赤ひげのこころ

お客様の遺伝子(潜在意識)と対話しながら施術法を決めていく、いわばオーダーメイドの無痛療法です。

父の手紙③

2015-09-25 13:40:25 | 戦後70年、今伝えなければ・・・





前略 先般は内地送菓の件 厚く御礼申上ます
何しろ内地帰還後 初めての由にて
彼等 如何ばかり喜びたるかと想像いたし
貴女様の御厚意を征野より深く感謝致して居ります

如月(きさらぎ=陰暦二月)の梅の花咲く時とは云え残寒しのぎ難き折
貴女様にはお変わりなく 定めし御機嫌よくお過ごしの事と遠察致し
意を強うして居る次第です

お蔭様にて小兵も相変わらず元気にて服務致し居り
留守宅の者共 亦(また)元気にすごし居ります故 
乍他事(他事ながら)御休心下さい

富子さんにも長らく御無沙汰致して居りますが
矢張お元気にて過ごし居らるる事と存じます
折を見て貴女様から 暮々もよろしく御傳方被下様(お伝え下さるよう)お願ひ致します
何しろ彼氏は満州の冬は初めての事 定めしびっくりされた事でしょう
でもまあ 御地南満は0下(零下)三十五度位が峠にて
それも年に一、二回位のもの
北満の五十餘度(余度)の寒さに比較致せば 
幾分かは しのぎよい事と存じます

 兄 正次郎は今でも時々お宅の店に参上致して居るでしょうか?
何しろ去年二月と十二月に来信が有りましたが
其の餘の様子はさっぱり分かりませんけど
便り無いのは無事と思ひ?(思え?)とかで
元気にやっておることだろうけど

同封に金四円也致しました 御多忙でしょうが折を見て 
今月 来月と二度 何菓子でも結構です故 
お送り被下様(くださるよう)お願ひ致します。
代金不足の時は 其の節御一報下さい 次便でお送りいたします

同じ場所に実兄も姉も居るのに 
多忙な貴女様にお願ひするのは本意でないが
御存じの通り小生のあれ(兄嫁?) 以来今だ且って(いまだかつて)
一度も便り呉れぬような〇様(姉様?)だし 
兄もさっぱり たよりに成らぬ様な有様だし

小生も時々 せめて中等学校位出て居れば
時には慰問の便りも貰はれる(貰われる)のに
なぞとヒガンでみたりしてお居ります
こんな時こそ何かと力に成って呉れるのが
人の世の人情と云ふものではないかと思って居ります
高等学府を出て居り しかも義理仲でありながら

つまらぬグチを書いてしまったが 免御(ごめんの逆読み)
前記の様な有様故 御迷惑でもどうぞよろしくお願ひ致します

新春とは云え まだまだ厳しい寒さも訪れる中 
充分お身を大切にしてお過ごし為さる(なさる)よう
乍蔭(蔭ながら)お祈り致し居ります
では又 後便にて申し上ます 富子さんによろしくお伝ひ下さい

澄子 様
                   傳之助
(月)1日

*竜江省チゝハル大七六七部隊
    隈本隊
                   菅伝之助

新京興安大路三三一号
 第一石橋ビル

平山 澄子 様

★内地へ帰還した妻子へ 菓子を送ってくれたことへのお礼。
金4円を同封したから 自分にもお菓子を買って送ってくれとの依頼。

甘いものに飢えていた当時の時代背景と、
(まだ徴兵されていなかった)兄夫婦へ愚痴など
父の人間臭さが垣間見える手紙です。


父の手紙②

2015-09-23 15:26:56 | 戦後70年、今伝えなければ・・・

 





噫々(あゝ)恋しなつかしの? まさか 恋人ぢゃあるまいし
べ・・・・ちゃんよ 君は元気か 俺も元気だよ サイナラ

ア、一寸待って 話し残した事がある
先達っては眞当に(本当に)ありがたう
幾否(?) 何回も何回もお世話をかけて済まなかった
そしてあんまり御無沙汰をしてね

実はチチハルからも当地からも
度々(たびたび)便りは出したんだったけど
何かの都合で着かなかったと見える

送って呉れたものは三回共 無事落手(らくしゅ=入手)して居る
リュックサックは十二月下旬か正月中に利用する予定で居たんだが
(夢?)となりて終わりぬ
リュックサックも倉庫の中で定めし泣いて居るぢゃらう

今月に入ってからは公用で 
毎日北安の街まで氣車(汽車)で通ふて居る

過般の慰問品は眞当に嬉しかった
だがね 銃後も現今は相当に諸物資も不足している筈
もうあんなに御心配なぞしないで呉れ給ひよ
御心持だけでけっこうだからね
マダムにも暮々もよろしく貴女から傳ひて(伝えて)くださいね

今度 当隊から北田さんと云ふ兵長が 御地に暫らく滞在する予定だが
この手紙と共あなたの許を(もとを)訪れることと存じます
同じ内務班に居て苦楽を共にして居る人ですから
その節はよ何分ろしくたのむ
私のことも差しつかい(差支え)無い程度で 何でも聞かせて呉れるでしょう

実は兄も北田さんに逢ふて貰いたいんだが
社宅の方までは 気の毒で行って貰へないし(貰えないし)
勤め先の電話番号でも分れば 貴女から電話を掛けてほしいんだが
でも 御無理に都合して下さらなく共よろしいです
兄の処には 社宅の様子やら電話番号 知らして呉れる様
たのんであるんだが さっぱり ブシン(不信)。

どうかね君 時間の 都合がよくば 北安へ遊びに来ませんか
旅行証明書等は不要です
私は十二時半北安着。夕方六時 北安発の列車にて竜鎭に帰りますから
まあ 四、五時間位の時間はありますがね

でも時節が来れば
亦逢いる(会える)んだから無理する必要もないがね

まあ では折柄(時節柄)御身をお大切にね
では亦 トミンベにもよろしく
再会の日を楽しみとして待望する哉 切々・・・
ご健闘を祈る

すみ子様            傳之助

*竜鎭第七六七部隊 三福(?)隊    
          二月十日             菅 伝之助

新京興安大路 第一石橋ビル 三三一号

平山 すみ子 様

★長期出張する戦友に託した私信のようです。
この手紙を読んでいると、

気を使わなくていいと言いつつ、何かとおねだりしているようで・・・
どことなくちゃっかりした父の人柄が見えてきます(^^;//
当時、父の兄は満鉄の職員で社宅に住んでいました。


父の手紙①

2015-09-21 15:11:31 | 戦後70年、今伝えなければ・・・


澄ちゃん 先日は誠にありがたう
お心つくしは(心づくし) 眞当(本当)に嬉しかった
御蔭様で久しぶりに 目と心とに 孝行が出来ましたよ

澄ちゃん 其の後も元気だろうね
オーブも益々元気です 乍他事(他事ながら)御休心あれ。
*オーブ:意味不明なるも、義理の兄を意味する語か?

時にね、亦(また)お願いがあるんだが、聞いて貰われるか知ら
いや 是非お聞き届けくださいね
実はリュックサックを一つほしいんだが 都合して呉れ給ひよ(くれたまえよ)

 あまり上物で無くもよいから 普通の品をね(あまり安価でもこまるが)
おそくも十二月中旬頃までに着くようにね
都合に依れば 来月末頃 面会の節 代金を仕拂ひます(支払います)からね

もし駄目の時は 家内の方から仕拂わせますからね
たのみますよ 屹度(きっと)当にして居るから!!・・・

当地は御地より物價が高いし 又、我々にはそれだけ持合せが無いんです
迷惑を掛けるのは本意で無いが 後でうめ合せは屹度しますからね。

過般の貴女のお話しに依れば 近々帰郷したいとの由でしたが
この冬 一冬 頑張りなさいよ

私もそのうち お目に掛れる様な気がする
とみちゃんも相変わらず元気だろうね
逢ふた時によろしく云って呉れ給ひよ

いよいよ本格的な冬が訪れてきたが
身体を充分大切にして努めて呉れ給ひ
私も今後共 大いに頑張るつもりです

故郷の妻子も お蔭で元気でやって居るらしいです。
弟 秀男は現在仙台の隊に応召し在り次第
市三郎は来春 軍に入営する由
先般伝ひて(伝えて)来ました

義伊君は南方に居るとか 
ほんとに御苦労様です
乱筆乱文 本末轉倒致しましたが判讀あれ では亦折を見て
さようなら

十一月九日               菅 伝之助

平山 澄子様

★私にとって父の記憶は ほんの断片的なものでしかない。
親戚の人の話では、当時としてはハイカラ(?)な男で、
内地にいたころ すでに自動車の運転免許を取得していたとか。
マンドリンを奏でたりといった趣味人(?)でもあったらしい。
女性にも持てた、と言う話でした・・・(^^)

 


母の手紙①

2015-09-20 18:06:36 | 戦後70年、今伝えなければ・・・


しばらく御無沙汰いたしました
父あての便りによれば 其の后とも元気の由
何よりですね
私達も相変わらず元気です

其の后の新京はいかがですか
何もかもなくなったでしょうね
内地と同じく 大東亜せんそう勝ちぬく迄は
どんなことでもがまんしましょうね

稗返の秀男も此の間 召集でいきました
一月には市三郎、きょうだい三人も出るのに・・・

私等姉妹は女ばかりです
男に負けないように、じうご(銃後)をまもりましょう

貴女も今度は店に出ないんですね
満州にいて八拾(円)や九拾(円)ではしかたないですね
今年だけもゐて 来春になったら歸ったらどう

私だけの考い(考え)
那須あきない(商い)しても もっととれるわよ
今日もきのふ(きのう)も行ってきましたが
二日で三拾円位いとってきましたよ

姉さんたちが分れ(別れ)たら負けないようにやりませう
あのいじ悪オーブ       *オーブ:意味不明。義理の兄の意か?
早く出ればいいとおもいます
しゃくにさはって(さわって)しかたがない
二、三日前も 朝、草も刈らずに
自分らの畠にいくから、
母さんが 何をするとも 草を刈ってからしないとこまると
言ったそうです

すると山に行ってから、
ばっぱにおこられたから、朝食を食べないといってこなかったのです
そしてひるにはだまって来て食べて居るのです
食べ終わってから父が
なんで朝あんな事を言ってたべなかった 
どうしたって食べないではゐられないだろうに といったら
そんじゃおひる食べて悪かった
これから家行って食って呉る(くる)と言って すぐにたてつくのです

何に付けてもそうなのですからほんとうにこまりました
いっそいない方がましだと思います

私から歸れと言ったようでなく
自分から歸りたくなったから歸る と言って
春になったら歸っていらっしゃい

そして那須あきないでも何でもしてお金とりしましょうね

では元気で働いて呉れ  さようなら

平山 澄子 様    菅 キクイ

★当時母が身を寄せていた実家から、
那須の温泉街までは約2里の行程。
家の畑で採れた野菜などを竹で編んだ籠(かご)に入れて背負い、
片道8キロの坂道を、歩いて行商に。

あらゆる物資が欠乏し、特に食料品の確保に困っていた温泉旅館。
朝食に欠かせない卵などは特に喜ばれたよ、と
子供の頃よく聞かされました。


戦時中の父母の手紙

2015-09-20 13:58:23 | 戦後70年、今伝えなければ・・・

今は亡き私の叔母(母の妹)が、
戦時中に満州の料理屋で働いていたころ、
肉親や知人から受け取った手紙類を保存していました。

「アンタの父ちゃんや、姉さん(私の母)からのものもあるよ
そういって手渡してくれた書簡集。
戦時下のこととて、時局に触れる様なことはほとんど書かれていませんが、
それでも当時の兵隊や庶民の暮らしぶりなどを垣間見ることができます。

父は終戦後シベリアへ抑留され、昭和22年暮れに帰国。
那須の開拓地に入植し、私と弟をこの世に送り出してくれました。
しかし昭和31年、私が小学2年になって間もなくの時に、
不慮の事故で命を落としました。

いま、母は間もなく100歳を迎えようとしています。
当時の記憶も定かではない事でしょう。

当局による検閲をクリアーした手紙ですので、
当時の社会情勢を必ずしも正確に反映しているものとは思えませんが、
戦争を知らない世代の人たちに、
当時の若人の心情の一端や、時代背景を、
少しは伺い知ってもらうことができるのでは?
との思いもあって本稿を起こしました。

 ★原文は変体仮名や栃木弁( と   の混合など)、
中国語や俗語(隠語?)と思われることばも交じり、
判読に苦労しましたが、おおむね文意には沿っているものと思います。
また、必要と思われる個所には(青文字)で訳注を付けましたが、
あるいは間違いがあるかもしれません。
ご容赦を。

*父母の名前は実名ですが、
叔母の名前は、通称(お店での源氏名)です。