あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

映画「トレインスポッティング」普通の人々から離れて手に入れたモノとは

2017-07-27 18:42:39 | 映画




1996年のダニー・ボイル監督の映画「トレインスポッティング(Trainspotting)」を多分20年振りに昨晩観た。
20年前の1997年時、自分は16歳とかである。








兄がこの映画のLD(レーザーディスク)を買って、兄と一緒に脂汗をたらたら垂らしながら観た記憶がある。
サントラが好きで兄が持ってたのをこっそりとよく聴いていた。








当時はディカプリオの「バスケットボール・ダイアリーズ」やジュリエット・ルイスの出演している「ストレンジ・デイズ」などのドラッグ系洋画を兄とよく一緒に観ていたため自分もドラッグを扱った映画は当時から好きであった。









この映画も兄と一緒に観た懐かしい大切な映画であり、またかっこよくて洗練された一つの自分のなかでの重要な映画として位置していたものの今まで繰り返し観ることはしなかった映画である。










他の映画とは違う複雑な重い後味を自分のなかに残していた映画だったからかもしれない。
あんまりこれまで観たいと想えなかったのである。










それが昨晩ようやく20年振りの二度目に観て、非常にしみじみとした複雑な後味を残している。
なんでかとゆうと、この映画はドラッグを主点に置いた映画というよりも、1980年代に失業保険で暮らす労働者階級の若者たちがドラッグの快楽に逃げるように溺れながらも「普通に暮らす人々」を嘲笑い、嫌悪し、皮肉たっぷりに終る映画だからである。










よう考えたら、その「普通に暮らす人々」って自分の親や姉兄じゃん、ということがわかって非常にやりきれなさを残す映画なのである。
うちの父親も趣味と言えば釣りや映画音楽を聴いたりテレビで時代劇や洋画を観たり、川や池の魚を飼育するくらいの平凡な普通の人であった。
映画のなかで皮肉を言われている日曜大工を楽しんだり、車を大事にして休みは家族で出掛けることを楽しみとする人であった。











姉や兄たちも今ではちゃんと働く人であって、働かないと決めた〈ならず者〉の自分とは違う暮らしを頑張って生きている普通の人たちである。
でも当時は、兄も21歳とかでバイトをしながらロックバンドをやっていて、夢はバンドで生きていくような「普通の人々」とは違う生き方を心から望んでいる人だった。
でも兄はその夢は叶わず、今ではブラック企業で身を削るようにして働いている。
平均睡眠時間は3時間だと言っていた。











こんな暮らしをする人々が世界中にごまんと居る。
そんなきれぎれな生活を送る人にも本当はドラッグが必要なことがわかる。
それぐらい苦しい生活がそこにはあるということだ。










自分の親も姉兄自分も全員が学歴の無い労働者階級の人間である。
上の兄の下の息子は中学は不登校気味でヤンキーらとつるんでいたが、卒業して友人繋がりですぐに土木作業会社に勤めて仕事を真夏も真冬も真面目に頑張っている。
ドラッグや酒の方向に進んでもおかしくはなかったのに、そうはならなかったことにほっとする。
もし、若いうちからドラッグや酒に進んでいたなら、その後立ち直れず破滅してゆく可能性は高かっただろう。









自分の場合が、立ち直れない人間である。
お酒を手放すことが出来ない人間である。
このまま破滅してゆく未来は恐ろしいほどに近づいていると感じる。









ドラッグを目のまえに今置かれてもやる気はさらさらないが、しかしこれから病気などの本格的な苦しみが遣ってきたなら、ドラッグの力を借りたいと想うものかもしれない。
家族や恋人や友人が居たなら乗り越えられるものかもしれないが、自分には姉と兄以外は誰も居ない。
姉や兄に病が苦しいからと言って四六時中付き添ってもらうことなどできない。
病とは独りで闘うしかない。

普通に暮らせている人間だったなら、きっと恋人や夫や子供が傍にいてくれたんだろう。
でも自分にはそんな人間はいない。
世界をニヒルな眼差しで眺めて「闇が深い」と会う人会う人に言われているような自分の傍にいたいと言う人間はどこかにいるのか?

ユアン・マクレガー演じるレントンはラストで普通に生きる人々に唾を吐くような形で成功した人間の如くに映画は終るが、レントンの行く末は、わたしではないのか?と想わないではおれない。
自分は確かに普通に生きていくのは耐えられないし、普通の生活には満足できない人間だと感じる。
でも同時にこの生活にもまさか満足などできるはずもない。
人の税金でお酒を飲んで、嫌なことは何一つしない。
それに満足できる日は、もう発狂してしまった日だろう。
もう戻れないかもしれない。人間には。
トキソプラズマ症で死んだケヴィン・マクキッド演じるトミーの最期が自分や兄に重なって仕方ない。
なんで兄にも重なるのかというと、兄の暮らす実家は今や猫11匹の暮らす猫屋敷と化しているからだ。
うちはゴミ屋敷てな感じである。
片付けたり掃除をする気力が兄にも自分にもない。
おまけに独り暮らしである。
誰も助けてくれない。
生きていくだけで精一杯だと言えば自分の場合は罵られるかもしれないが、実際、廊下に落ちている髪の毛を一本拾うことすらしんどさを感じる。

レントンの行く末はやはり自分ではないか?
ドラッグは後遺症で鬱病を発する。
わたしのように便座カバーを半年以上変えなくても平気でいられてしまうような生活をレントンも送るのではないか?
不衛生で病気になるとわかっていても便座カバー一つ変えるのが酷く億劫な暮らしがレントンにも待っているのではないのか?

人の金で手にしたモノとは、一体なんだったのだろう?
わたしの場合は、今のこの自堕落極まりない引籠もりの暮らしである。

ドラッグを遣っていたなら、もう少し早く死ねるのかもしれない?
酒というドラッグでも十分早くに死ねるだろう。

一体どうすればいい?レントンの未来がそう自分に悲痛な声で訴えかけてくる。
一体俺たちはどうすればいい?
このまま死ぬのかな?
誰一人、信じることもできないまま。

嫌だなぁ。そんなのって。
「俺だって普通に生きたかった」
そうつい呟いてしまうレントンの将来がわたしには垣間見えて仕方なくなる。

しかしそんな未来を選んだのは、確かに自分なんだろう。