愛国者の邪論

日々の生活のなかで、アレ?と思うことを書いていきます。おじさんも居ても立っても居られんと小さき声を今あげんとす

選挙で審判をと言いながら脅しと泣き言で選挙回避!橋下氏を選んだ大阪府民と市民と国民はどうする?

2013-06-02 | 日記

昨日の記事のつづきです。 

橋下氏は、外国人特派員協会で、以下のように自らの出処進退について語りました。これも逃げの一手と強がりでした。その本性は、大阪市議会の問責決議案提出騒動で噴出しました。それは松井府知事・幹事長とは打ち合わせをしていないようなことを言っておきながら、また公に何も言っていないようなことを言っておきながら、実はウラでは自ら足を運んで、恫喝していたのです。 

産経 (日本の記者)外国から疑問を持たれることは政治的責任を伴う。共同代表を辞任する考えはあるか。参院選に出るか。

 民主主義の国で、政治家の政治的責任は選挙で審判を受けること。私の発言に対して国民が「ノー」と言うなら、参院選で維新は大きな敗北になるだろう。

 その結果を受けて、党内で、私自身を代表のまま就かせるのか議論が起こる。それが民主主義の国における政治家の責任の取り方のメカニズムだ。(引用ここまで) 

公明党も、自民党も、民主党系も、浮き足立ちました。選挙(有権者)が怖いのでしょうか?でもその点では、橋下氏も同じです。参議院選挙で敗退すれば、共同代表は辞める、しかし大阪市長は辞めないと言ったのですから、ここに足場を残しておこうという魂胆が透けて見えてきます。

橋下氏の悪巧みを残し、再起を謀るということでしょう。それにしても大阪府民・市民は舐められてものです。橋下氏を支持し、大量の議員を市議会に送り出した有権者たちは、このような経過というか、橋下氏の動き方をどのように視ているのでしょうか?先の総選挙でも、同じです。俄か維新候補が、大量の票を獲得したのは、維新ブーム、「期待」があったからでしょう。 

しかし、このような事態が生じることは、橋下氏の動きを見れば、選挙前から判っていたことです。しかし、大量の支持を獲得したのです。その結果、維新の議員たちは、いい気になって、いっそう本質を出したのです。あの中山・西村議員などは、その典型でしょう。

西村氏に至っては、維新から辞職を迫られても、議員辞職はしないと言っているのです。 

有権者の一票を愚弄するものです。こういう維新の体質、議員の本質を野放しにしておくような民度では、成熟した民主主義とはとても言えません。国際的にみても恥ずかしい限りです。よもや外国だってそうじゃないか、などとスリカエルことはないでしょうけれど、それにしても、橋下氏は有権者の審判を仰ぐのであれば、一刻も早く、手を打ったほうが、「国益」になるのではないでしょうか? 

しかし、彼は、そのようなことはしないでしょう。賞味期限が切れたらオシマイ、ゲームオバーと考えているのでしょう。だからこそ、市長職には拘っているのです。個々に不道徳ぶりが浮き彫りになります。こういう橋下氏を選択した大阪市民の動きがどうなるか、そこにすべてがかかっていると思います。 

本来であれば、橋下氏を応援した有権者のうち、可笑しいと思う有権者は、「騙された」或いは「もっとしっかりやれ」との声を上げるべきです。投票して、後は知りませんでは、あまりも無責任と言えないでしょうか。大きなお世話かも知れませんが。しかし、支持された方々に対しては、そういう気分があるのは、それなりの正当性があるのではないでしょうか?特に大阪市役所で働く橋下氏の「部下」はどう思っているのでしょうか? 

また橋下氏の処遇を決めるのは、ツィッターに登録している100万の一般ピープルの動きです。橋下氏の垂れ流す「つぶやき」「日本語」が、国際的に見て如何に酷いものであったか、橋下氏の挑発的言動の本質が浮き彫りになった今、橋下氏とコンタクトを取っている人々が、橋下氏にどのようなメッセージを送るか、そこに日本の民度が試されているように思います。 

それは、国際的恥を野放しにするのか、憲法を原則に立ち返って国際的信頼を回復していくのか、慰安婦の尊厳を守るのか、貶めるのか、さらには風俗業で働く人々の人格権を貶めるのか、擁護するのか、ウソとハッタリの日本との視線を受け入れるのか、日本の面目を輝かせていくのかどうか、そこにかかっているように思います。 

さて、以上の感想を書くうえで、参考にした記事を掲載しておきます。橋下氏が、このまま活動をしていくことが、どれだけ迷惑なことになるか、そのことを憂うからこそ、あえて発言しているのです。 

マスコミも、このような人物をチヤホヤし、二大政党政治の破綻を取り繕う第三極として、また既成政党へのアンチテーゼのように扱い、政治不安や不満を解決してくれるかのように報道し、国民に期待を持たせた報道の在り方を反省すべきです。 

橋下氏“奇策”不発で前途さらに多難 「市長本来の仕事も進んでいない」 配信元:2013/05/31 22:30更新

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/politicsit/658865/

 日本維新の会の橋下徹共同代表(大阪市長)が、慰安婦発言などで市政を混乱させたとして、大阪市議会の自民党会派などが提出した問責決議案は否決された。橋下氏は自身と維新の劣勢挽回のため、参院選と同日の「出直し市長選」という“奇策”を狙ったが、不発に終わった。混乱で注目を集める得意の展開に持ち込めず、橋下氏と維新の前途は厳しそうだ。 「議会の中で解決したこと。終わったこと

 橋下氏は30日夜の市議会終了後、記者団に「市民に信を問うつもりだったのか?」と問われ、硬い表情でこう語った。 問責決議案は、自民(17人)と民主系(9人)、共産(8人)の野党3会派が共同提出した。定数86人のなか、当初、維新と協力姿勢を取る公明19人)が賛成して可決される見込みだったが、橋下氏の奇策を知り、「出直し市長選はマズイ。参院選が大混乱する」(幹部)と腰砕けとなり、大阪維新の会(33人)とともに反対に回り、否決された。 大阪のドタバタ劇は、中央政界にも波紋を広げた。 憲法改正などで維新との部分連合も視野に入れていたとされる自民党石破茂幹事長は30日、BS番組収録で「そもそも、『維新こんにちは、公明さようなら』なんて考え方があるのか」と語り、公明党との連立は揺るがないと強調した。自民党内には、橋下氏の一連の言動などから、「連携はなかなか難しくなった」(党幹部)との見方が強い。(引用ここまで) 

こんな報道が、橋下氏や石原氏、安倍氏を、国際的には通用しない政治家であるにもかかわらず、暗躍させているのです。「有権者の判断を」強調する割には、有権者を怖れているのです。しかし、有権者を騙して獲得した議席で、悪巧みをする、これが日本の政治の最大の特徴ではないでしょうか?それを支えているのは、マスコミであることが、今回の事態でもハッキリしたと言えないでしょうか? 

【大阪・出直し市長選回避】 “起死回生”の秘策空振り 続く苦境、切り札温存 (共同通信) 2013/05/31 15:47

http://www.47news.jp/47topics/e/241938.php#reading

 従軍慰安婦や風俗業に関する発言をめぐり、大阪市議会が日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長に突き付けた問責決議案は不発に終わった。橋下氏の辞職、出直し市長選構想を受け、賛成だった公明党が方針転換、橋下氏の勝利に見える。ただ、党勢衰退と市政運営の困難に直面している日本維新にとって、出直し選は起死回生”の秘策の側面もあった。さらなるピンチに備えカードとして温存する構えだ。

 「問責と不信任は一緒だ」。30日午前、日本維新幹事長の松井一郎大阪府知事は突然、覚悟を決めたような表情で記者団に言い放った。「一般論として問責の重みをとらえた行動をする」。橋下氏との意思一致を踏まえた発信だった。 大阪維新の地方議員には、歓迎ムードが一時、広がった。在阪幹部の1人は同日昼、「世論は沸騰する。大阪は盛り上がる」と、参院選への効果を皮算用した。

 だが、東京の日本維新の国会議員はほとんどが蚊帳の外。国会議員団幹部は「市長を辞めた一般人が、公党の代表なんて笑えない冗談だ」と冷ややかだった。別の幹部も「何がしたいのか」と露骨に不快感を示した。

 橋下氏本人が選挙に打って出ることを通じ、再び日本維新を浮上させたい思惑は、常に党内にくすぶる。昨年の衆院選、今夏の参院選など大型選挙のたびに、出馬論が取りざたされるのは、2011年11月の「大阪ダブル選」の熱狂という成功体験があるからだ。だがそれは「橋下氏の人気だけが頼り」(地方議員)という党の弱さの裏返しでもある。

 「法律家の私にとって『問責』は厳しい。市長を辞めろということになる」。30日午後、市役所内の一室。橋下氏は公明、自民、民主系の3市議団の幹事長を呼び寄せ、語気を強めた。同時に「その言葉を外してもらえば、どんな厳しいことでも受けます」と付け加えた。

 このところの党勢退潮を受け「大阪の改革を進めなければならない」と原点回帰”を繰り返す橋下氏。だが、市交通局民営化や水道事業統合の頓挫に加え、府と市の二重行政解消をうたう「大阪都構想」も、先行きが見通せない状況だ。公明の協力が欠かせない事情に変わりはない。

 29日には「問責」賛成を決めていた公明は、参院選と出直し市長選が同日になることを憂慮。夜の市議会に独自案を提出、自民などの決議案に反対した。ただ、公明案は問責案の見出しを「猛省と責任を促す」と差し替えただけ。慰安婦発言に反発しながらも、橋下氏との完全な決裂は避けたいとの思いが透ける。

 「もう全てこの話は終わりました」。橋下氏は30日夜、市議会閉会後に記者団に少し疲れた表情で語った。だが出直し選論がなくなったわけではない。橋下氏は来年秋にも想定される都構想の是非を問う住民投票を重要視。同日の出直し選を、党幹部は検討している。 仮に今回、出直し選をしてしまった場合、住民投票との同日選は事実上無理になる。大阪の地方議員は「都構想こそが維新の根幹だ。橋下氏は常に住民投票を意識して戦略を練っている」と解説した。(引用ここまで) 

どうでしょうか?マスコミだけが頼りの「橋下石原日本維新」ということが判るのではないでしょうか?ということは、マスコミに載らなければ、煙にもならないと言うのが、日本の民主主義の現状ということになります。草の根の運動をマスコミの垂れ流す暴雨風雨で吹き飛ばす!これが戦後の自民党政権を維持させてきた装置です。マスコミが真実を報道していたら、とっくの昔に日本は憲法が活かされた国になっていたことでしょう! 

橋下維新騒動は、このことを証明してくれました。そこで、以下に3つの社説を掲載しておきます。昨日の朝日も参考にしていただければと思います。問題は、各紙は、今回の騒動をどのように、自らの問題として受け止め、反省し、謝罪し、報道を改善していくか、そこに、日本の未来の全てがかかっているのです。大東亜戦争時におけるマスコミの教訓を、ここでも繰り返す訳にはイカンのです。 

神奈川 問われる橋下発言 歴史の否定は通用せぬ 2013年6月1

http://news.kanaloco.jp/editorial/article/1306010001/

 日本維新の会共同代表、橋下徹大阪市長は従軍慰安婦をめぐる発言に関して「自分が言っていることは正しいと思っている」と述べ、撤回の考えはないと強調した。大阪市議会の問責決議案の否決を受けての弁である。

 事ここに至り、なお正当性を言い募る姿に、わが国の政治の表舞台に登場して久しい歴史修正主義者たちの典型を見る。道理に合わない論点のすり替えを押し通し、責任を転嫁する姿勢は、日本外国特派員協会での釈明会見でも露呈している。 慰安婦に対する強制性をめぐる主張が象徴的だ。女性を力ずくで連れ去ったことを裏付ける証拠はないと述べ、元慰安婦の証言については「信憑(しんぴょう)性に議論がある」と疑問を呈した。 だが、橋下氏の言う証拠がないことと強制連行がなかったことはイコールではない。政府が調べた資料の中に強制連行を示す記述が見当たらなかっただけである。誘拐、拉致の事実は隠蔽(いんぺい)が図られたと推測するのが自然だろう。 そうした背景を無視し、身を切るような元慰安婦の言葉を虚言のように扱う態度では、女性の尊厳や過去を直視する大切さを世界に向けて訴えたところで相手にされまい。 問われているのは本人の意に反して受けた性暴力だ。そこに人集めの際の強制性の問題を持ち込み、疑義を差し挟むことは犯罪性を矮小(わいしょう)化するためのすり替え、責任逃れにしか映らない。

 発端となった発言を思い出したい。「慰安婦は必要だった」は、こう続いた。「韓国などの宣伝でレイプ国家と見られていることが一番問題だ」
 だが、欧米やアジア諸国は、日本をレイプ国家とみなして非難しているのではない。都合よく歴史を書き換えようという動きがやまないから非難されているのだ。それを、言いがかりをつけられているかのように反論する姿には対立をつくりたい意図すら感じる。 橋下氏はツイッターに「日本の責任は認める。しかし外国の責任も指摘する。日本だけが不当に侮辱を受けることに抗議する。この論理に反論して欲(ほ)しい」と書き込んだ。 では、問う。一連の発言で「誤解」は解けたのか。効果があるどころか、逆効果ではなかったのか。 「レイプ国家」との批判はいよいよ高まろう。それは、繰り返された「証拠はなかった」という発言による「セカンドレイプ」によってである。(引用ここまで) 

京都 橋下氏問責否決  政治は筋を通してこそ [京都新聞 2013年06月01日掲載]

http://www.kyoto-np.co.jp/info/syasetsu/index.html

日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長に対し、市議会の野党会派が提出した問責決議案は、可決の見通しから一転、否決された。可決されれば市長は辞職するという維新側の揺さぶりで野党の腰が砕け、結束できなかったからだ。
 旧日本軍の従軍慰安婦を「必要だった」とし、米軍に風俗店利用を勧めた橋下氏の発言には今なお内外から厳しい非難が相次ぐ。チェック機能を果たすべき議会が、人権感覚を欠く一連の発言にノーを突き付けられないとは情けない。
 出直し市長選となれば、7月の参院選と同日が見込まれた。しかし、各党とも準備が整わない選挙を戦いたくない。しかも橋下人気は根強く、肝心の参院選で維新の会を利することになりかねない-そんな計算も働いたようだ。
 市民感覚とかけ離れた、政治の世界でしか通じない論理である。傍聴席の市民が「ばかにするな」と声を荒らげたのも分かる。
 問責決議案は自民党、民主系、共産党の3会派が提出した。「市長としての職責を全うしているとは言い難い」とし「自らの政治責任を自覚した言動」を求めた。

 これに対し、維新の会幹事長の松井一郎大阪府知事は「可決は辞めろということ」と、橋下氏の辞職と出直し選挙をほのめかした。この強気の姿勢に、市長選を避けたい各党が動揺してしまった。
 鍵となったのは、大阪で維新の会と協力関係にある公明党だ。問責決議案に賛同する当初の方針を撤回、タイトルを替えただけの別の決議案を出した。結果的に、いずれの決議も通らなかった。

 議会後、橋下氏は「中身の同じ決議案への賛成が過半数に達したことは重く受け止める」とした。その一方で「(発言を)誤解したのは報道機関」「自分の言っていることは正しい」と開き直るありさまだ。これでは反省どころか、勝利宣言にさえ聞こえる。
 発言記録から浮かび上がるのは橋下氏の人権感覚のずれである。発言が問題化してから、さまざまな言い訳やメディア批判を繰り返しているが、女性を兵士の性的欲求を満たす手段として肯定した事実は覆らない。その意味で、慰安婦発言と風俗発言は一連といえる。
 にもかかわらず、問責決議案は橋下発言の中身を非難するのではなく、市政混乱の責任を追及しただけだ。超党派で結束するための妥協の産物だが、それにも失敗しては無残だ。市議会には気骨を示してほしかった。
 選挙にらみの駆け引きが最優先の政治に、民意と良識を反映した良き統治は期待できまい。猛省すべきは、橋下氏も、市議会もだ。(引用ここまで)

 「各党」「市議会」一般ではないことは明らかです。しかし、日本のマスコミは、「どこの党の誰が」と言う情報を意識的に抜いて報道しているのです。ここに選挙の時には低姿勢で、選挙が終われば、公約どこ吹く風で、悪政を決めていく!そんな政治が横行するのは、マスコミの報道の仕方に問題があるのです。有権者が議会に関心を持つような報道をしていたら、政治がもっと身近なものになり、投票率もアップすると確信しています。

西日本  橋下発言と世界の目 「内向きの歴史観」抜け出そう  2013年6月1日 10:39http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/367080

 ■月のはじめに考える■

 5月27日、日本維新の会の橋下徹共同代表が東京・有楽町の日本外国特派員協会で行った記者会見には、内外の記者約400人が詰めかけ、一部は会場からあふれるほどでした。

 どうして、これほど特派員たちの関心を集めたのでしょうか。 従軍慰安婦に関する橋下氏の発言が、単に一政治家の失言ではなく、日本の政界全体の歴史認識に関わる問題をはらんでいる-と海外から受け止められたからでしょう。 会見で橋下氏は、慰安婦を容認したと報じられた自らの発言について「慰安婦問題を相対化しようとか、正当化しようという意図はない」と説明するとともに「かつて日本兵が女性の人権を蹂躙(じゅうりん)したことは痛切に反省し、謝罪しなければならない」と語りました。 その一方で、橋下氏は「米英も現地の女性を利用した。ドイツにも韓国にもそういう施設があった」と述べ、「日本以外の国も女性の人権を蹂躙した」との持論を繰り返しました。 この日は攻撃的な物言いを封印し、慎重な発言に終始した橋下氏でしたが、2時間半に及んだ会見からは「どうして日本だけが批判されるのか」という不満がにじみ出ていました。

 ▼被害者意識を募らせ

 歴史認識の問題で物議を醸しているのは、橋下氏だけではありません。

 昨年12月の衆院選で自民党が政権に復帰して以来、安倍晋三首相や自民党幹部などから、日本の戦争責任の見直しを求める声が相次いでいます。 特に安倍首相は、かねて従軍慰安婦に関する1993年の河野洋平官房長官談話の見直しを唱え、95年に村山富市内閣で決定した「戦後50周年談話(村山談話)」にある「侵略」の表現についても、「侵略の定義は定まっていない」と疑問を投げかけました。 両談話とも日本の責任を認め、関係国や当事者に謝罪する内容です。その見直しに言及した安倍首相に対しては、中国や韓国が「戦争責任の否定だ」と反発したのはもちろん、同盟国の米国からも懸念の声が上がりました。 日本国内の一部には、先の戦争や植民地支配に関わる日本の加害行為が、国際社会で実態より過大に受け止められている、という不満があります。 そのために、日本の歴史認識に関する他国からの批判に、強く反発する心理が働きます。「日本だけが不当に攻撃されている」という一種の被害者意識を募らせているようです。 安倍首相や橋下氏の言動は、こうした日本社会の潮流を反映しています。安倍首相は閣僚の靖国神社参拝を中国や韓国に批判されると、「どんな脅かしにも屈しない」と反論しました。批判を「脅かし」と捉えるのは被害者意識の強さの表れではないでしょうか。 しかし、こうした論理は、たとえ日本国内で一定の理解を得られても、国際社会の共感は呼んでいません。 元外交官の東郷和彦氏は、著書の中でこんな体験を紹介しています。 東郷氏が米国でのシンポジウムで、従軍慰安婦に関し「強制連行を直接示す資料はない」とする日本政府の見解をめぐる議論について説明したら、米国人から「問題の本質は強制連行の有無ではない。米国人がこの問題について考えるのは『自分の娘が慰安婦にされていたらどう考えるか』の一点のみだ」と指摘された、というのです。 東郷氏は「世界がこの問題を見る目がどこにあるかを知るうえで、青天のへきれきだった」と記しています。

 ▼国際社会の信頼感

 そもそも私たちは、何のために歴史を学び、歴史を語るのでしょうか。 理由はいくつもあるでしょうが、最も重要な目的は、先人たちの成功や失敗の経緯と原因を検証し、将来道を誤らないよう教訓とすることでしょう。 私たちがしばしば戦争や侵略など、自らの歴史の過ちについて詳しく語るのは、成功より失敗の方に学ぶものが多いからです。これは「自虐」などではなく、建設的な姿勢なのです。 しかし現在の日本では、経済低迷の中で失った自信を取り戻し、国民の一体感を高めるために、歴史を語ろうという傾向が強まっているように感じられます。そうした風潮にあっては、得てして成功体験が強調され、失敗は小さく見積もられがちです。 こうした「内向きの歴史観」の中に安住するのは、ある意味で心地よいかもしれません。しかしそれでは、日本人が描く歴史の自画像と、国際社会が見てきた日本の歴史とは、懸け離れていくばかりでしょう。そして、そのギャップは、国際社会における日本の信頼を、少しずつ損なっていきます。 日本人が歴史をより深く知るためには、自分たちが書きつづってきた歴史に、他者が見た日本の姿を絶えず投影し、その自画像を修正していく必要があるのです。そのためにも、近現代史で周辺国の住民が体験したことを、率直に見つめなければなりません。 橋下氏の発言をめぐる一連の騒動は、日本人が歴史にどう向き合うべきかについて、あらためて考えるきっかけになりました。この体験を生かすか無駄にするかは、私たち次第です。 =2013/06/01付 西日本新聞朝刊= 

「私たち」の中にマスコミが入ることは自明です。「あらためて考えるきっけかになりました・この体験を生かすか無駄にするか」という問いに対する答えとしては、このような思想と行動を二度と起こさせないことです。曖昧にしてきたからこそ、何度も何度も挑発的言動、妄言・暴言が繰り返されてきたのです。靖国参拝などは好例です。

そういう点では、「自虐史観」ではなく、南京・731・三光・慰安婦・ヒロシマ・ナガサキ・オキナワ・東京大空襲、神風特攻・国賊・非国民など、加害と被害、そして抵抗と厭戦、非協力などを総合的に報道していくか、そこに戦争責任問題と戦後補償問題の解決の糸口があるように思います。 

ところが日本のマスコミは日本国民が被害者であるかのような報道を繰り返してきました。確かに被害者であることに間違いはありません。アメリカの空襲の事例がたくさん報道されています。その意味では被害者でした。突き詰めていけば、戦争終結を遅らせた政府と軍部、天皇の決断をみれば、彼らこそ加害者であり、国民は被害者でした。 

しかし、海外の最前線でたたかう皇軍兵士を送りだしている「銃後」「後方」という意味では、国民総体としては戦争に協力・加担していたのです。最前線の向こう側にいる民衆にとってみれば、日本国民は、皆加害者=敵でした。勿論戦争に反対した人々、非協力を貫いた人々などがいたことも事実です。これはこれで、当時も、今も、黙殺されています。 

こうした被害者意識を現代に当てはめると、どうでしょうか? 

それは今、中国の船が経済水域であるにもかかわらず、「来た来た」と報道され、時には領海侵犯しているのをみると、中国に対してどのような感情を持っているか、それをみれば、かつての自分がどのように視られていたか、判るはずです。 

中国にしてみれば、日中国交回復時に「棚上げ」していたはずの、尖閣を、石原氏が購入すると言う発言と行動に出た(挑発)ことで、今回の問題が噴出したと言っているのです。 

このような立場の違いによって、全く異なる見解と行動が、衝突を呼び込むことになるとしたら、どうすることが最善の道か、明瞭です。当時は戦争という手段で解決しようとしました。しかし、今はどうか、です。憲法9条の威嚇、武力行使、戦争という手段ではなく、非軍事・話し合いという手段を使うということです。その際の最大のポイントは、自国のことのみ専念するのではないという普遍的原則を使うということです。 

橋下氏や石原氏の挑発的言動が、他国ばかりか、自国民をも傷つけ、あの戦争の最大の教訓である憲法9条の原則を葬り去ろうとするものであることを、日本国民は自覚すべきです。そうした視点でマスコミも報道すべきです。これはこの国の最高法規である憲法が警鐘を鳴らしていることなのです。 

このことを踏まえたうえで、社説がどのように書かれているか、視ているのです。



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