赤ひげのこころ

お客様の遺伝子(潜在意識)と対話しながら施術法を決めていく、いわばオーダーメイドの無痛療法です。

「わが 青春の譜」 菅 房雄のシベリア抑留記 ⑳

2018-07-30 12:09:09 | 戦後73年、今伝えなければ・・・

⑲からの続き.

(ましてや独特の作業従事していた奴等。帰りたい
一心での檄」(であろう と)。 更には、ソ連讃歌云々と。

頭にきて、この野郎と思えど、今まで我慢に我慢を重ねてきたものを と。
分隊の中で一番の若輩が俺。 四十過ぎた召集兵の胸中偲べば、
同じ日本人が、日本人に? 十人十色と云うが此処まで来て今更 と。

幾日位汽車に乗ったか、昨日見た煙、位置こそ違え、今日も亦見える。
アムール(河)の船の煙か。 懐かしいハバロスクも過ぎ、
沿線樹木の種類も変わって来る。 愈々ナホトカ?

日暮れ時、ナホトカ着、幕舎に入る。間もなくオルグ来たり。檄を飛ばし労働歌斉唱。
床に就く。 目が冴えて眠れず。 
翌朝起床、海辺の収容所、トイレ水洗。 海中に突出して居る。
波荒いときはうっかりしては居られない。用足せば波がザンブリ。此れが本当のWC

昨日車窓から見えた興案丸。
船腹にクッキリ浮いた赤十字。丁度、湾を出ていく処だった。
今日は違った船、入って居る。
間もなく整列。 乗船名簿一人一人読み上げられる。
哀れと云おうか、悲惨か。 遂に我が名出ず。 
此処まで来て(十月も末、引揚戦船も終わる頃)何とも云えず。
が、聞いてみたらアルファベット順との事。 俺の頭文字X(XOCU)。

中一日置いて乗船。 船に乗っても外海に出るまでは安心できない。
今まで騙されに騙され続けて来たわれわれ。 やっとホットする。
帰れるのだと云う気持ちと、帰ってからの生活考えれば暗澹たるもの有り。
待つ人の居ない故郷。 兄もビルマ激戦地。
長男も抑留、四十過ぎの身体では・・・
と思えば、明るい希望は持てない。

日本海の真っ只中、夜、マストの灯火。浮きつ沈みつ見える。
ナホトカに向かう船であろう、波間に見え隠れした。
彼の船が二十四年最後の船だった。 後で知る。

未だに陸地の見えない荒海に、日本の漁船を見掛ける。小さな船。
四年ぶりで見る同胞、日本人。
時に昭和二十四年十月二十五日、舞鶴港着。に分乗、埠頭に。
埠頭でスクラム組んで労働歌唄って居た連中、MPに海中に押し倒される。

好んで行ったシベリアでは無い。満四年、死線を越えてきたわれわれ。
待って居たのは?ソ連の囚人から日本の囚人?
中隊長、小隊長、梯団分離
何処に行ったか?帰りの汽車にも乗り合わせず。

思想調査やら各種検査。千円貰う。被服支給になる。毛布、外套無し。
シベリアから着て来た綿入れ服。入れ物ないので風呂敷買ったら驚いた。
日本字新聞に報じられて居た数字。 まさかと思っていたが、
煙草買ったら此れ亦驚き。 貨幣価値の無い事よ。

たまたま白衣の天使を見掛ける。オオ日本の女性だ。

*編者注

・帰りたい一心での檄~: 同じ車輛の日本兵が、
 「厩舎労働で楽していたお前達が檄を飛ばしたところで、
どうせ帰りたい一心からの檄なのであろう」 と。

・四十過ぎた召集兵の胸中: 筆者も頭にきたが、
 周りに合わせて檄を飛ばした彼の老兵の胸中を偲べば・・・。

・此処まで来て今更: やっと捕虜から解放されて、復員船に乗れたのに、
 何をいまさら、檄だ、ソ連讃歌だなどと言うのか。

・WC: W.C.(Water Closet)水洗式便所の事。

・オルグ: オルガナイザーの略で組織者の意。
 労働運動や大衆運動などの組織から派遣されて勧誘を行う者。
嘗ては左翼運動などに用いられていたが
現在では様々な組織一般において用いられている。

・二十四年最後の船: 昭和24年の、最後の帰還船。

・舞鶴港: 京都府舞鶴。シベリアからの引揚船到着港。 

・艀:  はしけ。本船から波止場(埠頭)までの間を、人や貨物を運ぶ小型の船。

・梯団: 大部隊の移動に当たり、便宜上幾群かに分けたその各群。

・分離: 一定の階級にあった者を、詳しく調べるために分離したものか?

・貨幣価値: 終戦を境に、貨幣価値が大きく下がった。戦後の物不足による
 インフレである。 庶民向けの紙巻きたばこ、ゴールデンバットは、
昭和15年当時9銭(10本入り)だったものが、20年の終戦直後は
(20本入りに変わってはいたが) 公定価格で35銭。 ヤミ値で13円。
25年には30円。 戦前の70~160倍以上の値上がり。

 白米10kgが15年に3、3円だったものが、20年には値が付かず
(闇でさえほとんど手に入らず)。 25年には990円(戦前の300倍)

 砂糖1kgに至っては、15年に47銭だったものが、20年には公定価格では1円だが
実際はヤミ値で270円、 25年310円。(戦前の660倍)

 15年~20年の終戦までは価格統制の影響もあり、
物価にそれほど大きなの変化はなかったはずなので、
筆者が出征した当時と、復員した時とでは、
米の値段で言うなら、300倍もの開きがあったことになる。
  


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