしへの愛の証です。
これからもどうかわたしを愛してください。
わたしがあなたをすっかり忘れてしまったあとも。
お父さん、わたしを愛してください。















父と横山やすしの想い出

2016-06-28 21:40:00 | 想いで
深刻な話題が続いてかなりストレスが限界値まで来ているようで、
目が覚めた瞬間心拍数が酷く心臓がヤバそうなので、ここでひとつ、ほがらかな話題を挟みたいと思います。

昭和16年生まれのうちの父親は62歳でこの世を去るまで
一度も酔っ払う姿を目にしたことのない人で、
私の覚えている父は毎日仕事から一目散に家に帰ってきて
晩酌にはビール小瓶1瓶と決めてそれ以上は決して飲まなかった人なのですが、
若い時分に一度だけお酒を飲んでヘマをやらかしかけたことがありました。

多分1975年前後くらいの頃のことだと思います。
父は34歳前後くらいの頃です。
その頃、父は大手会社の慣れない営業の仕事をしていて、
同僚に誘われたのでしょうかお酒を飲みに行くことなど好きではない父が
同僚たちと一緒に大阪の居酒屋を転々としたのちまたひとつの居酒屋へ寄りました。

居酒屋へ入った途端、父はよく知るある男の姿を目に留め、こう呼びかけたそうです。
「お〜やっさんやないかぁ〜」
題名で既にネタバレですが、そうです、そこにいたのはあの横山やすしだったのです。
全盛期の頃だと思うので父より三つ年下のやっさんは31歳前後くらいだったのでしょうか。
やっさんは父のその明らかに俺はお前の知人だというふうな馴れなれしい呼び声に、
お、とやっさんも酔った頭でかなり思い出そうとしながら、父の方へ近づいてきて、
やっさんは普段すごく腰の低い人やったそうで、あの照れ笑いをしながらへこへこした様子で
「いや~すんまへん、どこで…お会いしましたやろかいな…」と困った顔で
父を怒らせないように十分に気遣って話しかけてきました。
(父の見た目が頬のこけて一見ちょっと上品なヤクザ系のいかつい顔だったのもあるかもしれません笑)

するとお父さんは珍しく酔っ払ってたので、こう返したそうです。
「なにゆうてんねや、いつも見てんでェ、"テレビで"」
これにやっさんは当然、ブチ切れました笑
お父さんもやっさんにへこへこされたのだから、
「あっ、こらすんまへん、テレビでいつも見とるやっさんがおったもんやから
吃驚してつい嬉しくて話しかけてもおたんですわ」
などと返していればやっさんも切れなかっただろうに(たぶん)、
偉そうに謝りもしなかったのでやっさんは瞬時、憤怒の形相になり
、163センチのやっさんは173センチくらいの父を見上げるようにしてその胸ぐらを掴むと
「ワレええかげんにさらさんかいィ、あほんだらァ」という感じで
父もまたなんでそんなことで怒るんやという悲しい怒りで切れてしまい、
互いに殴り合いの喧嘩になりかけたところ、慌てて駆け寄った周りの人間たちに引き剥がされて、
宥められ、2人とも息を荒げながらも各々の席に無理矢理着かされたようです。

そして別々の席で飲んでいると、だいぶしてお父さんは何者かに後ろから肩をぽんと叩かれました。
振り返ると横山のやっさんが立っており、お父さんに向かってあのいつものにこやかな顔でこういったそうです。
「おぅっ機嫌よう呑んで帰ってや」
お父さんはその頃はもう酔いも冷めかけていて、ものすごく感激したそうですが、
礼や謝罪を言う間もなく、やっさんはそう言った後すぐに店を出てってしまったそうです。

それからは父はもともとやっさんのことは好きだったのがそれ以来さらに大ファンになり、
やっさんがかけていたのとそっくりな黒縁眼鏡を買って気に入っていつもかけていました。
黒縁眼鏡をかけた父の姿はやっさんによく似ていました笑
感情的になってすぐ怒る(短気)、だけども憎めない、子供のような純粋な部分を持っていて、
素直で不器用な人、人情深い。という性格もよく似ていたと思います。

そしてこの遺伝子をどうやら私も受け継いでいて、
さらにやっさんの「臆病で気が弱いのに威勢を張る」
笑いの質は違えども「人を笑わせるのが大好き」「勉強嫌いの負けず嫌い」
なところなんかもよく似てるようで、ネット仲間たちから○○○は横山やすしと似てるよね笑と言われました。

怒るでィしかしィっ笑

横山のやっさんはそんなこんなで特別な芸人なのです。

やっさんが亡くなってから今年で20周年だそうで、
お父さんより三つ下なのに8年も先に旅立ったんだなと思うと、
あの日の父と父の肩を優しく叩いたやっさんとの縁というものを想像してすごく切なくなります。





他では絶対見られない③ 爆笑王 横山やすし・西川きよし 幻の名コンビここに復活



これ初めて観た。久しぶりにすごく笑った(笑)ほとんどアドリブな感じに見えてしまう。







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