赤ひげのこころ

お客様の遺伝子(潜在意識)と対話しながら施術法を決めていく、いわばオーダーメイドの無痛療法です。

「わが青春の譜」 菅 房雄のシベリア抑留記 23(最終回)

2018-08-09 17:19:40 | 戦後73年、今伝えなければ・・・

 *22からの続き。

(食糧不足と重労)働に加えて精神的心労。
パパ曰く、「百姓のちゃん、隣の親爺とよろしくやってるやろ」
(心のゆとり。其の物ズバリ。農業を営んでる者ならたとえ死んでも
家族は何とかやって行けるだろうが)
彼達絶対に帰らなければならん者が・・・ああ無情。 
其の者達が
斃れて行く。

舞鶴の港に、幼子背負い何に人か尋ね歩く婦人が一人。
斯く斯くの兵、ご存知有りませんか と。
某県出身と云ってたから若しや?その若しやが
だが俺には云えなかった。好いか、悪いかではない。

岸壁の妻か。会者定離。諸行無情。
楽しいはずのない軍隊生活。ましてや捕虜生活だったが、
今となっては思い出話に変わる。 苦しいことも珍談にさえなる。

軍人勅諭に縛られ、戦陣訓  (恥を知れ。恥を知る者は強し。
常に郷党家門の面目を思い、
生きて虜囚の辱めを受けず。
死して罪科の汚名を残すことなかれ) 虜囚よりも死を選ばしめた。  
死も命令である。 軍隊に人権が認められては戦争は出来ない。
生活も肉攻と云う死への旅路の毎日であった。

”灰色の青春”なぞと、いまさら悔いることもない。
あれはあれで良かった。と云うのが、
われわれが抱く戦争体験の美学であろうか。

昭和六十二年十二月 
菅 房雄

*中国東北部の地図

浜港省双城県周家
独立輜重 57大隊 6中隊
満州第6261部隊 はやし隊
海林編成 第135大隊
と、所属した部隊名と
入ソ四年地区、 帰国経路、
入ソ汽車、 入ソ徒歩、 入隊経路が
添付の地図に色分けされた線で記されている。

  *編者注

・嬶: かか、あるいはかかあ。妻を荒っぽく云う時の表現。

・たとえ死んでも: たとえ自分が死んでも、農家なら何とか生きて行けるだろうが。 

・其の者達が~: 農家ではない彼等、絶対に帰らねばならない彼等が・・・。
・何に人か: なにびとか。あなたは何処のなんという部隊に居たのか、

・若しや: 自分の知っている、あの戦友ではないか?
 もしそうだとしたら・・・の意。 
後述の「岸壁の母」の歌詞、 ♪若しや、もしやに~ にも掛けている。

・岸壁の妻: ”岸壁の母”をもじったものか。シベリアからの帰還船の入港予定を知ると、
 そのたびに、息子が乗って居るのでは? と出迎えに通う母たちを、
マスコミが岸壁の母と呼称した。
 その一人、端野いせをモデルに作られた歌謡「岸壁の母」は、
菊池章子、二葉百合子らの大ヒット曲となり、また映画化もされ、ドラマも作られた。

・軍人勅諭: ぐんじんちょくゆ。軍人に賜りたる勅諭。明治15年、
 明治天皇が軍人に対して賜った忠節、 礼儀、武勇、信義、質素の五ケ条の勅諭。 
一、(ひとつ)軍人は忠節を尽くすを本分とすべし、など。

・戦陣訓: 戦陣での訓戒の事。此処では昭和20年(1941)年、
 陸軍大臣 東条英機が示達した訓令を指す。 

恥を知る者は強し。常に郷党きょうとう家門の面目を思ひ、
愈々いよいよ奮励ふんれいしてその期待に応ふべし。
生きて虜囚りょしゅうの辱はずかしめを受けず、
死して罪過の汚名を残すこと勿なかれ。

                              (「戦陣訓」本訓其の二。第八 名を惜しむ の一節)

・郷党家門: きょうとうかもん。郷里の人々や、家族、一族。 

・生きて虜囚の~: 生きてるうちは虜囚として敵の辱めを受け、
 死んだ後も、命惜しさに敵に降ったという汚名を残すことになる。
そうなる前に、潔く自決せよ、と。

・肉攻:戦争も末期になると、不足する武器弾薬を用いて
いかに効率的に敵に打撃を与えうるか、
の観点からだろうか、様々な特別攻撃(特攻)が考案され実施された。
肉攻(
肉弾攻撃)もその一つ。身体に爆雷を巻きつけて、
敵戦車等の下に潜り込み爆破する等の攻撃。

他にも航空機による特別攻撃(神風特攻)、
水中特攻(日本軍初の特攻兵器 人間魚雷「回天」や、特殊潜航艇「海龍」)、
ベニヤ板製の船体にトラックのエンジンを乗せた(「震洋」や「マルレ」)による
洋上攻撃など、竹槍で敵を突き殺すにひとしいような
無謀な攻撃が考案され、実行されていった。

  *編者あとがき

掲載を終えた今思う。
もし編者があの時代に生きなければならなかったとしたら、
いったいどんな思いで、どんな生き方をしただろうか、と。
いや、果たして 「どんな生き方ができただろうか?」 と。

私は、誰にどのような理屈をつけられて説得されようとも、
”戦争” だけは絶対に容認できません。

次代を担う多くの人たちが、将来、
『この道はいつか来た道・・・』 と、嘆き悲しむ事の無いように
此の体験記が少しでも役に立ってくれることを、
切に切に願うばかりです。

なお、筆者の文章には、旧字や当て字が多用されていたり、
言い回しや文脈の構成が独特であったり、と、
かなり難解な部分も多かったことと思います。
 文意が伝わりやすいようにするために、
編者として最低限の補正を行った箇所もありますが、
なるべく原文通りの掲載を心がけました。

ただ、原文のタイトルは「わが青春の賦」となっている。
「賦」とは税を取り立てる、割り当てる
(賦役、賦課など)の他、
天からの授かりもの、生まれつき(天賦)とか、詩歌などの意味がある。
筆者がどのような思いで賦を用いた(あるいは誤用した)のかわからないが、
天から与えられた”運命”の様な意味にはとらえたくはない。
よって編者の判断で
物事を系統だてて順序良く記録したものの意味である
「譜」の文字を用いたことをお断りしておく。

最後に、菅 房雄をはじめ、
既に亡くなられた多くの
シベリア抑留体験者たちのご冥福を心からお祈りし、
また、ご存命の方々には一日でも長く、
心安らかな日々をお過ごしいただけることを祈念いたします。

*関連記事
叔父、菅 市三郎のシベリア抑留記 「空白の人生」
⇊   ⇊   ⇊   ⇊
https://blog.goo.ne.jp/akahigestart01/e/2ad69dd47613063b0ec0d53c58e5d35e


「わが青春の譜」 菅 房雄のシベリア抑留記 22

2018-08-07 17:43:43 | 戦後73年、今伝えなければ・・・

*21からの続き。

(終戦の齎した(もたらした)もの。そ) れは
肉体的、精神的にもあまりのにも過酷で有った。

特に在満開拓民。 政府に見捨てられ、軍部亦然り。 
棄民。そう、棄てられた民。 あまりにも残酷。 あまりにも悲惨。
軍部の家族が逃げ、 満鉄の家族が逃げ。只残されたのは
王道楽土の建設と?(建設とか?) 国策とか、美名の下に送り出され、
棄てられた開拓民よ。
棄民哀れ。 根こそぎ動員、 残された老幼婦女子、あるいは自決。
あるいはソ連兵に。 暴徒と化した原住民のなすが儘。
其の帰着する先は、死か。

父も死んだ、母も。 ビルマに転戦した兄もマンダレーの地に散華
飢餓の線を彷徨い、死と隣り合わせ乍らも、何とか持ちこたえて、
現在兄夫婦、甥、姪の住む那須山麓に降り立ったこの身。

墓場に眠る者よ静かに眠れ。
(幾百萬の魂、墓場に眠る事もなく、異国の空を彷徨い続けて居るで有ろう)
生きとし生ける者人の世を享受せよと。
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響き有り、とはよくも云い表したものよ。
とまれ、人間万事塞翁が馬? 只有るのは諦念のみ。
信頼と棄却の限界点とは那辺に有ったのか。

古兵どのに捧げる

柳屋金語楼 ソックリ。愛称パパ。殺伐とした抑留生活を如何に慰めてくれた事か。
石山隊の古参上等兵殿、出身地三重県。 今も尚 賀状の交換をして居る。
十五才位年上か。記憶の糸を手繰って行くと、そう、八〇六分所(当初)の厩舎だった。
当番兵、山本某(蹄鉄工、三重県出身)と一緒だった、年令も十五才違うとだいぶ違う。
若い小生でも一応立場上、云いたくない事も言わなければならない。

有り難かった。それはそれで受け止めてくれる。絶えずニコニコ。
一寸腰をかがめた姿。それは百姓のオヤヂサンそのもの。
その姿に如何に励まされたか。

パパ曰く、八〇一分所当時、バーニヤ(浴場)当番。
土曜日はソ連人マダム(ソ連女の総称) 入浴に来たり。
「ヤポンスキー外に行け」 と。
オッチャン やおら頭に(禿げ頭)手をやり 
「オ前達のソコ(恥部)、斯くの如くならんや」 と。
スマトレ(見ろ)とて、覆っていた
タオルはずしたとかで 可々一笑。
兵士云う有り。 トウモロコシではなー と。 一事が萬事(そんな調子)

・・・中小企業に勤めて居た者、或いは外地(満州省公庁)に勤めて居た者。
見るも哀れ。左も有りなん。 無敵の国が破れ、初の体験。
妻は子は、はた亦親は?。 肉体的(食糧不足と重労働)に加えて精神的心労。

   *編者注

・王道楽土: 平で思いやりのある政治が行われている平和で楽しいところ。

・根こそぎ動員: 太平洋戦争末期、不足する兵力を補うために、
 本土及び満州で行った動員の通称。

・マンダレー: ビルマ(現在のミャンマー)のほぼ中央に位置する地域。

・散華: 此処では、花と散るの意味で戦死の事。 

・人間万事塞翁が馬: 人生の幸不幸は予測できないものだ、というたとえ。

・諦念:  ていねん。ここでは、あきらめの気持ち。

・柳屋金吾楼: 戦前戦後に活躍した落語家。喜劇俳優。

可々一笑: 可々とは、ワッ八ッハなどと大笑いするさま。
 可々大笑などと使うが,此処では控えめに一笑 と。

・トウモロコシでは~: トウモロコシの様に毛がぼうぼうと生えていては、の意。

*23へ続く。


「わが青春の譜」 菅 房雄のシベリア抑留記 21

2018-08-06 18:08:21 | 戦後73年、今伝えなければ・・・

*⑳からの続き。

(オオ日本の女性)だ。

が、脚線の伸びた彼の国の女性を見慣れた目には、一寸いただけない感じ?
若かった。
昭和二十四年十月三十日午後四時頃? 舞鶴港の復員列車。

燈の灯るころ京都駅着。 窓越しに見えるのはフォームに貼られたロープ
(運動会の綱引き位の一寸細め)。 そして二米間隔位に立つポリ公の背中。
一寸止まっただけで直ぐ出発。 真夜中名古屋駅。
御同様ロープとポリ公の背、背、背。
フォームを隔てた客車ではヤンキーの馬鹿騒ぎ。

夜が明け、暫くして静岡駅着。
婦人会のタスキを掛けた御婦人方に(若い娘も居た)ご苦労様でしたと、
お茶の接待を受ける。 涙に目が霞んで母の顔、姉の顔が交錯する?
何のためのロープ。 ポリ公の厳戒。 何故だ何故?何のため。
胸中去来するものは、空しさと阿呆らしさ。
四年間の空白。それを埋めるものは? 

昨年(昭和二十三年)発令された
マックアサーレッドパーディー(赤追放)その故?
そしてわれわれ、赤の精鋭で有る と?
満四年もソ連に抑留洗脳された積極分子で有る との見解?

冗談じゃない、誰が好ん厳寒の地に、
食糧も無く、栄養失調で斃れて行く仲間を、
何のなす術もなく傍観 (しなければならなかったのか)。
最低のドン底の中で、頼れるものは只自己のみ。
神も仏も? 只有るものは自分自身。 自分に負けたものが敗者。即(ち)死。
(彼等の遺品を)温かい家族の手にと(思っても)、途中下車禁止。

嘗て復員した連中、大挙して入党。可也ハデにやった様だ
(俺達には資本主義と共産主義、比較対照してみれば) 
彼らは若かった。精神的に。且つまた思想的にも染め易かった連中が。
亦それゆえに俺達よりは早く帰れた訳。
満四年も居たから精鋭? とまれ見解の相違。
同化出来得なかったからこそ帰国が遅れた、そのほうが妥当だろう。
先に帰った連中調子込み過ぎ、日本共産党でも厄介者になった。

ヤポンスキー、ワインナプレンナ、ソルダット、ガヂレータ
日本人戦時捕虜兵新聞)に野坂批判なるものが掲載された。
彼らの所業、プラスよりもマイナスの面が多かった。
だからこそ理論的意識水準の低いのが一番困る。
何時の世にも、いつの日も。

上野駅着。家族が迎えに出て居るが、俺には居ない。
此処からは普通列車。迎える人も無く、案内に従って乗車間もなく発車。
見るともなく目に入って来たのはビルの窓から振られる赤旗、赤旗。
何故赤旗が。目を一方に転ずれば前記の都電の姿。
只只無我の境地。好く云えば、只放心した?もぬけの殻。
過去現在が去来する。

宇都宮駅着。長兄が乗る。出征前の兄とは・・・・・・
兄貴かと聞く
終戦の齎した(もたらした)もの、
それは、肉体的精神的にもあまりにも過酷であった。

  *編者注

・ヤンキー イギリスや日本でアメリカ人を指す俗称。

・マックアサー: マッカーサー。連合国軍最高司令部の最高司令官、
 アメリカ人のダグラス・マッカーサー元帥。

・レッドパーディ: レッドパージ。マッカーサーの指令に依り、
 日本共産党員やシンパ(同調者)が公職を追放されたことに連動して、
その期間の前後、共産党員や支持者とした人を公務員や民間企業が
解雇した動きを指す。 赤狩りと呼ばれ、1万人以上が失職した。

・比較対象してみれば: それぞれの主義1良しあしが自分で判断できる。

・日本人戦時捕虜兵新聞: ソ連が日本人捕虜向けに発行した新聞。
 捕虜に対する共産主義教育などを目的とした。日本名では日本しんぶん。

・兄貴かと聞く: 戦前と比べ余りの変わり様に、本当に兄貴か?と。

*22へ続く。

 

 

 

 


「わが 青春の譜」 菅 房雄のシベリア抑留記 ⑳

2018-07-30 12:09:09 | 戦後73年、今伝えなければ・・・

⑲からの続き.

(ましてや独特の作業従事していた奴等。帰りたい
一心での檄」(であろう と)。 更には、ソ連讃歌云々と。

頭にきて、この野郎と思えど、今まで我慢に我慢を重ねてきたものを と。
分隊の中で一番の若輩が俺。 四十過ぎた召集兵の胸中偲べば、
同じ日本人が、日本人に? 十人十色と云うが此処まで来て今更 と。

幾日位汽車に乗ったか、昨日見た煙、位置こそ違え、今日も亦見える。
アムール(河)の船の煙か。 懐かしいハバロスクも過ぎ、
沿線樹木の種類も変わって来る。 愈々ナホトカ?

日暮れ時、ナホトカ着、幕舎に入る。間もなくオルグ来たり。檄を飛ばし労働歌斉唱。
床に就く。 目が冴えて眠れず。 
翌朝起床、海辺の収容所、トイレ水洗。 海中に突出して居る。
波荒いときはうっかりしては居られない。用足せば波がザンブリ。此れが本当のWC

昨日車窓から見えた興案丸。
船腹にクッキリ浮いた赤十字。丁度、湾を出ていく処だった。
今日は違った船、入って居る。
間もなく整列。 乗船名簿一人一人読み上げられる。
哀れと云おうか、悲惨か。 遂に我が名出ず。 
此処まで来て(十月も末、引揚戦船も終わる頃)何とも云えず。
が、聞いてみたらアルファベット順との事。 俺の頭文字X(XOCU)。

中一日置いて乗船。 船に乗っても外海に出るまでは安心できない。
今まで騙されに騙され続けて来たわれわれ。 やっとホットする。
帰れるのだと云う気持ちと、帰ってからの生活考えれば暗澹たるもの有り。
待つ人の居ない故郷。 兄もビルマ激戦地。
長男も抑留、四十過ぎの身体では・・・
と思えば、明るい希望は持てない。

日本海の真っ只中、夜、マストの灯火。浮きつ沈みつ見える。
ナホトカに向かう船であろう、波間に見え隠れした。
彼の船が二十四年最後の船だった。 後で知る。

未だに陸地の見えない荒海に、日本の漁船を見掛ける。小さな船。
四年ぶりで見る同胞、日本人。
時に昭和二十四年十月二十五日、舞鶴港着。に分乗、埠頭に。
埠頭でスクラム組んで労働歌唄って居た連中、MPに海中に押し倒される。

好んで行ったシベリアでは無い。満四年、死線を越えてきたわれわれ。
待って居たのは?ソ連の囚人から日本の囚人?
中隊長、小隊長、梯団分離
何処に行ったか?帰りの汽車にも乗り合わせず。

思想調査やら各種検査。千円貰う。被服支給になる。毛布、外套無し。
シベリアから着て来た綿入れ服。入れ物ないので風呂敷買ったら驚いた。
日本字新聞に報じられて居た数字。 まさかと思っていたが、
煙草買ったら此れ亦驚き。 貨幣価値の無い事よ。

たまたま白衣の天使を見掛ける。オオ日本の女性だ。

*編者注

・帰りたい一心での檄~: 同じ車輛の日本兵が、
 「厩舎労働で楽していたお前達が檄を飛ばしたところで、
どうせ帰りたい一心からの檄なのであろう」 と。

・四十過ぎた召集兵の胸中: 筆者も頭にきたが、
 周りに合わせて檄を飛ばした彼の老兵の胸中を偲べば・・・。

・此処まで来て今更: やっと捕虜から解放されて、復員船に乗れたのに、
 何をいまさら、檄だ、ソ連讃歌だなどと言うのか。

・WC: W.C.(Water Closet)水洗式便所の事。

・オルグ: オルガナイザーの略で組織者の意。
 労働運動や大衆運動などの組織から派遣されて勧誘を行う者。
嘗ては左翼運動などに用いられていたが
現在では様々な組織一般において用いられている。

・二十四年最後の船: 昭和24年の、最後の帰還船。

・舞鶴港: 京都府舞鶴。シベリアからの引揚船到着港。 

・艀:  はしけ。本船から波止場(埠頭)までの間を、人や貨物を運ぶ小型の船。

・梯団: 大部隊の移動に当たり、便宜上幾群かに分けたその各群。

・分離: 一定の階級にあった者を、詳しく調べるために分離したものか?

・貨幣価値: 終戦を境に、貨幣価値が大きく下がった。戦後の物不足による
 インフレである。 庶民向けの紙巻きたばこ、ゴールデンバットは、
昭和15年当時9銭(10本入り)だったものが、20年の終戦直後は
(20本入りに変わってはいたが) 公定価格で35銭。 ヤミ値で13円。
25年には30円。 戦前の70~160倍以上の値上がり。

 白米10kgが15年に3、3円だったものが、20年には値が付かず
(闇でさえほとんど手に入らず)。 25年には990円(戦前の300倍)

 砂糖1kgに至っては、15年に47銭だったものが、20年には公定価格では1円だが
実際はヤミ値で270円、 25年310円。(戦前の660倍)

 15年~20年の終戦までは価格統制の影響もあり、
物価にそれほど大きなの変化はなかったはずなので、
筆者が出征した当時と、復員した時とでは、
米の値段で言うなら、300倍もの開きがあったことになる。
  


「わが青春の譜」 菅 房雄のシベリア抑留記 ⑲

2018-07-30 12:08:06 | 戦後73年、今伝えなければ・・・

*⑱からの続き。

(後日談になるが、復員列車、途中、名古屋駅)
深夜停車。米兵共の姿オフリミット
更には上野駅で傍見した都電、 鈴成りの電車。
その中に一輌?二輛、オフリミット。がら空き。
ブルジョア民主主義とプロレタリア民主主義の差か。

ノルマ、ノルマで追い立てられ、今、亦々秋風吹き始めるSEP.OCT。
九月も過ぎ十月。 愈々今年も駄目?
此の冬越すかと思うと 張りつめた気も抜け。
極東の土となるか。 
懐かしい故郷ともお別れ。
精神的な打撃。 此の冬迎えれば終わりだ と。

十月に入ったある日、彼のザグーシ、俺の子供二、三日見てくれ と。
何の事やらその意を解しかねて居たら、
彼のマダム(彼のチャイナ系)も、タバリシ、ホシ(同志、星)子供を二、三日頼むと。
亭主(ザグーシ)、彼女、 
インソレメンターク(機材庫責任者)の供に
四地区中央であるテルマに(行くと)。 彼馬、機材彼女、返納に行くとの事。
其処でヤポンスキー ワインナプレンナ ソルダット(日本軍戦時捕虜兵士)が
彼達の子供、男の子二人与かる(預かる)。

何処の児も同じ。 
父母が置いて行った食糧 (当時は尚の事、彼らも満腹ではなかった)
早々に喰って終え、 営内の食堂から貰って来てくれ と。
そして 
彼らが V・C補給源として、夏の間に木の実を取りポーチカ(桶)に貯蔵して置く(食糧を)、
子供たちに過食させない様に と頼まれた手前(どうしたものか)?

如何に(いかに)民族人種の差別が無いとは云っても、 俺は日本人(敵国人)。
同じ収容所にはロスケが居るのに。
吾々の意識水準では到底考えられない。
が、俺も男だ。 変な侠気を出して、彼の家で子供たちと寝る。
処が、だ。 夜半南京虫の大襲撃を受け、眠る処じゃない。
ソ連に居て南京虫にやられるとは? 

秘密主義の国、ダモイ(帰国)となると早い。 中一日位か。
サラ(新品)も有ればセコ(中古)も有ったが、一応被服交換。 
品の防寒衣 (綿衣半外套) 支給され、収容所閉塞。
乗車、アレヨアレヨと云う間の ダモイ第一歩。 全員乗車終わるや直ぐ出発。
歩いて来た路、汽車に乗って。 心ウキウキ、早や夢は故郷に。
が、一寸待て、われわれにはまだまだ幾多の試練が、関門が有る。

車中、檄を飛ばす(者あり) 「オイ、お前の分隊」
(帰国兵、亦旧軍隊式。大隊、中隊、小隊、分隊。
只、違うのが 各々の長が嘗ての二等兵やら上等兵やら。 俺 分隊長。
何とか苦楽を共にした仲間、一緒に故国の土を踏みたいと念ずるのみ)。

当分隊も 老兵、 檄を飛ばして意気上がる。
処が同じ車輌の同じ日本兵、 
「オ前達の様に厩舎勤務員、数少ない連中、ましてや独特の作業に従事していた奴等、
帰りたい一心での檄」(であろう と)。
更にはソ連讃歌云々 と。

*⑳へ続く。

  *編者注

・米兵共の姿。 進駐軍兵士のほとんどはアメリカ人だった。

・オフリミット: 立ち入り禁止。またその区域。 進駐軍専用の使用区域の事。

彼馬、機材彼女: 彼(ザグーシ)は馬を、マダムは機材を担当して返納のお供。

・彼等が: ここでは食堂担当の捕虜たち。

・南京虫: なんきんむし。トコジラミのこと。

・進駐軍: 日本を占領した連合国軍。米軍が主体で、
 アメリカのダグラス・マッカーサー元帥を最高司令官とする
連合国軍総司令部(GHQ)が東京に置かれた。
 敗戦を終戦と言い、占領軍を進駐軍と言う様な言い換えは日本のお家芸?

*⑳へ続く。