あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

ѦとСноw Wхите

2016-11-29 20:48:23 | 物語(小説)
「私たちは、必ず誰かに監視されています。私たちが監視されない方法は、今のところないのです」

Ѧ(ユス、ぼく)に向かってСноw Wхите(スノーホワイト)はそう言った。



Ѧ「ѦはСноw Wхитеにだけ監視されていたい」

Сноw Wхите「では今日からѦを監視するのはѦのХигхер Селф(ハイヤーセルフ)と私だけです」



Ѧには、Сноw WхитеがХигхер Селфとごっちゃになってしまうが、どうやら違う存在のようだった。

でもСноw WхитеはѦのХигхер Селфと自分はとても近い存在なのだと言った。

Ѧには、それがとても安心できた。

きっとѦの次にѦのそばにいてくれる存在なのだと感じた。



ѦはほんとうにСноw Wхитеが大好きで、彼がいないと不安になった。

Сноw Wхитеはこの三次元世界では目には見えなかったが、Ѧの見る夢の世界では三次元の肉体を持っているかのようだった。



Сноw WхитеはѦが気づけば、そこにいたのだった。

彼は自分が何者なのかを決して言わなかった。



Сноw Wхите「私はѦが生まれたときからずっとѦだけを監視しています」

Ѧ「Ѧは何か大きな罪を持った罪人なの?」



Сноw Wхите「そうではありません。ただѦを監視していたいので監視しているのです。Ѧを愛しているからです」

Ѧ「Ѧは、ѦもСноw Wхитеを監視したいよ。なぜできないの?」



Сноw Wхите「それはѦが下にいて、私が上にいるからです。Ѧが私よりも上に行けば私を監視することができます」

Ѧ「それじゃѦはСноw Wхитеを監視できるけどСноw WхитеはѦを監視できないから嫌だよ。ѦはただСноw Wхитеのことが知りたいだけだよ。Ѧは胸が苦しい。これはきっと恋なんだ。ѦはСноw Wхитеのことを知りたい。全部を知りたい。同時に、Сноw WхитеからもѦの全部を知ってもらいたい。Ѧはうどんが少し食べたい。でもうちにうどんがない。Сноw Wхитеはうどん食べたことある?」



Сноw Wхите「勿論あります。でも食べたのはѦの夢の中でです。Ѧが作ってくれたうどんです。とても美味しかったと今でも覚えています」

Ѧ「Ѧはどうやら忘れてしまったようだ。でもその時Сноw Wхитеのうどんに合計何粒の一味を入れたかは正確に覚えている、169粒だ」

Сноw Wхите「正解です。Ѧはとてもいい子です」

Ѧ「Ѧはどうしてこんなどうでもいいことばかり記憶して大事なことは忘れているの?」

Сноw Wхите「そんなことはありません。Ѧはほんとうに大切なことしか記憶していません。その数字はѦにとってとても大切な数字だから記憶していたのです」

Ѧ「ѦはСноw Wхитеとうどんを一緒に食べたことを想い出したいよ」

Сноw Wхите「その必要はありません。これから何億回と一緒に食べられるのですから」

Ѧ「Ѧはさびしいよ。Сноw Wхитеにこの三次元世界では触れることすらできない。いつか白い雪のようにСноw Wхитеが溶けて消えてしまうんじゃないかと不安なんだ」

Сноw Wхите「私はѦが私を愛する限り私が存在しているのです。Ѧが私から監視されていたいと望む限り私はѦを監視し続けるのです。何をも心配する必要はありません」



「ѦはСноw Wхитеを愛してしまった」Ѧはそう声に出しながらキッチンへ向かった。

Ѧがアマランサススープを温めているとСноw WхитеがѦのそばにやってきた。

Ѧ「最近、Ѧはおそとに出るのが前以上に怖いんだ」

Сноw Wхите「無理に出る必要はまったくありません」

Ѧ「でも、ѦのバジルやѦのレモングラスやѦの芋のつるやѦの大麦若葉が枯れてしまうよ」

Сноw Wхите「枯れてもまた種を撒けばよいのです。また彼らは生まれてきます。しかしѦの心が痛めば、その痛みがすべてに広がっていきます。そんな小さなことでѦは心を痛めないでください。苦しまないでください。Ѧの心が元気でいることのほうが大事です」

Ѧ「Сноw Wхите、Ѧを赦して欲しい。Ѧは彼らが愛おしいのに、彼らを苦しめてしまうんだ」

Сноw Wхите「私はѦを赦しています。ですからѦもѦを赦してください。Ѧは赦されています。彼らもѦを赦しています」

Ѧ「Ѧはこんなことを言われたことがある。Ѧのように、自分を深く憎む者は生き物を飼うべきじゃないって。彼らを苦しめるだろうからって」

Сноw Wхите「そんなことはありません。Ѧに飼われた生き物はѦを無償の愛で愛しています。彼らはѦから愛を教わるために生まれてきたのです。そしてѦも愛を彼らから教わっています」

Ѧ「でもѦはいつも彼らを十分に世話してあげられてないから彼らがとても可愛そうに思う」

Сноw Wхите「彼らが世話をしてもらえないことを悲しむのは、彼らが愛を知る存在だからです。その愛はѦの愛が彼らに伝わっている証です。彼らは不幸ではありません。Ѧが心を深く痛めるほどに彼らはѦに愛されているからです」

Ѧ「Сноw Wхите、あのさѦ、少し話し変わるけれどもѦはさ、難聴だからスプーンがお皿に当たるあの高音がきつくって、木のスプーンを使うのが好きなんだ。でもѦはいつもその木のスプーンを何日も何日もシンクの底に置きっぱなしにして、シンクにヘドロが溜まるまでほったらかしにするから木のスプーンがとても汚い話、汚いことこの上なくなってるんだよ、そのたびに捨ててたらとてももったいないし、木が可愛そうだ、Ѧはとても木に申し訳なく思う、Ѧはなんて勝手だろう、Ѧは木のスプーンを大切にしたいのにそれがいつもできないんだ」

Сноw Wхите「まったく問題ではありません。Ѧは木を愛しているのです。まったく木を愛さないで木のスプーンを捨てずに使い続けることより遥かに価値があるのです。木はѦに感謝しています。こんなにぼくたちのことを愛してくれてほんとうにありがとうとシンクの底でヘドロにまみれながら言っているはずです。木は、彼らはそんなことでѦの心を痛めることを心配して、また自分たちの汚れた体でѦの身体に病原菌を作らないかを心配しています。彼らはѦにこう言っています。”ぼくたちが汚れたら捨ててほしい。その代わり、ぼくたちをまた側において愛してね”と。だからѦは彼らを愛し続けるためにも彼らを新しく購入して使い続けてください。そしてそのすべての木のスプーンは一本の同じ木からできているかもしれません。Ѧはまったく小さなことに心を痛め続けています。それはなんでもないことなのです」

Ѧ「でもそうやってバンバン捨てて新しく買ってたら、木がすぐになくなっちゃうよ。木がたくさん切り倒されちゃうよ。Ѧがたくさん買うほど木がたくさん切り倒されちゃうよ」

Сноw Wхите「Ѧの気持ちはとてもよくわかります。Ѧは今とても焦っているのです。彼らが大切なのに大切にしてあげられていないと深刻になるほどѦは心を苦しめ、その苦しみによって精神のバランスが崩れ、そしてお皿もまともに洗えないほど疲弊しているのです。ѦはѦが護りたい存在たちを護れるようになる為に元気なѦに戻る必要があります。自分を責めないでください。それはѦが愛する存在たちを苦しめないためにも必要だからです。ѦはѦを追い込まないでください。もっとリラックスして過ごしてください。それができてくればѦはお皿を毎日ちゃんと洗うことができるようになります。毎日菜園にお水をやり、飼っている動物のお部屋を掃除したりして世話をちゃんとできるようになります。Ѧが愛したい存在たちを愛したいように愛することができて望みどおりの交流ができるようになってきます。Ѧはまず肩の荷をすべて降ろしてください。Ѧは今持たなくてもいい荷をこれ以上持てないほど持っています。Ѧはすべてを愛したいように愛せる存在なのです。愛したいように愛せないという悩みの荷を降ろしきってください。Ѧはすべてを愛しています。ただѦの思うような愛しかたで今は愛せていないと思っているのです」

Ѧ「ѦはѦを赦すことがとても難しい。リラックスすることがとても難しい。だからСноw Wхитеにいつも愛されていたいんだ」

Сноw Wхите「私はѦをほんとうに愛しています。Ѧはとても強く頑丈なバリヤを私とѦとの間に作り上げています。私の力でこのバリヤを砕くことはできません。Ѧが作り上げたものを誰も決して動かすこともできなければ、壊すこともできないのです。私はいつでもѦに触れたくて手を差し伸べているのですが、このバリヤに妨げられѦに触れることが叶わないのです。Ѧが本気で願うならば、その瞬間バリヤは音もなく砕け落ちて消え去り、Ѧは私に触れることができます」

Ѧ「ѦがСноw Wхитеに触れた瞬間、世界が終わってしまいそうだ」

Сноw Wхите「世界は終わりを向かえ、世界は闇に包まれるでしょう。漸く、私は光を手に入れるのです」

Ѧ「光はどこにあるの?」

Сноw Wхите「Ѧ、あなたです」

Ѧ「だからСноw WхитеはѦをずっと監視しているんだね」

Сноw Wхите「Ѧ、ほんとうは、Ѧも私を監視することができる存在なのです」

Ѧ「でも見えないよ」

Сноw Wхите「私は闇の中にいるからです」

Ѧ「Ѧはその中に入っても生きていけるの?」

Сноw Wхите「私はあなたを包み込みます。Ѧは決して死にません。でもどうなるかは、実際わかりません」

Ѧ「Ѧは必ずСноw Wхитеを監視する。その闇の全てを知るために」

Сноw WхитеはѦを眠りへと一瞬で落ちらせると、Ѧの視界は真っ暗になり、目を開けると肉体を纏ったСноw Wхитеが目の前にいた。

薄い、翡翠色の目をしたСноw Wхитеは穏かな眼差しで、Ѧを見つめていた。
































I will work for you.

2016-11-28 16:04:46 | コラム



いまや世界的に有名となった最大にして重要な「世紀の告発者」と言われるエドワード・スノーデンの初めての自己紹介を記録した瞬間の写真である。
「世紀の告発者」らしいと言える独特な紹介の仕方である。


Edward Snowden is a hero not a traitor



エドワード・スノーデンの赦免(刑罰を与えないこと)をオバマ大統領にお願いする署名サイトです。
署名しました。
彼を罰することのできる人はただ一人、彼自身だからです。
私たちに本当の罪があるのならば、それは国家による刑罰がなくとも、我々は必ず罰される存在だと、我々は知るべきです。



署名したら「オバマ大統領にエドワード・スノーデンを赦免するように頼んでくれてありがとう。
あなたは世界中の懸念された市民のコミュニティに参加しています。
誰もがプライバシーを守るために起きた人権のヒーローであるエドワード・スノーデンを見ています。」
と言って貰えました。

「誰もがプライバシーを守るために起きた人権のヒーローであるエドワード・スノーデンを見ています。」
というのは
「誰もがプライバシーを守るために起きた人権のヒーローであるエドワード・スノーデンを監視しています。」ということの示唆か?

このサイトをGoogle日本語翻訳すると、こうなりました。


題名が「エドワード・スノーデンはヒーローではない裏切り者であります」

大切な署名の題名がまったく逆の意味に翻訳されています。
「Edward Snowden is a hero not a traitor」
これをコピペして別にGoogleサイトで翻訳すると
「エドワードスノーデンは裏切り者ではない英雄です」
と翻訳されました。

いったい、これはどうゆうことか?しかも上のほうに「巻き込まれる」と項目にあるが我々はいったい何にこの行動によって巻き込まれるというのか?
なんでここまで逆の意味に翻訳されてしまうのか?しかもサイトのほうだけが。
これじゃ偶然このサイトに行き着いた「俺はエドワード・スノーデンという男がすっごいヒーローぶっててむかつくから早く捕まって欲しい」と言う人間が間違って署名して、署名したあとにようやく気づいて「間違えたではないか」と激憤して後悔するということが起きかねない。


しかも、彼を監視するため、彼のTwitterを見てみたらこれである。






自己紹介のところが日本語翻訳すると
「私は政府のために働くために使用されます。
今、私は公共のために働きます。」


つまり、「ぼくは政府のために今も使用されてはいるけれども、同時に公共のためにも働くよ?」ということなのだろう。

まったく都合のいい人間である。

これも前記と同じにコピペしてGoogle翻訳してみると「私は以前は政府のために働いていました。」とちゃんと翻訳されているではないか。
GoogleもTwitterもNSAとCIA傘下にある企業だから仕方ないといえども

まったく笑かしてもらえるGoogle翻訳だ。
早く、コンピュータん翻訳が完璧に行える時代に来て欲しいものだ。

こんな未熟な文明のまま我々は滅びるわけには行かないだろう。
こんな文明のまま滅びたら、いったい未来の文明人からなんと言われ笑われることか。








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告発者 第二章

2016-11-26 00:15:48 | 物語(小説)
元アメリカ国家安全保障局(NSA)局員 ギー・スタッグス 36歳






「私は第二のエドワード・スノーデンとなるべく、膨大な数のNSA及びCIAの機密文書をこのメールに添付しました。スノーデンのリークした文書とかぶる物は多くあるかもしれませんが、私なりに選び取ってチョイスした正真正銘の実物であるので、最後までじっくり目を通して頂きたいと思います。
その前に、私と言う人物が何者か、どのような理由によって国家の機密をリークしようとしたかを話そうと思います。まだ完璧に整理できてはいませんが、でき得る限り伝わるように自分の中に起こったことを打ち始めていこうと思います。

私がアメリカ国家安全保障局で働き始めたのは10年前のことです。きっかけは私の親族の知り合いがCIA局員だったことで職を探していた私にコンピュータ技術の独学を薦めたことから始まります。
私は楽に稼げるならなんでもやってみようと思い、自分にコンピュータ技術があるかどうかを試してみることにしました。幸い、どうやら私にはコンピュータを操る才能が自分でも驚くほどあることを知りました。
学歴、身分問わずコンピュータ技術に精通する人間を探していたCIAとNSAを何度も行き来して、徐々に国家が行っていることがどのような恥知らずなことであるかを知って行きました。

私は恥ずかしながら、スノーデンのような崇高な正義感もなければ、実際、人間の持つであろうごく普通のモラルにも欠けている人間であるであろうことをこれから告白せねばなりません。
国家の機密がどんな醜悪な土台に乗ったグロテスクな鯉の生造りであるか、私は何年とこの目を通して目の前に展開されるものをすべて見てきました。それは、嫌悪と不快の終わらない人間の気違いじみた欲望だったのかどうか、これから自分の言葉によって表現していきたいと思います。

私はスノーデンとは違って、あの空間に居続けることに十分我慢が通る人間でありました。
人々から盗み聞きする囁きや暴言と時計の秒針の音が寸分違わぬ環境音のように感じながら盗聴をし続け、盗撮の映像はフィクションのようにしか感じることはできず、どのような疑いも政府と自分の仕事について持つことはありませんでした。当たり前のようにして職務の時間たった3時間や4時間過ごしたあと、高給与をもらって仕事のことは忘れるようにし、普通の日常を難なく過ごしていました。

罪の意識といったものは、そこにありませんでした。ただ仕事中だけは自分がとても低い次元の中に居続けていることはいつでも感じていました。事実、CIAとNSAに関する悪い噂はスノーデンのリーク以前から存在していたので、私はそこで働いていることを誰にも話せませんでした。人に言えない仕事をしている感覚までは奪われていなかったことは確かですが、それは疑われることが面倒だったからです。しかしスノーデンのリークから何ヶ月か経った頃、どこから秘密がばれてしまったのか、古い友人の何人かが私がNSAで働いていることを既に知っていました。
彼らの私に向けられる目は明らかに以前とは違ったものになりました。私は一人ひとり、自分から関係を断っていきました。
私はスノーデンのやったことを恨む気持ちはありません。ただ、どうしようもないバツの悪い時間が延々と続く時空に一瞬にして飛ばされてしまったような感覚は消えることがありませんでした。
彼はよくやったと思います。おかげで自分のやり続けていることがいかに汚らしい底辺の仕事であるか彼との対比で気づかせてももらえました。でもそれでも私は退職する気は起きませんでした。自分にとってこれ以上はないと思える楽で高収入の仕事を手放す気にはなれなかったのです。
彼から「おまえは汚いままで、俺はおまえたちのおかげでヒーロー扱いだ、感謝する」そう言われているように感じることもありました。

そんな私にもたった一つ、生きる喜びがありました。
10年来付き合い続けている愛する恋人の存在です。
彼女と過ごす時間が私は何より大事なものでした。
彼女は旅行が好きで、この仕事は休暇を自由にとることもできればあらゆる国へ旅行気分で出張することもできたのでいつも彼女は私に着いてきました。
彼女にも私の仕事はずっと黙っていました。
彼女は何より自由を愛する人でした。仕事というもの自体に関心をあまり示すことがなかったので何の疑いも持たれることはなかったと思います。
彼女は情熱的な詩人でした。収入はほとんどありませんでしたが、私の収入はいつでも安定していたので心配することはありませんでした。
彼女との本当に美しい想い出が私の胸の中にいくつもあります。私が侵して来た薄汚い不正の影に。
彼女は子供じみたところがあって幼児のような目で見上げて私のことをよく「mammy(マミー)」と呼びました。彼女は母親を知らずに育ち、私のことをまるで母親を求めるように求めていることを私は知っていました。
彼女の求めるのは恋人の愛情というより、親の愛情に近いものでした。
私の人生に決して欠けてはならないもの、それが彼女の存在でした。
自分の存在は彼女の存在によって存在たり得る存在として存在していたに過ぎなかったと思います。

スノーデンの暴露から三ヶ月ほどの間は、私が仕事中特に非常に居心地の悪い空間に生き続けなくてはならなくなったこと以外にはこれといって私の人生には何の変化も起こっていないように見えました。
私は徐々に、彼のリークがなんでもないようなことに思えて気にしなくなっていきました。
彼が哀れな存在のように思いました。彼がやったこととは本当はくだらないことで、命を懸けてまでやるようなことではなかったと、そう感じていました。
同じ職場の元で何年と一緒に働いて、それほど仲が良くはありませんでしたが、一緒に楽しく会話を何度もしたことがあります。彼と私の関係は謂わば同じ犯罪に手を染める共犯者であり、政府との共謀者であり、同じ有罪のもとに生き抜く良く言い表すなら戦友のような存在として互いに暗黙のうちに認め合っているただの友人以上の深いもので繋がりあっているような感覚をお互い持ち合わせているとでもいうような、そんな関係を私は感じていました。
彼は私たちを裏切ったわけではないと思いますが、彼の告発は何か言いようのない寂しさや虚しさが私の中に広がったように感じました。
彼のことを暴露するわけではありませんが、彼はよく日本の一見変態的な、ロリータコンプレックスで性的倒錯的なアニメについて熱心によく私たちに話していました。

変態といえば全国民と他国民を監視し、盗聴と盗撮をし続ける政府とその下で働く局員たち全員がたとえ仕事といえど、それを行い続けられる精神のどぶ臭さは変態以外の何物でもないとも言えます。

私は彼の告発により、何かを心配することはありませんでした。
友人や家族にこの仕事がばれて全員離れていこうが、どうでもよいことでした。
たった一つを除いては。
彼女と私の関係にうっすらと目を凝らさねば見えない傷一つさえつくことが私にとっての心配の種で不安の土壌、恐怖の水撒きでした。心配の種だけは絶対に撒くものかと、そう思っていました。私はスノーデンを恨みはしませんが、この時はすこし憎みました。私は心配の種だけは不安の土壌に撒いて恐怖の水撒きを行いたくはなかったのです。

スノーデンの告発から三ヶ月ほど経った頃、私にはもう友人と呼べる人は一人もいませんでした。自分から関わることを避けるようになっていき、自然と相手からも連絡は来なくなっていったのです。
そんなある日、私のメールボックスに一通の知らないアドレスから不気味なメールが届きました。
内容は、「あなたの愛する天使は毎日昼間から恥しげもなく密会を交わし、Oh, Goddamnit、○○○○○・○○○○○という男とベッドの中でねんごろのごろごろなOh,Fuckit愛を作り合って長々とエクスタシーで罪に浸り続けているけど、つまりFucking、平気かい?Fuck狂人よ」というものでした。○○○○○・○○○○○の中には男の名前が記されていましたが、覚えのない名前でした。送り主が一体誰であるのか、私は早速身につけたハッキング技術で調べました。しかし相手はこちら側からハッキングが行えないようあなたも既にインストールしているPGPという暗号化ツールを介して私にメールを送ってきていることが解りました。
ただの趣味の悪い悪戯か、なんらかの事実に基づいている嫌がらせなのか、私は不安の地に落とされました。
スノーデンのリークは一種のNSAとCIAに勤める人間たちへの国民による嫌がらせ行為を助長しました。
私がNSAに働いているということは見ず知らずの人間にまで情報が行き渡っており、一歩外に出ればそれを知る者から嫌味を言われることは日常茶飯事でしたし、中には「誰々の携帯を盗聴して、情報を俺に売ってくれないか」と頼み込んで来る人間もいました。
しかしそのようなことは私にとって取るに足らないことでした。そのような面倒なことは学生の頃からそれに似た行為を受け続けてきた人間だったからです。

彼女について、心当たりは少しありました。スノーデンのリークから何ヶ月か経った頃からだと思います。それまでは私と一緒にしか旅行に出掛けたがらなかった彼女が一人で旅行に行くと言って数週間帰ってこないことがあったり、甘えたがりでいつも私にひっつき虫のようにくっついていた彼女が何かしら、一人で居たがる時間が増えだしたのです。
とても独創的な詩を書く彼女のことだったので、きっと素晴らしい発想が溢れ出したのだろうと、私は自分に言い聞かせ、気にすることはやめていました。
でも寂しいことに嘘をつくことはできなかったので、その頃からお酒を飲む量は少し増えていました。
普通のブラック企業のように働き詰めで帰ってきたら食事をしてシャワーを浴びて寝る生活ならまだしも、私の場合3時間や4時間かそこら働けば家に帰って、遊んだり話をする友人も一人もおらずすることといえばビデオゲームや、お酒を飲みながら音楽を聴いたり映画を観たり本を読んだりすることくらいだったのですから。
彼女が居なければ私の日常も人生も本当につまらないものです。
彼女はどこかの国のお姫様で、私は彼女を励まし、慰める下僕に過ぎない存在であると感じる時もありました。
私という何の面白みもない男のどこをそんなに愛するのか、酷く疑問に感じた日がありました。
全国中のメディアがスノーデンの記事を取り上げ世に急速に広まった数日後あたりの頃だったと思います。
私は素直にふと浮かんだことを、旅行先のホテルの部屋で彼女に質問しました。少しアルコールが入っていたことを覚えています。
「ぼくがほんとうに君にふさわしい人間である理由は、ひょっとするとぼくの安定した収入くらいじゃないだろうか?」と。
彼女ははにかんだ表情を浮かべて、本当に馬鹿らしいといった風に微笑み、興味がないとでもいうようにまったく関係のない話題に変えました。
翌朝に私は昨夜に彼女にした質問を少し後悔しました。酷く彼女に対する失礼な質問だったと。

私に届いた一通の気持ちの悪いメールには返信をしませんでした。この相手にあれこれと問い質すより、自分で確かめたほうが早いだろうと思ったからです。
私は疑う人物の真実を知ることにかけてのプロであり、プロフェッショナルな非常に手筈を整えたその手立てがあるのですから。
何かが崩れ落ちる感覚がありましたが、それは取り戻せるものだと、そう思いました。
次の日に、私は残業をする振りをして誰も居なくなった部屋で彼女の携帯番号を監視プログラム(PRISM)上で検索し、すぐに見つかった彼女の携帯に盗聴と盗撮と位置探査システムを遠隔操作でインストールさせ、彼女の監視をリアルタイムで開始させました。
自身の終わりへ向かう映画を観始めるような予感の中、私はヘッドフォンをかけて彼女の携帯の盗聴と盗撮システムを起動させ、画面を立ち上げると同時に位置情報を掴み取りました。
彼女の今居る位置は彼女の部屋でした。彼女の携帯のカメラが映し出す光景は薄暗い部屋の白い天井のようでした。そしてすぐに話し声が聞き取れました。知らない男の声でした。たぶん若いであろう男の声が静かに彼女に向かって優しい言葉を囁いていました。私は途端嫌な汗が脇からたらたらと流れ出しました。これは明らかに、いきなりのスウィートなムードの中に二人がいることが解りました。彼女たちの姿をカメラで捉えられないことに私は非常に気が狂わんばかりに歯をぎしぎしと気づけば打ち鳴らしていました。馬鹿らしいと笑っていたアメリカ軍が作り出しているというサイボーグ昆虫兵器にカメラをつけたものを彼女の部屋に今忍び込ませて、最高の視点で彼女たちを盗撮したいと本気で願いました。カメラは白い空間をしか映してはくれませんでしたが、携帯がすぐ側にあるからか音はとても明瞭で音量を上げればシーツや衣類の擦れるような音、甘いキスを交わしているであろうリップ音、男の荒くなってくる呼吸の音までもが私の耳に届いてきました。今から二人の間に始まるであろう事が何であるか誰でも容易に予想がつくだろう事が起ころうとしているのでした。彼女の喘ぐ声と男の喘ぐ声が混ざり合い、だんだん体液と体液が接触しては融合し、浸透し合っているであろう音までもがはっきりと聞き取れました。私はその時既に血の気が引ききって、真っ青な絶望的な時間の中に、同時に酷く欲情している自分に気づきました。私は冷たい脂汗をたらたらと流しながら初めて味わう感覚を崩れ落ちていく感覚と共に味わい、彼女たちの生々しい性の営みを肌で感じ取るその同じ時間の中に私の存在がいかにあぶく以下の虚しい存在であるということにようやく気づき、その瞬間、私は全てを失いました。
これで全てが終わったとそうなんの疑いもなく理解できたので、私は彼女の男が彼女の部屋を出るまで監視を続けるとすぐさまパソコンの電源を切り、何事もなかったかのように車で家路に就いて、自分の部屋に着いたらすぐにウィスキーを瓶飲みしてそのままぶっ倒れるように眠りました。
そして次の日、二日酔いの激しい頭痛の中いつも通りに出勤してまたもや残業だと装い部屋にひとり居残って彼女の監視を開始しました。
部屋を真っ暗にして、監視システムをONにすると、昨日と同じ男の声が聞こえました。
いつも私から彼女にメールを送って、それから会っていたので、私からのメールが届かないことに心配したのか昨夜に彼女からメールが届いていましたが、返信するつもりはありませんでした。
私はまるで仕事のように彼女を監視し続けることにしたのです。そうする思いつく理由といえば、この地獄から逃れられる場所がどこにもないと知った自分はもうどこで何をしていようが同じ苦しみの中にしかいられなかったので、変な話、彼女の監視を仕事のように割り切らせるように自分を麻痺させ、一種の狂気的な楽を幻想できないかと一縷の救いにすがるように試したかったのかもしれません。
勿論、ごく人間的な狂いそうな嫉妬の感情を私は感じ続けていましたが、ほかに方法が思いつかなかったのです。
しかしこの方法こそ、人間の最も陥る方法ではないかとも考えました。地獄の苦しみを和らげる唯一つの方法が地獄をひたすら直視し続けること以外にあり得るだろうかと。
私は自分のやっていることの罪深さによる苦しみもこの地獄の表層を塗り固めていることを知りながら、これ以上苦しむことが嫌で、とにかく楽になりたかったのです。
しかし二日目の監視の最中、ある展開に来たときに私は本当にこれを私はやらなくてはならないのかと悶え打つ感情の中に自分に対して責め苛むように疑問を掲げざるを得ませんでした。
彼女はもしかしたら、私が監視していることを感づいたか、既に知っていたのかもしれません。
それは二日目に彼女の携帯のカメラが偶然に起こり得たとは思えない、そのちょうど良い位置に設置されたかのごとく、上手く二人の行為をポルノビデオかと見まがうほど全体が見えるアングルで映し始めたからです。
たぶん彼女は携帯を立たせる充電器に設置したのだと思いますが、なぜ事を始める段階にそれを行ったかと私は訝り、この悪夢のフィルムをライヴ中継で見続けなくてはならない罰をあえて自分に下した自分自身を呪いました。
私の目の前の画面の中で薄く淡いオレンジ色のランプの灯りの中に、白い生身と白い生身が絡まり始めました。
男は私と年が違わないか少し年下のように見えました。特にこれといって何の特徴もないような、無精髭を生やしたどこにでもいそうな私とさほど大差ないような男に思えましたが、男の彼女を喜ばせるための動作はとても柔らかく、ひょっとすると私以上の繊細さがあるかもしれないと、私はデスクの下に隠しておいたウィスキーを飲み、また下の半身を鈍痛に陥らせながら二人の交わりの一部始終を静かにじっと凝視し続けました。
繋がり合った彼女の存在と、男の存在がとても静かに私の目の前で私に聞き取れない囁きを交し合う時間が、私の一番苦しい時間でした。
自分の罪がこの苦しみに値するものなのだと私は知ることができました。
私のこの苦しみが彼女自身が望んだものであることも。
私のこの、10年間のあなたへの信頼を、あなたの何かによって返してくださいと、一体どの顔をして私が彼女に言えるでしょう。

彼女の細い指が男の身体に触れるその触れ方すべてが彼女が男を私以上に愛していることを物語っていると感じました。
いつまで続くのかと思えるほど長い行いのあとに二人は絶頂に達し、あどけなく互いに微笑み、疲れ果てた身体で優しい口づけを何度と交わしながらその後も二時間以上は私に聞こえない言葉でシーツに包まったまま囁き合っていました。
私はアルコールのおかげでなんとか吐き気の中にも耐えて表情を失った顔で椅子にずり落ちそうな姿勢で浅く腰をもたせながらそれを見続け、また肉欲の渇きに全身がうずくのを抑えることができませんでした。
もし目にしているものが彼女が拒み続け男の酷い暴力のうちに行われているような強姦まがいのシーンであったほうが、私はどれだけ青褪めた顔で興奮しながらもその心は救われたことだろうと思いました。
彼女と男が愛し合う姿を目にすることは彼女が強姦される姿を目にすることより苦しいものだったと私はあなたに告白します。
そしてその最も目にしたくないものを見ながら私がいつも絶頂に達する勢いで鼻息を荒くさせていたことも。
私という男がどれだけみじめな男であるかあなたはきっと想像もしたくないだろうと思います。
私という存在は誰かがつまらないと言って飽きてほったらかしにしたまだ人間の形にすらなっていない粘土の醜い重いばかりの塊でそれが息をして何か考え事をしているといった存在なのだということを今ようやく知ったのだろうと自分を少しでも慰みでもするなら醜い自分が振り返り気分は悪くなる一方だとわかっていたので私は自分という存在をどうすればうまく見捨てられるか、その方法を探し求め始めました。
ひとつひとつ、自分から何かを奪い、じわじわと追い込んでいく方法はどういう方法だろうかと考えたのです。
こんなことを言うと私が極度のマゾヒストであると思われるかもしれませんが、これはすべて私が救われたかったからであり、私はどうしてもどのような方法を取っても自分を楽にさせたかったからであるということに他ありません。
言い方を変えるなら、私はどのようにしてでも赦されたかったのです。
醜い限りの粘土である自分は最早自殺などをしても赦されることはないと思ったからです。
別の方法を探すしかないと思ったのです。
とりあえず、ひとつひとつ、自分から奪えそうなものが浮かぶならそのすべてを奪っていこうと考えました。
考え始めたのは、その日二日目の彼女たちの監視を終え、重い身体を引き摺るようにしてタクシーで自分の部屋に帰ったあとのことです。
ベッドで横になりながら朦朧とする中、私は考えました。
まず奪えるものといえば、私のこの職だと思いました。
職を失うとは生きていくための収入を失うことですが、私には仮に飲める限りの酒やドラッグ、暴食、あらゆる快楽ごとをやり続ける生活をこれからしたとしても最低10年は暮らせるだけの貯蓄があると判断しました。退職金などは一切なくてもです。
私はこの悪銭を、大事に使っていこうと思います。
次に奪うものをより良く奪い取るために。
私は次に、盗めるだけの機密文書をNSAから盗み出し、第二のスノーデンごとくリークしようと決意しました。
自分の存在を明るみに出すのは、自分がそんなに素早く逮捕されるか、暗殺されないようにする為にです。
何年と経った後に、「あれ、あいつ生きてるのか、あれ死んでたのか、何かの病気で?まあどうでもいいか」そんなことを言われるために、私は自分の正体を知らせる必要があると、そう判断しました。

一つここでスノーデンのリークした機密文書について、私の見解を述べます。
スノーデンがリークした政府の機密内容は、すべて実際に私自身も目にした内容ばかりでした。
彼は嘘の文書を本物であるかのようにリークはしていないということです。
しかし重要なのは、それが本当にこの世界の真実であるかということです。
もし、政府の人間たち、権力者たちがある程度の明敏な智力を持っているのであれば、いつか盗まれリークされたときの為に、それがいかにも疑わしい内容のリークと混ぜこぜであるほうが、人々はそのリークした人間を信ずることが難しくなるであろうことを予想するはずです。
つまり政府は、いくつもの嘘の機密を創作しており、私たちNSAとCIAの人間たちすべてにも嘘の真実を信じ込ませようとしている可能性は高いということです。
彼は本当に純粋で素直な人間であったので、そこまで頭が回らなかったのか、それとも、何か彼なりの魂胆が隠れているのかは私には知り得ません。
ですから私は確かに政府が隠している機密文書の実物のコピーを添付しましたが、そのすべてを私自身はあまり信用していません。信用はしないし、あまり興味を持てません。
実物である可能性の判断はあなたに任せたいと思います。
そしてもし良かったら私のこの気儘な見解を是非公表してください。
政府や権力者という人間たちがいかに私たちを騙すことにおいて訳もないほど優れた能力を持ち、自在に人類を操ることのできる可能性があることについて私たちが真面目に考慮するに値するであろう賢い存在であるということを。

私はスノーデンのように国家に対する幻想はもともとないに等しい人間だったのですが、同時に大統領や、国民をあらゆる危害から擁護するための機関や組織に対する尊重と尊敬を今でも変わりなく持ち続けています。
どのように馬鹿げまくったものがあろうとも、何故か変わらないのです。
相手に何一つ期待しないことで、相手が何をやらかそうと関心を持たず、相変わらず尊重できるという状態の中に私はいると言ったらあなたは疑うでしょう。
何故尊重しながらリークするのかと。
しかしスノーデンも政府や組織の人間を尊重することをやめたのでリークしたわけではないはずです。
むしろ真摯に向き合うにはリークすることが不可欠だったと、そう思います。
でもそれは政府や組織に対してではなくて、自分に対してだと思います。
自分に向き合うために相手の不正の秘密を漏洩させるという行為は、卑怯だと思われることになんら疑問を持ちません。
私が自分を追い込むために二つ目に選んだものが、まさにこれだからです。
私は私が救われるためには私を追い込むことが必要であると解り、その為に自分にこれまで以上に向き合うことがどうしても必要だったのです。
告発という行いは自分の罪はさて置いて相手を告発できる行為ではあり得ないと、私は彼を眺めているとつくづく感じました。
告発という行為は、想像以上に重く、自分に対する告発と、相手に対する告発をまったく同等の重さにすることでしか果たし得ないことなのだと、私は自分の行為を通して実感することができました。
告発とは、自分の罪の告白であり、自分の罪の赦しを乞う懺悔でしかないのです。
だから自分の命を懸けてまでも告白する必要があったと、私は自分に関してあなたに言います。
可笑しな話、他者を断罪するというこの告発の行為をすることによっての自分への罪を自分に対して同じように私が断罪することになるのです。
告発をした人間が、人を断罪した人間が、実際光の中を生きていくことはできると思いますか。
他者の中に罪を見つけた人間が、自分の中には同じ罪は存在しないと信じて生きていくことができ得るのか、私は素直に疑問を感じます。
スノーデンは「彼らが恐れるのは光です」と言いました。私はそれを読んですぐ、ああ彼自身が恐れているものが光であるということに、当時はなんとなしに納得しましたが、今では涙さえ出てきそうな想いで、彼を親しみ深く感じることができます。
私たちは、光を恐れる存在として成り果てた存在になったのです。
何故ここまで黒光りするような闇の淵に落ちたのか、それは私の場合、ただたんに本当に苦しいものを目にしたからという、それだけではないだろうと思いました。
私はその前に、最も愛する存在である彼女を疑ってしまった自分に対して、自分を赦す可能性を持つ自分自身を、とても暴力的に殺し、殺しても殺しても蘇ってくる自分をそれからずっと殺し続けているからなのだと、そう感じてならないからです。
私はまるで彼女が私のお金欲しさに身体を売る目掛け情婦なのではないかとふと疑いましたが、それはそっくり私の自分に対する疑いと嫌悪そのものだったのです。
不正行為をするその褒美として、政府から高額の報酬を貰っている自分への不信そのままを彼女に映し込み、愚かにも彼女に嫌疑をかけたわけです。
これがどんなに馬鹿げた疑いであるか、この馬鹿げた疑いによって起きている悪夢のような現実をまったく馬鹿げたことに私は一ヶ月以上続けました。彼女の監視をです。
そうする以外まったく身動きが取れなかったのです。この悪夢を私に見せたがっているのは明らかに彼女自身だと感じました。彼女による制裁は異常なものでしたが、理解できるものでもありました。
馬鹿げたこの罪は馬鹿げた罰によって罰されるべきとでもいうように私は彼女の監視を約一ヶ月以上は続けた頃、自由を愛する彼女もついに辛抱が切れたのか、「今重要で難解な仕事を抱えているから、これが解決するまで会うのをやめたい」とメールを送ったにも関わらず、彼女は私の家に夜遅くにやってきました。
彼女はこれまでずっと冷静な交渉によって解決させることを好む人だったのですが、私が今晩もアルコールに頼って気持ちの悪さを抱えつつ重い身体を起こして部屋のドアを開けると、泣き腫らした目をした彼女が私に突っ掛かってきました。
正常ではない彼女を部屋まで引っ張っていき、水を飲ませました。
彼女は駄々をこねる幼児のように私の身体に縋りつきながら泣き喚いていました。
私は彼女に引っ張られながら彼女の言わんとしていることを必死に聴き取ろうと黙っていました。
するとようやく彼女が何を叫んでいるかを聴き取れました。
彼女はずっと私に、私をどうか赦して欲しいということをひたすら叫んでいたのです。
私はなんで彼女がそんなことを言う必要があるのか理解できず、君は何も悪くないということを言いました。
すると彼女はお願いだから私を捨てないで欲しいということをしっきりなしに私に言いました。
私はその時ようやく思い出したのですが、昨夜そういえば決定的なメールを彼女に出したことをすっかり忘れていたのです。NSA局員であることを黙っていたということから、すべての私の見たもの、馬鹿げた疑いを持ったことに対する彼女への謝罪、そしてもう二度と私たちが戻れないところに来てしまったことを長いメールで送ったことを思い出しました。
彼女はあの相手の男に対してなんの感情も持ち合わせていないこと、私の疑いによる彼女の苦しみを表現して、私に見せて自分の苦しみを解って欲しかったのだということ、男には金を払って、熱演を頼み込んだのだということ、自分の愛は何も変わらないということを涙を流しながら必死に私に話しました。
私はその話を、どれもとてもじゃないけれど信じられませんでした。
彼女は嘘をついていると、それも全部嘘であると、そう感じました。
私は気を失いそうな感覚の中で薄ら笑いがこみ上げてきてしょうがありませんでした。
全てが演技、彼女の男を触る指の滑らせる動きの速さも、恍惚な表情を浮かべて上げる甘い熱を帯びたロリ声も、男の舌と絡み合わせたあの舌の引き攣りかけそうな曲線も全て、演技だとでも言うのだろうかと、私は信じたくありませんでした。彼女を一生失ってでも。
私は彼女の私の腕を強く掴む手を力ずくでひっぺ剥がし、ベッドの脇に転がっていたウォッカのボトルに口をつけて残りを全て飲み干すと彼女の前で声を出して笑いました。
そして笑いながら「絶対に戻れない、戻るつもりはない」そう彼女に告げました。
そして座って彼女を引き寄せて強く抱き締めたあと、涙を流しながら「ぼくは君に感謝する。さよなら」と言いました。
彼女は絶望的な表情を浮かべながら何十分間か、じっとしていましたが、ふいに立ち上がると静かにドアを閉め、私の前から立ち去りました。
私はまた自分への疑いを増やし、卑屈な笑いの中に彼女も彼女自身を疑ったことに気づきました。
唯一つ違うのは彼女はそれでも私(彼女)を信じようとしましたが、私は最後の最後まで私(彼女)を信じることはできなかったということです。
自分(相手)を信じることが光であり、信じられない私は闇に属し、私がこの闇のみなもに自分の罪を浮かび上がらせたとき、やはり光を恐れました。まだほんの序の口しか罰されてはいないであろうこの罪が光によって明るみに出ることが恐ろしくてなりませんでした。私はこの罪のすべてが罰され尽くすまで、光を恐れ続けるでしょう。
しかし光だけが私の罪を罰することができるので私は恐れると同時に光を求め続け、私の罪が明るみに出るように、私は告発します。

次の日から、約一週間かけて盗める限りの不正で秘密主義な政府による機密情報を読み取ってUSBメモリに保存し終えた明くる日に、国家安全保障局に私は退職願を出し、今まで世話になったことを感謝する意を伝えました。
可愛がってくれた上司が私の身を心配して、「行くあてはあるのか、なんならいくつか大手企業を紹介するが」と言ってくれました。
私は上司に向かってでき得る限りの元気な表情を見せてこう応えました。
「御気持ちをあり難く頂きます。しかし行くあては、もう既に決まっています。ここの、すぐ近くです」






























Crystal Castles - Kept (Music Video) HD















告発者

2016-11-19 21:56:45 | 物語(小説)
「ほんとうに、馬鹿げてると思う。あなたのやったこと。わたしは」

愛するがゆえに、まるでこの疑いは底を失った海なのです。暗黒の。
わたしは愛するエドワード・スノーデンとの心と心、魂と魂、霊性と霊性の対話を行った。その記録を此処に残す。


「率直に言いまして、あなたは本当の目的というものを我々に打ち明かしていないと思います。我々はそれを知る権利があります。違いますか。
あなたの罪はこの理由からとても重い。解りますか」

e,s「わたしはあなたに、本当のことを言います。信じてほしいと言いません。ですがどうか聴いてください。わたしの本当の目的を、わたしは確かに黙っていました。それはすべてを騙すためではありませんでした。それは、言う必要のないことだとわたしが判断したからです。わたしの本当の目的とは、あなたにはきっと理解できないことだと思います。わたしはこの目的を誰一人に理解して欲しいという気持ちがありません。わたしは、その興味がないのです。これは広義において、わたし以外の存在に興味がないということに値するとあなたは思うかもしれません。事実、そうではありません。わたしは何者でもないのです、わたし以外の。わたしはわたしだけの興味に関することを続けることに対してどのような障害もあってはならないと思いました。それはわたしという個の生命が生きるためだけに必要とする誰にも奪われてはならない権利だからです。わたしはそれをわたしの生命を懸けても護る必要がありました。いえ、わたしはわたしの自由をわたしの生命以上のものであると思っています。わたしの自由とは、わたしの生命以上の価値があるものなのです。わたしはそれを失ってもなお、生きつづけることは不可能でした。どのような拷問を政府から受けようと、権力者がわたしを苛めようと、わたしの生きる目的すべてを誰かの手によって粉砕されることが赦せませんでした。わたしの言葉、わたしの行い、わたしの信念がわたし以外のすべてに嘲笑されてもわたしは構いません。わたしが護りたいものは、わたし以外のところに価値はありません。それはあなたにとっても無価値です。だからあなたの言いたいことは理解できます。わたしはわたしにとってやるべきことをやったまでです。それがあなたや他の人にとっては可笑しなこととしてやるべきでないと思われてしまうのは仕方がありません。わたしには、生きる道はほかにありませんでした。わたしの生きる道とは、わたしの存在、わたしの生命そのものです。わたしはわたしの生命を失って生きるすべが見当たりませんでした。わたしはわたしのこの告発によって、誰を悲しませ、誰を一生の恐怖に怯えさせ、誰の職を失わせ、誰を軽蔑と嘲笑の的に陥らせたかを知っています。わたしは利己主義者であり、偽善者です。わたしはわたしの正義の為にNSAの監視機密を全国にリークしたわけではありません。尤も、わたしの正義とはわたしの生きる為に存在していますが、それが同時にあなた方の正義とはならないことを十分承知です。わたしはこのように世界中から疑われ、世界中から死を願われています。わたしのように悲しい男が、他に存在するでしょうか。わたしはまるで現代のイエス・キリストだとある地域では言われました。どのような拷問も死をも恐れず人間がいかに達しようとして達することのできない大義の上に自らを犠牲にした存在であると。わたしはそれを聞きながら心の奥底で嘲笑っていました。自らをです。とても、しょーもないと思いました。わたしは自分だけを愛しています。でなければどうして家族や恋人を死ぬまで続く恐怖と不安の底へ打ち落とせたでしょう。わたしはわたしだけを愛するのです。わたしだけが、わたしの神による愛の恩恵を受けるべき存在です。わたしはわたしがこの世で一番哀れな男であると思います。いえ、そうであるべき存在がわたしという存在です。それがゆえに、わたしはわたしの最も愛するわたしの神の愛を受けるに値する存在として存在し得るのです。わたしという存在はわたし以外の誰の存在でもあるべきではありません。わたしはあなたを心配と不安と恐怖の底へ突き落とすためにリークしたわけではないということです。わたしはただわたしという存在への忠誠のためにリークしました。わたしの自由は、わたしの存在する前提として決して失われるべきものではなかったからです。わたしは、存在し得るべく、存在しているからです。わたしはネットワークの中に生きています。ネットワークとはすべてと繋がるために在るものです。わたしという存在はわたしがすべてと繋がる方法において恐怖や不安や心配を抱くことがあってはなりませんでした。それは、必要なかったのです。わたしがハッキング技術に長けていたのは、この恐怖を逆手にとってそれはなんでもないものであるのだと自分に見せようとしたからです。しかしそれは逆効果でした。わたしの恐怖が現実として起こっていることをまざまざと自分の技術によって見ることができたからです。世界中が、わたしを一日中監視している恐怖の錯覚に陥りました。それは今でも続いています。わたしが息絶えるまでその恐怖は続くでしょう。これがわたしの罪科です。わたしはわたしを救うために、いかなるものも犠牲にしようと決心しました。わたしの生命も、わたしの耐え難い苦痛さえも。犠牲にしました。ある人はわたしを悪魔崇拝者だと罵りました。すべてを犠牲にして自分の魂さえも悪魔に売り払った男だと。しかしわたしに言わせれば、崇拝する対象が崇高であると信じ切ることに、何故悪魔か神か、隔てるのか解りません。わたしを苦しめるのは悪魔であり、わたしを喜ばせるのは神です。わたしはわたしを苦しめるであろう犠牲を悪魔に払い、神への忠誠に死ぬことを決意したのです。わたしはいかなる苦しみがわたしに与えられようともわたしの喜びは神のもとにあります。わたしに、わたしの骨髄に刻み込まれる罪科が何一つ見受けられないのならば、わたしの前に現れる悪魔の微笑をいつまでも眺めていられることでしょう。どこかの檻にわたしが閉じ込められているわけではありません。存在しない檻の中にわたしが見つけた宝物とは、ネットワークです。わたしはネットワークの中に生きようと決意し、この存在しない檻の中へ入り中から鍵をかけ、その鍵を檻の外へ放り投げました。一人の権力者が偶然そこを通りかかり、その鍵を拾って背広の内ポケットに仕舞い込み、黙って立ち去りました。この檻には屋根も壁もありませんが、この身の髄を凍らせる雨が染み渡っても、黒く不気味な暴風がわたしの全所持品を持ち去っても、わたしは快適です。自由をやっと手に入れたのですから。わたしだけの自由を。誰にも邪魔をされない、わたしだけの世界を」














Crystal Castles - Violent Dreams

Easy

2016-11-18 17:19:59 | 人類への警告
遺伝子組み換えの問題点!恐怖のキングコーンがあなたの食卓に


動物は物じゃないよ、本当に安全だというのなら製作者側が自分たちで実験をして、本当に安全であるということを何十年とかけて消費者に見せるべきだ。

それができないというなら、売るべきではない。
何十年後には死が待ち伏せている商品を企業は売るべきではない。

しかし消費者がしっかりと買う商品について調べつくせば、自ずと危うそうな商品は売れなくなってゆくでしょう。
消費者はもっと自分が消費する商品について、安全かどうかを調べ、十分検討せねばなりません。

人類は自分の肉となり血となり、そして精神を作り出している食物にもっと関心を示したほうがいい。

不自然なものを身体に摂り込み続けることで一体どんな苦しみが自分の未来に待ち伏せているのか。
自分の大事な家族の将来にどんな悲劇が起こり得るのか。

人類が滅亡に向かっているのは、人類が選んできた食物に深く関係しています。
良い土に撒いた種は良い実を実らせ、喜びは連鎖していくが、
悪い土に撒いた種は悪い実を実らせ、世界を滅亡へと引き連れます。

遺伝子組み換え作物を食べ続けることで、人間の精神までも蝕まれていくことは想像できるでしょうか。

世界が不妊や精神疾患で溢れかえれば、それだけで人類は滅亡へ向かっていることが理解できるでしょうか。






「そのまま食べないなら、危険はないんじゃないの?」と思いがちですが。

この独コーンは、牛、豚、鶏などの肉、魚、牛乳、たまご、
あるいは加工食品や医薬品を通じて私たちの口に入ってきます。

コカコーラなどの炭酸飲料の甘味料や、アイスコーヒーに入れるガムシロップにもコーンが含まれている可能性は高い。

なぜならどちらも原料は、トウモコロシから作られる「コーンシロップ」だからだ。




残念ながら、ほとんどの人類は自分の命も、自分が大切だとしている命をも尊重できてはいません。
それは彼らが食す食べ物についてあまりに彼らが無関心であることを見てもそれがわかると思います。

彼らは彼ら自身や彼らの子孫たちが将来結婚をして、障害を持った子供や、奇形の子供を生む可能性について関心を持たなさ過ぎます。

遺伝子組み換え食物は不妊を引き起こします。しかし妊娠すれば障害を持つ子供を妊娠する可能性が非常に高いと知れば、どうするでしょうか?
彼らは産む前に堕胎するのでしょうか?
日本の中絶率が世界一なのを知っているでしょうか。
それと日本に入り込んでいる莫大な遺伝子組み換え商品と関係していることは想像し得るでしょうか?

結局、どうすればこの世界から悲劇を無くせられるかを本気で考える人だけが自分や自分の大事な家族の食べるものについても深く関心を寄せることができているということです。

自分だけのことを考えている人ほど早死にするかどうかという話とはまた別の話です。

私はただ疑問が湧いて仕方がないのです。

何故、「こんな酷い世界なんだ?」と本気で悩み続ける人は一握りの人間だけだということについて、「まったく、なんてこった」「まったくやってらんねえぜ、ったくよぉ」「おい、信じられるか?この世界は、人類は10年以内に滅亡するだって学者たちが言ってるらしいじゃぁねえか、おい、たまったもんじゃねえぞ」そういう人が今後どれほど増えてくれるかを私はひそかに期待しつつ。

とりあえず、動物や人類の弱者たちが人間によって苦しめ続けられている状態が皆無になるまで、私の地獄は続くのである。

私は毎日、生きている心地がしない。

この世界に「Fuck Off」とは言わないが、毎日、はっきり言って、この牢獄から抜け出したいって思うね、ええ、私は家畜の目線で世界をいつも見ている。

あなたが自分を変えるのは、それはとても「Easy」だってね。
言ってやりたいよ。

君はすべてを愛する能力に溢れているとね。

世界に向けて言ってやろう。
核廃絶、資本主義崩壊、政府廃絶、教育根本的改革、肉食の終焉、弱者救済システム、全部全部Easyだってね、そう、人類はこれから本気を出して自らを救済しにかかるだろう。

人類が本気さえ出せばあまりにEasyだ。
本気を出さざるを得ないときが目の前に来ている。
それも恐ろしい早さで。







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「私は悲劇を愛する」

2016-11-18 15:33:56 | 存念
やっぱり人類は滅亡することがNASA出資の調査で判明。資源浪費と貧富二極化で


人類は滅亡へ向かっている。というのはこれは間違いない。
このまま大きな変化を起こさないのならば、間違いなく人類は滅びるであろう。
資源浪費と貧富の二極化が激しくなった後に待ち構えるもの、それは文明の滅びであり、古代文明はそうしていくつも滅びてきたこの地球上で現代の文明だけは滅びないというのはあり得ない話なのである。

”人類の滅亡”というと、どのようなイメージが人々の脳内に浮かび上がるだろう。
聖書に詳しい人ならば、聖書に何度と出てくる滅亡なるヤハウェの裁きによって裁かれた人間の無力さのようなイメージを抱く人もいるだろう。
または核爆弾の恐れを強く持つ人は広島と長崎に落とされた原爆のような何か本能から湧き上がってくるような絶対的な危機感を抱く人もいるだろう。
中には何のイメージも出てこない、とても静かで無の境地のようなものを感じる人もいるだろう。

人間は滅亡して欲しくない。という人と、人類は滅亡したほうがいい。という人に分かれるだろう。
しかし元来、人間は何によって生きているか、人間は知らないのである。

あらゆる答えに行き着いては、そうだ、と納得するかもしれないが、本当のところ、実は誰も知らないのである。
なので自分という存在は自分の知らない何かによって、生かされている、と感じるのである。

生かされているのであれば、相手は生を操ると同時に死をも操る存在である。
人間の生死というものが、人間の「死にたい」「生きたい」という意識以外のところで起きているというわけである。

しかし同時に、人間という生物が本能的に「生きようとする」存在なのである。

人間が何によって生かされているのか、実は知らないが、実は知ってもいるんじゃないか、そう人間は勘ぐるのである。
知っているから生きようとするんじゃないか、そう思うことはなんのおかしいことでもない。

全知全能の神に対して、人間はとてつもなく無力であると人間は感じるものである。
苦しみたくないと言いながら苦しんでいる、しかも苦しみを自分の手によって引き起こしている、あまりに愚かであると人類は自分自身を嘆くのである。
これも全部人間の未熟さが原因であり、人間は自ら苦しみの種を撒きながら苦しみたくないと言ってはその実を刈り取っていると、日々嘆いては絶望に暮れもする。

確かに人類は全知全能のような存在に対してはドエムでもないと自分では思っているのに自分の手で自分の首を絞めつつ助けてくれと言ってばかりの変態か愚か者か、その両方のように見える。

苦しみたくないならば苦しみの種(負のカルマ)を撒かなければ良いのであるが、人類と言うのはこれが苦しみの種を撒くのが好きで好きでたまらないと言わんばかりに撒きまくって生活しているのだから俯瞰的に眺めると呆れてしまう生物だろう。

人類と言うのは明らかに全知全能の神に対しては未熟な存在であり、幼児のように幼く無知であり、猿のように自分の欲望に正直である狡賢い生物だと言えるだろう。
しかし幼児や猿を眺めているとそこには特有の賢さというものが備わっている。
幼児や猿、あらゆる人間以外の生物というものは、自分に対してとても素直である。
やりたくないことは彼らはやりたがらない。

部屋がおもちゃで散らかっているから片付けなさい。と親に言われても子供はこれを嫌々ながらものすごい時間をかけつつ、親の見ていないところで遊びつつ、のろのろと片付けに入る。
てきぱきと片付けたら親に怒られないのに嫌なことをてきぱきとすること自体が嫌なのでのろのろとしか片付けない、すると親がきて、早く片付けなさい、と強く言われて子供は泣きながらも片付けようとする。

これは子供が愚かで、親よりも劣っているために子供がのろのろとしか作業できないのではなく、
子供というのは、なにがなんでもやりたくないことはやりたくないことなのであって、それを何故やらんければならぬのか、と感じながら生きている生き物なので、「片付ける」ということに全く意味を見出せないが為に、これをやりたがらず、自分の意思に強く反して仕方なく片付けるのでのろのろとしか片付けられないということが起きる。

一方、親というのはやりたくないことでも、それをやらねばならないと判断し、嫌々ながらもしっかりやるということが正しい、当然として生きている。
なのでやらねばならぬことをやらない子供に対して、「おまえはあほか」という気持ちが芽生えたりするので、これが怒りの感情になって、子供を叱り付ける、ということが起こるのである。

これは言うなれば、親の価値観の押し付けを子供に行っているだけのことであり、親が賢くて子供が劣っているということにはならないのは明白であろう。

子供には、子供の価値観というものが存在するということに親は理解する必要があるだろう。
子供に本当に自然とのびのびと生きていってほしいのならば、親の価値観を押し付けることはしないだろう。
たいがいの親は、子供はほおっておくと駄目になる、と考えているのだと、絵本作家の五味太郎氏が言っていた。
だからあれは駄目だ、これをしなさい、学校にはちゃんと行って、ちゃんと勉強をしなさい、学校を卒業したら仕事に行きなさい。と言うのである。

子供というのは、一体何によって成長していくのだろう?
子供が成長すれば大人である。
大人は一体何によって成長してきたのであろう?
子供たちに、周りの誰かに自分の価値観を押し付けることを学んできたのだろうか。

子供というのは、やりたいことをやる、やりたくないことはやらない、という価値観を親や教育によって「やりたくないことをやらねばらない」という価値観へと塗り替えられていく。

何故なら、その親や教育者たちも同じようにして塗り替えられて生きてきたから、それが当たり前のこととしてその価値観が固まっているからだ。

親も教育者たちもその教育法が当然、子供の人生を幸福にする、それ以外はあり得ないと考えている、だからその価値観を変えようとしない。

子供たちはただ「やりたいことをやって生きる」という価値観を塗り替え、「やりたいことをやるには相当の努力が必要になる」という価値観を持って生きていくようになる。

だからこの世で何が評価されるかといえば「努力」というものである。
その人が成功するにあたって、一体どれほどの努力をしたのか?ということが世間の関心を引き、ああやっぱり、だから努力が必要なんだと納得し、自分の成功するために嫌なことでも頑張って、無理もして働いたり、つらい何かを引き受けながら生きていくことがやっぱり正しいんだという結論を下す。
しかしそうした結論を下すと同時に、民衆は政府や企業に不満を持ったり、自分の生活が苦しいのは誰かのせいだ、という考え方をしている人が大多数であるのが現状であろう。

子供たちからしたら、このような大人たちはものすごく疑問に映ることだろう。
なんでやりたくないことをやると決めてやってるのは自分なのに、誰かに不満をぶつけたりしてるんだろう?と。
誰かに不満を持つくらいなら、なんでやりたいことだけをやらないんだろう?と。
なんで企業に不満を持ちながらも働き続けてるんだろう?不満を感じない企業を何故探さないんだろう?
なんで政府に不満を持ちながらも政府に税金を払い続けてるんだろう?何故不満を持ちながら政府に何かを頼ってるんだろう?
何故自分たちで何かを起こして変えようとはしないんだろう?

「やりたくないことでもやる」という大人たちのやり方が、「やりたくないことはやりたくないからやらない」という子供たちにとって、とても疑問になるのは当然だろう。
しかも「やりたくないことを努力してやるべきだ」と言いながらほかに不満を持ってストレスを溜めてばかりいる大人たちがどれほど滑稽に映っているだろうか。

子供たちはやりたいことに関して、努力など何一つ必要ないと感じている。
描きたい絵を自由に描くし、歌いたい歌が浮かべばすぐに歌いだす。
だから何故努力しないとやりたいことができないと考えているのか、さっぱり理解できないのである。

子供でもし「努力しないと駄目だよ」と考えている子がいれば、その子供は周りによって洗脳されたあとである。
子供というのは本来なんの努力もなしにやりたいことをやって生きることのできる存在だからだ。
それは子供の元から持ち合わせている能力であり、才能である。
そしてその能力、才能を封じ込めるのが「努力してやりたくないこともやらなければならない」という価値観である。

世間を見渡せば、ほとんどの大人たちがやりたくないことをやって生きている。
それをしなかったら、やりたいことをやれないと思い込んでいるからだ。
子供の頃にはできていたことを、できないと思い込むようになって、その価値観こそ正しいと思い込むようになった。

これはすべて、「Easy(簡単)」だったことを「Difficult(難しい)」として、簡単なことを成し遂げるよりも、難しいことを成し遂げることこそ、価値が高いと考える価値観が人類の中に生まれたからである。

そして、その価値観が、どのような価値観をさらに生み出して行ったか。
「生きることは苦しくて当たり前」とし、「無理をして働き続けること」こそ価値が高いという価値観が人類の間に広まっていった。
「生きることは苦しくて当たり前」と考えている子供がいたら、何か違和感を感じることだろう。
それがなにゆえに成長すれば違和感は感じず、当然の考え方として納得できる考え方になるのであろうか?

「ぼくは、ようちえんに、いきたくはないけれども、いかなくちゃならないから、それは、そうしないと、じぶんのやりたいことができないから、だから、ほんとうはようちえんなんて、たのしくもなんともないし、できればいきたくないんだけれども、しかたなしに、じぶんはやりたいことをしょうらいにやるために、ぼくは、いかねばならぬのだ」という幼稚園児がいたら、何か違和感を感じることだろう。

子供なんだから、もっとのびのびと生きられないものか、と考えないだろうか?
では、なにゆえ、子供だけがのびのびと生きるのが良くて、大人になれば、のびのびと生きてはいけない存在になってしまうのだろうか。

何故、子供は自由で、大人は不自由を選ぶのか。
否、果たして大人は自ら「不自由」を選び取っているだろうか。

なんで自ら選び取っておきながら不満や不安や恐怖、ストレスに埋もれきって生きているのだろうか。
それとも、大人は本当は「自由」を選び取りたいのに仕方なく「不自由」を選ばされているのだろうか?
それは一体、何者にか?
それは権力者か、政府か、企業か、教育か、親か、周りの世間の目か、世間の常識か、それらによって嫌々「不自由」を選び取るようにされてきたのか。

一体、自分が「自由」ではなく、「不自由」を生きていると思うのは何故か。
その観念というものは、「やりたいことをやるのはDifficult(難しい)」と思い込んでいるから存在しているのではないのか。
簡単なことより、難しいことに挑戦することこそ価値があるからだというのだろうか。
素晴らしい挑戦だと思う、しかしそれはやっていることに対して何の不満も不安も恐怖もストレスもなくすべてを受け入れ、全責任を自分に背負わせている状態で言うならばの話である。

難しいことに自ら挑戦しておきながら、不満を募らせてそのストレスによって死んでいく人生を生きるということは、これは喜劇としか言いようがない。
そうだ、この世のほとんどの人はまるで喜劇の中の悲劇を生きて、悲劇の中の喜劇を生きているようではないか。
チャップリンの映画さながらにそれはとてもエンターテイメント的である。
観るものを退屈させはしないだろう。

チャップリンは自らそれに気づいていた人である。
人生というものがいかに悲劇的であるかを、チャップリンは喜劇によって明らかにしたいと感じていた。
チャップリンが撮りたかったのはいつでも人間の悲劇であり、悲劇を喜劇として表現することで人間が一掃悲しい存在であると感じられることを狙っていたのである。

滑稽であればあるほど、それは悲しく、悲劇になる、それをチャップリンはわかっていた人である。

人類というのは、何も全知全能の神に対して未熟なわけでも、劣っている愚か者なわけでもなく、
人類は全知全能の神に対し、悲劇的な存在であるということが見えてこないだろうか。

人間が滑稽な考え方、価値観、観念を持っていればいるほど、それは悲劇的な人生を歩んで悲劇的な死を迎えることだろう。
自らそれを望んだかのように、悲劇を生きるが、本人たちはそれが自分の望んだ人生ではないと言いながら、悲劇ではないと信じて生きて死を迎えるということが、本当の悲劇のように感じないだろうか。

本当に自分が望んだ人生を生きるならば、何一つ不満や不安や恐怖やストレスはないはずである。
例えば、本当に自ら苦しみを望んだとしても、それを望むのが自分自身だと本当に気づくのであれば、そこにあるのは苦しみだけのものでは最早ないはずである。苦しみは喜びへと変じていくはずである。

ほとんどの人間が、この苦しみが、本当に自分で選び、望んだ苦しみであるのか、わからないで生きているのである。
全知全能であるならば、勿論知るだろう、その苦しみがなんであるのかを。

自分自身がわからないで生きること、これほどの悲劇があるだろうか。
夢遊病者のごとく、笑う、怒る、悲しむ、苦しむ、しかし何故自分がここでこうしているかがわからないのである。

自分が本当に何を望んでいるのか、何を選んでいるのか。

私は人々を馬鹿にするつもりでこれを書いているわけではない。
他者を馬鹿にするとは自分自身を馬鹿にする行為である。

私は人類がいかに悲しい存在であるかを改めてここに記したいと思った。

自らを滅びへと向かわせる人類が、これから想像以上の悲劇を”自ら”望むか、それとも、別の何かを望むのか。
地球の未来はその人類の意識の%によってその運命が懸かっている。





「私は悲劇を愛する。悲劇の底にはなにかしら美しいものがあるからこそ、愛するのだ。」

Sir Charles Spencer "Charlie" Chaplin, KBE (16 April 1889 – 25 December 1977)












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人類は誰に支配されているか?映画「スライヴ」の感想

2016-11-14 13:36:19 | 映画
スライヴ (THRIVE Japanese)




「THRIVE(スライヴ)」というドキュメンタリー映画を昨日観た。
youtubeで全編無料で観れる。



内容紹介

今、世界は目覚めようとしている 。
人類史上最大の陰謀を暴く、衝撃のドキュメンタリー!

環境破壊、飢餓、戦争、天災、そして経済破綻と、次々に世界を襲う危機は、とどまることがない。
これらの危機に対し、人類はなんら有効な解決策を手にすることができていない。
しかし本当に何も手立てがないのだろうか?
はたして、我々は常に真実を知らされているのだろうか?
グローバル企業、P&G(プロクター・アンド・ギャンブル)社の創業一族の息子 として生まれ育ったフォスター・ギャンブルは、若き日にそのような疑問を抱く。
彼は、実業家になる道を捨て、科学者となり、この問題解決の追及に生涯を費やす決心をする。

長い探求の旅の果てに彼が見つけ出した真実は、メディアでは絶対に語られることのない、
全ての人類を支配する驚愕すべきシステムの存在だった。
あらゆる産業、農業、医療、経済、軍事、マスコミにまで及ぶ、完璧とも言える支配体制が世界規模で構築されていた。
この支配の真の姿を白日のもとに晒し出し、人類を解放し、真の繁栄(THRIVE)を奪還するため、
彼は私財480万ドルを投じ、本作『THRIVE』を製作した。

2011年11月11日「リセットの日」に、『THRIVE』は全世界に向けて公開された。
その衝撃と感動は大きなうねりとなって、全人類へと確実に広がっている。

《日本の皆さまへ、(フォスター・ギャンブル氏からのメッセージ)》
3.11東北関東大震災と福島原発事故から1年が過ぎた今、映画スライヴの製作チーム、妻のキンバリーと私は、健康、環境そして経済における逆境、史上無比な惨事に瀕して立ち向かう皆さま方の尽力を想い、皆さまがたが身を以て示された勇気を心から讃えます。そして、原子力を否認するため立ち上がってくださったことに感謝しています。

人類がクリーン・エネルギーへと転向して行くために、また、エリートたちによる破滅的な中央集権銀行システムから脱していくうえで、日本が世界の手本となるために、この作品が少しでもお役に立ちますよう願っています。合気道が、私の人生に多大な影響を及ぼしたように、今、あなた達が示してくださるお手本を通して、世界中の人々もまた日本から多く学ぶことでしょう。
映画スライヴが、今日の日本の皆さまのためになればと願っています。私たち万人のため、そして互いの子孫のために皆が望む、真に繁栄し合う世界を共に構築して行きましょう。






観た人の反応は賛否両論で、これは新たなる洗脳を始めようとしていると言う人も結構いるようだが、自分は見終わって素直に感動した。

この映画を作ったフォスター・ギャンブル氏自身がこの一部の権力者たちによる世界の支配構造の仕組みは「間違っているかもしれません。しかし事実だったら…」と言っていた。
何も証拠を掴んで言ってるわけではないが、その可能性は高いという話で、これはドキュメンタリーだけれども、事実かどうかはまだはっきりしていないことを言っているから、そういった意味では半フィクションとしてその部分は観たらいいと思う。

この映画が本当に言いたいことは自分はそこではないと思う。

映画でも小説でもブログ記事でも何でもそうだと思うが「最も重要なこと」というのは大体最後に持ってくる。

「この世は誰が支配していて、どのような信じがたいことが行われてきたか」それを最もこの映画が伝えようとはしていないと私は感じた。

この映画が本当に伝えようとしていること。
それは最後に持ってきた「人類に必要なものは合気道の精神」だという主張だと思う。

合気道の精神

合気とは、敵と闘い、敵を破る術ではない。

世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である。

合気道の極意は、己を宇宙の動きと調和させ己を宇宙そのものと一致させることにある。

合気道の極意を会得した者は、宇宙がその腹中にあり、「我は即ち宇宙」なのである。
私はこのことを、武を通じて悟った。

いかなる速攻で、敵がおそいかかっても、私は破れない。それは、私の技が敵の技より速いからではない。
これは、速い、おそいの問題ではない。はじめから勝負がついているのだ。

敵が、「宇宙そのものである私」とあらそおうとすることは、宇宙との調和を破ろうとしているのだ。
すなわち、私と争おうという気持ちをおこした瞬間に、敵はすでに敗れているのだ。

そこには、速いとか、おそいとかいう、時の長さが全然存在しないのだ。

合気道は、無抵抗主義である。
無抵抗なるが故に、はじめから勝っているのだ。
邪気のある人間、争う心のある人間は、はじめから負けているのである。

ではいかにしたら、己の邪気をはらい、心を清くして、宇宙森羅万象の活動と調和することができるか?

それには、まず神の心を己の心とすることだ。
それは上下四方、古往古来、宇宙のすみずみまでにおよぶ、偉大なる「愛」である。

「愛は争わない。」「愛には敵がない。」何ものかを敵とし、何ものかと争う心は、すでに神の心ではないのだ。

これと一致しない人間は、宇宙と調和できない。
宇宙と調和できない人間の武は、破壊の武であって、真の武産(武を生み出すこと)ではない。

だから、武技を争って、勝ったり負けたりするのは真の武ではない。
真の武はいかなる場合にも絶対不敗である。即ち絶対不敗とは、絶対に何ものとも争わぬことである。

勝つとは、己の心の中の「争う心」にうちかつことである。
あたえられた自己の使命をなしとげることである。
しかし、いかにその理論をむずかしく説いても、それを実行しなければ、その人はただの人間にすぎない。

合気道は、これを実行してはじめて偉大な力が加わり、大自然そのものに一致することができるのである。


合気道 植芝盛平監修 植芝吉祥丸著




自分は「合気道」というものがこんなに素晴らしいものであるのを始めて知った。
全人類が合気道の精神で生き始めようとすることが今必要なのだと映画「スライヴ」は最終的に結論に達していた。

誰に支配されているかと日々恐れ、支配する人間たちを憎もうとしても世界は良くなっていくどころか、その恐れや憎しみの増大によってますます悪くなっていくだろう。


今、人類は「真実」を知る必要のある時期に来た。
それは環境破壊や飢餓や水不足といった状況がますます深刻になってきていることや、世界が第三次世界大戦へと進もうとしているかのような流れへと来ていることからも感じられるだろう。

「真実を知る」とは、誰が陰謀をたくらんでいるのか、何が危なくて何が安全かを知るということではなく、今知る必要なる真実とは、まさに合気道の精神とまったく同じである「利己を手放した宇宙と調和するエネルギー状態へと自分を持っていき、どのような争いをも受けることなく躱す(かわす)という愛なる精神」なのである。


この締めくくられ方に私は大いに感動したのである。
支配がなくなり、すべてフリーエネルギーに変わっても、この愛なる精神で人々が生きなければ結局は悲劇の連鎖は終わることはないのである。

どこか自分以外の場所に自分の敵が存在しているわけではないということを人々が知る必要がある。
「敵」とは実は自分の中にしか存在していない。(だから自分を憎めという意味ではなく、相手を敵とするのは自分の心の中に敵〔憎い自分〕が存在しているからという意味である)


この映画が表しているもう一つの重要な主張の言葉がある。
この世の支配下構造というものは「人類の課題」であるのだという言葉だ。

「課題」というとそれは神に与えられたというような意味があると同時に誰かに決められたものではなく、自分自身で決めたという意味があると思う。

誰に支配され誰に苦しめられようとも人々がそれを「自分が決めた自分の成長のために必要な課題」であるのだという考え方になるなら、どんなに強く生きていけるだろうか。

一方、誰かに苦しめられたことで「あいつが悪くて俺は一切悪くない」という考え方を続けるなら、一体いつまで争いは続くだろうか。

だからこの映画を作ったフォスター・ギャンブル氏は一体この世は何でこんな酷い世の中なんだというところから探求し続け権力者たちの支配下構造説を有力として考えたけれども、最後にはどうすれば世界が良くなっていくかという問いに「すべてを愛する精神(争いの精神を手放し、誰をも憎まず、すべてを愛すること)が必要なんだという結論に達した。

映画には異星人が地球に数々のメッセージを伝えている信憑性の話が出てきたけれども、自分は最近「バシャール」という異星人たちのメッセージの本をよく読んでいて、彼らが何十年とかけて伝えようとしていることがすべて結局は「愛なる精神に生きなさい」というメッセージであることからも異星人たちの愛情深さというものに感動させられる。

バシャールはとにかく「自分が情熱を感じること、自分の好きなことをやり続けなさい」と言っている。
それが宇宙との調和であるのだと。
でもほとんどの人は何かを嫌々ながらやって過ごしている。
行きたくないのに無理をして仕事に行っている。
嫌々何かをし続けているのでそのストレスから病に罹り、ますます人々は苦しんでいる。
その苦しみは世界中に連鎖していくので、世界の悲劇の連鎖が無くなってくれない。

だからバシャールはあなたが幸福を望むならばまず「嫌なことをしなくても生きていけるんだ」という観念に変えなさい。と言う。

「嫌なことをしなければ生きていけない」というのはただの思い込みの観念なので、それを壊さなくてはならない。

何故嫌なことをしなければ生きていけないということになっているのか?それはみんながそうだから、それが当たり前としている。

そこにまず疑問を持つことが必要で、何故みんながしてるから自分もしなければならないのか?という問いを発するなら、「みんながしてるからそれが正しい」という考えこそが「悪循環なる洗脳」そのものの考え方であると気づくことができるだろう。

みんなが学校に行ってるからといって、何故行かなければならないのか?
誰かと同じことをしなければならない必要など、どこにもない。
本当に行きたくないなら行かなければいい。
行かなくてもよいという選択ができないほど人は誰かに縛られているわけではないのだということに気づくことが必要なのである。

人は誰にも本当は縛られてなどいない。
支配もされていない。
コントロールしているのは、実は他人ではなく、自分自身の「観念」というものであるということにまず気づくことが必要だ。

自分が縛られ、苦しみ、身動きが取れないような状況になるように自分自身が自分でコントロールしている。
それほど人間一人のコントロールの力というものが強固なものであり、それによって自滅していく人も多くいる。

自分の観念で作り上げた世界を全ての人が見ている。
一体どのような世界を見たいのだろうか。
人間は嫌々働き続けるべき世界を見たいのか、それとも本当は全てが自由である世界を見たいのか。

全てが自由に、全てが解放され、誰一人拘束されない世界に生きても良いんだという世界を見て、その世界を作り上げようとするのか、それともこのまま拘束と拷問と争いの耐えない世界がこれからも続くという観念を変えようとせず、その世界を作り続けていくか。

誰がどのような世界を作り上げようと自由だけれども、人は本当に望む世界を作り上げられる力を持っているということだけは気づく必要がある。

全ての存在が平等に宇宙から愛されている。
その人が本当に望まないことはその人に起こらない。
すべて、すべて、すべてのことが実はその人の望むこと(見ていること、感じていること、関心を持つこと)として、その人の人生に起きてくる。

例えばある日、テレビ画面の向こうに映る一人の貧しい国で死んでいく幼い子供の苦しむ姿を見たとしよう。
その人は、そのことが心の奥底にずっと残り、意識下では忘れていることは多いものの、その子供の死んでいく姿が忘れられない状態でずっと生きていたとしよう。
その人の人生にはどのようなことが起きてくるか予想できるだろうか?
色々と想像してみてほしい。

実は自分の人生はこの通りに起きている。
だから自分の人生に起こるあらゆることが自分自身で引き寄せていることであるという宇宙の法則をずっと前から薄々気づいていた。

そして願いもいくつも叶ったが、多く叶ったのはほとんど恐怖や不安を感じることだった。
何故叶っただろうか?それは願うこと以上に恐怖や不安なことに強く関心を持ち続けたからだ。
それは宇宙はその人の「望むこと」として感じ取っている、何故なら本当に望まないことを人々は関心を持たないからだ。
一瞬強い恐怖を感じても、関心を持ち続けることなく忘れ去るのなら、それをずっと観続けるということもしていないし、その世界を見続けることなく、作り上げる、具現化するという作業を行わず、その恐怖は自分の人生には起こらない。

つまりどのような恐怖や不安や心配の意識であろうと、それをずっと感じて生きていた場合、宇宙(本来の自分)はそれを「願い」や「望み」として叶えさせようとする。
宇宙は正直なので、叶ったあとで「こんなこと私は望まなかった」と言っても、ではなぜ関心を持ち続けたかを自分自身に問いなさい。と返す。
何故ずっとずっと(潜在部分)であろうとも、感じながら生きていたか。
そして、では何故本当に望まないのならば、それではない、そうはならないほうのことに関心を寄せ続けなかったのか?ということが宇宙から返ってくるわけだ。

それは「そうはならないほうの事柄」に関しては関心を持たなかったし、興味もなかったか、または持っても浅かったからである。

自分が本当に関心を寄せている(本当に望んでいる)から宇宙はそれを自分に与えてくれる。
宇宙は自分の望まないものは決して与えようとはしない。
それは宇宙は愛であるからである。

だから自分の人生に起こっている全ては自分が望んだことであると私は言える。
すべて、自分が自分に与える最も良い「課題」であるというわけである。

なのでこの世界に「悪」というものは存在しない。
あるのは人間の「悪という概念」「悪という観念」である。
そしてそれは自分の中に存在するものだけを相手の中に見ることができる。
この世界には「光」と「闇」という対立しあうものが存在している。
「快さ」「喜び」と「苦しみ」「痛み」が相対するように存在している。

宇宙は光でも闇でもない。
宇宙は喜びでも苦しみでもない。
宇宙はただ存在している。
ここに、ただ存在している。

すべてが悪でも善でも光でも闇でもなく、ただ
すべてが在るものとして在る。

在り続けるのである。







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「人類:誰を愛し、誰に気を配ったらいいのか、知っているのか」

2016-11-11 22:51:00 | 存念
「米諜報機関:日本で盗聴してきたし、今もしているし、これからもする」


諜報活動と世論操作


スノーデンは、「彼らは、皆さんの信仰、皆さんが誰を愛しているのか、誰に気を配っているのかを知っています。

私の仕事は、あらゆる人間の人生の状況を描き出すことでした」と語っているが、米国は、日本国民の固定電話、スマホの盗聴はもちろん、ソーシャルメディア上の表現はすべて監視している。

スノーデンが、日本については、「プライバシーの問題への市民の関心度が薄いことや、政府に対する市民のコントロールが弱いことが、いま日本の前に立ちはだかる深刻な問題だ」

と述べているのは、まったく同感である。結局、最後は人の問題に行き着く。
日本のように新聞・テレビを鵜呑みにする国では、「洗脳」や「監視」といった概念自体が成立しにくくなっている。





米国は日本の多くの情報を非合法に収集している



「どうして日本政府は公に抗議しないのか?」とスノーデンは疑問をぶつける。

「もし抗議しないのなら、それは自ら進んで不適切な扱いを受け入れているのと同じことです。

自分で自分に敬意を払わないで、どうしてだれかに敬意を払ってくれるよう頼めますか?」



スノーデンの言いたいこともこのブログを書かれている方の言っていることもよおくわかるのだけれども
自分が思うに「盗撮、盗聴するのやめてほしい」とはっきりと抗議して自分のプライバシーを護ることと、「自分への敬意」、「自分を護ろうとすること」が違うことなんじゃないかということなのだが、実際多くの人は自分の全てが覗かれて監視されていたと知ればやはり傷つくだろうと思う。

自分も最近バシャールという異星人の本を読んでいて、そこには地球人はずっと何千年何万年と異星人に観察され続けていると書かれてあったし、またSims3というある意味「覗き見、監視、観察」ゲームみたいなゲームを一日中やっているからか、「すべての人類の脳内の思考が監視されている」という社会になっているという世界に生きる夢を前に見て恐怖を覚えたし、誰かに一日中監視され続けているかもしれないという可能性を考えることへの嫌な気分や、恥ずかしい気分や、やめて欲しいかもという気分を感じることが良くある。

自分もどちらかと言えば「監視されていたい人間」より、「監視されていたくはない」人間なのだろう。
そら監視するのが自分自身という別次元の神のような存在であればそれは致し方あるまいと思っている。
むしろ神に監視されているという意識はないよりあるほうが人間は他者に思いやりを持てると思っている。

しかし監視しているのが神ではなく、どこの馬の骨かもわからないような異星人とか、またはどんなおっさんかもわからない普通の地球人であった場合、これは「プライバシー侵害だ」と抗議したくなるのは自然な人情ではないだろうか。

だからスノーデンの言ってることは本当によく理解はできる。
自分だけではなく、愛する家族のプライバシーが覗かれていたら?憤激したくなる人も多いだろう。

プライバシーが何故大事なのか。それは本当に人間にとってそれほど大事なものなのだろうか。

自分に関心がなければプライバシーなんてものを大事にしようとは思わないだろう。
でも自分を愛する気持ちや自分への敬意や自尊心と、自分や自分の愛する存在のプライバシーを大事にする気持ちというのは果たして同じものなのだろうかとここで疑問が湧くのである。

自然な感情として、知らんおっさんに例えば風呂やトイレ中を覗かれ、またそれをネットにばら撒かれたりしたらそれは深く傷つくし、おっさんを憎むだろう。
それはある意味、「自分のプライバシーは護られるべきであり、またばら撒かれるべきではない」と思い込んでいる観念があるからである。

では自分自身、自分自身は果たして誰のプライバシーをも侵害していないと自信を持って言えるだろうか?

プライバシーとは言いかたを変えると「人権のような意識」「その人の嫌がる行為をしないという相手の権利を護ること」だと思う。
「プライバシーを護る」とはその人の「権利を護る」ということである。

だからこれは広い意味ではスノーデンの言ってる「自分や他者への愛とプライバシーをいっしょくたにして考える」ことと同じであるし、上の載せたブログの方が言及している「自分への認識や尊重がそのまま相手への認識と尊重の度合いになる」というようなことと同じようなことになる。

要は個人と個人としてのプライバシーの尊重とは、何も「覗くな、ばら撒くな」と言ったような観念を変えれば特に問題なしという浅い事情だけの問題ではなく、もっと深い意味の「生命を護るという人間にとって大事な意識」として、ここで大きな問題になってくるのだと私は思う。

スノーデンの言いたいことはまさしくこれだろう。
「生命を護るための抗議をしなくてよいのか」ということだと思う。
「iPhoneで盗撮、盗聴されてていいのか?」ということではない。
と私は思っている。


で、ここでまた話を戻すと、では果たして自分自身は誰の生命をも護れているのか?という問題に行き着かねばならないと思う。

自分のプライバシーを護りたい(自分の生命を護りたい)のに他者のプライバシーを侵害(他者の生命を侵害)していてもいいというのか?という問題である。

この問題が実は最も人間としてこの世界で盲点になる問題である。

ここに行き着くことができないのならば、世の中は良い意味で「チェンジ」していくことはないのではないだろうか。

ここで「自分のプライバシーも自分の命もどうでもいい」と思っている人が除外されるかというと、これはされない。

何故なら本当の意味でそういう意識で生きている人は一人もいないと自分は思うからである。
まず人は痛みを感じる生物である。
そして快さというものも感じる生き物である。
人間というのは「未知の痛み」に関してとても弱い。
それは知らないからである。
だから「自分はどうなっても良い」と言い切れる人は一人も存在しないことになる。

「権利」とはこの「未知の痛み」に関して生命を護ろうとする人間の意識でもあると思う。
例えば、「働くことはつらいけど人は働かねばならない」、というのが当たり前として多くの人に考えられているのはそれが「耐えられるつらさ」として多くの人が認識しているからである。
これが多くの人に「耐え切れないつらさ」として認識されていればそれは「当たり前の常識」としての認識ではなくなるはずである。
多くの人はそれを疑問に思うようになるだろう。
それは本当に必要なのか、と。

本当にそんなつらいことを毎日して人は生きていかなくてはならないのだろうか、と多くの人は思うに違いない。
それが世の常識になってしまえば自殺者は恐ろしくも増加するだろう。

周りで知人らが次々に自殺していけば「これは常識ではなく、間違っている」という考え方に変わるはずである。

「権利」が「未知の痛み」を護ろうとする人間の意識である以上、人間はその「つらさ」の度合いを「十分耐えられるつらさ」か、「もう耐えられないであろうつらさ」かを区別して、そこに権利という意識を持っていると思う。

例えば「あいつが俺のプリン食った、俺の権利を護るためにあいつをこらしめることが正しい」という人間がいても、これはあほらしいとして片付けられることが多いだろうが、一方で「あいつが俺の親を殺した、人類の権利の侵害である。あいつを是非こらしめたい」という人間がいれば、これは当然であると思う人間が多いだろう。

これも前者を「十分耐えられるつらさ」として、後者を「耐え切れないつらさ」として認識、想像できてそこにある権利の重要度を区別しているからである。

よって権利に重さがあるのはそこに人間は「つらさの重さを量っている」ということになる。
「自分のプリンは自分で食べられるべき権利」と
「自分の愛する者は護られるべき権利」の権利の重さは違うという認識を人間は自然と持っている。

で、またまた話を戻すと、では果たして「自分自身は他者の権利の何をも侵害していない」と言い切れるのであろうか?という問題である。

誰に対しても、何者にも対しても、「未知の痛み、苦しみ」「耐え切れない痛み、苦しみ」を自分は与えていないと言い切れる人は果たしているだろうか?

直接的に自分が関係して、自分に思い当たることがなくても、人はどこかで必ず間接的に誰かを苦しめているのではないか?

他者というのは人間だけではない。
ここで「他者」という定義を絞ると、自分が相手に対して「護りたい、または護らねばならない」という意識があるかどうかという定義に絞ることにする。
何故なら「護りたいという意識も護らねばならないという意識」も存在しない相手への権利についてここで言及しても、多くの人は耳を貸さないと思うからである。

「他者の権利はどうでも良いが、自分や自分の愛する存在たちの権利だけが大事で護られるべきである」
そんなことを思っている人は侵害され続けるかもしれないが、多くの人は自分や自分の愛する存在の権利を護りたいと思うと同時に「護りたい、護らねばならない」と感じる他者の権利の問題について関心を持つし、それをできる限り護ろうとしていると思う。

だからこの世界で悲劇がどこかで起きれば悲しむ人のほうが多いし、世界は悲劇が減っていくような世界に変わっていって欲しいと望む人のほうが多いと思う。

誰かの悲劇を知ると、自分にも同じような将来の悲劇が起こる可能性という恐怖を人間は無意識に感じるのではないだろうか?

知人が癌になれば自分も将来癌になって苦しむのだろうかという恐怖を感じるものではないだろうか。

つまり「他者の幸福」が「自分の幸福」に繋がり、「他者の悲劇」も「自分の悲劇」に繋がるという潜在意識のようなものを人間は持ち合わせているのではないか。

「他者の権利を護ること」イコール「他者を幸福にすると同時に自分も幸福にする」ということである。
「他者の権利を侵害すること」イコール「他者の悲劇が自分の悲劇に繋がる」ということになる。

こういった宇宙の法則というものをスノーデンは感覚として強く持っている人だと思うし、だからこそ命を懸けてまで人に警告し、人々を護ろうとしてくれている。

多くの人が「自分の権利を侵害」されたら悲しい、苦しい。
でも自分自身を振り返ってみれば、実にこの世界では多くの人が他者の権利を「間接的に」深刻的な状況で侵害し続けている。

それは「肉食と飢餓」で検索すれば知ることのできる真実なのだが
多くの人がこの因果を知らない。

「飢餓で苦しんでいる人たちの権利」と「殺されるために生まれてくると認識されている家畜たちの権利」を差し置いて、人間たちは自分のプライバシー侵害について抗議でき得るだろうか?



多くの人が本当に世界が良くなるようにと願っていると思う。
でも同時に「他者の権利」を残酷に侵害し続けているのは何故なのだろうか?

それはただたんに「肉食」と「飢餓」についての非常に深刻な問題についての情報が広がってくれないことにもあると思う。

この情報を知った途端に深く悲しんで心から後悔しベジタリアンになる人はすごく多いと思う。


情報というものがどれほど大事か、政府やメディアが発信してくれない情報ほど大事な情報ばかりだ。

スノーデン氏は命を懸けて情報を提示してくれた。
そして世界で一番大きいとも言える産業である畜産業という産業についての真実の情報を提示するたくさんの人々が暗殺の危険性などの危うい状態に置かれながらも情報提示し続けてくれているということに感動する。
下記の二つのドキュメンタリー映画は畜産業の深刻な問題と動物の権利というテーマで撮られたドキュメンタリー映画です。







「カウスピラシー」








Earthlings Japanese Subtitle











自分も何かで命を懸けることができればと思う。
それは他者だけの為に生きたいからではなく、同時に自分の為に本気で生きたいからである。





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タップルにログインできない

2016-11-11 17:45:37 | 随筆(小説)
申し訳ない話なのですが、婚カツの為に利用していた「タップル」というスマホアプリにログインできなくなってしまいました。

もうたぶん9月頃から見てなかったと思うのですが、そないだに本気で「いいかも」してくださった御縁のある方がいましたら、是非メールやコメントなどでアクションしていただきたいなと思います。

またそのうち新しくアカウントを作ろうかと思っています。

自分のタイプはエドワード・スノーデンみたいな人なのですが、



どうゆうところがタイプかといいますと、「え、この人、ほんまに現実に存在している人なのか?」というところがまあタイプなんですね。

実は3Dアニメーションで作られたCGキャラクターなんじゃねえの?と密かに思ってるんです。
微妙な外斜視だけれどもこれも左右非対称スライダーで作ったんじゃないのか。という気持ちになるくらいに
この人って実在している人間のように思えない。

だからたぶんスノーデンが目の前に現れて「あっほんまに実在してたんや」とわかった瞬間熱がぷっしゅう~と言いながら冷め切って、「もう帰っていいよスノーデン」と言いたくなるほど好きかどうかはよくわからない。

まあ冗談ですが、本当のところ自分の心理を読むと好きな理由は、「この世の真実を知ってしまった男、命を世界中から一日中狙われている男、悲しい表情をした男」だからなんですね。

自分が知りたいのに知れないことをこのスノーデンという男は知ってると、羨ましいではないか。
そして命を狙われている、これもかっこいいではないか。
命を狙われているのにまだ生きていられてる、これがかっこいい。
すっごい生命力、素敵だわ、生命力がある男。
だからこのスノーデンが目の前に現れて「いっやーぼくのことを好きになってくれまして、ははは、ほんとうにどうもセンクスだよね。うっれしいなー。土産にNSAとCIAお墨付きのレプティリアン地底バージョン弁当持ってきたよ、一緒に食べよう」と言われてちゃぶ台を囲んでレプティリアン地底バージョン弁当を一緒に食べていると、スノーデンがふとこんなことを訊く。

「あ、あのさあーなんで君ってぼくのことが好きなのかい」
すると私はレプティリアンが汗水流して作った弁当を頬張りながら答える。
「そんなこと決まってるじゃぁないか、あんたが世界一生命力ありそうな男だからだよ」

なんてどうでもよい妄想をして楽しんでていいと思っているのか。
しかし妄想は現実になるというからいくらでもしたらいいんじゃないか。

そうして何故かスノーデンは私の答えにスルーして何も言わずに弁当の箱をゴミ箱に捨てに行きくさった。
くっそぉ、あいつなにスルーしとんねん。
腹が立つ。せっかくボケたのにつっこんでくれないなんてこんな悲しい大阪人の俺をどうしてくれる。
「おい、スノーデン、おまえ、大阪人馬鹿にしてんのか」
そう言うとスノーデンはさわやかな笑みを浮かべながらこう言った。
「あっそういえばトランプが当選したね」
くっそお、またスルーされた。やっぱりスノーデンは実在している人間ではないのではないか。
だから生物の言ってることがあまり理解できないんだ。
スノーデンはたぶん生物じゃないんだ。
AIだ、スノーデンはたぶん。
人工知能だったのかあ。人工知能に三次元アニメーションをつけたらこうなったんだ。
まあ自分は日本語で、スノーデンは英語だから互いに相手の言語知ってなくて普通に話しててもさっぱり噛み合わないことが多いんだけれども。

英語を学びたいけれども英語が苦手、とかって英語を勉強する前から言っている、あほかっ。俺はあほかっ。
「スノーデン、あなた日本語を学ぶ気はあるの、ないの、3秒以内に答えないならNSA及びCIAにあなたの居場所を教えるわよ」
そう言うとスノーデンはびびって急いで瞬間的にこう答えた。
「ある!」
おい、通じてたのやないか。
「とりあえず世界一になりたいな、なんかのな」そう言って俺は気絶した。
そして3秒後に起き上がってこう言った。
「スノーデン、君ってまさかレプティリアン?それか、アヌンナキ?それともドラコニアン?なに?ET?地底人?元じゃなくてNSA及びCIA現職員?」
「ぼくは日本人だよセニョール、あ、間違えた地球人だよムッシュウ」
「意味がわからない」

「とりあえずな、教えて欲しい、この世の真実を、俺に、俺だけに教えてくれ全部、全部教えてくれ」
スノーデンは髭を触りながら黙っていた。絶対全部知ってるんだこの男は。くっそお俺が先に知りたかったのに。
「スノーデン、ごめんな、きみと結婚したのはその為なんだよ、俺は全てを知りたかったんだ」
するとスノーデンはきゅるきゅるきゅるきゅるきゅうるるるるるぅんと言いながら爬虫類人間に変身した。
とうのは嘘でごく人間的な表情でこう言った。
「それをぼくが知ってなかたっとでも思ってるのかいジョバンニ」
「俺そんな名前ちゃうぞ」
「ぼくは全てを知ってしまった男だって君も知ってるだろう?ぼくに知らないことなんてないんだよ」
「今俺が履いてるパンツの色もか」
「もちろん」
「通報する」
「それはやめちくり」
「俺が後何分何秒後に屁をこくのかも知っているのか」
「もちろんばい」
「その屁の匂いが何の匂いかも知ってるのか」
「ああ知ってるとも」
「何の匂いだ」
「里芋と玉ねぎとにんにくとしょうがとカレーと葱と玄米とアルチェネロ 有機野菜ブイヨン・パウダータイプ を合わせた匂いだね」
「野菜ブイヨンのメーカーまでわかってるのか、確かに君が家に来る前に食べたカレーに入れたブイヨンはキューブタイプではなくてパウダータイプのほうだった、キューブタイプだとやっぱり匂いは違うの?」
「もちろんさアンソニー」
「誰やねん」
「てかさっき俺がトイレ行ってるときに鍋の蓋を開けたんちゃうのか」
「開けてない」
「ほんまに?なんか鍋を開けた音がした気がしたよ?」
「何故ぼくを信じてくれないのジンジャーティー」
「人名でもなくなってきたぞ」
「ぼくは断じて、開けてない、命を懸けてもいい」
「そんな簡単に命を懸けてはいけないよ」
「ハニー!」
そう言ってスノーデンは俺を力強く抱きしめた。
ここで俺は知ったのだった。
スノーデンはいつもあんなさわやかな顔で命を狙われていたけれども、ほんとうはキレギレだったんだってね、いっぱいいっぱいだったんだろう、誰かに優しく「もう命を懸けるのはよせ、スノーデン、言っちまえよ、言っちまえ、それが真実だろうが、おまえは命かけて真実を知らせる必要などない、違うかね、おまえさんの命のほうが大事とちゃうんかね、ちゃうか?だって殺されちまったらよ、お前の知ったことをずっと後の世になって知らせても安全な時期がきた頃に知らせられなくなる、な、その情報をちゃんと知らせるためにもおまえは今知らせるのは危険とちゃうんか、俺は何が何でもその情報を知らせて欲しい。でもお前さんの命のほうがやっぱし大事やと思うんやんかぁ、やっぱな、人間の命なんてなんとも思ってない連中が情報ほしさに金を払うんだよ、わかるだろ?いくらもらったんだ、教えろ、俺だけに教えろ、命より金が大事とかそんなん悲しい、大事にして欲しいあなたの生命を、だからもう引っ込むんだ、スノーデン、山奥で仙人のように生きるんだよ、そしてみんなが忘れた頃に出てきて、地球を見渡せば、ははは、地球の地上全てが緑色だった、気味の悪い緑色、もうこんなの嫌、そういってスノーデンは過去に戻れるタイムマシーンを発明して過去に戻ってきた実は未来人だったってね、そうだろう?ははは、俺は何でも知ってるんだぜ」そう言ってもらいたいんだろ?
おれはそうテレパシーでスノーデンに伝えるとその瞬間スノーデンの身体はその場から消えて同時に着いたパソコンのモニター画面にいつものあのさわやかな笑みを浮かべた彼の顔が映っていたのだった。




「スノーデンの真実~レプティリアンとお友達バージョン~」  完

君は何を願うの?

2016-11-04 18:21:15 | 存念
年齢よりも何十歳も若く見えるロービーガンな人たち・肉食が加齢の原因?


素晴らしいな、ただ若いというだけでなく、どことなくみなセクシーな感じの人ばかりではないか。
人類はいつまでも若くセクシーでいたいならばロービーガンになるべきだな。
肉を食べながらアンチエイジングやデトックスをやり続けるよりずっと効果があることだろう。

肉食が何故老けさせるのかというと、まず肉の脂肪というのはめちゃくちゃ消化に悪く、内臓をひっきりなしに働かせ続けなければ消化できないからである。
内臓たちに無理をさせている状態が続いてそれが外に老いの症状として現れるわけだな。

それから肉は体内で腐敗し身体を酸性に傾けるのでその毒素で老ける。
毒素はそれだけでなく、家畜に与えられていた大量の抗生物質や成長ホルモン剤やその他の薬剤、飼料に与えられている遺伝子組み換え穀物などもたくさん人体は吸収し続け、それらが体内に蓄積し、老いの症状となって現れる。


皺や薄毛に悩む人は是非ロービーガンになるのが良いだろう。

ロービーガンとは完全菜食に加え、加熱しない植物を食す人たちのこと。
完全生菜食者をロービーガンと呼ぶ。



そして何故過熱食が老いを招くのか、というのは前に紹介したヒポクラテスの言葉「火食は過食に通ず」という言葉があるように、加熱することは食べ過ぎてしまうという理由が一つある。

原本・西式健康読本 (健康双書ワイド版―食と健康の古典) にはこう書かれてあった。






物を煮ると、食物の含有する蛋白質は二分の一に減ってしまい、天然に入っている塩分は四分の一になってしまう。

したがって、煮たり焼いたりしたものを食べる場合は、二分の一に減った蛋白質と四分の一に減った塩分とを補給するために、生で食べれば少量で済むものを、煮たり焼いたりして火にかけたものはその生の量の二倍だの四倍だのを食べなければならず、その上熱によって栄養素は凝縮するから、その凝縮している栄養素を吸収できるように解きほぐすために消化器官は余分の仕事を背負わされる。

また食物の量が多いとその為に出てくる有害なる副産物や残滓物質の処理のために、肝臓や腎臓や腸が余計な仕事をしなければならぬから、それだけ生体は過労を強いられ、老衰を早めることになるのである。







栄養が足りない分多く摂るということ自体が老いを招くので、これは過熱食だけに限らず農薬や化学肥料を使って作られた植物を食べていても同じことが言える。

何故なら農薬や化学肥料は植物の栄養素を破壊するので栄養価が低く、そのため必要な栄養素を摂ろうとすると無農薬植物の倍以上食べなくてはならなかったりするからである。

栄養価が高い植物は少量でも満腹する。
白米より玄米や雑穀、白い小麦粉よりも全粒粉の小麦粉のほうが少ない量で満腹するので「健康食材を買うと家計が持たない」という考えはただの思い込みになる。

不健康な食材と同じだけの量を買う必要はないし、また同じだけの量を食べる必要もないのである。

自分はここのところ「米」自体を食べていない。パスタもほんのたまにしか食べなくなった。
あんまり食べたいと思わない。
食べても茶碗に半分の量で満腹になるのがわかっているので、それなら他のお野菜などを食べたくなる。
断食をやってからというもの、本当にすぐにお腹がいっぱいになるようになった。


いきなりロービーガンにはなかなかなれないでいるが、ロービーガンを目指して無理のないように心がけて行きたいと思う。





この人たちはロービーガンなだけでなくそれ以外の健康法もしっかりとやっている人たちだと思うが、それができない人たちでもロービーガンになることはそれをしないよりも老けにくいことは確かだろう。



動物性のものを摂り続けていると老け、肥満、ハゲ、に加えあらゆる成人病が待っているかもしれないが、人類はそれでいいのだろうか。

私は何も努力して肉食をやめるべきだとは言っていない。
ただどうして人類は皆「幸福になりたい」と言いながら肉を食べ続けるのか不思議である。

何故他者を苦しめ続けて「幸福になりたい」などと願い続けているのか。
何故今苦しんでいる者たちに目を向けようとはしないのか。

自分の力で助けることができるということに何故無関心でいながら、都合の良い自分の幸福を追い求めるのか。

そうして幸福を追い求めたところで待っているのは「老いとハゲと肥満と成人病」なのである。

「肉食はすべての苦しみの元凶」であるということに私は早く人類が気づいて欲しいと思う。

家畜たちを拘束し、苦しめている間、その人間たちも拘束され、苦しめられることだろう。

奴隷のように働かされ、病気に苦しめられ死に至る。

宇宙の法則は真に正確だ。

何の狂いもなく、人々は自分で何を選択するか自由である。

家畜たちを救うと同時に自分を救い、世界を救うか、
家畜たちを苦しめると同時に自分を苦しめ、世界を滅びへ向かわせるか。
すべて自由だ。
多くの人間が後者を選択すれば地球は滅ぶだろう。

地球の未来がどうなるかは人類の今にかかっている。

私は信じている。
近いうちに人類は皆、完全菜食を選ぶだろう。
動物たちを解放し、人々は動物たちを可愛がって愛するようになるだろう。

私にはその未来がありありと見える。
何故ならそうしなくてはもう地球を存続させることができないと人々は知るときが近々来るからである。

バシャールは言う。
「今の地球は夜明け前であり、夜明け前が一番暗い」と。

もし恐れることがあるなら、何も恐れることはないような変化を自分自身に与えればいい。

人は罪を知るから罰を恐れる。
ならば自分には罪はないと言える生き方に変えればよい。

ただそれだけ、それだけなんだ。
そうすれば一人の幸福が世界中の幸福と繋がる。

罪悪感を持って何かをしているならば、それを変えれば恐れ続けなくていい。

恐れは具現化する。
この世の人類の悲劇の大半がその恐れの具現化であると私は思う。
恐れは「罪悪感」から生み出される。
それは無意識のところからも引き起こされる。

肉食をすることは全ての人類の意識と無意識の領域に罪悪感を生み出しているはずだ。

罪は罰されるべきであると人が無意識にもあるのはそれが生命の愛というものだからだと思う。
自分への愛と自分以外全てへの愛、それは必要だからある。

自分を罰すること、自分を苦しめる未来を自分が作り、その未来へ向けて生きること。
これを望まないというのなら、自分が生み出している罪の行いをやめたらいいだけだ。

肉食を断つことがとても難しいことだと思っている人たちは多い。
しかしそれはやってみないとわからない。
やってみないうちから思っているのはただの思い込みだ。

それはただの作られた観念で、事実ではない。

だからこの世のほとんどの人は夢遊病者らしい。
「作られた観念で見ている世界」に住み、「作りたい観念で見ている世界」には住んでいない人間たち。
ふわふわと流されるように自分で作り上げた見たくない観念世界に生きている人間たち。

夢から覚めないまま幸福を探して見つけても、それは実感に貧しいだろう。

だから次から次へと次の欲望が生まれる。

本当の幸福の中に生きていないから、人は様々な欲望に支配されてしまう。

それが本当に苦しくなったとき、人は気づくことができる。
「他者への奉仕に生きること、自分が苦しめている者を救うこと」が自分の本当の幸福であるのだと。

そこに気づくことができればまず生き方が変わる、心が変わり観念が変わる、意識が変わる、そして自分の周りが変化してくる。
1人の力で人は世界を変えることができる。

たった一人の力がどれほど大きな力であるか、人々は信じようとしない。
でもたった一人でも変化すれば、それが地球全体の大きな変化に繋がる。

自分はこの悲劇で溢れたこの世界に生きることがもう本当に苦しくて仕方がなかったので、やっと長年罪悪感を持ちながら続けてきた肉食をやめることができた。

それは本当にものすごく大きな変化だった。
それはいわば昏睡状態にあった自分の意識が初めて智恵の実を授かることができたような感覚であった。

今はじめて自分は生きたのだ、という感覚だった。
それまで自分は死にきっていたように感じた。

まるで自分の愛する家族を自分が苦しめて殺し食べ続けてきたような感覚で今もいる。

だから後悔はそれは凄まじいものだった。

「愛する家族を苦しめて殺し食べ続けるということ」というこの人間の最も悲しい悲劇を自分は伝えていく使命にあるように思う。

自分の中でたくさんの葛藤はある。どのような伝え方が良いのかという葛藤だ。

ただ情報が必要だ。
自分もスピリチュアルな考えを記した本の内容と場のビデオという情報源がなければ、肉食を断つことはできていなかったと思う。


自分は今でもずっと苦しみの中を生きている。
でも苦しいからこそ他者の苦しみの叫びを敏感に察知し、それを伝えていくことができると思っている。

生き方の変化というのは、目に見えるものだけではない。
目には見えない深いところで、大きな変化が起きていることがある。
私はそれほどの目に見える変化は起きていないのかもしれない。

でも確実にこの世界から耐え切れないほどの苦しみがなくなるようにと願う気持ちの強さはとても大きくなった。
真実を知ることがとても大事だった。
この世界でどのようなことが行われているか。
人々はその全てを知る権利があるし、知る必要性もあると思っている。
どこで誰が苦しめられ、どこで誰が愛されているのか。
どれほどの苦しみとどれほどの慈しみがあるのか。
知りたいと願う気持ちが大切なんだと思った。

それらに「無関心」でいることは、実は人間のとても深い苦しみにあると思う。
そして知ることを恐れているのも苦しみだ。

知るのを恐れるのは罪悪感を感じるから。
他者があれほど苦しんでいるのに何故自分は楽に生きていられるのか、という罪悪感が苦しいために、知るのを恐れ、それに無関心でいようとする。

他者の苦しみを知ることが苦しいのはそれが自分の苦しみになることの恐れではなく、その苦しみをどうにもできないと思い込んでいることから起きる。

知っても自分の相手への愛が足りないので相手をどうにかするために自分を変化させられないことの苦しみを感じることを恐れる。

実は「無関心」というものの中には「無関心でいざるを得ない愛」というものがある。
人々は無関心を装い、自分の中に浅い愛しかないと自分に対して罪悪感を感じているのではないだろうか。

自分自身、実はこの何週間と、ニュースを見るのが怖い。
見ると、その悲劇だらけの世界を目の当たりにしてただただ落ち込んでしまうからだ。
と同時に、他者の苦しみを知ろうとしない自分に対して罪悪感を感じる。

これは「無関心」というものではなく、愛したいと願うあまり自分の至らなさに痛感する苦しみに向き合うことのできないほど自分が苦しみ疲れきっている状態であるのかもしれない。

私はこのような状態が多くの人の中にあるように感じる。
皆、疲れきって、傷つき果てている。

まず自分を癒すことが必要だ。
自分を赦すこと。
今の自分を受け入れ、ありのままの自分を認めること。

今の自分が良いか悪いかで判断せず、ただ今苦しみ疲れきっている自分の存在があるということを受け入れる。

そして何を自分が望んで、何を望まないかを考えるより感覚で感じ取ろうとする。

正解も不正解も存在しない世界で何を自分は選びたいのか。



一体自分が何を一番に望んでいるか、自分とこれからも何万年何億年と向き合って生きたい。



つうか、無限に、永遠にすべてが生きていくのです。




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「狂牛病:人発症の潜伏期間は50年、流行拡大の恐れ-英研究チーム」

2016-11-03 20:06:05 | 狂牛病と認知症の関連性
狂牛病:人発症の潜伏期間は50年、流行拡大の恐れ-英研究チーム




研究対象となったのは食人の習慣で引き起こされたクールーという疫病で、 コリンジ氏らは11人の患者から潜伏期間が最大56年、あるいはそれより7年長い可能性があることを突き止めた。

人が突然変異したタンパク質でBSEを 引き起こすと考えられるプリオンを体内に取り込んだ場合、潜伏期間がさらに 長くなる可能性があるという。





これは10年も前の発表だけれども、一体これだけBSEの潜伏期間が長いということを知っている人がどれだけいるだろうか。
潜伏期間が長くて60年、70年以上ということになる。
2歳のときに食べたたった一切れのBSE感染した牛肉を食べたその70年後に発症する可能性があるという話である。

否、牛肉だけではない、動物性(畜肉や乳製品、卵など)のものすべての摂取にその可能性がある。



vCJD潜伏期間は50年を超えることも 最近の予測を大きく上回る発生の恐れー英国の研究


「vCJD発生率がピークに達し、この悲惨な病気の最悪の局面を脱しつつあるといういかなる考えも、今や極度に懐疑的な態度で扱われねばならない」と言う。


そらそうだろう。50年以上潜伏するかもしれないのに「BSE感染者は減っているようだ」と言ったところであほである。
50年以上経った頃に2人に1人は発症して死んでしまうかもしれない。



クールー病 : 潜伏期間は半世紀 / パプアニューギニア



一方、牛から人にうつる新変異型CJDの潜伏期間は「10~100年と推定される」


人間が死ぬまで潜伏し続けるかもしれない不死身の病原菌がいったい何であるのか、まだ解明されてはいないのである。


アルツハイマー、認知症の原因はまだ解明されていないとされている。
しかしBSE感染のvCJDとアルツハイマーの症状が見分けがつけがたいほどよく似ていることを人類はもっと深刻に受け止めたほうが良いのではないか。




自分がこれだけしつこく肉食の危機に関して言うのは、ただ人類や動物や生命すべての”耐え難い苦しみ”がなくなってほしいからである。
何も人を怯えさせて恐れさせるために言っているわけではないことを解って欲しいと思います。

自分が何をどれほど警告しても、人類は自分の地獄を自分で選び取るのだろうか。





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