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足利義満600年御忌記念「京都五山 禅の文化」展(その1)

2007-09-04 | 美術
足利義満600年御忌記念「京都五山 禅の文化」展(その1)
2007年7月31日から9月9日
東京国立博物館 平成館

素晴らしい展覧会。8月10日に第二期、15日に第三期、9月2日に第五期と三回訪問。
素晴らしいお宝の数々。創建当時の中世の宝物が保存も素晴らしく拝見できます。状態のよい作品ばかり。

まずは、歴史について理解が深まる。

まずは京都五山のお勉強。
[第三位] 建仁寺 創建:1202年 開山:明庵栄西(みんなんようさい) 開基:源頼家;明庵栄西は、「ようさい」と読むとは初めて知りました。
[第四位] 東福寺 創建:1255年 開山:円爾弁円 開基:九条道家(1193-1252)WikiPedia
[第五位] 万寿寺 万寿寺は平安時代に開かれ、鎌倉時代の住職が円爾弁円に帰依して禅宗寺院になった。鴨川の西、現在の五条通りの近くにあり、南浦紹明、中巌円月などが住職を務めた。火災後東福寺の北に移転し、東福寺派に属する。
[五山之上] 南禅寺 創建:1291年 開山:無関普門 開基:亀山天皇(1249-1305)WikiPedia(自らの血統(大覚寺統)の繁栄に力を注ぎ、皇統が分裂して交互に皇位継承を行う両統迭立の端緒となる。正応2年(1289年)40歳の時には落飾して法皇となる。2年後の正応4年(1291年)、亀山法皇は離宮禅林寺殿を寺にあらため開基)
[第一位] 天龍寺 創建:1339年 開山:夢窓疎石 開基:足利尊氏;後醍醐天皇を冥福を祈るために創建した。自軍の兵を顕彰するためのY神社とは違い相手方のたたりを恐れてという古来の伝統だろうか?
[第二位] 相国寺 創建:1382年 開山:夢窓疎石 開基:足利義満 (相国寺を開いた春屋妙葩は、師を敬って夢窓疎石を開山とした。)
京都五山は、至徳3年(1386)足利義満が創建したばかりの相国寺を第二位とし、南禅寺を「五山之上」にした時に確定。
決して、古い順に五山の位が決まるのではなく開基した人物の位によるようです。

・京都では、鎌倉とは違い、はじめは延暦寺の反対にあい、禅は受け入れられず、兼密禅として始まった。
・蘭州良芳は、建仁寺内の塔頭大竜庵に住んでいたとき、南朝の軍に追われた四歳の足利義満を法衣の下に隠して難を救った。
・夢窓疎石(むそうそせき)は、鎌倉時代末期に北条氏に重用され、当時政権がめまぐるしく交代したにもかかわらず後醍醐天皇、足利尊氏・直義の帰依を受け続けた。尊氏が後醍醐天皇の冥福を祈るために建立した天龍寺の開山として夢窓を招いて以後、足利家は夢窓一門の外護者として絶えず支援を続けた。そのため夢窓派は大いに繁栄し、京都五山の主流となった。
・相国寺を創建した足利義満は、その塔頭(たっちゅう)鹿苑院の院主を全国の禅宗寺院全体の統率者(僧録)とし、夢窓の弟子春屋妙葩(しゅんおくみょうは)をその初代とした。以後鹿苑院の院主は夢窓派がほぼ独占。僧録は将軍の外交や宗教政策の顧問のような役割をも果たした。
・夢窓の弟子義堂周信(ぎどうしゅうしん)と絶海中津(ぜっかいちゅうしん)は五山文学の双璧と言われ、文化的にも大きく貢献。
(絶海中津は、足利義満のブレーンだった。)

歴史の教科書にあるような足利義満がずらっとならび感激。
  • 107 重文 足利義満像 土佐行広筆 足利義持賛 1幅 室町時代・応永15年(1408) 京都・鹿苑寺蔵 ~8/19
  • 108 重文 足利義満像 伝飛鳥井雅親賛 1幅 室町時代・15世紀 京都・鹿苑寺蔵 8/28~
  • 109 足利義満像 厳中周がく賛 1幅 室町時代・15世紀 京都・相国寺蔵 ~8/13
  • 110 足利義満坐像 1躯 室町時代・15~16世紀 京都・等持院蔵
  • 111 足利義満御内書および御判御教書 1巻 南北朝時代・14世紀 京都・鹿王院蔵 巻替あり
  • 113 鹿王院額 足利義満筆 1面 室町時代・15世紀 京都・鹿王院蔵

  • 銅造鳳凰 1基 室町時代・14世紀 京都・鹿苑寺蔵
  • 129重文 宋拓輿地図 2幅 中国 南宋時代・13世紀 京都・栗棘庵蔵 ~8/19;白雲恵暁が持ち帰ったと伝えられる地図。
  • 130重文 明永楽帝勅書 1巻 中国 明時代・永楽5年(1407) 京都・相国寺蔵 8/21~;五爪の龍を刷りだした料紙。足利義満が金閣寺で受領した文書でしょうか。永楽帝により足利義満が日本国王に封じられたという日中関係の実態をしめす根本資料。中国には元寇もあり逆らえなかった朝貢関係。


    残念ながら、本展覧会は禅の文化展であって、禅の精神展ではない。

    禅の精神にちょっと触れられたのは、一行書。
  • 夢窓疎石墨蹟「別無工夫」 1幅 南北朝時代・14世紀 京都・相国寺蔵 8/21~ ;画像公式Blogによれば「坐禅という修行だけが禅の修行ではない。あなたが今おかれている立場、その場その場が禅の道場そのものなのです。ですから、あなたがいつ、いかなる時に、どういう所に居てもあなた自身の道場なのです。だから何にも工夫する必要はないのです。」とのこと。
  • 夢窓疎石墨蹟「応無所住 而生其心」 2幅 南北朝時代・14世紀 京都・相国寺蔵 ~8/19 ;応に住する所無うして其の心を生ず こちらはGoogleするといろいろな解釈があるようです。原典は金剛経。

    そして、「十牛頌・十牛図」。画像
  • 重文 十牛頌 絶海中津筆 10幅 室町時代・応永2年(1395) 京都・相国寺蔵
  • 十牛図 伝周文筆 1巻 室町時代・15世紀 京都・相国寺蔵 8/28~ 
    十牛図は後世の画家たち(たとえば都路華香展の美しい十牛図)も描いていますが、ここが日本におけるほぼ原点なのでしょう。相国寺のサイトによれば、「十牛図は中国宋時代から牧牛図として十数種出ているが、廓庵師遠禅師の著わした十牛図が最も優れているといわれ、日本で出版された「四部録」の中に載る廓庵十牛図がわが国では最も多く読まれている。」とのこと。
    公式Blogにも解説がありますが尋牛、見跡、見牛、得牛、牧牛、騎牛帰家、忘牛存人、人牛倶忘、返本還源、入鄽垂手のうち、人牛倶忘の絵は、円だけ。「人間も牛もすべて忘れ去る、心が無になる。その様子が、この十牛図の円ひとつだけの絵なんですね。何も無くなるということは、西洋哲学でいう虚無とは違うのです。虚無で終わっては駄目なんです。そこに花が咲かないといけないのです。そこで、9番目に返本還源とありますが、必ず還ってくるのです。見事に無から豊かな心が表現されて、花が咲く。花が咲いたらその花を持って普通の人間に還っていく。」十牛頌の解説をキチンと拝読したいと思います。

    遺偈は、
  • 重文 円爾弁円墨蹟 遺偈 1幅 鎌倉時代・弘安3年(1280) 京都・東福寺蔵 8/21~
  • 国宝 清拙正澄墨蹟 遺偈 1幅 南北朝時代・暦応2年(1339) 神奈川・常盤山文庫蔵 ~8/13
  • 重文 癡兀大慧墨蹟 遺偈 1幅 鎌倉時代・正和元年(1312) 京都・願成寺蔵 8/21~;重文 癡兀大慧坐像(鎌倉時代・14世紀 愛媛・保国寺蔵) からは想像のつかない力を降り絞った書
  • 重文 春屋妙葩墨蹟 遺偈 1幅 南北朝時代・嘉慶2年(1388) 京都・鹿王院蔵 ~8/19
  • 重文 天庵妙受墨蹟 遺偈 1幅 南北朝時代・康永4(貞和元)年(1345) 京都・安国寺蔵 ~8/19
    と並ぶが、残念ながら何がかいてあるか説明がなく残念。



    国宝の墨蹟としては、つぎの3点を拝見。
  • 国宝 無準師範墨蹟(板渡しの墨蹟) 1幅 中国 南宋時代・淳祐3年(1243) 東京国立博物館蔵 ~8/19
  • 国宝 禅院額字並牌字「栴檀林」「東西蔵」 張即之筆 2幅 中国 南宋時代・13世紀 京都・東福寺蔵
  • 国宝 清拙正澄墨蹟 遺偈 1幅 南北朝時代・暦応2年(1339) 神奈川・常盤山文庫蔵 ~8/13

  • 国宝 竺仙梵僊墨蹟 諸山疏 竺仙梵僊筆 2幅 南北朝時代・貞和2年(1346) 京都・龍光院蔵 ~8/5 は拝見できず。

    他に、美しい草書が鑑賞できた。
  • 重文 一山一寧墨蹟(雪夜作) 1幅 鎌倉時代・正和4年(1315) 京都・建仁寺蔵 8/21~


    将来品の絵画として
  • 重文 龍虎図 伝牧谿筆 2幅 中国 南宋時代・咸淳5年(1269) 京都・大徳寺蔵 ~8/13
  • 江天暮雪図 伝牧谿筆 1幅 中国 南宋時代・13世紀 京都・鹿苑寺蔵 8/28~
  • 重文 山水図 絶海中津賛 1幅 中国 元時代・14世紀 京都・相国寺蔵 8/28~
  • 重文 鳴鶴図 文正筆 2幅 中国 明時代・14世紀 京都・相国寺蔵 8/14~8/26
    が展示されていた。江天暮雪図と鳴鶴図には感激。

    「江天暮雪図」だが、琴詩書画巣によれば、牧谿の《瀟湘八景図巻》には、
    《瀟湘八景図巻》大軸断簡 紙墨 各約33×110cm 足利義満「道有」印 
    ●漁村夕照 根津美術館
     山市晴嵐 (江戸狩野栄川模本 根津美術館)
    ●煙寺晩鐘 畠山記念館
     瀟湘夜雨 (栄川模本補 根津美)
     江天暮雪 (栄川模本 根津美)
    ◎平沙落雁 出光美術館
     洞庭秋月 (栄川模本 根津美)
    ◎遠浦帰帆 日野原節三→京都国立博物館

    《瀟湘八景図巻》小軸断簡 紙墨 コピー?
     洞庭秋月 29.4×93.1cm 徳川美術館
     江天暮雪 個人
     瀟湘夜雨 個人
    の2種がある。これはサイズ24.5x 94.3からいうと小軸断簡?
    柴田勝家、豊臣秀吉、徳川家康、紀伊徳川家にはいって伝来とのこと。

    山水図は、左に高山、右に低山と湖を描き、琵琶湖でも思わせるような写実的な山水図。

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