赤ひげのこころ

お客様の遺伝子(潜在意識)と対話しながら施術法を決めていく、いわばオーダーメイドの無痛療法です。

菅家ヒストリア・第十代 市三郎のシベリア抑留記14

2017-07-12 17:39:50 | 菅家ヒストリア


 シベリア抑留
人生の空白
          菅 市三郎 著
(平成5年7月1日発行)

*13からの続き。

死体の埋葬

一年目の冬に栄養失調と寒さのために死者が多く出た。
死者は全部、冬は糧秣倉庫に積んであった。
冷凍の魚のように、裸で何一つ着けていない。
腹に白布が巻いてあるだけで、
首に十センチくらいのロシア語で名札が付いているだけ。

本日、四名で本部に行くように命令されました。
倉庫に死体が積んであるから、馬ソリで運んで、
北西の方に五KMくらいの地点に、
道路より百五十米位入った白樺林の下の場所に、
墓穴が掘ってあった。深さは一米、直径三米程度。
前日に来た人たちが掘ったのであろう。

埋葬された地下、六尺位まで凍る厳寒の地に埋めてやるのがやっと。
夏とは名ばかり。死体は棒のように凍っている。材木を運ぶようだ。
栄養失調で骨と皮ばかり。
痩せ衰えている遺体を、道路より一体ずつ肩に担いで墓場まで。
樹木を削り、書いてやるのが精いっぱいだった。
前に葬った上に誰が立てたのか、四十センチ位の高さに、
土方(つちかた)中尉以下二十三名と、墓標には鉛筆で書いてあった。

魂は故郷(くに)に帰ったのか、棒のように固くなっていた。
四十年余り誰一人行かない地に静かに眠っている筈である。
自然に涙が出てくる。
今思い出すとよく生還できたものだ。
全抑協名簿を見るとコムソモリスの地区、(死者は)三千人近くと聞く。
死亡者が一番多かった。
私たちが埋葬をした人は誰だったのか知らないのが残念だ。
監視兵に聞いておけばよかった。

シベリア抑留の犠牲者はそれにとどまらないのです。
いったん元気で復員したものの、
帰還三年、五年とすぎても死亡が多かった。
粉塵の中での作業である。
何の防塵設備も全くなかったので珪肺が多かった。

シベリア回想記に、シベリアで帰らぬ夫を詠んだ一詞に、
     唐松林の奥と聞く 夫(つま)の臥所(ふしど)に
              清しこの夜の 円(まど)や照るらん
四十年後に初めて足を(ふみ)入れた。
昼なお暗い林の中である。
枯れ葉の下にある白骨を踏まないよう
一歩一歩気を使って歩いた、と書いてある。
夫を亡くした林寿子さんの詞。

シベリアの地で身内を亡くされた人たちは
生涯忘れることが出来ないと思う。
死者は埋葬などされた人は(まだ)よかった。
一年目の冬に多かった。
多くなると裸にして、山に捨てられたも同然である。
二年目から自分の穴を自分で、と証言する人もいる。
実体験を三年間体験した私は当時を思い、
今でも涙が出てしまう。
(死者は)氷点下四十度~五十度の寒さの冬に多かった。

    *編者注
・六尺:     一尺はおよそ30.3センチ
・全抑協: 一般財団法人 全国強制抑留者協会。
      戦後シベリアを中心とする旧ソ連各地に抑留された人々の体験を、
      後世へ伝えることなどを目的とした協会。
・コムソモリスク: コムソモリスク・ナ・アムーレ。ロシア極東部、
      ハバロフスク地方アムール川下流の港湾・工業都市。
・珪肺:    けいはい。結晶シリカ(珪酸)粉塵を吸入することで起きる肺疾患。
      鉱山労働者などに多く見られる職業病。
・円(まど): ここでは、円窓(えんそう)=円形の窓の事。
     
*15へ続く。

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菅家ヒストリア・第十代 市三郎のシベリア抑留記13

2017-07-01 10:00:53 | 菅家ヒストリア


シベリア抑留
人生の空白
          菅 市三郎 著
(平成5年7月1日発行)

*12よりの続き 

仕事のうちでも大工仕事が一番であった。
シベリア大工は斧「タポール」、鋸「ピラー」、それに金槌が主なもの。
つるはしとシャベルがあれば整地が出来て、建物が建つ。
木材だけは豊富なシベリアは、丸太をタポールで溝を彫り、
井桁に積み重ね、隙間に苔を敷いて坐りよくする(据わりよくする)、
それで出来上がり。
三月ごろまで大工仕事が続いた。
子供用玩具などもつくった。

いよいよ一冬あけて、作業は本格的になってきた。
鉄道線路工事の新設作業に廻された。
二人で枕木運搬。日本のより大きくて長い。
それにコールタールがついているのを肩に担いで運ぶ。
日本に比べて倍近く重量がある。
長いレールは、貨車が下した場所より、十八人で現場まで肩に担いで、
下すときは、一二三(いちにのさん)の合図で逃げるので実に危険である。

レールの長いところを切るのにも、
「タガネ」と大ハンマーで裏側に傷をつけて、下に一本しいて、
みんなで担いで一二三で落とすと実によく切れるもんだ。
穴をあけるのもすべて手作業である。
線路をつなぐ作業は実に重労働であった。

収容所に帰っても、いつも食事の事。
塩鮭が一切れの時が一週間位も続くこともある。
また、とろろ昆布が一つまみ位の日も続いた。
あとは、何にも食べ物の無い冬期は困った。
煙草は道で「吸い殻」を拾い集めて紙に丸めて出来上がり。
何しろ千人もの人が拾うのだから、そうは無い。
吸っては皆に廻す。何ともさびしい気持ちだ。
誰も口をきかない。何の話もない。食べ物の話だけ。

中でも捕虜たちが悩まされたのに、南京虫虱(しらみ)、ダニがいた。
一日の仕事が終わってようやく眠りについた頃、
柱の割れ目や板の隙間などに隠れていて
侵入してくるのにはまったく閉口をした。

    *編者注
・南京虫:  トコジラミ。刺されると強いかゆみが出る。
・虱(しらみ): 人に寄生するのは主にアタマジラミとケジラミ。
      アタマジラミは頭髪に寄生し頭皮から吸血。
      かゆみや湿疹などを引き起こす。
      ケジラミは陰毛などに寄生し、猛烈なかゆみを引き起こす。

*14へ続く

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菅家ヒストリア・第十代 市三郎のシベリア抑留記12

2017-06-20 16:03:38 | 菅家ヒストリア


シベリア抑留
人生の空白
          菅 市三郎 著
(平成5年7月1日発行)

*11よりの続き。

九月ともなれば零下十度以上に下がる。
建物は穴だらけ。すぐに修理にかかる。
それにお湯の様な食事が終わって、寝るばかりとなると、突然点呼。
戸外に整列、号令がかかる。毎夜の事である。
外に整列しているうちに、室内を物色するのである。
まだ時計など隠し持っている人が居るので、
めぼしいものは持ち去るのである。度々のことで驚かないが、
日が沈むと戸外の気温は急激に下がってくる。

十一月ともなると零下三十度以上になる、。
四十度を超すと作業は中止だが、三十九度になると
作業ダバイ(はやく)が待っている。
ラーゲリ「収容所」の門に来ると、出入りには長い時間がかかる。
監視兵の点呼には、五列に並び、数多くいるので
何度も繰り返すので、たまったものではない。
真冬ともなれば、頭の上の北極星が実にきれいにキラキラと輝いている。
空を見て国を思い出す。

ソ連における捕虜の毎日の仕事は、大部分土木工事的な重労働であった。
冬期には伐採。そして木材をソリで運ぶ。
三km地点の場所にある集積所まで運搬する仕事は
ノルマがかかっている。
体力の著しい消耗にもかかわらず、
ノルマを達成できない班は、いつも減食させられていた。
栄養失調患者を続出させた。

日本人の食糧としてあてがわれたのは馬糧燕麦高粱
それに籾殻入りの黒パンが三百グラムくらいであったが、
配給にならない日が多かった。
高粱は一昼夜くらい炊いてもやわらかくならないので、
それを無理して食べるのだから、そっくり現物のまゝ大便に出てくる。
燕麦は籾の殻の部分がなかなか取れない。
日本では家畜の飼料として用いられたのである。
それでも、あるのが良いほうだ。
収容所(ラーゲリー)に帰っても
高粱飯もやっと雑炊位の軟らかさになって、わずかに歯ごたえがある程度。
しかし飯盒の蓋に一杯ぐらいの量では
空腹を満たすというわけにはいかず、飢餓の状態だった。

夏期は本当に短い。
四カ月くらいであったから、野山は一斉に緑になる。
分配された食糧に、取ってきた野草、あかざ、たんぽぽ、馬鈴薯の葉
ヨモギなどを入れて、塩を入れて薄めて足しにした。
夏期はそれでも良い方だったが、全員栄養失調になっていた。

    *編者注
・ラーゲリー: もともとキャンプ場を意味するロシア語だが、
      抑留者たちは強制収容所の意味で使っていた。
・ノルマ:  ロシア語。一定時間内に果たすように課せられた労働量。 
・馬糧:   馬のエサ。馬の飼料。 
・燕麦:   えんばく。イネ科の植物で、全草を家畜の飼料とする。
      実はオートミールの原料にも。 
・高粱:   こうりゃん。中国北部などで栽培されるモロコシの一種。 
・馬鈴薯の葉: ばれいしょ=ジャガイモの葉。芽や青くなった部分と同様に、
      ソラニンなどの毒性物質が含まれるので、普通は食べない。

*13へ続く。 

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菅家ヒストリア・第十代 市三郎のシベリア抑留記11

2017-06-13 09:15:43 | 菅家ヒストリア


シベリア抑留
人生の空白
          菅 市三郎 著
(平成5年7月1日発行)

*10よりの続き

私達を乗せたダモイ列車は確実にシベリアを目指して驀進していた。
すべてを締め切った車中を沈黙が支配し、
先刻までの騒ぎがウソのように静まり返ってしまった。
暗闇の中で、捕虜という文字が浮かんでは消えたことだろう。
誰一人眠っている人はいなかった。

夜明けの扉の隙間より、外の風景は、
近づく秋を前に荒涼たるシベリアの大地であった。
時折通過する駅の標識で、汽車は西の方に向かって進んでいることを知る。
それでも東京ダモイを将兵は云う。
もしも俺たちの行先が、シベリアの強制労働が待っていることがわかったら、
おそらく逃亡者が多く出たに違いない。

駅に着くと、地方人がよく近よって物々交換をせがんだりした。
やはりソ連人は日本より物資が欠乏していたようだ。
幾日目(か)の夜中、銃声がした。
列車はその場に停まってしまった。
朝、明るくなるまで何事か見当がつかなかった。
朝になってやっとわかった。
十六歳くらいの少年が二人でソ連領に入り、
鉄道線路上を歩いているところを発見されて捕らわれてしまった。
この少年の父母は九州生まれで、開拓団の子供だと分かった。
反田(そった)君と、もう一人の少年は最後まで我々と行動を共にした。
昭和二十三年八月まで働いていた。

俺たちの休んでいる間に、
物資を満載した貨物列車が奥地に向かうのである。
満州よりの物資である。
工場の機材、糧秣・衣料品・医薬品やら地方の物まで一切合財、
机、いすに至るまで積まれている。

列車はハバロフスクに着いた。
眼前(めのまえ)に海かと思うような、大きな川はアムール川である。
鉄橋を渡り、濁流が渦を巻いて流れていた。

帰還列車の気分でいたのだったが、
ハバロフスクを過ぎてからの、あたりの風景が、
いっぺんに荒涼として寂しさを感じる。
来る日も来る日も湿地帯である。
不安な気持ちを乗せて北に向かって進んでいる。

幾日もたって、
貨車は引き込み線に停車したまま動かなかった。
出ることもできず、じっと待った。

朝何時頃か、全員荷物を整理して外に出るように指示され、
貨車の内部を掃除して外に出ると、外は粉雪が舞っていた。
思わず身に凍みて身震いする。
ここはシベリア北の涯、工業都市コモリスク市である。
収容所は、かつて多くの囚人を収容したと思われる、廃墟と化した建物である。
我々はここの第二収容所に入った。

    *編者注
・ダモイ列車: 帰還、帰国のために乗せられている列車と思い込まされていた。
・ハバロフスク:  ロシア極東部の都市。
・アムール川:  モンゴル高原東部でシルカ川とアルグン川が合流して
         アムール川となり、ロシアと中国の国境を南東、東に流れたのち、
         ハバロフスク地方を北東流してオホーツク海のアムール湾にそそぐ。
         全長4千キロ以上に及ぶ世界第3位の大河。
         中国名は黒龍(ヘイロン)江。
・コモリスク市: コモリスク・ナ・アムーレ市。
         ハバロフスク地方アムール川下に位置する港湾都市。

*12へ続く

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菅家ヒストリア・第十代 市三郎のシベリア抑留記10

2017-05-22 17:39:07 | 菅家ヒストリア


 *9よりの続き

シベリア抑留
人生の空白
          菅 市三郎 著
(平成5年7月1日発行)

国境の山々はガソリンと焼夷弾によって焦土と化している。
ここにも戦死体は骨と皮ばかりになっていた。
山の上には野砲速射砲が無残に赤くなって空を向いていた。
これより先はソ連国境である。
道路の両脇に大きな石が数多く置いてあった。
我が軍の戦車の防御に置いたのであろう。
私たちの戦場の跡を再び通ったのが慰めとなりました。

ソ連領に入ったのが、延吉を出発して幾日か覚えていない。
夏服の俺たちには朝夕寒さが身に凍みるようになり、
毎日運んでいる物資はすべて、クラスキー駅に野積みの山となっていた。
後からあとから運んでくる。
軍隊の物資から、地方の生活物資、食料品、医薬品、
日用品とあらゆるものがごっちゃになって。
着いて休む間もなく物資の整理、
貨車の積み込みに使われた。
なかにはレコードや学生カバンまで。

監視兵たちは良く食べ物を聞くので、
これは毒だと、食べて死ぬ真似をするとあまりそばに来ないので、
線路の砂利の中などに埋めておいて、夜取りに行った。
見つかったら大変、命がけである。
ソ連は医薬品のブドウ糖液を喜んで飲んでいた。
朝起きると貨車の積み込み作業に出された。

飯炊き当番には困った。
薪(まき)が無いので、小川の柳の木を細かに裂いて使用する。
柳はすぐに燃える。
小川には魚が無数にいる。
針金を曲げても釣れる。良く釣れたが監視兵に殴られた。

次から次へと到着する仲間でいっぱいになると、
ソ連の将校は俺たちに、
いよいよウラジオストックより東京ダモイを云う。
貨車一台に四十名くらいずつ、
クラスキーがいっぱいになると千人単位で乗せられた。
夏服のまゝ朝夕寒さが身に凍みても、
日本に帰れると思いがまんをした。
またシベリアで強制労働に使われる話が流れて、一喜一憂である。

捕虜輸送の貨車のなかは、扉のわきに便所が取り付けてあり、
室内の中央にストーブが置いてある。
扉の隙間から外の様子をようやく覗くことが出来る程度である。

便所近くに場所を割り当てられた者は、
下痢をしている者の用足しには閉口した。
貨車には全部、鍵を掛けられてしまった。
駅に止まるときは決まって夜。
日中止まるときは山の中。人家などないところ。

輸送中、駅の引き込み線に停車すると
ソ連兵がカギを外して外に出す。
すぐに用便。水汲み。炊飯にかかる。
近くに川が無ければ駅内のたまり水で。
先に通過した兵隊の大便の跡が多くあった。
そのたまり水でご飯を炊くので、よく病気にならなかったと思う。

   *編者注
・野砲:  口径七サンチ(センチ)前後の野戦用の砲。
     移動しやすいように砲の両側に車輪が取り付けられた。
・速射砲: 発射速度の速い砲。中口径で毎分10~40発くらい。
・延吉を出発して幾日か・・・: 他の人の記録に依れば、
     延吉からクラスキーまで、徒歩で約10日間くらいだったらしい。
・東京ダモイ: 東京(=日本)への帰国、帰還の意味。

*11へ続く

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