筧千佐子の死刑判決がくだったようだ。
今朝の新聞には、「状況証拠を認め死刑判決」とある。
限りなくブラックに近いグレーだったから、当然の判決であろう。
筧千佐子の認知症がどうのこうのと弁護団が弁護しているようだが、これらの犯罪は認知症が理由にはならない。
多少認知症になっていたとしても、彼女のしたことは許されることではない。
と、ここまではニュースに対する感想だが、ここからはガラッと趣を変えて、亡くなった友人の存命中の恋愛について書きたい。
今年9月に亡くなった友人は学問一筋の人だったから、恋愛などとは最も無縁の人のように見受けていた。
が、彼女の最晩年に濃い交流のあった私の夫の友人が言うのには彼女も30年前に悲恋があったようだと。
悲恋と一言でいうが、それには、自分が振られるというケースもあるし、逆に振って失恋というケースもある。
彼女がいずれであったのかは、わからないし、それ以前に、彼女が本当に恋愛したかどうかも、今となれば定かではない。
亡くなった友人のことを何でも知っておきたい私が、夫に、夫のその友人にその真偽を尋ねてもらうと、夫の友人は、「それは状況証拠であって、直接証拠ではない」と応えたらしい。
つまり、夫の友人にも確証があったわけではないのだ。
そのため、その夫の友人は、近々、その私の友人だった村形明子氏と彼女の恋愛の相手だったと思しきドイツ文学者を再会させる計画を立てていたのだそう。
というのが、そのくだんのドイツ文学者の方は、その夫の友人の近くにお住まいだからと。
そうして再会の実現ができたら、その状況証拠を確定証拠にできたのにと、夫の友人は悔やんでいたらしい。
私には寝耳に水であった。
が、そう言われてみると、思い当たるところがないこともない。
夫の友人が、そのお相手のドイツ文学者の方は、昨年亡くなられた国文学者の島津忠夫氏に似ていられると言われているらしい。
実は、村形明子氏は、毎月、「日本歌人」という結社の大阪歌会に、遠方にも関わらず、欠かさず出席していた。
大阪歌会とは銘打っているが、実際の開催場所は伊丹市であった。
その歌会に、村形氏は熱心に私を誘っていた。
高名な国文学者の島津忠夫氏が毎月その歌会に出席されて、歌会のあとでは、島津忠夫氏から「源氏物語」の講義が受けられると。
この私の難聴対策の要約筆記は私がしてあげるからと村形氏はしつこいくらい熱心に誘ってきた。
あまりのしつこさに(笑)、私も2度参加させていただいた。
高名な先生の出席される歌会にしては、少人数だったため、高度難聴の私でも、補聴器をつけていれば何とか聞き取れた。
そうすると、村形氏は、さらにしつこく誘ってくるようになった。
が、私は、頑として、それ以後は行かなかった。
最初に彼女が誘ってきたときの講釈に、「その歌会には、高名な国文学者の島津忠雄先生が出席されるし、その島津先生って、お歳は召していられるけれど、すごくハンサムな方なの」というのがあった。
え、彼女にしては異なことを言うものだという記憶が残っている。
なにしろ彼女は、塔のインターネット歌会に参加していた頃も、ちょっと先生風を吹かす男性がいたら、コテンパンにやっつけるような人だったから。
私は、彼女は男嫌いではないかと思っていたくらいだ。
それなのに、島津忠夫先生のことをハンサムな方だと言うとはと驚いたのだ。
だから、夫の友人の言う、30年前の村形明子氏の恋愛の相手が島津忠雄先生に似ていたという状況証拠は若干頷ける。
私には、もう一つ村形氏の恋愛の関係かなと思われる氏の言葉を覚えている。
その「日本歌人」の大阪(伊丹)歌会に二度目に参加させていただいたときは、要約筆記をしてもらうため、夫に同伴を頼んだのであったが、夫は車で同行してくれた。
車だったため、歌会が終わってから村形氏を我が家にお連れした。少し強引に(笑)。
ちょうど数日前に高知の実家の母が来て帰ったばかりだったので、母の寝ていたベッドを見せて、「村形さんも、いつでも泊まりに来てくださってもいいから」と私が言うと、彼女は真顔になって、「最近、とある人に追いかけられているの。ひょっとすると、来させていただくようになるかも」と言ったのだ。
追いかけられている?
私の頭にひらめいたのは、年齢こそ高齢だが、しかし、まだかつての美貌のかけらの残っている彼女であれば、ひょっとすると、男性に追いかけられているのかしら、ということであった。
髪の毛は白髪であったが、話をすれば、未だにかつてのお嬢さん然とした雰囲気を残していたから。
私の母など彼女のことを、「お嬢さんがそのままお婆さんになったような人」と形容したくらいだ。
それらのことを総合すれば、あるいは、悲恋もあったかも、と。
私が、今日こうして彼女の個人的な秘密めいたことを記事にしているのは、ほかでもない、そのドイツ文学者の目に、この記事が目に留まって名乗り出てくださらないかという淡い期待があるからだ。
私の想像では、そのドイツ文学者の方は、村形さんよりお若い方ではないかと。
なぜなら、年齢的に、村形さんより高齢だと、すでに鬼籍に入られている可能性大だし、当時の彼女の年齢、46歳くらいか、からしても、年下の可能性の方が強いと思うのだ。
夫の友人の住まいが京都市右京区大原であることから、そのお近くにお住まいのドイツ文学者といえば、かなりヒットに近づくと思うのだが。
*
今朝の新聞には、「状況証拠を認め死刑判決」とある。
限りなくブラックに近いグレーだったから、当然の判決であろう。
筧千佐子の認知症がどうのこうのと弁護団が弁護しているようだが、これらの犯罪は認知症が理由にはならない。
多少認知症になっていたとしても、彼女のしたことは許されることではない。
と、ここまではニュースに対する感想だが、ここからはガラッと趣を変えて、亡くなった友人の存命中の恋愛について書きたい。
今年9月に亡くなった友人は学問一筋の人だったから、恋愛などとは最も無縁の人のように見受けていた。
が、彼女の最晩年に濃い交流のあった私の夫の友人が言うのには彼女も30年前に悲恋があったようだと。
悲恋と一言でいうが、それには、自分が振られるというケースもあるし、逆に振って失恋というケースもある。
彼女がいずれであったのかは、わからないし、それ以前に、彼女が本当に恋愛したかどうかも、今となれば定かではない。
亡くなった友人のことを何でも知っておきたい私が、夫に、夫のその友人にその真偽を尋ねてもらうと、夫の友人は、「それは状況証拠であって、直接証拠ではない」と応えたらしい。
つまり、夫の友人にも確証があったわけではないのだ。
そのため、その夫の友人は、近々、その私の友人だった村形明子氏と彼女の恋愛の相手だったと思しきドイツ文学者を再会させる計画を立てていたのだそう。
というのが、そのくだんのドイツ文学者の方は、その夫の友人の近くにお住まいだからと。
そうして再会の実現ができたら、その状況証拠を確定証拠にできたのにと、夫の友人は悔やんでいたらしい。
私には寝耳に水であった。
が、そう言われてみると、思い当たるところがないこともない。
夫の友人が、そのお相手のドイツ文学者の方は、昨年亡くなられた国文学者の島津忠夫氏に似ていられると言われているらしい。
実は、村形明子氏は、毎月、「日本歌人」という結社の大阪歌会に、遠方にも関わらず、欠かさず出席していた。
大阪歌会とは銘打っているが、実際の開催場所は伊丹市であった。
その歌会に、村形氏は熱心に私を誘っていた。
高名な国文学者の島津忠夫氏が毎月その歌会に出席されて、歌会のあとでは、島津忠夫氏から「源氏物語」の講義が受けられると。
この私の難聴対策の要約筆記は私がしてあげるからと村形氏はしつこいくらい熱心に誘ってきた。
あまりのしつこさに(笑)、私も2度参加させていただいた。
高名な先生の出席される歌会にしては、少人数だったため、高度難聴の私でも、補聴器をつけていれば何とか聞き取れた。
そうすると、村形氏は、さらにしつこく誘ってくるようになった。
が、私は、頑として、それ以後は行かなかった。
最初に彼女が誘ってきたときの講釈に、「その歌会には、高名な国文学者の島津忠雄先生が出席されるし、その島津先生って、お歳は召していられるけれど、すごくハンサムな方なの」というのがあった。
え、彼女にしては異なことを言うものだという記憶が残っている。
なにしろ彼女は、塔のインターネット歌会に参加していた頃も、ちょっと先生風を吹かす男性がいたら、コテンパンにやっつけるような人だったから。
私は、彼女は男嫌いではないかと思っていたくらいだ。
それなのに、島津忠夫先生のことをハンサムな方だと言うとはと驚いたのだ。
だから、夫の友人の言う、30年前の村形明子氏の恋愛の相手が島津忠雄先生に似ていたという状況証拠は若干頷ける。
私には、もう一つ村形氏の恋愛の関係かなと思われる氏の言葉を覚えている。
その「日本歌人」の大阪(伊丹)歌会に二度目に参加させていただいたときは、要約筆記をしてもらうため、夫に同伴を頼んだのであったが、夫は車で同行してくれた。
車だったため、歌会が終わってから村形氏を我が家にお連れした。少し強引に(笑)。
ちょうど数日前に高知の実家の母が来て帰ったばかりだったので、母の寝ていたベッドを見せて、「村形さんも、いつでも泊まりに来てくださってもいいから」と私が言うと、彼女は真顔になって、「最近、とある人に追いかけられているの。ひょっとすると、来させていただくようになるかも」と言ったのだ。
追いかけられている?
私の頭にひらめいたのは、年齢こそ高齢だが、しかし、まだかつての美貌のかけらの残っている彼女であれば、ひょっとすると、男性に追いかけられているのかしら、ということであった。
髪の毛は白髪であったが、話をすれば、未だにかつてのお嬢さん然とした雰囲気を残していたから。
私の母など彼女のことを、「お嬢さんがそのままお婆さんになったような人」と形容したくらいだ。
それらのことを総合すれば、あるいは、悲恋もあったかも、と。
私が、今日こうして彼女の個人的な秘密めいたことを記事にしているのは、ほかでもない、そのドイツ文学者の目に、この記事が目に留まって名乗り出てくださらないかという淡い期待があるからだ。
私の想像では、そのドイツ文学者の方は、村形さんよりお若い方ではないかと。
なぜなら、年齢的に、村形さんより高齢だと、すでに鬼籍に入られている可能性大だし、当時の彼女の年齢、46歳くらいか、からしても、年下の可能性の方が強いと思うのだ。
夫の友人の住まいが京都市右京区大原であることから、そのお近くにお住まいのドイツ文学者といえば、かなりヒットに近づくと思うのだが。
*
何もかも知りたし今年亡くなりし親友に悲恋ありしことなども
男など何さと思ひゐし人と思ひゐし吾(あ)の認識崩る
七十を六つ超えても愛らしき人でありたり村形明子
悲恋せし人とはつゆも見えざりき男勝りの人に見えゐき
そのことを知ればも一度会ひたかり悲恋ありしかあらざりしかと
認識を新たにせねばならぬのかその人死にて二か月後には
デイサービスたつた一度の体験に男が見張りするから嫌と
男性の見張りに入浴できざりと後期高齢者の友人は
年甲斐もなく乙女チックでありしかば老いたる己を認めず死にき
急逝が彼女にもつとも相応しき死に方でありきと今さらに思(も)ふ
今もまだ乙女の気持ちで死にてゐるならむ四十九日を過ぎても
飾り気のあらざりし人の飾り気のなき葬儀より二か月が経つ
一日も彼女を忘れる日はあらず今もできれば会ひたしと思(も)ふ
bikoさんの友へのお気持ちが良くわかります。
彼女にとって恋愛がある時期から浪漫で無くなったのかも知れないですね。
だから自分の胸の内だけに閉まっておきたかったのかも。
「私の気持ちをあまり詮索しないで・・・」
もしかして、そう言いたいのかも知れませんが、
「追悼録」をbikoさんが執筆してあげられれば良いものが出来るのではないでしょうか。
お友達の事を何もわかっていない私の浅慮でした。
ごめんなさい。
それで、彼女のことはどんなことでも教えてほしいという気持ちです。
先日も、ハイジさんというHNの方がお嬢さんが見つけてくださったという村形さんのご学友の方のブログを教えてくださって、うれしかったです。
知っていたつもりだったけれども、まだまだ彼女の知らない部分があると思います。
これからも、ずっと彼女のことを知る旅を続けるかもしれませんが、年月が経つと、だんだんその痕跡も消えていくかもしれないので、今さがしておかねばと思います。
いつも温かいコメントを、ありがとうございます。