赤ひげのこころ

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三春藩士時代の 菅家関連資料 ⑤ 田村乃小史(家中本席)

2018-09-20 11:21:29 | 菅家系記録

 

*(田村乃小史59~63頁)

安政五年四月 三春藩家中本席

御城代 御大老
四百石 細川 孫太郎~百五十石 諸奉行。

御譜代席
七百石 秋田 調~百五十石 湊 潤蔵まで4人

一代席
十五人扶持 荒木 規~二百五十石 大浦恵蔵まで18名に続いて
御留守居元〆 郡代上席 町奉行 大目付 作業奉行  郡奉行 とあり

一代上席
二百五十石 赤松主馬~十三人扶持 上田挑安までの
氏名が記されている。
一代上席の37番目に第7代当主菅 甚五の名が記されている。

最後に 以上百四十四人 と記されているが、どこからの人数なのかは不明。

給人席
天保年間以降新規給人に仕ふ。
十人扶持 園部権蔵~十人扶持根本一郎まで十三人の名が記されている。

*(田村乃小史64~65頁)

新給人十三人
享保十年より安政五年迄百三十年間 士族の変動多く、
殊に嘉永・安政の頃に至りては
人材の登用の必要に迫られ、
旧来の如き お家格式を以て治国すること不可能とされる如く、

藩学校の設置、士子弟の講学、講武所、
重要視されて 明徳堂設立等に人材を仕官させた。

三春藩内領庄屋 元禄十一年(寅)
三城目村 会田 善蔵~
以下略。

                                           
*一代上席の37番目に 百石 菅 甚吾の名が記されている。
甚吾・正祥(まさよし)は菅家第七代当主。
 伯父の書付によると
「祝祭日などの登城日には、
石高を問わず畳数によって各人の席順が決まっていた」とのこと。


   *編者注

・安政五年:
 (
1858)
この年の五月に、第十代藩主 秋田肥季(ともすえ)に
 三男 映季(あきすえ)が生まれ、映季は後に第十一代 三春藩最後の藩主となる。
江戸ではコロリ(コレラ)が流行。幕府は日米通商条約をはじめ五か国との条約締結。
これらの条約は朝廷の勅許を受けずに行なわれたところから、
幕府への批判が高まる。しかし同年大老に就任した井伊直助は、
批判派を徹底弾圧(安政の大獄)。
これらは万延元年(1860)の、「桜田門外の変」へとつながってゆく。

・秋田肥季: あきたともすえ。第十代三春藩主。元治元年(1864)、
水戸天狗党の乱では、天狗党が目指そうとしてしていた日光山の守護を命じられ、
藩兵を率いて日光に滞在。

・水戸天狗党の乱: 水戸藩における尊王攘夷派の呼び名。
 第9代水戸藩主 水戸斉昭(なりあき)は、学者の藤田東湖ら下級武士を登用。
藩の全領検地や藩校 弘道館の設立など、積極的な藩政改革を行った。
 ペリー来航で危機が高まると斉昭は幕府政治にもかかわるようになり、
藤田東湖とともに全国の尊王攘夷派のシンボル的存在となった。
 斉昭は大老 井伊直助と対立。安政の大獄で処罰を受け、
藩内は天狗党と呼ばれた改革派と、諸生党と呼ばれた保守派(改革反対派)に分裂。

 元治元年(1864)、攘夷の決行を幕府に迫る、として
藤田小四郎(東湖の子)ら天狗党急進派は筑波山にて挙兵。
諸生党や、幕府の軍としばしば戦うも次第に追い詰められ、
水戸藩領北部の大子(だいご)に逃れた。
 その後、当時京都にいた一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ。斉昭の子。後の十五代将軍)
を通じて朝廷に攘夷を訴えようと、京都を目指したが、諸藩の追討を受け遂に投降した。
 その後の処罰は、死罪352人、島流し137人、水戸藩渡し130人。
更に国許では死罪となった者らの家族も殺されるなど、
その末路は悲惨なものであったという。

・藩兵を率いて: この藩兵の中に、菅家6代当主 市三郎・正福(まさよし)の子、
 宝蔵院流槍術指南役 菅 鉞之助(えつのすけ)がいたと思われる。
三春藩命による日光守護在職中に切腹。 ”発狂によるもの”として処理されたが、
妾腹の子であったために、菅家第七代の名跡を継ぐことが出来ず憤慨、
旧弊に抗議するために自死したもの と伝えられている。
 
甚吾: 菅家第7代当主。 
会津藩鉄砲指南役 三百石 千葉弥太夫の三男。
 菅家の養子となって名跡を継いだ。


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