*⑮からの続き
(フト顔見たら)大浦さん。ソ連に入って初めて会った旧知の人。
ワダカーチカ (給水塔)の処で作業して居たと。
(帰国後聞いた処に寄ると、彼、帰国早かった。兄貴の隣の開拓地に入植。
彼の話。「弟どの、昔の仕事。楽していた」 と(兄に告げた)。
彼も帰ったから、舎弟も直ぐ帰るだろうと、返信出さなかった由)。
此のワダカーチカに就いては、こんな話が有る。
夜な夜な人魂が飛ぶ。 嘗てノモンハンの捕虜、此の収容所で無念の死を遂げた。
その霊がわれわれ日本人に何かを訴えるのだろうと。
唯物論の国にも人魂が飛ぶのか?
暗黒の冬も過ぎ、亦 春が来た。 今年こそダモイ、夢が膨らむ。
そして亦 移動。 旧八〇八収容所でも(で、あっても)
吾々が移動して、そのまま八〇六収容所と称す。
残留兵が居る厩舎にも開拓の人(が入る)。 奉天副獣医師養成所出身。
俺、亦ここで夜看馬。 馬を追って夜間放牧監視。
北極星真上に見ての夜。父の母の家族の顔、故郷の事ども、
走馬灯の如く駆け回る。 この作業四、五日やったか。
亦 病馬治療に専念。 (彼のカピタンの好意であろう)。
若いミッシャー「嫌だ嫌だと サハリン(へ行き、代わりに) 中年のザグーシが来る。
無学文盲、只サインが出来るだけ。 馬鹿に限って空威張りする。
アベコベにハッパ掛けてやると可哀そうなくらい穏やかになり
「オレは何をすれば好いのか」 と聞く始末。
病馬の草でも刈って来い と言うと、嬉込んで草かり。馬車一杯に積んで来る。
紆余曲折はあったが彼も替わり、今度来たのは煮ても焼いても喰えない奴。
要領の好さにかけては兵隊以上。
三月に一度位、ボロショイナチヤニック(四地区八分所の長 マヨール(海軍小佐)、
ドジョウ髯生やしているので 通称ドジョウと言う)、(が来る)。
彼が来ると夏馬車(繁駕用)、冬橇(軽量)の腰掛の下、車のトランク、
よろしくなって居る)に、燕麦一、二袋、来るたびに入れてやる。
恐れ入りました。 受けが好い訳だ。
資本主義国家も共産主義国家も要領を本文とすべし。
而し(しかし)彼の妻、チャイナ系、肌白人特有の白。
髪黒く、瞳亦黒 (チョ-ルネ グラザ 黒い瞳)。
今まで碧眼紅毛 (亦は銀髪)を見慣れた目に一抹の郷愁を誘う。
そんな或る夜、一大珍事が起きる。
例の如く夜看馬。(夜馬の監視兵)朝の作業整列に合わせ追い集める。
幾ら探しても一頭不足。 員数合わず。 が、どんな馬か判らない。
「同志、星。(捕虜仲間にもロスケにも。タバリシ(同志)なになにと呼ぶ)
どんな馬か、探して欲しい」 と。
馬一頭不足となれば夜看馬、帰って寝る処の話じゃない。
二度、三度見て回る。此の馬 №?の馬、と言うなら直ぐ(だが)、
数多い馬の中から居ない馬探すのも容易な事ではない。
*編者注
・兄貴: 筆者の兄。
・弟どの: 筆者のこと。
・彼も帰ったから: 大浦さんが帰ったのだから、弟も直ぐ帰るだろう・・・と。
・返信: 赤十字ハガキの返信。
・ノモンハンの捕虜: 本ノモンハン事件については、本稿⑫の編者注参照。
・奉天: ほうてん。奉天省は、かつて満州国に存在した省。
奉天市は、現在の中国遼寧省瀋陽市に相当する都市。
・ハッパ掛けてやる: 厳しい言葉をかけて奮い立たせる。気合いを掛ける。
はっぱ(発破)とは、土木工事などで岩石に穴をあけ、
ダイナマイトなどの爆薬を仕掛けて爆破すること。 亦その爆薬を指す。
・ボロショイ ナチヤニック: ボリショイは大きな、の意。 ここでは第四地区の意味。
ナチャニックは収容所長のこと。 ここでは八分所の長。
・マヨール: 人名。
・繋駕: けいが。 繋駕とは馬に曳かせる一人乗りの二輪馬車のことで、
車輪の付いた駕篭の様なもの。
・よろしくなって居る: 腰掛の下が車のトランクのように
(物を入れられるように)うまくできている。
・チョールネ グラザ: チョールネは黒。グラザーは両目。
・碧眼紅毛: へきがんこうもう。紅毛碧眼とも。赤い髪の毛で、目が青い人の意で、
西洋人を指す。紅毛は江戸時代、オランダ人についての呼称。
ポルトガルやスペイン人は南蛮人と呼称した。
・星: 筆者、菅 房雄の旧姓。
*⑰へ続く。