ロダンとカリエール
Auguste Rodin | Euge'ne Carrie're
2006年3月7日-6月4日
国立西洋美術館
4月1日(土)に「ロダンとカリエール」に鑑賞してきました。お花見で上野公園は予想に違わず人出が多く、最もゆっくりと鑑賞できそうだという訳で、「ロダンとカリエール」にさせていただきました。(プラド美術館展の前まで行って会場は大変混雑しておりますという札を見て出直すことにしました。プラド美術館展は、招待券をどこまで配っているかと思うと早めにいかなければならないのでしょうが。)
オギュースト・ロダン(1840-1917)といえば、パリのロダン美術館を訪れたのが2004年9月。このときは、彫刻家カミーユ・クローデルとの愛憎の物語の話を、NHKの番組で見た後だったので、そんな視点で鑑賞した微かな記憶があります。でも英語の音声ガイドしかなく、庭園がよかったぐらいしか覚えてはいません。
ウジェーヌ・カリエール(1849-1906)については、プーシキン美術館展で《母の接吻》《指から棘を抜く女》に出会ったのがはじめて。幻想的で朦朧な作品でいいなあと思わず見入りました。
さて展覧会について、構成に従って、気になった作品をつらつらとメモすると
Ⅰ. ロダン像とカリエール像
カリエールによるロダンの肖像、および自画像、またロダンが制作したといわれるカリエールのデスマスクが展示されています。
Ⅱ. ロダンとカリエールの直接の交流
印象的だったのは、1900年にパリのアルマ広場で開かれた「ロダン展」ポスター。カリエールがロダンの姿を書いています。また、そのロダン展の目録なども展示されていて、興味深かったです。
Ⅲ. ロダンとカリエールをめぐる人々の肖像
肖像のモデルになっているのはジョルジュ・クレマンソー、アンリ・ロシュフォール、ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ、ロジェ・マルクス、ギュスターヴ・ジェフロワといった同時代の政治家や芸術家、批評家、詩人など。政治家ジョルジュ・クレマンソー(パリに、クレマンソーという地下鉄の駅がありますね)、画家ピュヴィ・ド・シャヴァンヌぐらいしか判りませんが、ピュヴィ・ド・シャヴァンヌは2月にオルセーを訪れたときに《希望》などの作品を見て、ちょっと最近興味を持っているので、すこしロダン、カリエールと線がつながりました。
それにしても、ロダンの《アンリ・ロシュフォールの胸像》(1884)には、どうやって喉のあたりの1点で頭部全体を支えているのかと、感心。まあロダンの彫刻には、このあともバランスの取り方が信じられないような作品がいくつかありました。
Ⅳ. ロダンとカリエールにおける象徴主義
この展覧会のメインパートです。まず初めに紹介されるロダンの《最後の幻影》(ロダン美術館蔵)(1902年?)は、白い大理石の表面に二人の顔が浮かび上がり、カリエールの絵画との結びつきがもっとも明確に表れる作品。なるほど。
そのあとに展示されていた、ロダン《アサンブラージュ:洗礼者ヨハネの切られた頭部と右手》(1902)は、同時代のモローがサロメの内面に興味を持ったのに対して、オーソドックスに、宗教的にヨハネをこの主題を捉えています。
カリエール《母性》(シャルルヴィル・メジエール市立美術館蔵)(1892)。姉は背伸びをして母に頬擦りをしています。幼い妹は母に抱かれながらも、足を伸ばし、姉の動作を見つめているのでしょうか、眠っているのでしょうか。画面右手奥にはもう一人消えそうな少女が描かれています。カリエールは、1885年ごろから茶色を中心とした落ち着いた色調で全体を構成し、輪郭線を消した浮遊するような特異な表現に作風を変化させていきます。この作品でも、朦朧とした世界が母性の暖かさを表わしているともに、はかなさも暗示しているのでしょう。
カリエール《母の接吻》(ポー美術館蔵)(1898)も、印象的な作品。少女の母に接吻をせがむような様子は、母に守ってほしい少女の心情が表れていて、涙しそうです。
ロダン《フギット・アモール》が2作品。1つは、1895年以前(静岡県立美術館蔵)。もう1点は1915-1917年の作品。「考える人」と同様に「地獄の門」に使われているパーツ。アクロバティックな造形。静岡県立美術館のHPに解説あるが、「フギット・アモールとは、ラテン語で「逃れ去る愛」を意味する。決して正面から向かい合うことのない一対の男女の主題は、ダンテの『神曲・地獄篇』に謳われた、不貞の罪で地獄に落とされた「パオロとフランチェスカ」に密接に関連している。」とのこと。解説を書いておいてほしかったです。
Takさんがコメントされているように、カリエールの描いている世界と、ロダンの描いている世界は、母性と女性(アモール)と両極端ですから、両芸術家の性格の違いが感じられます。
Ⅴ. ロダンとカリエールを結ぶ糸
ロダンの作品がまず並びます。《考える人》《地獄の門の「マケット」(第三構想)》《「瞑想」と呼ばれる「内なる声」》など。
そして、カリエールは、《もの思いにふける若い娘》《道行く人々》《一人の女性》の祭壇画がように展示されています。ジュネーブで開催された1896年のシャヴァンヌ、ロダン、カリエールの三人展に出品された作品。《道行く人々》に対して、ピカソが素描を残している。
ここで、シャヴァンヌ、ロダン、カリエールとさらにピカソが一線に並びます。色彩ではなく、デッサンを重視した作家たちです。内面を描こうとすれば、必然的に色彩は抑えざるを得ないのですね。
文学などに素養のない私には、もうすこし解説をしてもらえるとありがたかったですが、それでも自分なりにゆっくりと作品と対峙出来た、素晴らしい展覧会でした。
Auguste Rodin | Euge'ne Carrie're
2006年3月7日-6月4日
国立西洋美術館
4月1日(土)に「ロダンとカリエール」に鑑賞してきました。お花見で上野公園は予想に違わず人出が多く、最もゆっくりと鑑賞できそうだという訳で、「ロダンとカリエール」にさせていただきました。(プラド美術館展の前まで行って会場は大変混雑しておりますという札を見て出直すことにしました。プラド美術館展は、招待券をどこまで配っているかと思うと早めにいかなければならないのでしょうが。)
オギュースト・ロダン(1840-1917)といえば、パリのロダン美術館を訪れたのが2004年9月。このときは、彫刻家カミーユ・クローデルとの愛憎の物語の話を、NHKの番組で見た後だったので、そんな視点で鑑賞した微かな記憶があります。でも英語の音声ガイドしかなく、庭園がよかったぐらいしか覚えてはいません。
ウジェーヌ・カリエール(1849-1906)については、プーシキン美術館展で《母の接吻》《指から棘を抜く女》に出会ったのがはじめて。幻想的で朦朧な作品でいいなあと思わず見入りました。
さて展覧会について、構成に従って、気になった作品をつらつらとメモすると
Ⅰ. ロダン像とカリエール像
カリエールによるロダンの肖像、および自画像、またロダンが制作したといわれるカリエールのデスマスクが展示されています。
Ⅱ. ロダンとカリエールの直接の交流
印象的だったのは、1900年にパリのアルマ広場で開かれた「ロダン展」ポスター。カリエールがロダンの姿を書いています。また、そのロダン展の目録なども展示されていて、興味深かったです。
Ⅲ. ロダンとカリエールをめぐる人々の肖像
肖像のモデルになっているのはジョルジュ・クレマンソー、アンリ・ロシュフォール、ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ、ロジェ・マルクス、ギュスターヴ・ジェフロワといった同時代の政治家や芸術家、批評家、詩人など。政治家ジョルジュ・クレマンソー(パリに、クレマンソーという地下鉄の駅がありますね)、画家ピュヴィ・ド・シャヴァンヌぐらいしか判りませんが、ピュヴィ・ド・シャヴァンヌは2月にオルセーを訪れたときに《希望》などの作品を見て、ちょっと最近興味を持っているので、すこしロダン、カリエールと線がつながりました。
それにしても、ロダンの《アンリ・ロシュフォールの胸像》(1884)には、どうやって喉のあたりの1点で頭部全体を支えているのかと、感心。まあロダンの彫刻には、このあともバランスの取り方が信じられないような作品がいくつかありました。
Ⅳ. ロダンとカリエールにおける象徴主義
この展覧会のメインパートです。まず初めに紹介されるロダンの《最後の幻影》(ロダン美術館蔵)(1902年?)は、白い大理石の表面に二人の顔が浮かび上がり、カリエールの絵画との結びつきがもっとも明確に表れる作品。なるほど。
そのあとに展示されていた、ロダン《アサンブラージュ:洗礼者ヨハネの切られた頭部と右手》(1902)は、同時代のモローがサロメの内面に興味を持ったのに対して、オーソドックスに、宗教的にヨハネをこの主題を捉えています。
カリエール《母性》(シャルルヴィル・メジエール市立美術館蔵)(1892)。姉は背伸びをして母に頬擦りをしています。幼い妹は母に抱かれながらも、足を伸ばし、姉の動作を見つめているのでしょうか、眠っているのでしょうか。画面右手奥にはもう一人消えそうな少女が描かれています。カリエールは、1885年ごろから茶色を中心とした落ち着いた色調で全体を構成し、輪郭線を消した浮遊するような特異な表現に作風を変化させていきます。この作品でも、朦朧とした世界が母性の暖かさを表わしているともに、はかなさも暗示しているのでしょう。
カリエール《母の接吻》(ポー美術館蔵)(1898)も、印象的な作品。少女の母に接吻をせがむような様子は、母に守ってほしい少女の心情が表れていて、涙しそうです。
ロダン《フギット・アモール》が2作品。1つは、1895年以前(静岡県立美術館蔵)。もう1点は1915-1917年の作品。「考える人」と同様に「地獄の門」に使われているパーツ。アクロバティックな造形。静岡県立美術館のHPに解説あるが、「フギット・アモールとは、ラテン語で「逃れ去る愛」を意味する。決して正面から向かい合うことのない一対の男女の主題は、ダンテの『神曲・地獄篇』に謳われた、不貞の罪で地獄に落とされた「パオロとフランチェスカ」に密接に関連している。」とのこと。解説を書いておいてほしかったです。
Takさんがコメントされているように、カリエールの描いている世界と、ロダンの描いている世界は、母性と女性(アモール)と両極端ですから、両芸術家の性格の違いが感じられます。
Ⅴ. ロダンとカリエールを結ぶ糸
ロダンの作品がまず並びます。《考える人》《地獄の門の「マケット」(第三構想)》《「瞑想」と呼ばれる「内なる声」》など。
そして、カリエールは、《もの思いにふける若い娘》《道行く人々》《一人の女性》の祭壇画がように展示されています。ジュネーブで開催された1896年のシャヴァンヌ、ロダン、カリエールの三人展に出品された作品。《道行く人々》に対して、ピカソが素描を残している。
ここで、シャヴァンヌ、ロダン、カリエールとさらにピカソが一線に並びます。色彩ではなく、デッサンを重視した作家たちです。内面を描こうとすれば、必然的に色彩は抑えざるを得ないのですね。
文学などに素養のない私には、もうすこし解説をしてもらえるとありがたかったですが、それでも自分なりにゆっくりと作品と対峙出来た、素晴らしい展覧会でした。