あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

「私は悲劇を愛する」

2016-11-18 15:33:56 | 存念
やっぱり人類は滅亡することがNASA出資の調査で判明。資源浪費と貧富二極化で


人類は滅亡へ向かっている。というのはこれは間違いない。
このまま大きな変化を起こさないのならば、間違いなく人類は滅びるであろう。
資源浪費と貧富の二極化が激しくなった後に待ち構えるもの、それは文明の滅びであり、古代文明はそうしていくつも滅びてきたこの地球上で現代の文明だけは滅びないというのはあり得ない話なのである。

”人類の滅亡”というと、どのようなイメージが人々の脳内に浮かび上がるだろう。
聖書に詳しい人ならば、聖書に何度と出てくる滅亡なるヤハウェの裁きによって裁かれた人間の無力さのようなイメージを抱く人もいるだろう。
または核爆弾の恐れを強く持つ人は広島と長崎に落とされた原爆のような何か本能から湧き上がってくるような絶対的な危機感を抱く人もいるだろう。
中には何のイメージも出てこない、とても静かで無の境地のようなものを感じる人もいるだろう。

人間は滅亡して欲しくない。という人と、人類は滅亡したほうがいい。という人に分かれるだろう。
しかし元来、人間は何によって生きているか、人間は知らないのである。

あらゆる答えに行き着いては、そうだ、と納得するかもしれないが、本当のところ、実は誰も知らないのである。
なので自分という存在は自分の知らない何かによって、生かされている、と感じるのである。

生かされているのであれば、相手は生を操ると同時に死をも操る存在である。
人間の生死というものが、人間の「死にたい」「生きたい」という意識以外のところで起きているというわけである。

しかし同時に、人間という生物が本能的に「生きようとする」存在なのである。

人間が何によって生かされているのか、実は知らないが、実は知ってもいるんじゃないか、そう人間は勘ぐるのである。
知っているから生きようとするんじゃないか、そう思うことはなんのおかしいことでもない。

全知全能の神に対して、人間はとてつもなく無力であると人間は感じるものである。
苦しみたくないと言いながら苦しんでいる、しかも苦しみを自分の手によって引き起こしている、あまりに愚かであると人類は自分自身を嘆くのである。
これも全部人間の未熟さが原因であり、人間は自ら苦しみの種を撒きながら苦しみたくないと言ってはその実を刈り取っていると、日々嘆いては絶望に暮れもする。

確かに人類は全知全能のような存在に対してはドエムでもないと自分では思っているのに自分の手で自分の首を絞めつつ助けてくれと言ってばかりの変態か愚か者か、その両方のように見える。

苦しみたくないならば苦しみの種(負のカルマ)を撒かなければ良いのであるが、人類と言うのはこれが苦しみの種を撒くのが好きで好きでたまらないと言わんばかりに撒きまくって生活しているのだから俯瞰的に眺めると呆れてしまう生物だろう。

人類と言うのは明らかに全知全能の神に対しては未熟な存在であり、幼児のように幼く無知であり、猿のように自分の欲望に正直である狡賢い生物だと言えるだろう。
しかし幼児や猿を眺めているとそこには特有の賢さというものが備わっている。
幼児や猿、あらゆる人間以外の生物というものは、自分に対してとても素直である。
やりたくないことは彼らはやりたがらない。

部屋がおもちゃで散らかっているから片付けなさい。と親に言われても子供はこれを嫌々ながらものすごい時間をかけつつ、親の見ていないところで遊びつつ、のろのろと片付けに入る。
てきぱきと片付けたら親に怒られないのに嫌なことをてきぱきとすること自体が嫌なのでのろのろとしか片付けない、すると親がきて、早く片付けなさい、と強く言われて子供は泣きながらも片付けようとする。

これは子供が愚かで、親よりも劣っているために子供がのろのろとしか作業できないのではなく、
子供というのは、なにがなんでもやりたくないことはやりたくないことなのであって、それを何故やらんければならぬのか、と感じながら生きている生き物なので、「片付ける」ということに全く意味を見出せないが為に、これをやりたがらず、自分の意思に強く反して仕方なく片付けるのでのろのろとしか片付けられないということが起きる。

一方、親というのはやりたくないことでも、それをやらねばならないと判断し、嫌々ながらもしっかりやるということが正しい、当然として生きている。
なのでやらねばならぬことをやらない子供に対して、「おまえはあほか」という気持ちが芽生えたりするので、これが怒りの感情になって、子供を叱り付ける、ということが起こるのである。

これは言うなれば、親の価値観の押し付けを子供に行っているだけのことであり、親が賢くて子供が劣っているということにはならないのは明白であろう。

子供には、子供の価値観というものが存在するということに親は理解する必要があるだろう。
子供に本当に自然とのびのびと生きていってほしいのならば、親の価値観を押し付けることはしないだろう。
たいがいの親は、子供はほおっておくと駄目になる、と考えているのだと、絵本作家の五味太郎氏が言っていた。
だからあれは駄目だ、これをしなさい、学校にはちゃんと行って、ちゃんと勉強をしなさい、学校を卒業したら仕事に行きなさい。と言うのである。

子供というのは、一体何によって成長していくのだろう?
子供が成長すれば大人である。
大人は一体何によって成長してきたのであろう?
子供たちに、周りの誰かに自分の価値観を押し付けることを学んできたのだろうか。

子供というのは、やりたいことをやる、やりたくないことはやらない、という価値観を親や教育によって「やりたくないことをやらねばらない」という価値観へと塗り替えられていく。

何故なら、その親や教育者たちも同じようにして塗り替えられて生きてきたから、それが当たり前のこととしてその価値観が固まっているからだ。

親も教育者たちもその教育法が当然、子供の人生を幸福にする、それ以外はあり得ないと考えている、だからその価値観を変えようとしない。

子供たちはただ「やりたいことをやって生きる」という価値観を塗り替え、「やりたいことをやるには相当の努力が必要になる」という価値観を持って生きていくようになる。

だからこの世で何が評価されるかといえば「努力」というものである。
その人が成功するにあたって、一体どれほどの努力をしたのか?ということが世間の関心を引き、ああやっぱり、だから努力が必要なんだと納得し、自分の成功するために嫌なことでも頑張って、無理もして働いたり、つらい何かを引き受けながら生きていくことがやっぱり正しいんだという結論を下す。
しかしそうした結論を下すと同時に、民衆は政府や企業に不満を持ったり、自分の生活が苦しいのは誰かのせいだ、という考え方をしている人が大多数であるのが現状であろう。

子供たちからしたら、このような大人たちはものすごく疑問に映ることだろう。
なんでやりたくないことをやると決めてやってるのは自分なのに、誰かに不満をぶつけたりしてるんだろう?と。
誰かに不満を持つくらいなら、なんでやりたいことだけをやらないんだろう?と。
なんで企業に不満を持ちながらも働き続けてるんだろう?不満を感じない企業を何故探さないんだろう?
なんで政府に不満を持ちながらも政府に税金を払い続けてるんだろう?何故不満を持ちながら政府に何かを頼ってるんだろう?
何故自分たちで何かを起こして変えようとはしないんだろう?

「やりたくないことでもやる」という大人たちのやり方が、「やりたくないことはやりたくないからやらない」という子供たちにとって、とても疑問になるのは当然だろう。
しかも「やりたくないことを努力してやるべきだ」と言いながらほかに不満を持ってストレスを溜めてばかりいる大人たちがどれほど滑稽に映っているだろうか。

子供たちはやりたいことに関して、努力など何一つ必要ないと感じている。
描きたい絵を自由に描くし、歌いたい歌が浮かべばすぐに歌いだす。
だから何故努力しないとやりたいことができないと考えているのか、さっぱり理解できないのである。

子供でもし「努力しないと駄目だよ」と考えている子がいれば、その子供は周りによって洗脳されたあとである。
子供というのは本来なんの努力もなしにやりたいことをやって生きることのできる存在だからだ。
それは子供の元から持ち合わせている能力であり、才能である。
そしてその能力、才能を封じ込めるのが「努力してやりたくないこともやらなければならない」という価値観である。

世間を見渡せば、ほとんどの大人たちがやりたくないことをやって生きている。
それをしなかったら、やりたいことをやれないと思い込んでいるからだ。
子供の頃にはできていたことを、できないと思い込むようになって、その価値観こそ正しいと思い込むようになった。

これはすべて、「Easy(簡単)」だったことを「Difficult(難しい)」として、簡単なことを成し遂げるよりも、難しいことを成し遂げることこそ、価値が高いと考える価値観が人類の中に生まれたからである。

そして、その価値観が、どのような価値観をさらに生み出して行ったか。
「生きることは苦しくて当たり前」とし、「無理をして働き続けること」こそ価値が高いという価値観が人類の間に広まっていった。
「生きることは苦しくて当たり前」と考えている子供がいたら、何か違和感を感じることだろう。
それがなにゆえに成長すれば違和感は感じず、当然の考え方として納得できる考え方になるのであろうか?

「ぼくは、ようちえんに、いきたくはないけれども、いかなくちゃならないから、それは、そうしないと、じぶんのやりたいことができないから、だから、ほんとうはようちえんなんて、たのしくもなんともないし、できればいきたくないんだけれども、しかたなしに、じぶんはやりたいことをしょうらいにやるために、ぼくは、いかねばならぬのだ」という幼稚園児がいたら、何か違和感を感じることだろう。

子供なんだから、もっとのびのびと生きられないものか、と考えないだろうか?
では、なにゆえ、子供だけがのびのびと生きるのが良くて、大人になれば、のびのびと生きてはいけない存在になってしまうのだろうか。

何故、子供は自由で、大人は不自由を選ぶのか。
否、果たして大人は自ら「不自由」を選び取っているだろうか。

なんで自ら選び取っておきながら不満や不安や恐怖、ストレスに埋もれきって生きているのだろうか。
それとも、大人は本当は「自由」を選び取りたいのに仕方なく「不自由」を選ばされているのだろうか?
それは一体、何者にか?
それは権力者か、政府か、企業か、教育か、親か、周りの世間の目か、世間の常識か、それらによって嫌々「不自由」を選び取るようにされてきたのか。

一体、自分が「自由」ではなく、「不自由」を生きていると思うのは何故か。
その観念というものは、「やりたいことをやるのはDifficult(難しい)」と思い込んでいるから存在しているのではないのか。
簡単なことより、難しいことに挑戦することこそ価値があるからだというのだろうか。
素晴らしい挑戦だと思う、しかしそれはやっていることに対して何の不満も不安も恐怖もストレスもなくすべてを受け入れ、全責任を自分に背負わせている状態で言うならばの話である。

難しいことに自ら挑戦しておきながら、不満を募らせてそのストレスによって死んでいく人生を生きるということは、これは喜劇としか言いようがない。
そうだ、この世のほとんどの人はまるで喜劇の中の悲劇を生きて、悲劇の中の喜劇を生きているようではないか。
チャップリンの映画さながらにそれはとてもエンターテイメント的である。
観るものを退屈させはしないだろう。

チャップリンは自らそれに気づいていた人である。
人生というものがいかに悲劇的であるかを、チャップリンは喜劇によって明らかにしたいと感じていた。
チャップリンが撮りたかったのはいつでも人間の悲劇であり、悲劇を喜劇として表現することで人間が一掃悲しい存在であると感じられることを狙っていたのである。

滑稽であればあるほど、それは悲しく、悲劇になる、それをチャップリンはわかっていた人である。

人類というのは、何も全知全能の神に対して未熟なわけでも、劣っている愚か者なわけでもなく、
人類は全知全能の神に対し、悲劇的な存在であるということが見えてこないだろうか。

人間が滑稽な考え方、価値観、観念を持っていればいるほど、それは悲劇的な人生を歩んで悲劇的な死を迎えることだろう。
自らそれを望んだかのように、悲劇を生きるが、本人たちはそれが自分の望んだ人生ではないと言いながら、悲劇ではないと信じて生きて死を迎えるということが、本当の悲劇のように感じないだろうか。

本当に自分が望んだ人生を生きるならば、何一つ不満や不安や恐怖やストレスはないはずである。
例えば、本当に自ら苦しみを望んだとしても、それを望むのが自分自身だと本当に気づくのであれば、そこにあるのは苦しみだけのものでは最早ないはずである。苦しみは喜びへと変じていくはずである。

ほとんどの人間が、この苦しみが、本当に自分で選び、望んだ苦しみであるのか、わからないで生きているのである。
全知全能であるならば、勿論知るだろう、その苦しみがなんであるのかを。

自分自身がわからないで生きること、これほどの悲劇があるだろうか。
夢遊病者のごとく、笑う、怒る、悲しむ、苦しむ、しかし何故自分がここでこうしているかがわからないのである。

自分が本当に何を望んでいるのか、何を選んでいるのか。

私は人々を馬鹿にするつもりでこれを書いているわけではない。
他者を馬鹿にするとは自分自身を馬鹿にする行為である。

私は人類がいかに悲しい存在であるかを改めてここに記したいと思った。

自らを滅びへと向かわせる人類が、これから想像以上の悲劇を”自ら”望むか、それとも、別の何かを望むのか。
地球の未来はその人類の意識の%によってその運命が懸かっている。





「私は悲劇を愛する。悲劇の底にはなにかしら美しいものがあるからこそ、愛するのだ。」

Sir Charles Spencer "Charlie" Chaplin, KBE (16 April 1889 – 25 December 1977)












にほんブログ村 ポエムブログ ことばへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 人間・いのちへにほんブログ村 哲学・思想ブログへ


最新の画像もっと見る